恋歌からエロティッ句へ
261通、これが何の数字かっていうと、この日記を書いてる時点までに届いてる、「爪はカルシウムじゃなくてタンパク質ですよ」っていうツッコミのメールの数だ。中には、「でも、納豆は植物性タンパク質が豊富だから、結果的にはいいと思いますが‥‥」とか、色々とフォローもあったんだけど、爪って、指の骨の先がどんどん伸びて爪になってんじゃないの? 柔らかい指先を保護するために、指の骨の先っちょの部分がどんどん伸びて、皮膚を突き破って外に出て、爪になってんじゃないの? 爪が骨の一部じゃないってことになったら、爪と骨はつながってないの? あたしは、指の骨の先っちょの上の部分が平たくなってて、それが爪なんだと思ってたんだけど、そうすると、指の骨と爪って一体化してないの? 指の骨と爪って、別々のものなの? なの? なの? ナノテクノロジーって何なの?
これは、「ショック! ショック! バージンショック!」だ。ずっと「魚」だと思ってたペンギンが、実は「鳥」だって知らされた時と同じくらいのバージンショックが炸裂した。ずっと「クチボソ」だと思って育ててた稚魚が、大きくなったら「ハヤ」だったって分かった時と同じくらいのバージンショックが炸裂した。今まで、33年間も「一緒」だと思ってた爪と骨が、「別々」のものだったなんて‥‥。今まで、ずっと愛し合ってた爪と骨とが、実は、仮面夫婦だったなんて‥‥。爪と骨が一緒だと思ってたあたしは、爪と骨とは愛し合ってて、切っても切れない縁で結ばれてて、骨は爪に対して、「骨まで愛して~♪」なんて甘く囁いてるもんだと思ってたのに、それが、アカの他人だったなんて‥‥。できることなら、死ぬまで知らずにいたかった‥‥。爪って何?‥‥骨って何?‥‥愛って何?‥‥なんて思うセンチメンタルな今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?(笑)
‥‥そんなワケで、俳句の題材は「何でもアリ」なので、花鳥風月などの自然から、人間の本質に迫るようなものまで、社会通念上のモラルに反しない限り、基本的には何を詠っても自由だ。だから、当然、「恋愛」もその題材のひとつで、昔から恋愛をテーマにした俳句もたくさんある。だけど、俳句は17音という短い音数のため、なかなか複雑な人間の恋愛を詠い切ることができない。それに比べて、31音もある短歌は、恋愛を詠うのに適してる詩型なので、古くは和歌の時代から、雅やかな多くの恋愛が詠われて来てる。そして、その姿も様々で、淡い恋心を詠ったものから、憎悪に満ちあふれた嫉妬の歌まで、リアルなセックスの描写から、同性愛に至るまで、あらゆる恋愛の形が詠み尽くされて来た。
で、リトル古い話でキョーシュクなんだけど、月刊「短歌」の平成11年4月号の中に「現代恋歌論」ていう特集があって、そこで、歌人の岡井隆が、「右岸の恋、左岸のエロス」っていう、とっても興味深い文章を書いてる。その中で、岡井隆は、短歌における恋歌を3つのタイプに分類してる。1つ目は、近藤芳美や中条ふみ子などに代表される「私小説風の作品」、2つ目は、俵万智や林あまりなどに代表される「架空の物語に組み込まれた作品」、そして3つ目は、この2つの枠では括れない作品、としてる。そして、この3つ目の例として、辰巳泰子の歌集、「仙川心中」を取り上げて、独自の視点から、現代短歌における恋歌を分析してる。
とりの内蔵(もつ)煮てゐてながき夕まぐれ淡き恋ゆゑ多く愉しむ 泰子
この歌に対して、岡井隆は、「淡き恋といふと王朝の和歌などを例に引きたくなるが、辰巳の歌の世界は、ずっと俗の世界で、雅(みやび)の世界を否定してゐる」と批評してる。これは、未だに「よそ行きの言葉」を使い、平安時代の雲の上の恋愛みたいな歌を書いてる現代歌人が多い中で、極めて俳句的な対象の切り取り方をしている辰巳泰子の歌に対する、最高の誉め言葉だと思う。現実のコトガラでさえも架空の夢物語のように詠って、浮世から遠ざかろうとする短歌と、植物の葉脈の1本1本まで緻密に写生して、眼前のスーパーリアリティを追求する俳句とは、正反対に位置するものだ。だけど、辰巳泰子の歌の世界は、「31音の俳句」と呼んでもいいほど、足の親指の爪を剥がされるような、現実的な痛みをともなう。
仙川にこの子投げたし殺したしされど誰にも殺させたくなし 泰子
幼い子を持つシングルマザーは、何よりも愛しいわが子が、時として自分の新しい恋愛の障害になる場合もある。「この子さえいなければ‥‥」、愛するわが子を殺して、自分も死のうと思ったことのある母親が、この世にどれほどいることだろうか。愛して愛して愛し過ぎてしまい、殺してしまいたいほどの我が子への愛。
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか) 竹下しずの女
辰巳泰子の「仙川」の歌は、この竹下しずの女の名句をホーフツとさせる秀歌だろう。あたしは、短歌は専門外なので、間違ってたら勉強不足で申し訳ないけど、一説には、短歌での恋歌には「雅の伝統」ってものがあって、どんな恋愛を題材にするのも自由だけど、必ず、雅やかに詠わなくちゃいけないっていう、バカバカしい暗黙のルールみたいなもんがあるらしい。だから、辰巳泰子の書くこれらの恋歌に対して、岡井隆の下した結論は、「(辰巳は)短歌といふ詩型の限界をこえて表現しようとしてゐる」と言うものだった。ちなみに、別の専門誌「短歌研究」の同年4月号では、歌人の藤原龍一郎が、「(辰巳の歌は)反則ぎりぎりの表現」とも発言してる。ようするに、辰巳泰子は、一歩間違えば、歌壇のライブドア、歌壇の村上ファン怒ってワケだ。辰巳泰子が、短歌の暗黙のルールである「雅の伝統」を無視してる‥‥ってワケじゃないけど、あまりにもナマナマしくて人間くさい辰巳泰子の歌に「雅」を見出せない人たちから見れば、「反則」ってことになるんだろう。
あたしは、辰巳泰子の歌はすごく好きで、「紅い花」「アトム・ハート・マザー」「仙川心中」「恐山からの手紙」の4冊の歌集を読んだけど、ヒトコトで言えば、「俳人好みの歌人」て感じがした。あたしが、短歌をやらない理由は、31音も使ってダラダラと自己主張をするって行為自体が、なんか自己顕示欲を丸出しにするみたいで、すごく恥ずかしいっていうか、すごくカッコ悪いっていうか、すごくミットモナイっていうか、そんな感じがするからだ。だけど、辰巳泰子の歌には、「あたしはこうなんだから、仕方ないでしょ? 文句ある?」みたいな、アジのヒラキ直りみたいな吹っ切れ感があって、それが、潔さや清々しさへと昇華してるのだ。
‥‥そんなワケで、話しは変わり、岡井隆が2つ目の恋歌のパターンとして名前をあげた、林あまりだけど、彼女の作品は、以前にも「きっこの日記」で紹介したことがある。恋歌というジャンルの中でも、特別な位置にあって、過激なセックスの描写が持ち味の歌人だ。
カーテンの向こうはたぶん雨だけどひばりがさえずるようなフェラチオ あまり
あたたかく入った液体 わたしからいま流れ出る あなたが寝たあと あまり
これらの恋歌が、岡井隆の言うところの「架空の物語に組み込まれた作品」なのだ。俵万智と同様に、まるで小説を書くように、頭の中に架空のシーンを思い浮かべて、それを歌にして行く。俵万智は「青春恋愛小説」、林あまりは「エロ小説」ってワケで、作品から受けるイメージは大きく違うけど、作品を生み出して行く過程は同一ってワケだ。ま、恋歌に限らず、たいていの現代歌人は、この方法で作品を作ってるワケで、ここが、俳句とは大きく違う点だ。頭の中だけで空想して、架空の作品を生み出すってのは、俳句では、もっともタブーとされている行為で、こういった方法で作られた俳句は、「左脳俳句」って呼ばれて軽蔑される。
俳句ってのは、芸術みたいな自己表現のための手段じゃなくて、「アイサツ」だ。毎年、巡って来る季節に対してのアイサツ、四季折々の自然に対してのアイサツ、愛する人に対してのアイサツ、これが俳句だから、そこにウソがあったらNGになる。自分が見たモノ、体験したコトを詠むってのが基本で、頭の中だけで想像して作った「左脳俳句」は、ニセモノの俳句として扱われる。だけど、短歌は、俳句と違って、自己表現のための手段だから、音楽や絵画と同じように、ウソをつこうが、何をしようが、何でもアリの世界なので、100%空想だけで作品を作っても、ぜんぜん問題にならない。
‥‥そんなワケで、恋愛感情ってものは、人間以外の生き物にとっては、種族保存の本能に準じたものだと思うけど、人間の場合は、とても観念的な部分が多いように思う。観念的な恋愛ってのは、心じゃなくて頭でする恋愛のことで、空想の恋愛や空想のセックス描写などを短歌に詠むことも、観念的な恋愛をバーチャルに楽しむひとつの手段なんだと思う。これは、31音もあって、何でも全てを言い切ってしまえる短歌だからこそ可能なことであって、これを俳句でやっちゃうと、俗に、「バレ句」って呼ばれてる下ネタ系の低俗なものになっちゃう。ようするに、三流週刊誌とかに載ってる「お色気川柳」に、毛が生えたみたいな下品な俳句だ。
それじゃあ、低俗なバレ句にならないような、俳句のセックス描写って、いったい、どんなものなのか。あたしは、低俗にならないような作りでセックスを感じさせる句をバレ句に対して、「エロティッ句」って呼んで区別してるので、あたしがエロティッ句に分類している著名俳人の作品をいくつか挙げてみる。
花衣ぬぐや纏(まつは)る紐いろいろ 杉田久女
春の灯や女は持たぬのどぼとけ 日野草城
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多佳子
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
かたつむりつるめば肉の食ひ入るや 永田耕衣
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 桂信子
性器より湯島神社へ碧揚羽 摂津幸彦
春はあけぼの陰(ほと)の火傷のひりひりと 辻桃子
男入れ桜の山の微熱かな 大木あまり
器から器へのびる蝶の舌 柿本多映
まだまだあげたらキリがないけど、前出の林あまりの短歌のように、直接的に人間のセックスを描写している作品はひとつもない。男性や女性の性器を詠んでいても、行為の描写にまでは至っていない。こういった形が、セックスを題材にした‥‥っていうか、セックスを感じさせる俳句の、現在での限界のように感じる。そう考えると、あたしは、初めに「俳句の題材は何を詠っても自由だ」って書いたけど、恋愛やセックスって題材は、極めて短歌向きのテーマだってことが分かると思う。
だけど、いくら俳句向きのテーマじゃないって言っても、辰巳泰子のように、俳句的な自己客観の手法まで取り入れてる歌人のいる短歌の世界と比べると、俳句の世界のいかに遅れてることか。これは、単に、「俳句って詩型が恋愛やセックスを詠うのに適していない」ってだけじゃなくて、そういった作品を忌み嫌う、俳壇の閉鎖的な体質によるところも大きいんだと思う。多くの若手俳人、とりわけ女性俳人は、日常的に恋句を詠む人も多いんだけど、そういった句が認めてもらえないことを知ってるから、自分が所属してる俳句結社の句会とかにも、投句すらしないのが現状なのだ。
‥‥そんなワケで、林あまりの歌みたいに過激なセックスの句なんか投句したら、ソッコーで破門になっちゃうような時代遅れの俳句結社も多いし、そういった閉鎖的な場所では、俳句の可能性を模索するための実験的な試みなど、とうていできるはずがない。あたしが参加している超結社(結社の枠を超えて集まる有志の句会)では、たまに、恋愛やセックスをテーマにして句会を開いたりするんだけど、俳句の新しい可能性を示唆するような、ハッとさせられる作品と出合うこともしばしばだ。だけど、それらの句の作者は、決してその句を自分の所属結社には投句したりはできないのだ。自分の所属結社以外の句会に参加してることがバレても、それだけで破門になっちゃうようなアホらしい結社もあるほどだから、超結社の句会には、あたしみたいな無所属の俳人以外は、匿名で参加してる俳人も多い。こんな現状じゃ、俳句が短歌に追いつくのは、まだまだ先のことだろう‥‥なんて思う今日この頃なのだ。
マンゴーの皮むくフレンチネイルかな きっこ
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