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2005.04.28

魚と寝る女

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今月の初めころに、徹底的に水槽のお掃除をしたから、まだピカピカだ。2?3日に1回、自然に蒸発しちゃったぶんだけ、片手鍋に半分くらいのお水を足すだけで、黒メダカたちも、クチボソたちも、みんな元気に泳いでる。

水槽がキレイだと、覗き込む時間も自然と増えて、1日に何度も見たりする。夜なんか、1時間くらい見てる時もある。立派な水槽じゃないし、高級な熱帯魚でもないけど、あたしにとっては、何よりも大切で可愛い家族だ。

1日2回のエサの時間も、すごく楽しい。あたしは、エサをあげる時には、ブクブクは止めるようにしてる。今は、お水が汚れないように、浮くタイプのエサを使ってるんだけど、ブクブクをつけたままだと、水面のエサが水流で水槽の四方に広がって、食べにくいみたいだからだ。

だから、ブクブクが止まって、あたしが水槽の前に立つと、お魚たちは、「おおっ! ゴハンの時間だ!」って思うみたいで、黒メダカたちは水面に集まって来るし、クチボソたちは落ち着きがなくなる。それで、規定量のエサをパラパラと落とすと、水槽の中は一気に色めき立つ。

黒メダカは「受け口」だから、水面に浮かんだエサを食べるのが得意で、水面下ギリギリをゆっくりと泳ぎながら、口をパクパクしてるだけで、自然にエサが口に入って行く。でも、クチボソは、とんがった「おちょぼ口」で、その名の通り、口が細いから、水面のエサを食べるのは苦手だ。それで、3匹のクチボソは、それぞれ、自分なりの食べ方を編み出したのだ。

一番小さい、5cmくらいのウメコは、体を垂直にして、藻の隙間から水面を突き上げて、「カポッ、カポッ」って音を出しながら、水面のエサを食べる。この時に、空気も一緒に飲み込むようで、2?3回水面を突くと、1度水中をクルリと回って体勢を立て直すんだけど、この時に、エサと一緒に飲み込んだ空気をポコッと吐く。これが、すごく可愛い。

ウメコが、この食べ方をすると、静かだった水面が乱れてて、浮いてたエサが少しだけ、水中へと沈んで来る。そうすると、「待ってました!」とばかりに、中くらいの、6cmくらいのジャスミンと、一番大きい、7cmくらいの熊田曜子が、奪い合うようにして食べ始める今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?(笑)


‥‥そんなワケで、あたしは、水槽のガラスがコケで汚れてた時には、1日2回のエサやり以外には、水槽を覗くことがなかった‥‥って言うか、なるべく見ないようにしてた。それは、汚れた水槽を見るたびに、「1日も早くお掃除してあげなくちゃ!」って気持ちと、クタクタで、お掃除を延ばし延ばしにしてる自分に対する罪悪感との板バサミになるからだ。

ずいぶん前に、「ちびまる子ちゃん」に、こんなお話があった。例によって、お母さんから、「あんたはいつも最初だけで、そのうちに世話をしなくなるんだから!」って言われつつも、騒いだり、ダダをこねたり、懇願したりして、何とかお母さんを説き伏せて、たまちゃんからメダカを分けてもらったまる子。最初のうちは、毎日、水槽を覗き込んで、すごく可愛がってるんだけど、これと言ったパフォーマンスの無いメダカに、やっぱり、だんだんと飽きて来る。それで、まる子は、水槽の中を賑やかにしようと思い、なんと、アメリカザリガニを入れてしまう。そして、次の日に水槽を見ると、メダカはみんないなくなってて、両方のハサミでメダカをつかまえて、大暴れしてる怪獣のようなザリガニの姿が‥‥。

ショックを受けたまる子は、お得意の現実逃避ワールドへと走り、パッタリと水槽には近づかなくなる。学校で、たまちゃんに、「メダカは元気?」って聞かれても、顔を硬直させて、「うん‥‥まあね‥‥」って、言葉を濁すばかり。そして、長い現実逃避が終わり、久しぶりに水槽を見てみると、すべてのガラスはコケで緑に染まり、お水はドロドロのヘドロ状態だった‥‥。

見たくないものから目をそらし、現実逃避するってのは、水槽に限らず、色んな状況がある。最近、トンと見かけなくなって、そろそろ「あの人は今」みたいな番組に出て来そうな岡本夏生のCMで、キッチンのシンクの排水溝のフィルターみたいなのを持ち上げて、ヌルヌルのベトベトになってるのをそのままソッと元に戻して、「見なかったことにしよう!」ってのがあったけど、これこそが、ちびまる子スピリッツの大人バージョンだろう。

‥‥そんなワケで、ちびまる子の二の舞だけは避けたがったあたしは、今月の初めに、意を決して、水槽の大掃除をした。ガラスだけじゃなくて、砂利も石もキレイにして、濾過装置のフィルターも換えて、藻も増やして、竹炭を沈めて、住み良い環境を作った。それで、今は、楽しいお魚ライフを満喫してるってワケだ。

夜、お部屋の電気を消して、テレビや音楽もかけずに、水槽の照明だけをつけて、お酒を飲みながら眺めてると、とっても不思議な気分になって来る。特に、夏の寝苦しい夜なんかは、あたしも小さな人魚になって、黒メダカやクチボソたちと一緒に泳いでるような気持ちになって来る。

「人魚」と言えば、思い出すのが、リュック・ベッソンの「つめたく冷えた月」だ。もともとは、MAXの主演映画、「レディースMAX」の中のライブハウスのシーンに、ニポンのパンクの老舗バンド、アナーキーが出てて、それで、アナーキーのことをチョコっと調べてみたら、ヴォーカルの仲野茂さんが、「一番好きな映画」にあげてたのが、この「つめたく冷えた月」だった。それで、あたしは興味を持って、観てみたんだけど、とにかく、すごく良かった。

ストーリーは、デデとシモンって言う、どうしようもない中年男の2人組が、死体安置所から女性の死体を盗み出して来て、それを死姦するって言う、人の道に外れたようなもので、アメリカの異色作家、チャールズ・ブコウスキーの短編小説、「人魚との交尾」が原作になってる。この原作のタイトルからも分かるように、死体だと思ってた女性が、実は生きていて、それも、人魚だったってオチなんだけど、全編がモノクロであること、BGMがジミヘンであることなども加味して、ベッソンの描く海のシーンは、言葉にできないほど神秘的で美しい。そして、全体に流れる、何とも言えない倦怠感、哀愁、刹那的なイメージは、秀逸なラストシーンで、すべてが昇華される。

それから、あたしが、「水槽」からイメージするのは、これは、映画じゃなくて、テレビドラマだけど、岩井俊二の「フライドドラゴンフィッシュ」だ。これは、今から12?13年前に、テレビの深夜ワクで放送してた、「La cuisene」って言う、「食べ物」をテーマにした1話完結型のドラマで、毎回、「もりそば」「おにぎり」「給食カレー」「トム・ヤム・クン」「プディング」って言うようなタイトルで、複数の監督が順番に制作してた。その中で、今をトキメク岩井俊二が監督したのが、芳賀裕太主演の「オムレツ」、鈴木蘭々主演の「ゴーストスープ」、そして、「フライドドラゴンフィッシュ」だ。「フライドドラゴンフィッシュ」は、これまた、今をトキメク浅野忠信のデビュー作で、現在の素浪人みたいなキャラとは別人の、少年時代の浅野忠信を観ることができる。

テレビドラマとして埋没させるには、あまりにももったいないレベルの作品なので、後に、ビデオ化されたり、映画化されたりしたから、観た人も多いだろう。内容としては、テレビ向きの軽い探偵モノって感じだけど、みっちょん(芳本美代子)の楽しくも魅力的なキャラ設定が、後のCharaを予感させ、また、映像のハシバシに垣間見られる岩井ワールドの匂いにも、あたしは、敏感に反応してしまう。こう言った低予算の初期作品があったからこそ、「スワロウテイル・バタフライ」と言う、現時点での最高傑作へと辿り着いたんだと思う。

‥‥そんなワケで、「つめたく冷えた月」の持つ刹那的な美しさとも、「フライドドラゴンフィッシュ」の持つストイックな映像美とも違う、独特の美的感覚を持っているのが、韓国のキム・ギドク監督の「魚と寝る女」だ。昨今の盲目的な韓流ブームによって、ニポンの一部の人たちの間では、まるで、20年も前の山口百恵と三浦友和の「赤いシリーズ」のような、あまりにも単純な「お涙ちょうだい」の韓国ドラマが人気だけど、モノゴトの入り口としては、大いにケッコーだと思う。でも、いつまでも、そう言った陳腐なドラマだけにウツツを抜かしてるんじゃなくて、韓国にだって、本当に素晴らしい芸術的な映画がたくさんあるんだから、そう言った方向へと進んで行って欲しいと思う。

ニポンにはニポンの美的感覚があるように、韓国には韓国の、中国には中国の、ベトナムにはベトナムの美的感覚があり、それらは、人気俳優の名前だけに寄りかかった、陳腐なテレビドラマや映画などでは、決して表現されることはない。三流のカンフー映画しかないように思われてる香港映画界にも、鬼才、ウォン・カーウァイ監督が存在しているように、キムチ臭い三流恋愛映画しかないように思われてる韓国にだって、独自の感性で映像美を追求し続けているキム・ギドク監督が存在しているのだ。

「魚と寝る女」は、人里を離れた、神秘的な釣り池を舞台にした作品で、この釣り池を管理する女性、ヒジン(ソ・ジョン)が主人公だ。ヒジンは、池に浮かぶボートハウスを回り、釣り人たちに、昼間は食べ物を売り、夜は自分の体を売り、生活をしている。ここに、恋人を殺した元警察官、ヒョンシク(キム・ユソク)が身を隠すためにやって来て、いつしか、ヒジンと肉体関係を持つようになる。

この映画で、主役のヒジンのセリフは、いっさい無い。最初から最後まで、目と表情だけで、すべての感情表現をしている。そして、この映画の中で、ヒジンがたったひとことだけ声を出すのは、去って行こうとするヒョンシクを引き止めようと、自分の性器に釣り針を入れ、思い切り引き、叫び声をあげるシーンだけなのだ。

「残酷なシーンほど、もっとも美しい。」と言うキム・ギドクの言葉通り、この釣り針のシーンは、他の作品の残酷なシーンにも共通するように、思わず両手で目を覆いたくなるのに、その覆った手の指の隙間から見てしまい、そして、痛みを超えたところにある美しさへと連れて行かれてしまう。ある意味、映像上のSM感覚なのかも知れない。

あたしは、電気が煌々と灯る明るい部屋のベッドで、白人女性が腰を浮かせてグラインドさせながら、「カモ?ン! カモ?ン!」ってケダモノのような叫び声をあげまくるセックスは、あまりにも滑稽で、爆笑しちゃって見ていられない。アングロサクソンたちの、性欲がマグマのように噴き出した、まるで動物の交尾のようなセックスには、美のカケラも感じないけど、岩井俊二、ウォン・カーウァイ、キム・ギドクなど、アジアの美的感覚を持っている監督たちが作り出すセックスの描写には、たまらないほどの魅力を感じる。これは、あたしが、セックスにもワビやサビを求めるニポン人だからなんだと思う。

キム・ギドクの最新作、「サマリア」は、東京では、先月公開された。あたしは、お仕事上のつきあいで観に行ったけど、お金のために体を売る女子高生が主人公の現代的な内容だって聞いてたので、あんまり期待してなかった。でも、実際に観てみたら、キム・ギドク独特の映像美だけでなく、少女のころの微妙な感覚を丁寧に表現してあって、何度も、胸がキュンとするような思いがした。

女の子の場合、中学や高校の時の同性の親友との関係って、いつでも一緒にいて、手をつないで歩いて、何でもお揃いにして、どっちかにカレシができちゃったらヤキモチを妬いたり、別に、レズビアンってワケじゃなくても、それに近いような、独特の感覚がある。この映画は、それをうまく表現してて、何だか、懐かしいような、切ないような、グッと来るものがあった。

展開としては、ヨジンとチェヨン、2人の女子高生と、ヨジンのお父さん、それぞれの視点から見た三部構成になっている。第1章の「バスミルダ」は、インドの伝説の娼婦の名前がタイトルで、ヨジンとチェヨンの友情をベースに、ストーリーは急ぎ足で展開して行く。第2章の「サマリア」は、この映画のタイトルにもなっている大きな章で、聖書の「サマリアの女」から取ったタイトルだろう。ヨジンの目の前で、警察の売春取り締まりから逃げようとして、窓から飛び降りて即死してしまうチェヨン。そのチェヨンに対するヨジンの思いや行動は、サスガのあたしもリトル涙がこぼれた。そして、第3章の「ソナタ」では、ヨジンとお父さんとの視点から、様々なものが見えて来る。走る車の室内から映したフロントガラス越しの映像は、あまりにも素晴らしい。

韓国の文化を多少でも知っている人なら、この第3章の「ソナタ」って言うタイトルが、韓国で一番有名な大衆車の名前だってことくらい、当然、分かるだろう。ニポンで言えば、カローラとかシビックとか言った感じだ。でも、マスコミの作り上げた韓流ブームに洗脳されてる人たちの多くは、「韓国」「ソナタ」と聞いただけで、すぐに「冬のソナタ」を思い浮かべてしまうのかも知れない。

‥‥そんなワケで、こう言った、何も考えていない脳天気なニポン人たちが、「ヨン様のロケ風景を見るツアー」に参加して、頻繁に反日デモが行なわれている真っ最中の韓国へと大挙押し寄せた。2600人ものオバサン軍団は、500mにも及ぶ列を作って大行進して、現地では、「すわ、反韓デモか!?」と言う騒ぎにまで発展したそうだ。こう言った無神経なファン心理も、分からなくはないけど、誰よりも韓国に対して友好的な立場であるはずの韓国スターのファンたちが、今のピリピリとした日韓の関係を完全に無視した行動に走るって言うのは、「なんだかなぁ?」 by 阿藤快‥‥って感じの今日この頃なのだ。

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