サリュー!ジル!
F1の第7戦、モナカGPは、予選でポールをとってたシューアイスが、「ワザとコース上にマシンを停めて、他のマシンのタイムアタックを妨害した」って理由で、最後尾からのスタートになって、結局、ピットスタートを選んだ。それでもシューアイスはがんばって、17台抜き‥‥って言っても、そのうちの6台はアイスは、ゴールまで持たずに途中で溶けちゃったんだけど、何とか5位に入賞した。あたしの応援してるガリガリ君は、5番手からのスタートで、終盤には完全に3位表彰台の位置につけてたってのに、ピットロードでのスピード違反のペナルティで後退しちゃって、やっとこ4位が精一杯だった。ホンダ製菓のヘッポコアイスって、カンジンのコース上じゃ遅いクセに、ピットロードだとスピードが出るみたいだ。
で、もう見るのもウンザリのルノー乳業のアーモンドチョコバーが、お約束のポール・トゥ・ウィンだし、マクラー練乳のパピコが2位だし、サスガ、モナカGPだけあって、真四角な顔の森永チョコモナカジャンボが3位だし、全体的にはつまんないレースだった。まあ、最後尾から5位まで上がって来たシューアイスはスゴかったし、森永チョコモナカジャンボも、2000年にマクラーレンで優勝した時よりも、レッドブルで3位入賞の今回のほうが、スゴイっちゃあスゴイことだった。
しけったマッチ棒は山田優ちゃんに見下ろされながら街を歩いてたし、ウキョーは相変わらず偉そうにしゃべってたし、ノンキなセレブたちは海に浮かべたクルーザーから、1本何万円もするようなションベン‥‥じゃなくて、シャンパンを飲みながら観戦してるし、なんだかなぁ~って感じだったんだけど、ま、モナカGPはお祭りみたいなもんだから、地元やフジテレビの浮かれた人たちのことは置いといて、マトモなモータースポーツファンは、別の視点から楽しんでみようと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、今回のモナコGPでは、応援してるバリチェロの他に、2人のドライバーに注目してた。それは、プラスのドライバーとマイナスのドライバーだ‥‥って、そりゃ工具だろ?‥‥なんてノリツッコミも折り込みつつ、それは、ザウバーのジャック・ヴィルヌーブと、ウイリアムズのニコ・ロズベルグだ。なんでかって言うと、2人とも二世ドライバーで、ジャック・ヴィルヌーブのお父さんのジル・ヴィルヌーブは、1981年にフェラーリでモナコを制してるし、ニコ・ロズベルグのお父さんのケケ・ロズベルグは、1983年にウイリアムズでモナコを制してるからだ。
特に、ニコ・ロズベルグのほうは、乗ってるマシンまでがお父さんと同じウイリアムズだから、優勝はムリでも、3位までに入賞して表彰台に上がることができれば、感慨もヒトシオだろうって思ってた。そして、14番手からスタートのヴィルヌーブはキビシイけど、8番手からスタートのロズベルグには、十分に表彰台の可能性はあった。だけど、フタを開けてみたら、ウイリアムズは2台ともリタイアだったし、ヴィルヌーブも、14番手からスタートして14位でフィニッシュっていう、手堅いけどサエナイ結果だった。でも、ヴィルヌーブがモナコを完走できたことに、あたしは深い感慨を覚えた。
ジャック・ヴィルヌーブは、腕は素晴らしいドライバーなのに、マシンに恵まれなくて、成績が悪い。F1にデビューした1996年は、ルノーのV10を積んだウィリアムズに乗ってたから、年間16戦のうち11回も表彰台に上ったし、デビュー2年目の1997年には、年間に7回も優勝して、ワールドチャンプになった。だけど、翌年、エンジンがメカクロームに替わったトタンにサッパリ勝てなくなって、翌1999年には、もっとひどいBARに移籍したから、開幕戦から11連続リタイアなんていう不名誉な記録を打ち立てちゃうし、その後も、2003年まで、BARホンダのヘッポコマシンのオカゲで、ずっと低迷を続けた。
それで、お父さんのジル・ヴィルヌーブが1981年に優勝したモナコだけを見ると、息子のジャック・ヴィルヌーブは、戦闘力のあるウィリアムズルノーに乗ってた1996年と1997年も、モナコだけは2年連続でリタイアしてるし、ウィリアムズのエンジンが替わってからと、遅いBARに移籍になってからは、6回出走のうち半分の3回はリタイアしてて、完走できた時の最高位が、4位なのだ。つまり、これほど長くF1に参戦してるのに、お父さんが優勝したモナコでは、まだ一度も表彰台に上ったこともないし、完走率も極めて低かったってワケだ。だけど、去年、ザウバーに移籍してからは、去年は11位、今回は14位と、ポイント圏外だけど、とにかく完走だけはできるようになったのだ。
‥‥そんなワケで、ジャック・ヴィルヌーブのお父さん、ジル・ヴィルヌーブは、もともとはカナダでスノーモビルのレースをやってて、カナダのチャンピオンになってから、世界選手権でも優勝しちゃうほどのレーサーだった。それで、1973年に、フォーミラー・フォードで車のレースにデビューして、F1にステップアップできたのは、1977年だった。ジルは1950年生まれだから、27才っていう遅いF1デビューで、マクラーレンに乗って、第10戦のイギリスGPに初出場したんだけど、11位っていうパッとしない成績で、その1戦だけで終わっちゃう。
だけど、そのシーズンの終わりころに、フェラーリのニキ・ラウダが、突然、チームを辞めちゃって、代わりのドライバーを探すことになったフェラーリチームが、ジルに白羽の矢を立てたのだ。それで、ジルは、タナボタ式にフェラーリに乗れることになって、この年の最後の2戦、カナダGPと日本GPに出場することになった。でも、カナダGPは12位で完走できたんだけど、日本GPのほうは、大変なことになっちゃった。この時は、鈴鹿じゃなくて富士だったんだけど、今みたいに厳しくなかったから、危険な立ち入り禁止地域に侵入して、ピクニック気分でお弁当を食べながらレースを観戦してる人が多かった。それで、大勢の観客がいたコース脇の立ち入り禁止地域に、ジルのフェラーリが突っ込んじゃって、観客は2人死亡、9人が重軽傷を負ったのだ。この大惨事がキッカケで、ニポンでのF1開催は、1987年に鈴鹿で再開されるまで、10年近くも中止になっちゃった。
だけど、事故を起こしたジルはと言えば、翌1978年には、全16戦にフル参戦して、最後の第16戦のカナダGPで初優勝して、文字通り故郷に錦を飾ったのだ。そして、翌1979年には、優勝3回、2位4回というワンダホーな成績を叩き出して、フル参戦2年目にして、フェラーリの大黒柱になった。翌1980年は振るわなかったけど、次の1981年には、18レースぶりの優勝をモナコで飾った。あたしは、このレースはお友達からビデオを借りて観たんだけど、今のおとなしくてお行儀のいいモナコとは違って、ホントにものすごくて、あっちこっちでクラッシュが起こるし、オラオラ状態のガチンコ勝負だった。最後の最後まで熱いバトルを繰り広げてたアラン・ジョーンズのウイリアムズを残り4周でジルのフェラーリが抜き去り、そのままチェッカーを受けて優勝するんだけど、このジルの走りに、モナコ中が熱狂の渦になり、コースの周りからの大歓声だけじゃなく、海に集まってたたくさんのクルーザーやヨットもホーンを鳴らして祝福した。
‥‥そんなワケで、フェラーリでのジルのチームメイトは、ディディエ・ピローニって言うフランス人のドライバーだったんだけど、ジルを語る上では、このピローニは絶対に外すことができない。1つのチームから2人のドライバーが参戦して、チームの得点と個人の得点の両方を競うF1では、チームごとにそれぞれ決まりごとがある。そして、フェラーリチームには、「フェラーリのマシンが1番手と2番手を走ってる時に、他のマシンに追いつかれる心配がない場合は、フェラーリ同士は順位を変えてはいけない」って言う決まりがあった。ようするに、黙ってそのまま走ってれば、フェラーリは1位と2位になれるんだから、仲間同士で危険な争いをするなってことだ。
それで、ジルがモナコで優勝した翌年、1982年の第4戦、サンマリノGPでのこと。ジルがトップ、チームメイトのピローニが2位を走行してて、3位以下を引き離してたから、このまま黙って走ってれば、ジルの優勝とフェラーリのワンツーフィニッシュは目前だった。それで、ジルは、優勝を確実にするために、ムリな走行は避けて、少しスローダウンした。そしたら、2番手のチームメイトのピローニが、このフェラーリの紳士協定を破って、ジルを追い越して優勝しちゃったのだ。
これに激怒したジルは、2週間後の第5戦、ベルギーGPで、ピローニにリベンジを誓った。そして、予選2日目に、トップタイムを叩き出したピローニを見て、何とかそれ以上のタイムを出そうと、マシンをスタートさせた。ジルの心の中にあるのは、完全に確執となってしまったチームメイトに対する恨みの気持ちだけだった。そして、ジルは、憎しみの気持ちから冷静な判断をすることができなくなり、タイムアタック中に、スロー走行中だった他のマシンに接触してしまう。ジルのマシンは、相手のタイヤに乗り上げる形になり、150mも空を飛び、大破した。空中でシートごと放り出されたジルは、ものすごい勢いでフェンスに叩きつけられて、そのまま帰らぬ人となった‥‥。1982年5月8日、享年32才、この時、息子のジャックは、11才だった。
音速の貴公子、アイルトン・セナは、34才で亡くなったけど、11年間のF1参戦で輝かしい成績を残して、伝説になった。だけど、天才的なドライビングテクニックを持っていたのに、デビューが遅かったことから、セナの半分以下の4年半しか参戦できなかったジルは、それほどの成績は残していない。だけど、少ないエントリーの中には、多くのファンを熱狂させた素晴らしいレースが何戦もあり、その生き様とともに、ジルも伝説になった。そして、今、その息子のジャック・ヴィルヌーブが、お父さんの年令を超えて走ってるんだから、注目しないワケには行かない。だから、今回のモナコでのジャックの14位って言う成績は、たとえポイント圏外であっても、お父さんと同じチェッカーを受けたって意味では、とっても深いものなのだ。
ちなみに、ジルが憎んでたチームメイトのピローニは、ジルが亡くなったあと、ライバルがいなくなったこともあり、着実にポイントを重ねて行き、ドライバーズポイントでトップに立った。だけど、このまま行けばワールドチャンプになれるって時に、第12戦のドイツGPのフリー走行中に、雨で視界を失い、前を走ってたルノーのアラン・プロストに突っ込んだ。ピローニのマシンは、ジルのマシンと同じように空を飛び、ピローニは幸いにも一命はとりとめたものの、両足骨折の大ケガを負い、F1を去ることになった。その後、ピローニは、必死でリハビリをして、パワーボートの選手になった。だけど、ジルが亡くなってから5年後の1987年の夏に、パワーボートの世界選手権中の事故で、帰らぬ人となった。ピローニもまた、享年35才の若さだった。
‥‥そんなワケで、ヒトコトじゃ語れないようなドラマがあるジル・ヴィルヌーブとディディエ・ピローニだけど、ただ憎み合ってただけじゃなくて、それぞれの心の中には、周りの人たちには分からないような、もっともっと深い思いがあったんだと思う。そんな思いを垣間見せるひとつのエピソードとして、ピローニの息子の話がある。ジルが亡くなったあとに、ピローニの奥さんは、双子の赤ちゃんを産んだんだけど、ピローニは、1人には自分と同じ「ディディエ」、そして、もう1人には、「ジル」って名前をつけたのだ。
「ジル・ヴィルヌーブ - 流れ星の伝説」って本を読むと、ジルの表向きの素晴らしさだけじゃなくて、女遊びをして奥さんと不仲になった話や、幼いジャックがお父さんに気を使ってた様子など、ジルの人間臭さが伝わって来て、ちょっと意外なイメージも生まれる。だけど、こんなにも人間臭かったジルが、文字通り命を賭けてF1の世界を走り抜けて行ったんだってことが分かって、あたしは、言葉にできないほど感動した。この本は、ジルのことだけじゃなくて、当時のF1のことを知る上でも、素晴らしい資料の役割をしてるし、インターネットで中古本を探せば、200円とか300円とかで買えるから、興味を持った人は、ぜひ読んで欲しい。
ただ、ひとつだけ残念なのは、このジルの伝記が、来年公開の映画になったんだけど、その主役、つまり、ジルの役をやるのが、レオナルド熊‥‥じゃなくて、レオナルド・ディカプリオなんだって‥‥。あたしは、このキャスティングを聞いて、全身が脱力した。「いくらなんでも‥‥」とか、「よりによって‥‥」とか、「他にいくらでもいるだろうに‥‥」とか、全世界のF1ファンたちから、色んなセリフが聞こえて来そうだけど、この、キムタクがF1ドライバーの役をやるほどのオチャラケは、F1ファンにとっては心底悲しいとしか言いようがない。
‥‥そんなワケで、アホ芸能人のことは置いとくとして、来週はイギリスGPだし、その2週間後には、ジルの母国のカナダGPだ。カナダGPは、モントリオール郊外のセントフローレンス川に浮かぶノートルダム島にあるサーキットで行なわれる。このサーキットは、かつては「イル・ノートルダム・サーキット」って名前だったんだけど、ジルが亡くなってから、その栄誉を讃えて、「ル・サーキット・ジル・ヴィルヌーブ」って名前に変わった。通称、「ジル・ヴィルヌーブ・サーキット」って呼ばれてるんだけど、メインスタンド前のスタート・フィニッシュラインには、「SALUT GILLES(サリュー・ジル)」って書かれてる。「サリュー」ってのは、フランス語で「やあ!」とか「こんにちは!」って意味で、「やあ!ジル!」って感じだ。ジルの息子のジャックが、このフィニッシュラインを何位で駆け抜けるのか‥‥なんてことも思いつつ、レースを観戦してると、順位やポイントばかりにこだわってるファンよりも、何倍も楽しめると思う今日この頃なのだ。
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