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2005.04.29

木の足

moppo 東京のダウンタウン、墨田区の向島2丁目の、隅田川に沿った墨堤(ぼくてい)通りから少し入ったところに、三囲(みめぐり)神社がある。この神社は、とても由緒ある神社で、新春行事の「隅田川七福神めぐり」の神社のひとつにもなっている。境内には、松尾芭蕉の弟子の宝井其角(きかく)の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に、富田木歩(もっぽ)の句碑もある。

 

 夢に見れば死もなつかしや冬木風  木歩

 

俳句を知らない人でも、松尾芭蕉や正岡子規、高濱虚子などの名前くらいは聞いたことがあると思うけど、この富田木歩の名前は、俳句を勉強してる人でも、知らない人がいる。だから、チョー有名じゃないけど、知ってる人は知ってるって程度の知名度の俳人だ。

 

木歩は、今から100年ちょっと前の明治30年に、現在の墨田区向島の鰻屋さん、「大和田」の息子として生まれた。本名は、富田一(はじめ)と言う。木歩は、2才の時に高熱を出し、それが原因で両足がマヒしてしまい、生涯、歩けない体となってしまう。木歩は、2人の姉と2人の妹、兄と弟の、7人兄弟だったんだけど、木歩が歩けなくなった上に、弟は聾唖者だったので、兄弟から2人も障害者が出たことを 近所の人たちは、「たくさんのウナギを殺して来たタタリだ」って言って、悪いウワサを流して、お店に近づかなくなる。今、こんなことを言ったら、差別だとか何だとか大変なことになっちゃうけど、たった100年前には、このニポンでも、こんな非科学的で人権を無視した、まるで魔女狩りみたいなことが、平然と行なわれていたのだ。

 

木歩は、歩けない上に、家が貧乏だったから、すごく小学校に行きたかったのに、行かせてもらえなかった。それでも、どうしても勉強をしたかったので、手元にあった「いろはがるた」や「軍人メンコ」を使って、独学でひらがなを覚えた。そして、漢字にルビが振ってある少年雑誌を読んで、漢字も覚えて行った。

 

しかし、木歩が10才の時、隅田川が決壊する大洪水があり、木歩の家やお店は大きな被害を受けてしまった。さらに、3年後にも、同じ規模の大洪水があり、すでに父親が亡くなっていたこともあり、もともと貧乏だった一家は、どん底の生活を余儀なくされる。2人のお姉さんは遊郭へと売られて行き、木歩は口べらしのために、近所の友禅の型紙屋へと奉公に出されてしまう。もちろん、木歩は歩けないので、四つん這いで働いていた。こんな状況でも、木歩は決して弱音は吐かずに、大好きな少年雑誌を読むことと、このころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして、つらい奉公にも耐えていたのだ。

 

大正6年、木歩が20才の時、俳句を通して、同い年の新井声風(せいふう)と出会う。声風は、慶応大学の学生で、親は浅草で映画館を経営していて、体も健康で、何から何まで木歩とは正反対だったけど、木歩の才能と人間性に惚れ込み、2人は親友となった。「木歩」と言う俳号は、このころに自分でつけたもので、これは、人並みに歩きたい一心で、自分で木を削って作った手作りの義足に由来している。

 

しかし、声風と言う親友は得たものの、木歩の不幸は、まだまだ続いて行く。木歩の家は、ますます貧乏のどん底へと墜ちて行き、2人の姉に続いて、女工をしていた妹までが、遊郭へと売られて行ったのだ。そして、聾唖の弟が、肺結核で倒れ、大正7年の2月に亡くなってしまう。翌3月には、遊郭へ売られて行った妹も、肺結核にかかり、家へと戻って来る。そして、木歩の必死の看病も虚しく、4ヶ月後の7月に亡くなってしまう。このころには、木歩自身も肺を病んでいて、吐血を繰り返すようになる。

 

時を同じくして、木歩の家の隣りに住んでいて、ひそかに恋心を抱いていた幼なじみの女の子が、遊郭へと売られて行った。そして、木歩が俳句を教えていて、とても可愛がっていた女工も、肺病で亡くなってしまう。つまり、木歩自身も病気でつらい時なのに、その木歩が何よりも大切に思っていた弟や妹、俳句仲間などが、次々と亡くなって行ったのだ。

 

そして、大正12年9月1日、午前11時58分、歴史的な大被害をもたらした関東大震災が起こった。関東大震災の被害は、地震そのものよりも、地震後の火災による被害がものすごくて、木歩の住んでいた下町を中心に、東京は、一面、火の海になった。この時、歩けない木歩を心配して、親友の声風が、倒壊した家々や、あちこちで上がる炎をかいくぐりながら、木歩のもとへと駆けつけて来た。そして、木歩をおぶって、猛火の中を必死に逃げたのだ。

 

しかし、隅田川の堤まで逃げたものの、すでに橋は焼け落ち、渦巻く炎は四方から迫り、川は津波の影響で水位が2倍以上の激流になっている上に、燃えさかる木材が次々と流れて来て、ついに2人は逃げ場を失ってしまう。それぞれの運命を悟った2人は、無言で固い握手をして、声風はイチかバチかで激流へと飛び込み、木歩はその場にうずくまった。そして、声風は奇跡的に助かったけど、木歩は焼け死んでしまった。享年26才と言う、あまりにも若過ぎる死だった。

 

声風は、親友である木歩の名前を後世へ残すために、自分は句作をやめて、その後の人生をかけて、木歩の句集や文集の編集に尽力した。この、声風の努力があったからこそ、今、あたしたちは、富田木歩と言う俳人を知ることができ、彼の遺した作品に触れることができるのだ。

 

しかし、関東大震災の死者は、約14万2800人と言われている。そして、この中で、きちんと死亡が確認されているのは、10万5385人にしか過ぎない。つまり、4万人弱の人たちは、遺体が見つからないために、未だ「行方不明者」とされているのだ。そして、今日の日記で紹介した富田木歩と言う俳人は、この14万2800人の中のたった1人であって、他の数え切れないほどの人たちの中には、木歩よりも不遇だった人たちや、木歩よりも若かった人たちも、たくさんいたことだろう。それどころか、遺体も発見されず、死んだと言うことすら記録に残っていない人たちが、4万人弱もいるのだから‥‥。

 

 我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮  木歩

 

 

 

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