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2006.03.05

1日遅れのお雛さま

ume1 2月の終わりに、母さんから、「今年もお雛さま出しておいたよ」って言われてたのに、昨日まで忙しくて、見に行くことができなかった。ちょこっとだけ顔を出すだけならできたんだけど、バタバタと母さんのとこに行って、顔だけ見て帰って来るようなのはイヤなので、せめて半日くらいは一緒に過ごせるように、何とか時間を作って、ゆっくり会いに行こうと思ってた。それで、色々とヤリクリして、今日、午後からをオフにした。それで、今朝は早起きして、例のきっこ特製「ひな祭りシャケ五目寿司」を作ってから‥‥って言っても、この「例の」が分からない人は、去年の3月3日の日記を読んでもらうとして、午前中に自宅でのお仕事を片付けて、お昼過ぎに母さんのとこに向かった。

 

この年になってのお雛さまってのも、リトル恥ずかしいと思うかも知れないけど、去年、十数年ぶりに母さんがお雛さまを出してくれて、それで色んなことを思い出したり、おしゃべりしたりして、すごく楽しい時間を過ごすことができた。だから、母さんの「今年もお雛さま出しておいたよ」って言葉は、「また、あの楽しい時間を過ごしたいね」って言う意味だって、あたしには分かってた。母さんは、何年間も入退院を繰り返してて、あたしは、その入院費を作るために何本ものお仕事をカケモチして、ずっと休まずに働いてたから、その間は、お雛さまどころじゃなかった。でも、1年ちょっと前に母さんが退院してからは、通院だけで済むようになったし、検査の結果もずっと安定してるから、あたしの生活がラクになっただけじゃなくて、母さんもあたしも精神的にずいぶんと余裕が持てるようになった。

 

それで、去年、ものすごく久しぶりに、母さんがお雛さまを出してくれたんだけど、メチャクチャ大変だった数年間を乗り越えたからこそ、母さんと2人でお雛さまを眺めながらゆっくりとした時間を過ごせることに、とっても幸せを感じることができた。だから、この年になってのお雛さまには、子供のころのお雛さまと違って、また別の味わいって言うか、母さんとの楽しい時間を演出してくれる小道具みたいな意味もある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、あたしは、五目寿司を持ってお家を出たんだけど、今日の東京は1週間ぶりの青空で、ものすごくお天気が良かった。それで、こんなにいいお天気の日に、ずっと室内で過ごすのはもったいないと思って、母さんと一緒にどこか近場の公園かなんかに行って、そこで五目寿司を食べてから、そのあと、お雛さまを見ようって思いたった。母さんに電話してみたら、「それなら、出かける用意をして待ってるね」ってことになったので、あたしは、一度お部屋に戻って、お茶をいれて魔法瓶に入れて、それから、車で母さんのとこへ向かった。

 

それで、母さんを迎えに行ってから、あたしは、車で5分ほどのとこにある「次大夫堀(じだゆうぼり)公園」て言う民家園に行くことにした。ここなら近いし、駐車場も30分100円だし、木のベンチやテーブルもあるし、ちょっと遅いけどまだ梅が見られるだろうし、何よりも、この時季は、民家に昔のお雛さまを飾ってると思ったので、ここに決めた。それで、次大夫堀公園の駐車場に車を停めて、田んぼの脇をのんびりと歩きながら、園内へと向かったんだけど、ホントにいいお天気で、ミゴトな紅梅の下にシートを敷いて、家族でお弁当を食べてる人もいた。

 

園内に入ったら、数人のオジサンやオバサン人たちが写生に来てて、思い思いの場所に絵の道具を広げて、古民家や梅を描いていた。ちょこっと覗いたら、水彩絵の具で描いてて、とっても上手だったから、きっと、絵画クラブか何かの人たちなんだろうと思った。他にも、週末ってことで、お弁当を食べてるカップルとか、園内をお散歩してる子供連れの若い夫婦とか、たくさんの人たちが遊びに来てた。だけど、平日はガラガラの場所なので、「たくさんの人たち」って言っても、「いつもと比べたら」ってことで、マバラに人がいて、ちょうどいい感じだった。

 

母さんとあたしは、園内をゆっくり1周してから、大きな古民家の前の日当たりのいい場所に座った‥‥って言っても、どのベンチとテーブルも、みんな日当たりが良かったんだけど、この場所は、すぐ横に小ぶりの白梅と紅梅が見えて、いい感じだったからだ。紅梅のほうは、7割がた終わってて、ちょっとワビを感じる姿だったけど、白梅のほうは、まだ6割以上も花が残ってて、まだまだ華やかな美しさだった。母さんもあたしも梅が大好きなので、ここは特等席だった。さっそく魔法瓶のお茶を注いで、五目寿司を出して、ランチにしたんだけど、この公園はバス通りから奥まったとこにあるから、車の音がぜんぜん聞こえなくて、すごくゆったりできる。

 

古民家の裏の竹林からは、「ピーピピー、ピーピピー、ピーピピー」って言う小鳥のさえずりが聞こえて来て、あたしは、バードウォッチングが好きなワリには、さえずりの聞き分けが苦手なので、何の小鳥なのか分からなかったんだけど、とにかく、キレイな声だった。逆のほうからは、あたしでも分かるカラスの声が聞こえたんだけど、それでも、いつもの「カーカー」じゃなくて、どことなくのんびりした感じの「カァ‥‥カァ‥‥」って感じだったので、のどかな感じがした。あとは、遠くのほうでお家を建ててるのか、時々、電気ノコギリの音みたいなのが聞こえたんだけど、それがまた、いい具合に、さえずりの間を縫って聞こえて来るので、まるで山で木を伐ってるチェーンソーの音みたいに感じられて、どこか遠くの自然の中に来てるみたいな気分になった。

 

それで、母さんと五目寿司を食べて、しばらくのんびりしたあとに、昔のお雛さまを見ようと思って、飾ってあるハズの古民家へ行ったんだけど、ナナナナナント! 展示は昨日までだった!‥‥ってことで、ちょっとガッカリしたけど、3月3日を過ぎてんだから、ま、ジンジャエールってことか。ちなみに、ここに飾ってたのは、江戸後期の「享保風田舎雛(きょうほふういなかびな)」って言って、1体の高さが30センチくらいあって、とにかくデカイ。あたしのお雛さまは、高さが45センチくらいの立方体のガラスケースの中に10センチ以下のお雛さまが並んでるんだけど、ここのデカイお雛さまだと、ガラスケースの中に1人しか入らない。

 

さらにちなみに、この「享保風田舎雛」ってのは、江戸時代の享保年間(1715〜1735年)に、江戸で流行った「享保雛」をマネて、信州の松本で作られたもので、別名「松本田舎雛」って言う。それで、この「享保雛」ってのは、とにかく大きくて豪華にするように競い合ったため、しまいには高さが60センチ以上もあるのまで作られちゃった。座ってる形で高さが60センチ以上もあるワケだから、子供くらいの大きさだったワケで、いくらなんでも、こりゃデカすぎる。

 

‥‥そんなワケで、お雛さまの「雛」って、俳句だと、「ひな」とも読むし「ひいな」とも読む。たとえば、同じ「紙雛」を詠んでる句で、こんなのがある。

 

 

 折りあげて一つは淋し紙雛  三橋鷹女

 

 紙雛の薄きを人の裏返す  右城暮石

 

 

上の鷹女(たかじょ)の句は、「かみびいな」って読むけど、下の暮石(ぼせき)の句は、「かみびな」って読む。ようするに、五七五の音数に合うように、読者側で判断して読むってことだ。これは、「雛」って言うものが、もともとは古語で「ひいな」って呼ばれてて、それが、あとから「ひな」に変化したので、俳句だとどっちでもアリってことなのだ。で、この「ひいな」って古語は、昔の仮名づかいだと「ひひな」って書くんだけど、どんな意味なのかって言うと、「小さくて可愛らしい」って意味なのだ。だから、60センチもある巨大なお雛さまは、ホントだったら、「雛」とは呼べないような気がする。

 

それで、まだ「お雛さま」が無かった平安時代には、貴族たちが小さな紙人形で遊ぶ「ひいな遊び」ってのがあった。そして、この遊びとは別に、3月の最初の「巳(み)の日」に、紙で作った人の形の「形代(かたしろ)」で子供の体をなでて、それを水に流して、その子供の無事な成長をお祈りするって行事があった。この2つが合体して生まれたのが、今の雛祭のルーツだって言われてるんだけど、そう考えると、普通にお雛さまを飾る雛祭よりも、紙雛を桟俵(さんだわら)に乗せて川や海へ流す「流し雛」のほうが、ルーツに近いってことになる。もうちょっと詳しく書くと、「形代」自体は、縄文時代や弥生時代にも、草や木を使った似たような風習があって、ものすごく歴史が古い。そして、ニポンに紙の作り方が伝わったのは610年ころって言われてるけど、当時は、紙はものすごい貴重品だから、形代にして川や海へ流すなんてゼイタクなことはしなくて、しばらくは草や木を使ってた。それで、紙の形代を使うようになったのが、平安時代ころだそうだ。

 

それから、すぐにお雛さまへと進化するワケじゃなくて、3月の最初の「巳(み)の日」に、子供の枕もとに置いて無事な成長を祈る「天児(あまがつ)」と「這子(ほうこ)」って言うお人形が生まれる。これは、お雛さまって言うよりも、ぬいぐるみみたいな感じだ。それで、この天児が男の子で、這子が女の子だったことから、男女一対のお人形を飾るって言うスタイルが確立されて、室町雛、内裏雛、寛永雛って変化してくうちに、だんだんに今のお雛さまの形になって来た。だけど、本来の「ひいな」の意味の「小さくて可愛らしい」のは、この寛永雛までで、次の享保雛に変化してからは、それまで10センチ前後だったお雛さまは、どんどん巨大化してって、あまりにもエスカレートしちゃったために、幕府は、豪華なお雛さまを作ったり飾ったりすることを禁止する「奢侈(しゃし)禁止令」って法律を作って、取り締まりを始めたほどなのだ。

 

だから、この享保雛の次の次郎左衛門雛は、モトに戻って、小さくて可愛らしいものになった。そして、続いての有職雛(ゆうそくびな)を経て、今のお雛さまの原型とも言える古今雛が生まれた。だから、享保雛の時代に、幕府が「奢侈禁止令」を発令しなかったら、お雛さまは限りなく巨大化し続けていて、今ごろは、高さが2メートル以上もある、チェ・ホンマンやセーム・シュルトもビックルを一気飲みしちゃうくらいのデカイお雛さまが、女の子のいる各家庭に一対ずつ、恐ろしい形相で鎮座してたかも知れないし、収納のことを考えて、空気でふくらませるビニール製の巨大雛とかも発売されてたかも知れない。

 

‥‥そんなワケで、アホな妄想を楽しんだあたしは、母さんが並べてくれてた自分のお雛さまを見て、何よりもその小さなサイズにホッとした。子供のころは、お金持ちのクラスメートのお家の立派なお雛さまをうらやましいと思ったこともあったけど、やっぱりお雛さまは、小さくて可愛らしいものこそが「ひいな」なんだって思った。あたしの心の体育館に勢ぞろいしてる小さいきっこたちも、サイズ的には「ひいな」だから、そのうち、小さいきっこたちにそれぞれの衣装を着せて、男雛、女雛、三人官女、五人囃って感じにして、並べてみたくなった。それなら、せっかくだから、三人官女と五人囃の間に、「四人MAX」ってのも特別に作って‥‥なんて、まだまだあたしのアホな妄想は続いてるみたいな今日この頃なのだ(笑)

 

 

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