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2005.11.04

神々の宿る言葉

iroha1
今日は「文化の日」だった。「だった」って言っても、まだ、あと数時間は「文化の日」なんだけど、夜になってから書いてるから、とりあえずは大ザッパに過去形にしてみた。だけど、文語だったら、同じ過去形でも、助動詞ひとつで目睹(もくと)回想や伝聞回想、完了や完了存続など、色々と書き分けられる上に、さらにそこに詠嘆や情緒などの自分の感情までを表現することができるのにな‥‥。簡単に言えば、昔のニポン語の場合は、「き」と「けり」が過去を表わす助動詞で、「つ」「ぬ」「たり」「り」が完了を表わす助動詞なんだけど、同じ過去を表わす助動詞でも、「き」の場合は目睹回想、つまり、自分が実際に見たり体験したことに対する回想で、「けり」の場合は伝聞回想、つまり、自分の体験じゃなくて、誰かから聞いたことの回想、テレビやネットで得た情報に対する回想ってことになる。

だけど、それは大昔のことで、和歌の時代や俳諧の時代を経て、少しずつ助動詞の用法にバリエーションが加わって来た。たとえば、伝聞回想の「けり」に、完了の「ぬ」の連用形の「に」をくっつけて「にけり」とすれば、伝聞回想よりも完了の意味のほうが強くなる。そこから、「けり」単体でも完了の意味を持つようになった。だから、今、俳句で「歩きけり」って言えば、伝聞回想よりも完了としての意味になり、誰かから聞いた話じゃなくて、自分が歩いたってことになる場合のほうが多い。さらには、中世以降は、「歩き終わった」って言う完了だけじゃなくて、「今まで歩いて来て、今も歩き続けてる」って言う完了存続の意味も持つようになった。だから、「文化の日でありにけり」って言えば、今日は朝から文化の日で、まだ文化の日が続いてるって言う、今のあたしの情況をバッチリと表現できるのだ。

それに比べて、現代のニポン語は、あまりにもイイカゲンだ。「文化の日だった」にしても、「あっそうだ!明日は文化の日だった!」って言えば、過去じゃなくて未来の話になっちゃうし、「あっそうだ!今日は文化の日だった!」って言えば、過去でも未来でもなく、現在のことになる。同じ「だった」が、現在〜過去〜未来〜って、ぜんぶに使えるなんて、中島みゆきじゃなくてもビックル一気飲みだ。ようするに、色んな物が発明されて、人間の生活は格段に豊かになったかも知れないけど、その反面、言語をはじめとしたニポンの古来からの文化は、大きく衰退しちゃった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、現在の退化しちゃったひらがなは「あいうえお」だけど、昔の優秀だったひらがなは「いろはにほへと」だった。「あいうえお」は46文字だけど、昔の「いろはにほへと」は2文字多くて48文字で、それは、「ゐ」と「ゑ」があったからだ。この点だけを見ると、たった2文字だけの違いで大した差は無いみたいに感じるかも知れないけど、「言語」ってものの根源にさかのぼってみると、これが、天と地ほどの差があるのだ。

第二次大戦の敗戦後、アメリカから怒涛のごとく押し寄せて来た「合理主義」の波によって、その正反対に位置するニポン古来の美学である「わび」「さび」「雅」「風流」「風情」って感覚は、ことごとく「悪しき習慣」「時代遅れの伝統」って見なされちゃった。そして、レイザーラモンHGみたいなサングラスを掛けて、コーンパイプをくわえたオッサンが、「ムダなものはすべて排除だフォ〜〜〜〜〜!」って叫んで、次々にぶっ壊して行った。そんな中で生まれた「あいうえお」は、まさしくアメリカ的な合理主義の象徴で、数式のように味気ない言葉の配列は、それまでの「わび」や「さび」を消し去り、単なる記号でしかないアルファベットと同じように、ニポンの美しい言葉をただの記号に変えちゃったのだ。

狂牛病のハンバーガーにケチャップをドロドロとぶっかけて平気で食べるだけでなく、そんなもんを他国に押しつけるような無神経で自己中心的なアングロサクソンどもには、ニポンの上品なカツオダシの味など分かるハズもない。当然、「い」と「ゐ」のビミョ〜な発音の違いも、「え」と「ゑ」のビミョ〜な発音の違いも聞き分けることができず、「同じ発音なんだから1文字に統一しろ!」ってことで、1000年以上もの歴史があった「ゐ」と「ゑ」は、アッケなく切り捨てられたのだ。

だけど、もともと、ニポンの48文字の仮名には、「一音一字の言の葉に四十八(よとや)の神々が宿っている」って言われてて、48音で森羅万象の真理をすべて表現してた。だから、仮に「ゐ」と「ゑ」を残してたとしても、その配列を変えただけで、「言の葉」としての意味がなくなっちゃう。それなのに、2文字を切り捨てた上に、配列まで変えちゃったから、もはや言の葉に宿る神々も消え去ってしまったのだ。


「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」


これが「伊呂波(いろは)歌」だけど、分かりやすいように、漢字と段落を入れて書き直してみると、次のようになる。


「色は匂へと散りぬるを 我か世誰そ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせすん」


こうして読めば分かるように、この48音の中には、無駄な言の葉はひとつもなく、逆に1音でも欠けたら成り立たなくなっちゃうのだ。それなのに、低脳コイズミが崇拝するアメリカの「合理主義」は、「同じ発音のものはひとつで十分だ」って言うアホな見解から、歴史ある「ゐ」と「ゑ」を簡単に抹殺したのだ。でも、それなら、なんで「お」と「を」も同じ発音なのに「を」は残したのかは疑問だけど、何をやらせてもアバウトなアングロサクソンのことだから、たぶんウッカリと見落としたんだろう。だけど、もしも「を」まで抹殺されてたとしたら、「何お言ってんだ!俺わ知らんぞ!」って感じで、まるでマンガの「ろくでなしブルース」のセリフみたいな文章を書くハメになってただろうから、そこんとこだけはアメリカ人のバカさ加減に感謝しなくちゃならない(笑)

‥‥そんなワケで、この「伊呂波歌」からさらにさかのぼると、「ひふみ」って言うものに辿り着く。「ひふみ」って言うのは、ものを数える時に「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ‥‥」って数える呼び方の元祖にあたるもので、「いろは48音」なら言える人もたくさんいるだろうけど、この「ひふみ48音」をぜんぶ言える人は少ないと思う。


「ひふみよ いむなやことも ちろらねしきる ゆゐつわぬそお たはくめか うおえにさりへて のますあせゑほれけん」


これが「ひふみ48音」だけど、「ひ」から「と」までの最初の10音が、ひとつ、ふたつ、みっつ、と数える時の頭文字になっていることが分かると思う。つまり、ものを数える時の数字は、この「ひふみ」から発生してるってワケだ。そして、この48音こそが、先ほど言った「四十八(よとや)の神々」の宿る言の葉なのだ。「ひ」は火、そして太陽を表わし、「ふ」は風を意味し、「み」は水、つまり海を表現している。このように、一音一字のすべてに神が宿っていて、その48音がすべて同時に鳴り響き、天地が創造されたって伝えられてるのだ。

ちょっとダッフンするけど、俳句の新年の季語で、「ひめ始」って言うのがある。この「ひめ」は、お姫様の「姫」や秘め事の「秘め」って解釈されてて、近年では「新年になって初めて男女がセックスすること」って言う、ちょっとエッチな季語とされてる。もちろん、俳句の季語としてじゃなくて、一般的な言葉としても、「ひめ始」って言えば、新年早々の初エッチのことを指して使われてる。だけど、この言葉の語源を探ってみると、もともとは「ひみ始」って呼ばれてて、「ひ」は火のこと、「み」は水のことであり、新年になって初めて火や水を使って「太陽の神と海の神に感謝をすること」って言う説もあるのだ。

こんなふうに、ニポンの古来からの言葉には、1文字1文字に深い意味がある‥‥って言うか、かつてはあったのだ。だけど、英語の場合は、いくつかの文字を組み合わせて「単語」になって、そこで初めて意味を持つワケで、アルファベットの1文字1文字には何の意味も無い。ようするに、アルファベットってのはタダの記号であって、そんな味もソッケも無い記号の組み合わせだけで意志の疎通をしてるザツな民族なんかに、ニポンの伝統的な言語の美しさや味わいなどが理解できるワケは無い。そして、そんな鈍感なヤツラが、ニポンの伝統ある神の言の葉を勝手に「あいうえお」なんて言う下品極まりないバカ記号に変えちゃったのだ。

‥‥そんなワケで、ニポン語のひらがなの美しさ、表現力の豊かさを感じてもらうために、次の俳句を挙げてみる。


  「をりとりてはらりとおもきすすきかな」


これは、あたしの大好きな俳人、飯田龍太のパパ、飯田蛇笏(だこつ)の有名な句だけど、試しにこの句を漢字で書いてみる。


  「折り取りてはらりと重き芒かな」


こうすると、何本かのススキを手に持った時の「重さを感じない重さ」って言うビミョ〜な感覚が伝わって来ないと思う。それに、ススキを折り取るのも、なかなかチギレなくて、力を入れてるように感じる。ようするに、まだ青々としてるススキで、折りにくいし、水分を含んでる重さを感じちゃうのだ。だけど、原句のひらがなで書かれたほうを読むと、茶色く枯れかけたススキで、少しの力でポキッと折れて、何本も手にしたのに、ほんのわずかな重さしか感じないのが良く分かる。そして、今夜のお月見に対する楽しみだけじゃなく、ワビシサやハカナサのような情感までが伝わって来る。これが、ひらがなの持つ表現力で、「あいうえお」じゃなく、「いろはにほへと」の48音だからこその豊かさなのだ。

ちなみに、この句は、最初は「折りとりてはらりとおもき芒かな」って表記されていた。だけど、作者の蛇笏は、より自分のイメージに近づけるために、次に「をりとりてはらりとおもき芒かな」って推敲して、そして最終的には、すべてをひらがなで表記することにしたのだ。これは、誰よりも「表記」ってものに対して深い考えを持っている俳人だからこその感覚で、一般の人が普通の文章を書く時には、「ひらがなにするか漢字にするか」なんてイチイチ考えないと思うし、仮に考えたとしても、それは表記のもたらす効果を考えてのことじゃなく、単にその時の自分の都合だけで決めてるのがほとんどだと思う。

‥‥そんなワケで、「あいうえお」のことを現代仮名遣い、「いろはにほへと」のことを歴史的仮名遣いって呼ぶんだけど、早春の季語で、「薄氷(うすらい)」って言うのがある。読んで字のごとく、春まだ寒い時季に、池やバケツなどに薄く張った氷のことを指す言葉なんだけど、これを歴史的仮名遣いで書くと、「うすらひ」ってなる。この、指で触れただけでも溶けてしまうような、淡くはかない「薄氷」を表現するのに、「うすらい」と「うすらひ」、どっちが適してるだろうか? 「鴬」は「うぐいす」か「うぐひす」か、「囀り」は「さえずり」か「さへづり」か、「鬼灯」は「ほおずき」か「ほほづき」か‥‥などなど、比較してみると、歴史的仮名遣い‥‥って言うか、本来のニポン語のなんと美しいことか。一字一音に神の宿る言の葉を編んでこそ、ニポン人によるニポンのためのニポン語なんじゃないだろうか?‥‥なんて、「日本」を「ニポン」て呼んでるあたしが言ったところで、説得力ゼロって感じがする今日この頃なのだ(笑)


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