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2005.03.05

春の雪

東京に、ゆうべの深夜から降り始めた雪は、お昼過ぎまで降り続き、銀世界とまでは行かないけど、渋谷や六本木の見慣れた風景をそれなりの雪景色に変えてしまった。テレビやラジオは、朝から大騒ぎして、転んでヒザを打撲しただけのおじさんのことまで、大げさに報道していた。

 

東京が雪に弱いってのは、雪が降るたびに言われることだけど、それにしても、たった2cm積もっただけで、電車は軒並み止まり、飛行機は次々と欠航になり、首都高速は通行止めになり、テレビはどの局も大騒ぎして、画面には、「東京に大雪、積雪2cm」って、いったい‥‥。背丈よりも高く、何mも雪が積もってる地方の人たちから見たら、この、「2cmの大雪」って言う東京の感覚、そして、大騒ぎしてる1000万人を見て、どんなふうに感じただろうか?

 

とにかく、今日の雪は、立春を1ヶ月も過ぎての雪だから、まさしく「春の雪」だ。そして、「春の雪」と言えば、あたしが真っ先に思い浮かべるのが、三島由紀夫だ。三島の遺作であり、最高傑作である「豊饒の海」は、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「五人五衰」の四部作からなる長編小説だけど、それぞれが独立した小説でもあり、通して読むと、壮大な起承転結が見えて来る。簡単に言えば、ひとりの青年の輪廻転生の物語で、主人公の友人が、色々な人間に生まれ変わって行く主人公の一生を追って行くと言うストーリーだ。少なくとも、ドラクエ8よりも壮大で、ICチップよりも緻密で、スプラッシュマウンテンよりもドキドキで、南セントレア市よりも斬新で、里谷多英よりもハレンチだ(笑)

 

三島由紀夫って言うと、作品も読まずに、「ホモ、右翼、割腹自殺」って言う三大マイナスイメージだけで嫌う人もいるけど、実景から心理描写に至るまで、すべての文章表現能力において、絶対的な才能を持った作家であり、あまりの素晴らしさに、最近の芥川賞や直木賞の受賞作など、小学生の夏休みの作文に思えてしまうほどだ。まあ、芥川賞なんて、時代錯誤のクソジジイ、石原慎太郎なんかが選考委員をやってるんだから、マトモな作品など選ばれるワケないけど‥‥なんて思ってる今日この頃、皆さん、「潮騒」くらいは読んでますよね?(笑)

 

 

‥‥そんなワケで、俳句の季語の「春の雪」は、冬場の雪と比べてすぐに溶けてしまうことから、「はかないもの」「淡いもの」と言うイメージを持っている。また、溶けたあとには暖かい春の日差しが見えて来るため、「希望」「好転」などの本意も内臓している。だから、冬の雪と比べると、大きくニュアンスの違って来る言葉で、これは、俳句だけじゃなくて、和歌の世界でも同様に考えられている。たとえば、百人一首には、次の歌がある。

 

「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手(ころもで)にゆきはふりつつ」 光孝天皇

 

愛する君のために若菜を摘んでいると、着物の袖にはらはらと春の雪が舞い降りて来た。まるで、私の淡い想いを包み込んでくれているようだ‥‥なんて感じだ。六本木のバーラウンジ911のVIPルームで、ステキな白人男性に、こんな歌を耳元で囁かれたら、胸がキュンとして、下半身丸出しのままスキーをはいて、六本木通りの春の雪の上を女子モーグルのフリースタイルで滑り出して、ちぢれた毛の生えたでっかい金メダルを2つも握りしめた上に、ダンナに愛想をつかされて離婚されちゃうかも知れない(笑)

 

‥‥なんてギャグもはさみつつ、あたしの大好きな紀貫之も、春の雪を何首も詠んでいる。古今和歌集なら、次の歌が有名だ。

 

「霞(かすみ)立ち木(こ)の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける」 紀貫之

 

「はる」とひらがなで書いてあるのは、「木の芽も張る」と「春の雪」の両方の意味を持たせるためで、紀貫之の得意とした小ワザのひとつだ。霞が立ち、木々の木の芽を張らせると言われている春の雪が降ると、花のないこの里にも、まるで花が散りしきったように見えるって言う意味だ。でも、フジテレビの恥、里谷多英だったら、霞じゃなくて、別のモノを立たせそうだ。そうなると、こんな歌になる。

 

「●●●立ち昨日も今日も腰振れば恥なき里谷多英ぞ尻出す」 黒服A

 

‥‥そんなワケで、くだらない本歌どりはホドホドにしといて話を進めるけど、光孝天皇の歌も紀貫之の歌も、降り積もって行く雪じゃなくて、降るそばから溶けて行くような、淡い雪を詠っている。また、近代になっても、この「春の雪」の持つイメージは変わらない。

 

「時に来て書斎を覗く末の子の足音に似る春の雪かな」 与謝野晶子

 

静かな書斎に近づいて来る末っ子の小さな足音は、そのひとつひとつが淡く、耳に届いたとたんに、ふっと消えていってしまうようだ。それが、「春の雪」の持つ「はかなさ」であり「光」なのだろう。でも、「春の雪」の持つ、これらの淡い感覚は、あくまでも中央の感覚なのだ。つまり、紀貫之の時代であれば、京都、与謝野晶子の時代であれば、東京ってことで、ふだん、そんなに雪が降らない土地での感覚なのだ。

 

ニポンは、縦に長い国だから、北海道と東京と沖縄では、季節感が大きく変わる。明和7年(1770年)生まれの越後の国(新潟)の文人で俳人の鈴木牧之(ぼくし)は、この中央の「春の雪」のイメージに対して、異論を唱えている。代表的な著作、「北越雪譜(せっぷ)」の中で、次のように述べている。

 

「春の雪は消えやすきをもって沫雪(あわゆき)といふ。和漢の春雪消えやすきを詩歌の作意とす、これ暖国の事也、寒国の雪は冬を沫雪ともいふべし。いかんとなれば冬の雪はいかほどつもりても凝凍(こおりかたまる)ことなく、やはらか脆弱(ぜいじゃく)なること泥のごとし。」

 

つまり、春の雪は消えやすい淡雪と言われ、詩や歌では「消えやすい」と言うことを本意としているけど、それは暖かい地方だけの話で、寒い地方では、淡雪は冬のものだ。どんなに積もっても、決して固くならずに、泥みたいにやわらかい、って言ってるのだ。だから、光孝天皇や紀貫之が詠っているような、はかなく淡い春の雪に風情や詩情を感じるのなんか、暖かい中央だけの美意識であって、厳しい雪国では、そんな甘っちょろいことは通用せん!‥‥って、ここまでは言ってないけど、近いニュアンスは持っていたはずだ。つまり、中央の感覚だけで言葉の意味を決めてしまっても、中央から離れた場所では、まったく本意が違ってしまうこともあるってことだ。「踊る大捜査線」的に言えば、「事件は現場で起きてるんだ!」って感じだし、ライブドア的に言えば、ニッポン放送の社員たちが総決起集会をやるような感じだろう。

 

里谷多英みたいに、セックスのことばかり考えながらスキーをしてる人は気づかないかも知れないけど、普通にスキーをしてる人なら、やわらかな冬の雪と比べて、春の雪は、水っぽくて重たいってことを知っているだろう。また、雪国の農家の人たちも、毎年、やっかいな春の雪の重さに苦労しているはずだ。だから、「春の雪」と言う言葉には、京都や東京の感覚だけじゃなくて、地方によって、状況によって、別の感覚があるのだ。

 

‥‥そんなワケで、先人たちの作り出した先入観などにはとらわれず、今日の東京の「春の雪」を素直に詠んでみると、こんな感じになる今日この頃なのだ。

 

「帰り来て車を覗く猫の子の足もと濡らす春の雪かな」 与謝野きっこ

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