五月の風 後編
母さんと、夜遅くまで、露天と内湯に合計で4回も入って、母さんが寝たあとも、あたしはコッソリと内湯に行き、全身に「美人の湯」をしみ込ませまくった。そして、お風呂上りに、ひとりでビールを飲んで、ふかふかのお布団で爆睡した。
次の朝、7時くらいに目が覚めたんだけど、隣りに寝てたはずの母さんがいない。初めは、お手洗いだと思ってたんだけど、いつまでも戻って来ないから、お手洗いを見てみたら、いなかった。それで、「さては朝湯だな?」って思ったあたしは、さっそくお風呂に行ってみることにした。そしたら、母さんは、気持ち良さそうに内湯に浸かってたので、あたしも一緒に入った。夕べに続いて、またまた貸し切り状態だった。
濁湯に沈める肋聖五月 きっこ
それにしても、朝から親子でのんびりと温泉に浸かってるなんて、こんなゼイタクなこと、ちょっと他には無いだろう。その上、朝ごはんがこれまた素晴らしくて、朝なのにお刺身がついてたし、アジのヒラキもめちゃくちゃ美味しかったし、お味噌汁も、お新香も、とにかくすべてが美味しくて、母さんもあたしも、ごはんを2杯ずつ食べた。そして、チェックアウトが11時だったので、もう1回、温泉に入ることにして、最後に貸し切りの露天に入った。
今日は、どこを見に行こうか、温泉に浸かりながら色々と相談したんだけど、母さんもあたしもガラス工芸が見たいって言う結論に達したので、今年の3月にオープンしたばかりの「箱根ラリック美術館」に行くことにした。場所は、同じ仙石原にあるので、車で10分もかからない。ここは、ルネ・ラリックの作品を展示してる美術館で、ずっと前に、母さんと、伊豆のガラス工芸美術館に行った時に、日本の美の影響を受けたアールヌーヴォー期から、洗練されたアールデコ期にかけての、ガレやドームの作品と一緒に、ラリックの作品も見たことがあって、ランプや香水瓶などの繊細な美しさに、親子で溜め息をついたことがある。平面的な絵画の場合は、写真で見てもそれなりに雰囲気だけは伝わるんだけど、陶芸などの立体的な芸術の場合は、やっぱり実物を見ないと分からない。特に、ガラス工芸の場合は、光の反射によって色々と表情を変えるから、どうしても本物を見てみたくなる。
‥‥そんなワケで、箱根ラリック美術館に到着してみたら、これが、あまりにもワンダホーだったので、入場料の他に駐車料金も取るって言う理不尽さに対しても、それほど腹が立たなかった。それに、焼け石に水みたいなもんだけど、一応、1人100円だけ安くなる割引クーポンもシッカリと使ったし(笑)
エントランスの正面には、素晴らしい暖炉の飾りがあって、そこを照らすシャンデリアまでが、ラリックの作品だった。大きな室内装飾から、小さなブローチまで、これでもかこれでもかのラリック責めで、親子で出るのは、やっぱり溜め息ばかりだった。花瓶や香水瓶などのガラス器も美しかったけど、特に、ブローチなどの宝飾品がステキだった。
ラリックのガラスの翼新樹光 きっこ
あたしみたいな小市民は、こう言うとこに来ると、どうしても、「作品の値段」が気になっちゃう。もちろん、値段なんか書いてないから、いったい、いくらくらいするのか想像もつかないんだけど、とにかく、とんでもなく高いってことだけは分かる。だから、「もしも、これを割っちゃったら、シャレにならないだろうな‥‥」なんて、ちゃんと展示ケースの中に入ってるのにも関わらず、余計な心配をしちゃう。そんなことを考えながら見学してたら、母さんが、「この花瓶、割ったりしたら弁償できないだろうね‥‥」ってボソッと言ったので、やっぱり親子なんだなって思って、あたしは噴き出しちゃった(笑)
今は、特別展示として、ナナナナナント! ラリックが室内装飾をしたオリエント急行の車両をヨーロッパから持って来て、そのまま展示してあった。車両って言っても、普通の電車じゃなくて、高級なサロンカーだから、中は貴賓室みたいだ。それで、このサロンカーとラリックについての映像を見て、中でコーヒーとデザートが楽しめるようになってたんだけど、これが、入場料とは別に、1人2100円だと! だけど、せっかくここまで来たんだし、ちょうどお茶も飲みたかったし、何よりもオリエント急行に乗ってみたかったから、さっそく受け付けをした。
オリエント急行に乗る夏の風 きっこ
オリエント急行は、外側は白と紺色のツートンで、昔の新幹線みたいな色だったけど、中に入ると、向かい合わせのイスの真ん中にテーブルがあって、それぞれのテーブルに白いランプがついてて、すごく豪華だった。そして、天井のランプシェードもラリックの作品だし、車両の仕切りや、窓と窓の間に、ラリックのガラス作品が埋め込まれていた。女性、男性、女性のモチーフが1組になった3枚のガラスで、みんな裸なんだけど、1枚1枚が別のポーズをしてた。それで、後ろ向きの男性はいいんだけど、前向きの男性は、ちゃんとオチンチンまで彫ってあった。サスガ、細部までリアリティーを追求した芸術家だ(笑)
涼しさやレリーフにあるおちんちん きっこ
コーヒーは、ひとりひとりに小型のポットが用意されてて、たっぷり2杯も飲めたし、デザートプレートもすごく美味しかったので、母さんもあたしも大満足だった。コーヒーを飲みながら、母さんが、「いつか、こんなふうに、ふたりで列車で旅行に行きたいねえ」って言ったので、そう言えば、大人になってからは、母さんとどこかに行く時は、いつも車ばっかりで、電車で旅行したことが無いってことに気づいた。電車なら、ビールも飲めるし、駅弁も食べれるし、居眠りもできるし、楽しいだろうなって思った。そして、この母さんの言葉は、もしかしたら、いつも運転をしてるあたしに対しての心づかいなのかも知れないって思った。
旅に来て旅の話や桜草 きっこ
ラリック美術館を出ても、まだ2時前だったので、どこかでお昼ごはんにしようかとも思ったんだけど、母さんもあたしも、朝ごはんをいっぱい食べてたし、今、デザートプレートも食べたので、あんまりお腹が空いてなかった。それで、もう1ヶ所、どこかへ行ってみようってことになり、温泉に浸かりながら作戦会議をした時に、ラリック美術館の次に母さんが行きたがってた「星の王子さまミュージアム」に行くことにした。あたしが小学1年生の時の学芸会で、あたしのクラスは「星の王子さま」をやったんだけど、あたしは、キツネの役だった。これが、ケッコー重要な役で、難しいセリフがたくさんあって、すごく苦労したのを覚えてる。それで、あたしは子供だったから、今では断片的な記憶しか残ってないんだけど、母さんは良く覚えていて、今でも時々、その時の話をする。だから、母さんは、「星の王子さま」に対して、特別な思いがあるのかも知れない。
青葉してキツネの役を思ひ出す きっこ
ラリック美術館から、わずか5分で到着した星の王子さまミュージアムでは、1人200円安くなるクーポンを使った。これで、ラリック美術館と両方で、600円の割引ってことで、タバコ2箱ぶんが浮いた(笑)
星の王子さまミュージアムは、建物だけじゃなくて、石畳から塀まで、敷地内がすべてプロバンスの街並みを再現してあって、まるで、外国に来たみたいだった。館内に入って、クネクネと通路を進むと、サン・テグジュペリの生涯が分かるように、数々の写真や愛用品などが展示してあった。広い園内をのんびりとお散歩して、そろそろお腹も空いて来たので、園内にあったオシャレなフレンチレストラン、「ル・プチ・プランス」を覗いてみたら、ランチタイムが3時までって書いてあって、時計を見ると、2時50分。とりあえず、中に入ってみたら、3時までに入店すればOKだって言うので、ここで、ちょっと遅いランチをいただくことにした。
薫風や異国の音の石畳 きっこ
ランチは、1800円で、前菜とメインの2皿なんだけど、前菜はバイキング形式で、サラダ、マグロのカクテル、ムール貝のカレーソース、カボチャのムース、ナントカのテリーヌ、キッシュなど、前菜だけでお腹がいっぱいになっちゃうほどの豪華なラインナップで、メインも、お魚とお肉の5種類から選べるゼイタクさだった。母さんもあたしも、お肉よりもお魚のほうが好きなので、スズキのトマトソテーを注文して、プロバンス気分を満喫した。普段はあんまり好きじゃないフレンチだけど、夕べも今朝も和食だったし、母さんと一緒だから、とっても美味しかった。
芦ノ湖の地中海めく南風 きっこ
星の王子さまミュージアムは、母さんもあたしもすごく気に入っちゃったので、食事が終わったあとも、ショップを覗いたり、園内を歩いたり、カフェでお茶したりして、5時頃までたっぷりと楽しんだ。そして、そろそろ帰る時間も近づいて来たので、のんびりと東京方面へ向かうことにした。それでも、あちこちで景色を見たり、お土産屋さんがあるたびに車を停めて覗いたりしてたら、東京に着いたのは、夜の8時を回っていた。たった1泊の旅行だったけど、すごく楽しくて、夢のような時間だった。景色も、温泉も、お食事も、すべてが最高だったけど、何よりも嬉しかったのが、帰りの車の中で母さんが言った、「ホントにありがとうね」って言葉だった。
母さんとマリアの月をめぐりけり きっこ
キツネと仲良しになった星の王子さまに、別れの時が訪れる。キツネとの別れを悲しむ王子さまは、「こんなに悲しくなるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」って言う。キツネは、「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるのなら、仲良くなったことは決して無駄なことじゃなかったって思うよ」って答える。そして、別れ際に、キツネは、「大切なものはね、目には見えないんだよ」って、王子さまに教える。
景色も、温泉も、お食事も、すべてが最高だったのは、そこに、母さんがいたからだ。母さんと一緒に過ごした時間こそが、何よりも大切なことで、親孝行のつもりだったのに、あたしのほうが、何倍も大きな愛を母さんから受けていたってことに気づいた。25年も経ってから、自分の演じたキツネのセリフの意味が、ようやく分かったような気がした今回の旅行だった。【おわり】
母性てふ豊かなるもの若葉風 きっこ
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