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2006.05.17

江戸のたけし軍団

「俳句」のことを知らない人でも、松尾芭蕉の名前や、「古池や蛙跳びこむ水の音」って句ぐらいは、ほとんどの人が知ってると思うけど、実は、松尾芭蕉の時代には、俳句ってものは存在しなかった。俳句を作ったのは、明治時代の正岡子規(しき)であって、江戸時代の芭蕉が詠んでたのは、「俳諧(はいかい)」って言うものだった。俳諧も、五七五の17音や、季節の言葉を入れたりするとこは俳句と同じなんだけど、今の俳句とは色んな部分が違ってたから、厳密に言うと、芭蕉は「俳人」じゃなくて、「俳諧師」だった。

だけど、俳人だろうと俳諧師だろうと、天下の松尾芭蕉なんだから、全国にたくさんのお弟子さんがいた。俳諧の流派は、落語とかと同じで、「ナントカ門」て言う。落語家の場合は、「林家一門」とかって言うけど、これは、ようするに、その師匠に「入門」するからで、弟子になれば「門弟(もんてい)」って呼ばれるし、師匠を怒らせれば「破門」になっちゃう。それで、芭蕉の流派は、芭蕉の「蕉」を取って「蕉門(しょうもん)」て呼ばれてたんだけど、全国に430人余りの門弟がいたそうだ。だけど、見栄っぱりの芭蕉は、門弟の数を聞かれると、2000人て答えてたらしい。

現在の俳句結社でも、ホントは300人しか会員がいないのに、500人だなんて公称してるとこもあるくらいだから、見栄をはりたがるのは、昔から俳人の特権だったのかも知れない。だけど、300人だろうと500人だろうと、飛行機も新幹線もあるが現代なら、主宰が全国の会員のところにも行くのも、全国の会員が主宰に会いに来るのも、すごく簡単だ。でも、江戸時代の交通って言ったら、歩くか、馬に乗るか、カゴに乗るか、あとは舟くらいしかなかっただろうから、江戸にいる芭蕉が全国の門弟たちに会いに行くのは、とにかく大変なことだった。だから、芭蕉には430人余りの門弟がいたけど、実際に芭蕉から俳諧の指導を受けられたのは数十人だけで、生涯、芭蕉に会うこともできなかった門弟も、たくさんいたそうだ。そんな芭蕉の門弟たちに、リトル迫ってみようと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、芭蕉って、300年も経った今だからこそ、俳聖だとか何だとか、まるで悟りを開いちゃったスゴイ仙人みたいに言われてるけど、所詮はタダの遊び人だったワケで、仕事もしないで、門弟たちからお金や食べ物をもらい、住むとこまでタダで世話してもらって、来る日も来る日も俳諧をひねったり、昼間っからお酒を飲んだり、旅行をしたりして、遊び呆けてたワケだ。だから、確かに、人並み外れた俳諧の才能は持ってたけど、生活そのものはだらしなくて、仙人は仙人でも、ぱふぱふが大好きな亀仙人みたいなもんだった。

そして、芭蕉の時代には、俳諧って言えば道楽の極みで、商人の奥さんなどは、ダンナに対して、「アナタ!毎晩飲みに行っても女遊びしてもいいから、お願いだから俳諧にだけは手を出さないでちょうだいね!」なんて言ってたくらいなのだ。他にあんまり娯楽が無かった時代だから、入り口は単純だけど限りなく深い俳諧は、一度のめり込むと二度と抜け出すことができなくなるほど、魅力的な遊びだった。奥さんたちが必死になって止めるほど、俳諧と言う遊びは底無し沼で、一度足を踏み入れたが最後、一生懸命に稼いだお金をどんどん師匠に貢いじゃって、そのうち仕事なんかホッポリ出しちゃう。挙句の果てには、家族まで捨てて、師匠のために人生を捧げちゃうような人たちまでが続出した。

つまり、ダンナが俳諧にのめり込んじゃったセイで、捨てられちゃった家族たちにしてみれば、芭蕉ってのは、大切な一家の大黒柱を俳諧と言う堕落の道へと引きずり込んだ元凶ってことになる。お金を吸い取るだけ吸い取り、お金が無くなれば身の回りの世話をさせたりと、まるで、新興宗教の教祖やインチキ霊能者、霊感商法のモトジメや自己啓発セミナーのペテン師みたいな存在だったのだ‥‥って言っても、芭蕉の場合は、そう言ったことが許される時代背景があったワケで、今、芭蕉と同じように仕事もせずに、会員たちから吸い取った年会費や貢ぎ物だけで生活してるような俳人がいたとしたら、それこそ、文芸を利用した詐欺師みたいなもんだろう。実際の話、現代の俳句結社の中には、完全にインチキ洗脳宗教と同じようなシステムのとこもある。そう言う俳句結社の主宰は、ロクな俳句も詠めないクセに、1人でも多くの会員を勧誘するためのセールストークや、1円でも多くのお金を会員から巻き上げるための洗脳トークだけは、ホニャウェイも真っ青なのだ。


‥‥そんなワケで、遊び人の芭蕉は、現代の俳句結社の主宰たちと同じで、とても外ヅラを気にする見栄っぱりだった。それで、自分の門弟の数をいつも気にしてた。ようするに、門弟が多ければ多いほど、自分は偉いってことをアピールできるからだ。そして、それだけじゃなくて、芭蕉は、自分の門弟たちをピラミッド型に並べて、その頂点に自分が君臨してるってことを遊び感覚で楽しんだりもしてた。

そんな遊びのひとつとして、「芭蕉の俳諧番付」ってものがある。これは、お相撲の番付表と同じように、全国の自分の門弟たちを東と西に分けて、二つのピラミッドを作って、その両方のさらに上のお山の大将が自分である‥‥って遊びだった。杉山杉風(すぎやまさんぷう)を東三十三ヶ国の俳諧奉行、向井去来(むかいきょらい)を西三十三ヶ国の俳諧奉行として、その下に順列をつけて門弟たちを配し、その図を見てゲラゲラと大笑いしてた芭蕉って、まるでジャイアンみたいだ。そして、そのピラミッドの中で、少しでも上に行きたくて、芭蕉にお金や貢ぎ物をプレゼントしまくった門弟たちは、なんだかスネオみたいだ。う~ん、素晴らしい低俗性! さすが、俗の文芸! これぞ、俳句! あんたの結社と同じじゃん!(笑)

こんな遊びをして悦に入ってた芭蕉は、俳諧の才能こそ素晴らしかったけど、それ以外の部分では、「ちょい不良(ワル)オヤジ」どころの騒ぎじゃなかった。そして、そんな芭蕉に心酔して、家族や仕事よりも俳諧遊びを優先してた門弟たちも、とてもホメられたもんじゃなかった。だから、色んな文献とかに、芭蕉の門弟として、宝井其角(たからいきかく)だとか、服部嵐雪(はっとりらんせつ)だとかの名前が出て来ると、その名前のイメージだけで、何だかスゴク偉くて立派な人たちみたいに感じちゃうけど、そんなのは、単なる挿入感‥‥じゃなくて、先入観なのだ。だから、これから、そんな門弟たちの本当の姿を紹介して行くので、「な~んだ!渋谷のセンター街にタムロッてる兄ちゃんたちと一緒じゃん!」てな感じで、もっともっと親近感を持って欲しい。なんたって、俳句ってのは、通俗の極みを目指した庶民の文芸なんだから。


‥‥そんなワケで、芭蕉が江戸へ出て来た延宝(えんぽう)の初期に弟子になったのは、其角、嵐雪、杉風、桃隣(とうりん)、嵐蘭(らんらん)などで、貞享(じょうきょう)に入ると、去来、杜国(とこく)、越人(えつじん)、曾良(そら)、路通(ろつう)などが弟子になり、元禄になると、惟然(いねん)、北枝(ほくし)、支考(しこう)、野坡(やば)、凡兆(ぼんちょう)、丈草(じょうそう)などが入門した。で、ずっとしてから、門弟たちの中で、特に活躍した10人をあげて、「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」って呼ぶようになったんだけど、そのメンバーは、選ぶ人によってリトル違う。

たとえば、与謝蕪村(よさぶそん)のセレクトは、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、越人の10人なんだけど、他の人は、越人の代わりに杉風を入れたり、野坡を外して越人と杉風を入れたりしてる。だから、文献によって、蕉門十哲のメンバーは違ってるんだけど、結局のところは、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良が不動の8人で、それに、野坡、越人、杉風の3人の補欠からなる11人が、蕉門十哲って感じだ。

「十哲」なのに、11人なのはマズイんじゃないかって思うかも知れないけど、女子十二楽坊だって実際には13人いるらしいから、1人くらいは目の錯覚ってことにしといてもらうか、もしくは、江戸時代と現代との時差ってことで、納得してもらうしかない‥‥ってなワケで、せっかくだから、この11人に、芭蕉に一番嫌われてた門弟、路通を入れた12人をこれから順番に紹介して行こうと思う。それぞれの年代も書いておくので、芭蕉(1644~1694)と比べて、「なんだ、弟子なのに芭蕉よりも年上だったのか」とか、「こんなに若くに亡くなったのか」とか思いつつ、読んでちゃぶだい。


1.宝井其角(たからいきかく) 1661~1707

江戸生まれで、14才の時に芭蕉に入門した最古参の門弟。何よりも酒と女を愛した豪快な遊び人だった。連日のように潰れるまで大酒を飲み、ゲロを吐き、遊女のところをハシゴしたツワモノ。「酒、女、俳諧」と言う、この時代に「人生を棒に振る」と言われていた遊びをすべてやり尽くした道楽者。


 大酒に起てものうき袷(あわせ)かな  其角

(飲みすぎたあとの目覚めは、着ている物までが何となく憂鬱に感じるなあ)


 暁の反吐(へど)は隣かほとゝぎす  其角

(明け方に目を覚ましたら、すぐ横に自分の吐いたゲロがあった。ああ、ホトトギスが鳴いているなあ)


2番目の句は、ホトトギスは「鳴いて血を吐くホトトギス」なんて言われてるので、そのホトトギスの苦しみと、自分の苦しみとをオーバーラップさせてるってワケだ。この2句を読んだだけでも、其角の自堕落な生活ぶりが垣間見られると思う。去来からは、「華やかなること其角に及ばず」なんてイヤミを言われちゃったほど、飲んで騒いで遊んでって感じの生活をしてた。だけど、芭蕉からは、その俗な人間臭さを評価されてて、門弟の中じゃ一番かわいがられてたのだ。

だけど、其角は、そんな芭蕉の思いとはウラハラに、芭蕉の没後は、サッサと談林風(だんりんふう)に行っちゃった。談林風ってのは、格調の高さを重んじてた芭蕉の俳諧とは正反対で、お笑いやエロ、奇抜さなどを重視したスタイルの俳諧だ。芭蕉自身も、一時期は談林風にカブレちゃってた時もあったけど、最終的には自分のスタイルを確立したワケで、その門弟だった其角が、芭蕉のスタイルを継がないってのは、ちょっと情けない。それどころか、芭蕉の没後は享楽的な句ばかりを熱心に作り、談林風をもっとヒドクした洒落風(しゃれふう)って言う下品で低俗を売り物にした江戸座一派の元祖になっちゃった。芭蕉にしてみれば、一番かわいがってた弟子がこのアリサマなんだから、これがホントのキカク倒れ?(笑)


2.服部嵐雪(はっとりらんせつ) 1654~1707

江戸に生まれて、30年近くも武家奉公をしてたんだけど、元禄3年(1690)に武士を辞めちゃって、俳諧師へと転身した。俳諧へ身を移してからは、それまでのストイックな生活からの反動からなのか、ソッコーで其角の遊び仲間になっちゃって、来る日も来る日も一緒に飲み歩き、一緒に女郎屋に通い、快楽の世界へと現実逃避を繰り返しちゃう。女好きは其角以上で、遊女や湯女(ゆな)を次々と奥さんにしちゃうほどの女狂い。今で言えば、遊女は本番アリのソープ嬢、湯女は本番ナシの風俗嬢ってとこ。だけど、芭蕉からは、「わが門人に其角、嵐雪あり」って評されるほどかわいがられてて、大切な門弟の双璧とされていた。あたしから見ると、下半身が節度なく乱れてるから、「嵐雪」って言うよりも「乱節」って感じだけど(笑)‥‥って言っても、俳諧に関しては、門弟の中じゃトップクラスだった。


 うめ一輪一りんほどのあたゝかさ  嵐雪


この句のように、だらしない生活ぶりとは正反対に、シャープで洗練された句を詠み、対象を切り取るセンスの良さは蕉門一だった。芭蕉の没後も、嵐雪は、其角とは違って、芭蕉のスタイルを継承した「雪門(せつもん)」をひらいて、たくさんの弟子たちに芭蕉の教えを伝えて行った。だから、女性にはだらしなかったけど、師に対するリスペクトの心は、ちゃんと持ってたってことだ。


3.向井去来(むかいきょらい) 1651~1704

長崎に生まれて、8才の時に京都へと引っ越して、その後、公家(くげ)に仕えてたんだけど、何を思ったのか、突然、すべてを捨てちゃって、芭蕉の門弟になっちゃった。天文学や暦学に精通してて、武芸にも長けてて、文字通りの文武両道のスーパー俳人。其角や嵐雪とは正反対に、とてもストイックで、女遊びも一切せず、ココロザシも高く、本当に立派な人なんだけど、それが欠点でもある。とにかく、タバコが大っ嫌いで、今では当たり前の嫌煙権を300年以上も前に主張しまくってて、句会では、絶対にタバコを吸う人の隣りには座らなかった。まるで、結社「K」の「N・T」さんや、結社「O」の「K・H」さんみたいだ(笑)

去来は、嵯峨に落柿舎(らくししゃ)って言う別荘を持ってて、時々、芭蕉を招いたりもしてた。それで、凡兆とともに、芭蕉の代表作のひとつ、「猿蓑(さるみの)」の編者に抜擢されたほど人間性を買われてて、「去来抄(きょらいしょう)」などの執筆でも知られてる。師を思う気持ちは杉風以上で、生涯を芭蕉に尽くし、芭蕉の臨終の時もずっとそばを離れなかった。誰よりも芭蕉をリスペクトしてたので、良いか悪いかは別にして、その作風も芭蕉に酷似してる。現代の俳句結社でも、無条件に主宰を尊敬しちゃってるような側近の中には、オリジナリティーのカケラもなく、まるで主宰の句のパクリみたいな句ばっか詠んでる俳人がいるけど、似たようなもんだ。


 湖の水まさりけり五月雨  去来


4.内藤丈草(ないとうじょうそう) 1662~1704

尾張(愛知)生まれで、幼いころにお母さんが亡くなって、ママハハは7人も子供を産んだため、8人兄弟のうち、自分だけ仲間ハズレで育てられた。武士の家を継ぐはずだったけど、出家して、琵琶湖のほとりに小さな庵(いおり)を構えた。貧乏で、病弱で、いつもお粥(かゆ)しか食べてなかったので、「白粥(しらかゆ)の僧正」なんて呼ばれてた。その生涯も43年と短いもので、作る俳句も、ママハハや異母兄弟に対する感情や病気、貧困などを詠ったものが目立つ。


 着てたてば夜のふすまもなかりけり  丈草


「ふすま」ってのは、ショウジとかフスマの「ふすま」じゃなくて、今で言うパジャマのことだ。ようするに、たった一枚の服しか持ってなくて、寝ても起きても着たきりスズメってことなのだ。だから、丈草は、芭蕉の没後も、ノミやシラミと闘いながら、清貧な生活を送って行った。


5.各務支考(かがみしこう) 1665~1731

美濃(岐阜)に生まれて、19才までは僧侶を志して大智寺で修行したんだけど、禅による悟りに限界と疑問を感じちゃって、乞食ボウズとなって諸国を行脚(あんぎゃ)した。そして、この全国行脚の中で学んだ文字、能文、漢籍、神学、儒学などの技術や知識が、あとから芭蕉の門弟になった時に、すごく重宝がられた。だけど、屁理屈に関しても門弟一で、頭の回転も早いけど調子も良くて、芭蕉の身の回りの世話をして取り入ろうとしたんだけど、結局はその人間性を見抜かれちゃって、最後まで信頼されなかった。いっぷう変わった男で、自分を死んだことにして生前葬をあげてみたり、そのあとに別名で本を出してみたりと、まるで保険金サギみたいなこともした。

芭蕉が病床についてからは、口八丁手八丁で根回しに走りまわり、作戦通りに、芭蕉の遺書の代筆って言う大役を任される。そして、芭蕉の没後は、達筆にモノを言わせて、芭蕉の書の贋作を作って人を騙したり、クチサキで人を騙したりして、美濃派(みのは)のドンとなる変わり身の早さを見せる。門弟一の腹黒男で、笑点で言えば楽太郎、コイズミ内閣で言えば安倍晋三のタイプ。


 あふむくもうつむくもさびしゆりの花  支考

(仰向けになっても、うつむいても、寂しさがつのってくるなあ。ああ、ユリの花が咲いている。)


この句なんか、その腹黒い人間性を知ってから読むと、何だかウサン臭さがプンプンで、さとう珠緒もプンプンだ(笑)


6.立花北枝(たちばなほくし) ?~1718

加賀百万石の城下町、金沢で、刀の研ぎ屋さんをやってた。だけど、「おくのほそ道」の道中の芭蕉と出会って、お兄さんと一緒にその場で門弟になって、そのまま福井の松岡まで同行しちゃった行動派だ。芭蕉からの信頼もあって、のちに北陸蕉門の重鎮となった。


 さゞん花に茶をはなれたる茶人哉  北枝

(あまりにも庭のサザンカが美しいので、茶人も茶室から出て行ってしまったよ)


この句を読めば分かるように、良く言えばテクニシャン、悪く言えば技巧派‥‥って、同じ意味か?(笑)


7.森川許六(もりかわきょりく) 1656~1715

近江の彦根藩の藩士で、「猿蓑」などを読んで、コツコツと独学で芭蕉の俳諧を学んだ勉強家だ。実際に門弟になったのは、芭蕉の最晩年の元禄5年。絵画に関しては素晴らしい知識と才能を持っていたので、芭蕉も許六を「絵画の師」として仰いでた。だから、芭蕉と許六は、師弟関係って言うよりも、良き芸術的理解者って感じで、お互いにリスペクトし合ってた。


 うの花に芦毛の馬の夜明哉  許六


このように、俳諧にも、美しい絵心がうかがえる。


8.河合曾良(かわいそら) 1649~1710

信州の上諏訪の出身で、伊勢長嶋藩に仕えてたんだけど、浪人になって江戸に上る。蕉門には、貞亨早期に入門した古参の一人で、芭蕉の「鹿島紀行」にも同行したけど、何と言っても「おくのほそ道」の同行が有名だ。江戸は深川の芭蕉庵の近くに住み、芭蕉のパシリとして大活躍して、とても重宝がられた。それで、調子に乗っちゃった芭蕉は、1m50cmほど先に置いてある紙や筆を取るのにも、曾良のことをアゴで使ったりしてた。曾良は、地質学や神道などにも詳しくて、実は、江戸幕府のスパイだったって言う説もある。芭蕉が忍者だったなんて言う説もあるくらいだから、その弟子がスパイだったとしても、そんなにおかしくはないだろう。


 よもすがら秋風きくや裏の山  曾良


こんな句を見ると、ナニゲにスパイっぽい怪しさを感じちゃう(笑)


9.志太野坡(しだやば) 1662~1740

越前(福井)出身の両替商、三井越後屋の番頭だったから、今で言えば、三井住友銀行の福井支店の支店長ってとこだろう。現代の俳壇も、故・波多野爽波(そうは)や金子兜太(かねことうた)に代表されるように、ケッコー銀行関係の俳人が多いんだけど、来る日も来る日も金勘定ばっかしてると、俳句でも詠んで浮世離れしたくなっちゃうのかな? だけど、結局は野坡も、仕事を捨てて、俳諧の底無し沼へと沈んで行っちゃったワケだから、きっとその時、残された家族は、「ヤバッ!」って言ったかも知れない(笑) でも、そんなヘビーな野坡だけど、作風は蕉門随一の「軽み」の使い手で、とても才能のある若手だった。


 さみだれに小鮒(こぶな)をにぎる子供哉  野坡

 猫の恋初手(しょて)から鳴て哀(あわれ)也  野坡 


う~ん、軽いこと、軽いこと(笑)


10.越知越人(おちえつじん) 1656~?

名古屋の染め物屋のダンナで、もとから酒と女には目が無い遊び人だった。酒も女もその道楽の限りを尽くして、最後の道楽として、芭蕉に弟子入りして俳諧に染まっちゃう。挙句の果てには、仕事をホッポリ出しちゃって、芭蕉の「更科紀行(さらしなきこう)」に同行して、そのまま江戸までお伴をしちゃった。名古屋に戻ってからも、2日働いたら2日遊び、3日働いたら3日遊ぶと言った具合で、仕事なんか、まったくやる気無し! だけど、とにかく金払いが良くて、どこに飲みに行ってもお勘定を払ってくれるので、芭蕉に大切にされてた。芭蕉の良き飲み友達で‥‥って言うか、良き金ヅルで、いつも2人でベロベロに酔っぱらって、歌を歌ったりしてた。

「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅で、芭蕉のお伴をして、伊良子へ杜国を訪ねた時なんかは、馬に乗りながらお酒を飲んでて、ベロベロに酔っぱらっちゃってる。今だったら、完全に免許取り消しだ。


 行としや親に白髪をかくしけり  越人


この句のように、1句の中に「や」と「けり」を使うのは、現代俳句ではタブーなんだけど、平気でこんな句を詠んじゃうのも、きっと、酔っぱらいながら詠んでるからだろう(笑)


11.杉山杉風(すぎやまさんぷう) 1647~1732

江戸は日本橋の魚問屋「鯉屋(こいや)」のダンナで、談林風の俳諧から、芭蕉に入門した。自分の深川の別荘を芭蕉庵として提供したナンバーワンのパトロンで、愛する師匠のためなら、いくらでもお金を出した男なので、通称「オスギ」と呼ばれていたとかいないとか。だから、当然のことながら、弟子の中でも特別扱いを受けていた。現代の俳句結社でも、主宰から一番大切にされるタイプで、俳句の実力が無いのに、献金の見返りとして結社賞とかを受賞したりするから、地方の会員からは不思議な目で見られちゃう。どこの俳句結社にもいるんだよね。俳句はヘタクソなのに、いっつも結社誌の上のほうに載ってる人って。

杉風は、俳句はイマイチだったけど、性格だけはすごくマジメで、芭蕉からの信頼も厚く、結局はお金の力で芭蕉の後継者になった。だけど、芭蕉の没後も、芭蕉の作句スタイルを守り抜いたマジメさを考えると、結果論としては、芭蕉の選択は間違ってなかったってことになる。


 あさがほや其日其日(そのひそのひ)の花の出来  杉風


この句からも、バカ正直で利用されやすいタイプだってことが分かると思う。で、マジメだけがトリエだった杉風は、手賀沼の魚鳥捕獲権を持ってたから、ずっと商売は順調だったのに、貞享4年(1687)の綱吉の「生類憐みの令」によって、魚を捕ることを禁じられちゃって、商売上の大打撃を受けちゃったのだ。


12.八十村路通(はそむらろつう) 1649~1738

蕉門十哲には入ってないけど、芭蕉の門弟を語る上では、絶対に外せないキャラだ。近江の三井寺に生まれて、古典や仏典に精通し、乞食ボウズとしてあちこちを放浪した。蕉門一の奇人で、何より素行が悪く、芭蕉がゴミ箱に捨てた失敗作の句をそっと盗み出して、勝手に発表しちゃったりもした。だから、芭蕉だけじゃなく、他の門弟たちからも嫌われてて、江戸時代のカワラ版、「an-an」の「抱かれたくない男ナンバーワン」に輝いちゃった‥‥わきゃないか(笑)


 いねいねと人にいはれつ年の暮  路通


「いねいね」ってのは、「去ね去ね」って意味で、ようするに、年の暮だって言うのに、みんなから「あっちへ行けよ!」って言われてるってことだ。この句から、路通がどれほど仲間から嫌われてたのかが良く分かる。芭蕉からも、いつも怒られてばっかで、口で言っても分からないからって、説教入りの句を渡されたりもした。だけど、こんなに嫌われてたのに、「おくのほそ道」では、芭蕉を敦賀で出迎えて、それからしばらく芭蕉に同行して、翌年の年明けまで、京都や大阪で一緒に暮らしたりもしてた。さらには、貞亨5年頃からは、深川の芭蕉庵の近くに住んだりもして、なんだかストーカーみたいなヤツなのだ。


‥‥そんなワケで、蕉門十哲+アルファの顔ぶれを見ると、立派どころか、まるで、「たけし軍団」みたいな気がして来る。大酒飲みの其角は、生ビールをピッチャーのまま何杯も飲んじゃう「グレート義太夫」、女好きの嵐雪は、道玄坂の風俗店に通いまくって16才の少女と淫行を重ねる「そのまんま東」、真面目で融通の利かない去来は、言われた仕事なら何でもやる「ラッシャー板前」、裏表のある策略家、支考は、軍団一の世渡り上手の「ガタルカナル・タカ」、絵の才能がずば抜けてた許六は、放送作家としての才能には、たけしも一目置いている「ダンカン」、芭蕉のゴーストライターとしておくのほそ道を執筆した曾良は、第二の松尾芭蕉と言うことで「松尾伴内」、金勘定が得意な野坡は、何事にも計算高い「水道橋博士」、ハレンチなことこの上ない越人は、どこでもハダカになっちゃう「井出らっきょ」、病弱の丈草は、影が薄くているんだかいないんだか分からない「つまみ枝豆」、その経済力で芭蕉の後継者となったパトロン杉風は、父、なべおさみの金で大学に裏口入学しようとした「なべやかん」、嫌われ者の路通は、人はいいのに芸名のセイで活動にブレーキが掛かってる「玉袋筋太郎」、こんな凄まじいメンバーの上にふんぞり返ってたのが、「北野たけし」‥‥じゃなくて、松尾芭蕉! こんなにワンダホーなメンバーが集まって、普通の人たちが一生懸命に働いている時間に、昼間っからお酒をガブガブ飲みながら句会をやってたんだから、さぞかし楽しい毎日だったことだろう。ま、芭蕉の場合は、江戸時代だったからイイってことにしても、現代の俳句結社の主宰たちは、ちゃんと仕事をして、自分の生活費くらい自分で稼いで欲しいもんだ。会員たちを洗脳して、貢がせたお布施で生活なんかしてたら、芭蕉どころか、二枚舌の支考ですら超えることができないと思う今日この頃なのだ(笑)


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