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2006.03.23

ぼんやりとしたそれ

どんなに目をこらしても、どうしても見ることができないので、それは「形の無いもの」と呼ばれた。

どんなに耳を澄ませても、どうしても聞くことができないので、それは「かすかなもの」と呼ばれた。

どんなに触ろうとしても、どうしても触ることができないので、それは「小さきもの」と呼ばれた。

このどれもが、究極に達していたからこそ、誰にも判別のできない「ひとつのもの」と呼ばれた。

それは、見上げても明るくなく、見下ろしても暗くなかった。

他のものと区別する境目がなく、いったい何なのか、まったく分からなかった。

形の無い形、状態の分からない状態、だから、「ぼんやりとしたそれ」としか呼びようがなかった。

ただ、ひとつだけ分かっていたのは、それが、「すべてのはじまり」であるということだった。


‥‥なんて言ってみても、分かんない人には分かんないだろうし、分かる人なんていないと思うけど、この「ぼんやりとしたそれ」って言う、限りなくアバウトなものが、「タオ」だ。あたしは、一応はクリスチャンだけど、聖書には間違ってることやツジツマの合わないことがいっぱいあるし、特に、ニポンのキリスト教会のあり方は問題だらけだから、ぜんぜん信仰してない。何よりも、聖書の最大の間違いは、「初めに言葉ありき」って部分で、こんなにも自分勝手で、我が物顔で、偉そうで、デタラメで、自己中心的な理屈なんか、オッぺケペーのプップクプーだ。人間に最も不必要なものが宗教、そして、人間に最も必要なものが哲学。あたしに、それを教えてくれたのが、タオイズムだ。だから、あたしは、この「ぼんやりとしたそれ」を追い求めて、これからもずっと「きっこの日記」を書き続けて行くことをここに宣言しちゃう今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、聖書には、「初めに言葉ありき」って書いてあるけど、「言葉」ほど、いい加減なものはない。たとえば、「WBC」ってのは、「ワールド・ベースボール・クラシック」の略らしいけど、「ワールド」って言葉を使ってるってだけで、多くの人が、まるでニポンのチームが「世界一」なったように錯覚しただろう。だけど、オトトイ、車の運転中に TOKYO FM の「so good!」を聴いてたら、パーソナリティの荘口彰久が、こんなことを言ってた。


「ワールド・ベースボール・クラシックの『ワールド』って言うのは、別に『世界』って意味じゃなくて、航空会社の名前なんだよね。だから、サッカーのナビスコ・カップの『ナビスコ』と同じで、単に企業名をつけてるだけなんだ。」


へ〜〜〜そうなんだ。でも、考えてみたら、「そりゃそうだ!」って感じだよね。たった16ヶ国だけで試合をして、それも、総当り戦じゃなくて、そんなんで優勝して「世界一」だなんて、あまりにも無理がありすぎる。世界には、国連加盟国だけでも191もあるのに、その中のたった16ヶ国だけで試合をして、それを「世界選手権」て呼ぶのは、さまぁ〜ずの三村じゃなくても「おいおい!」って感じがする。

だけど、世の中は、なんだかニポンが「世界一」になったみたいな雰囲気になっちゃってて、大騒ぎしてる。それは、「ワールド・ベースボール・クラシック」って言うネーミング、つまり、「言葉」の持つ錯覚によるものだ。たとえば、これが、「ナビスコ・ベースボール・クラシック」だったらまだしも、「ライブドア・ベースボール・クラシック」や「ヒューザー・ベースボール・クラシック」だったりしたら、ぜんぜんイメージが違ってただろう‥‥って言うか、こんなのだったら、最初から参加しなかっただろう。

‥‥そんなワケで、この、言葉の持つイメージ、言葉による先入観を巧く利用して、国民を騙し続けて来たのが、言わずと知れたニポンの恥、コイズミだ‥‥って言っても、コイズミは、マトモなニポン語を話せるだけの知能がないから、すべては、バックの売国奴チームの作った台本を棒読みしてるだけだけど、「改革!」「改革!」「改革!」「改革!」って叫び続けてるコイズミは、自分に織田信長の姿を投影させて、自分の足元にひれ伏す国民たち、苦しみながら死んで行く国民たちを想像して、「快楽!」「快楽!」「快楽!」「快楽!」って思ってるだけなのだ‥‥なんてことも言ってみつつ、コイズミみたいに100パー地獄に堕ちることが決定してるクズのことはほっといて、あたし的には、「言葉」の持つ表面上のイメージや、いい加減さに惑わされないように、その「言葉」の奥にある本質を見るようにして行きたい。

あたしは、そのために俳句をやってるようなとこもあるんだけど、こうやって「言葉」を書いてて、いつも思うのは、読んでくれてる人たちに、あたしの書いてる言葉や文章の表面的なことだけじゃなくて、その中身もちゃんと伝わってるのかな?‥‥ってことだ。タオイズムって言えば、あたしの大好きな老子だけじゃなくて、あたしの嫌いな荘子とセットになってて、ようするに「老荘思想」ってふうに解釈されてる。チョー簡単に言うと、どんなにカレーが大好きでも、カレーだけを食べる人はいない。誰でも、ご飯にカレーをかけて食べる。で、カレーが老子、ご飯が荘子ってことだ。ちなみに、あたしはご飯が好きだけど、説明のためにカレーの話を使っただけなので、変なツッコミはごカンベン‥‥ってことで、ご飯があるからこそ、美味しいカレーを味わえるってワケだ。

で、その荘子に、「忘筌(ぼうせん)」「忘蹄(ぼうてい)」って言葉がある。これは、「魚を得て筌を忘る」「兎を得て蹄を忘る」ってことで、「筌」ってのは魚を獲るためのアミ、「蹄」ってのはウサギを捕るためのワナのことだ。つまり、魚をつかまえるまでは、必死にアミを使ってたけど、魚をつかまえた瞬間に、もうアミのことは忘れちゃう、ウサギをつかまえるまでは、色々と工夫してワナを仕掛けるけど、ウサギをつかまえた瞬間に、もうワナのことは忘れちゃうって意味だ。そして、この言葉の本質は、「大切なものは道具ではなく、その道具によってもたらされる中身である」ってことだ。

これを「言葉」ってものに置き換えて考えてみると、「言葉」は、魚を獲るためのアミであり、ウサギを捕るためのワナだってことになる。大切なことは、その言葉によって伝えたい「気持ち」や「考え」であって、言葉そのものは道具にしかすぎない。だから、相手に伝えたい自分の気持ちや考えが正しく伝われば、その瞬間に、その言葉は、シャボン玉が弾けて消えちゃうように、パッと消えちゃってかまわないってことになる。だから、言葉にばかりこだわってる人は、道具にばかりこだわって、なかなか魚獲りやウサギ捕りが上達しない人ってことで、川にも行かず、山にも行かず、「このアミは安物だから魚は獲れないだろうな」とか、「このワナは中古品だからウサギは捕れないだろうな」とか、文句ばっか言ってるような人間てことになる。大切なのは、道具なんかじゃなくて、その中身だってことが、ぜんぜん分かってないのだ。

‥‥そんなワケで、あたしは、ヘンチクリンな文章でも、いわゆるひとつの「きっこ文体」でも、これがあたしの道具なんだから、この自分の道具を使って、これからもずっと書き続けて行こうと思う。嬉しいことに、最近は、今まで以上にたくさんの応援メールが届いてるし、特に、「共感しました!」とか、「私の言いたかったことを書いてくれて嬉しかったです!」とか、そう言ったメールが多いので、ものすごく励みになる。そう言う人たちは、あたしの「道具」を見てるだけじゃなくて、ちゃんと「中身」を見てくれてるんだなって思えて、ホントに嬉しくなる。だから、でっかい穴のあいたアミだけど、使い物になんないワナだけど、これからも、道具よりも中身ってことで、「きっこの日記」は、「ぼんやりとしたそれ」に向かって、アバウトに爆走して行くのであった‥‥なんて感じの今日この頃なのだ。


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