本物のオマージュ
世界に誇るニポンの恥、和田義彦ガハクが、誰が見ても盗作以外の何ものでもない絵に対して、「これはオマージュです」って言い張ってるけど、これぞ「恥の上塗り」だろう。そして、ワイドショーとかに出て来る自称文化人の中にも、誰からいくらもらってんだか知らないけど、あんなセクハラオヤジの肩を持っちゃって、「和田氏の作品はスギ氏への愛のオマージュです」だなんて、大爆笑の大ボケをかましたアホがいた。ま、ワイドショーなんかに呼ばれて、好き勝手なことを抜かして小銭を稼いでるようなヤツラは、芸術のゲの字も分かんないゲゲゲのゲばっかりだろうけど、この「オマージュ発言」には呆れ果てた。
で、「オマージュ」って言葉の意味が、イマイチ良く分かんないあたしとしては、一応、辞書で調べてみたんだけど、そしたら、「オマージュ」ってのはフランス語で、「尊敬、敬意、賛辞、献辞」って書いてあった。それで、芸術の分野で使う場合には、「尊敬する芸術家に対する敬意、または、その敬意を表した作品、または、その作品を進呈すること」って書かれてた‥‥ってことは、相手のスギ氏に敬意を払うどころか、自分が画家であることも隠してコッソリと丸写しして、その盗作で審査員たちを騙して賞までとった和田義彦の絵は、どう考えても「オマージュ」じゃないじゃん。コピー機でコピーしたみたいにソックリな絵が、「オマージュ」ってことで通用するんなら、中国とかで作ってる偽ブランド品は、みんな、本物のブランド品への「オマージュ」ってことにすれば、何の罪にもなんないじゃん。
ヤフーをはじめとした、ネットオークションに氾濫してる偽ブランド品の数々も、みんな、ルイヴィトンへのオマージュとして作ったソックリなバッグ、グッチへのオマージュとして作ったソックリなお財布、ロレックスへのオマージュとして作ったソックリなリストウォッチ、クリスチャンルブタンへのオマージュとして作ったソックリなパンプスってことにすれば、戸塚ヨットスクールの校長のオマージュみたいな顔をした和田義彦の理屈で言えば、何の罪にもならないってことになる今日この頃、皆さん、いかがオマージュですか?(笑)
‥‥そんなワケで、和田義彦の呆れ果てたセクハラの数々に関しては、続々と被害者からのメールが届いてるので、そのうち一挙公開する予定だけど、美味しいものはアトにとっとくとして、今日の日記では、この「オマージュ」ってものに関して、あたし的な視点から考察してみたいと思う。まず、誰もが認めてる有名なオマージュ作品の例を挙げてみると、黒澤明監督の「七人の侍」に対する、ジョン・スタージェス監督の「荒野の七人」がある。これは、世界中の映画ファンが知ってることだし、「荒野の七人」を「黒澤作品の盗作だ!」なんて言う人は1人もいないだろう。
その1つの要因は、「荒野の七人」のモトになった「七人の侍」が、すごく有名な作品だったってことだ。これが、もしも、日芸の映像学科に通ってる学生の作った無名の作品がモトだったとしたら、ジョン・スタージェス監督がそのことを述べた上で「荒野の七人」を発表しない限り、多くの人たちは「荒野の七人」がオリジナル作品だと思っただろう。つまり、「盗作」か「オマージュ」かの違いを知る1つのポイントとして、「原作の知名度」ってことが関係してると思う。だから、今回の盗作問題にしたって、和田義彦が、ダ・ヴィンチの「モナリザ」だとか、ゴッホの「ひまわり」だとか、ピカソの「ゲルニカ」だとか、誰でもが知ってるチョー有名な絵をソックリに描き写してたんだったら、何の問題にもならなかったハズだ。そんなもんで賞なんかとれるワケがないし、誰が見たって、「絵の練習のための模写」としか思われないからだ。
でも、和田義彦がやったことは、ニポンではほとんど知られてないイタリア人画家の絵を本人には内緒でソックリに丸写しして、原作については何も説明せずに、まるで自分のオリジナルであるかのように、長年に渡って、何十作も発表し続けて来たのだ。そして、その行為がバレたトタンに、最初は「同じモチーフで描いた」ってウソをつき、次には「共同制作した」ってウソをつき、スギ氏からこれらはウソだと指摘されたら、最後には「オマージュ」だって言い変えた。この流れを見れば、最初はバレないと思って盗作を繰り返してた犯罪者が、バレちゃったから苦しまぎれのイイワケをしてるってことが、今日、6月10日で、49才のお誕生日を迎えた木之内みどりにだって分かるだろうし、もしも、分かんないなんてことになったら、ダンナの竹中直人が、笑った顔で怒り出すだろう。
‥‥そんなワケで、和田義彦みたいに根性が腐ってなくても、和田義彦みたいに最初っから盗作しようと思ってなくても、俳句の場合は、誰かの句とソックリな句を詠んじゃうことがある。なんでかって言うと、俳句は、五・七・五の17音しかない上に、そこに「季語を入れる」って決まりがあるから、たとえば、「走り梅雨」とか「梅雨晴間」とかっていう5音の季語を使ったら、自分の言葉が使えるのは、残りの12音だけになるからだ。自分の使える音数が少なくなれば、それだけ、他人の句とバッティングしちゃう確率も高くなって来るから、長い季語を使えば使うほど、どっかの誰かの句と似ちゃう可能性が出て来る。たとえば、次のような句がある。
己が羽の抜けしを啣(くわ)へ羽抜鶏 高浜虚子
己が羽くわえて歩く羽抜鶏 穴井太
「羽抜鶏(はぬけどり)」ってのは、6月ころの、羽が抜け替わる時季のニワトリのことで、夏の季語だ。俳句を知らない人が見ても、この2句がすごく似てることは分かると思うけど、これは完全に「類句」と言える。だから、あとから発表した穴井太のほうの句は、先行句の中に類句があったと分かった時点で、すぐに抹消しなきゃならない。
でも、高浜虚子は、1874年に生まれて1959年に亡くなり、穴井太は、1925年に生まれて1997年に亡くなってて、もう2人とも故人になってる。だから、虚子は太に、「君の句は私の句の類句だから、すぐに抹消したまえ」とは言えないし、太は虚子に、「すみませんでした」とも言えない。それで、今でも、そのまんまになってるってワケだ。
高浜虚子に関しては、あまりにも有名だから、今さら説明の必要もないと思うけど、念のためにリトル触れとくと、「俳句」ってものを作った正岡子規の直弟子にして後継者だから、俳句をやってる人なら、虚子の名前を知らない人なんかいないし、最低でも虚子の句を100句は暗記してるのが、一般的な俳人の最低条件になる。
一方の穴井太は、九州の俳人で、横山白紅の「自鳴鐘」で俳句を覚え、のちに「天籟通信」を創刊した。句集も何冊も出してるし、大きな賞とかも受賞してるし、まあまあ知られた俳人だ。もちろん、虚子と比べたら、知名度って点じゃ月とスッポンだけど、俳句の実力で言えば、虚子よりもいい句を詠む。
だけど、この「類句」によって、穴井太はどうなったのかって言うと、自分の不勉強さを露呈しちゃったワケだ。どこの誰かも分かんないような一般の俳人の句と似ちゃったんなら、そんな相手の句なんか調べようがないし、それは交通事故みたいなもんだ。だけど、俳句をやってたら知らない人はいない、天下の高浜虚子の句とソックリな句を発表したってことは、穴井太は、「虚子の句も読んでいない不勉強者」ってことになる。つまり、絵画で言えば、ダ・ヴィンチの「モナリザ」だとか、ゴッホの「ひまわり」だとか、ピカソの「ゲルニカ」だとかと、すごく似てる作品をオリジナルとして発表しちゃったってワケで、周りからは、「こんな有名な絵も知らないで、よく画家なんかやってるな」ってふうに見られちゃうのだ。
‥‥そんなワケで、続いての2句は、どうだろう?
霧深きケルンに触るるさびしさよ 石橋辰之助
霧ふかくさびしきケルン累(かさ)ねたり 渡辺立男
「ケルン」てのは、山登りをした時に、頂上とかに積んである石のことだ。あたしは、学生の時に学校で行ったチョロい山登りしかしたことがないので、何で石を積むのか意味が分かんなかったんだけど、歳時記には、「道しるべのために積む」って書かれてた。それで、「登山」が夏の季語なので、それに準じる形で、「ケルン」も夏の季語になってる。だけど、「霧」は秋の季語だから、これらの句は「季重ね」ってワケだ。
で、この2句は、「霧が深い」「ケルン」「さびしい」って部分が同じだから、ケルンに「触れた」と「重ねた」の違いはあるけど、読み手に見えて来る景はほとんど同じだし、「類句」って言われても文句は言えないだろう。その上、もっと重要なポイントがある。実は、この2人の俳人は、「馬酔木(あしび)」って言う有名な俳句結社の先輩と後輩なのだ。つまり、同門てワケで、先輩の石橋辰之助の句は、昭和15年に発行された「家」って言う句集に収められてるんだけど、当然、後輩の渡辺立男は、この先輩の句集を読んでるし、このケルンの句を知ってたのだ。
そして、先輩の石橋辰之助は、昭和23年に、40才の若さで急死したんだけど、それから40年以上も過ぎた平成4年に、後輩の渡辺立男は、自分の俳句人生の集大成として、自費出版の句集、「薄雪草」を発行した。そして、その「薄雪草」の中に収められてるのが、このケルンの句なのだ。だから、渡辺立男の句のほうが、あとから発表されたことは当然な上に、渡辺立男は、石橋辰之助のケルンの句を知ってた上で自分の句を発表したのだ。だから、渡辺立男のケルンの句を「類句」と判断するんであれば、それは、先行句の存在を知らずに、偶然に似たような句を発表しちゃった「類句」じゃなくて、先行句の存在を知りながら発表した「盗作」ってことになる。
だけど、そうじゃないんだな、これが。これほど似てる句だし、さらには、あとから発表した渡辺立男は、先に発表した石橋辰之助の句を良く知ってたのにも関わらず、これは、「類句」でもなければ、ましてや「盗作」なんてトンデモナイのだ。それどころか、ホントに素晴らしい作品であって、高く評価されるべき句なのだ。なんでかって言うと、これこそが、「本物のオマージュ」だからだ。
俳句には、色んなジャンルがあるんだけど、山登りが大好きだった石橋辰之助は、「近代山岳俳句」の開拓者だった。それまでの「山の俳句」って言うと、お年寄りでものんびりと登れるような、「登山」ってよりは「山歩き」って感じの俳句ばっかだった。だけど、石橋辰之助は、それまでの俳人とはまったく違って、ピッケルやザイルなどの本格的な装備で、険しい断崖とかを登って行くような登山家だった。だから、それまでの、俳人の目から見た「山の俳句」とは一線を画してて、登山家の目から見た本物の「山の俳句」を詠んで行った。そのリアリティは、昭和初期のニポンでは、ものすごく新鮮で、刺激的だったのだ。句集も、「山行」「山岳画」「山暦」と、次々に発行して行った。
そして、同じように、「俳人の山歩き」よりも「本格的な近代登山」が大好きだった渡辺立男は、石橋辰之助のいた「馬酔木」に入会したってワケだ。だから、渡辺立男にとって、石橋辰之助は、俳句の先輩ってだけじゃなくて、近代登山の先輩でもあり、人生の先輩でもあり、心からリスペクトしてる存在だったのだ。
だけど、石橋辰之助は、昭和12年になると、普通の俳句に疑問を持つようになって、「馬酔木」を辞めちゃう。そして、当時、流行ってた新興俳句運動に参加して、翌13年には、「京大俳句」に参加する。この辺のことは、2005年8月18日の日記、「京大俳句事件」を読んでもらえれば詳しく書いてあるけど、昭和15年に、何も悪いことをしてないのに、政府の言論弾圧の一環として、トッコー警察に逮捕されちゃう。そして、ノミやシラミだらけのブタ箱に入れられて、長いこと酷い拷問を受け続けた。だから、やっと釈放された時には、劣悪な状況下にずっと拘束されてたセイで、体はボロボロになっちゃって、昭和23年8月21日、急性結核で、東京杉並河北病院にて死亡した。素晴らしい才能を持ってた俳人が、わずか40才という若さで、政府によって殺されたのだ。
‥‥そんなワケで、結社は別々になっても、ずっと石橋辰之助のことを尊敬してた渡辺立男は、自分の大好きだった石橋辰之助のケルンの句に対して、追悼句を詠んだのだ‥‥てなワケで、ここで、もう一度、2人の句をじっくりと噛みしめながら読んでみて欲しい。
霧深きケルンに触るるさびしさよ 石橋辰之助
霧ふかくさびしきケルン累ねたり 渡辺立男
最初に読んだ時とは、ずいぶん印象が変わったと思う。それで、あたしは、渡辺立男が重ねたケルンは、石橋辰之助の魂へのケルンであり、この句は、石橋辰之助への鎮魂歌なんじゃないかって思ったのだ。なんでそう思ったのかって言うと、こんな歌があるからだ。
「いつかある日」
原詩 ロジェ・デュプロ 訳詞 深田久弥 作曲 西前四郎
1.いつかある日 山で死んだら
古い山の友よ 伝えてくれ
2.母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には
3.伝えてくれ いとしい妻に
俺が帰らなくても 生きて行けと
4.息子達に 俺の踏み跡が
故郷の岩山に 残っていると
5.友よ山に 小さなケルンを
積んで墓にしてくれ ピッケル立てて
6.俺のケルン 美しいフェースに
朝の陽が輝く 広いテラス
7.友に贈る 俺のハンマー
ピトンの歌声を 聞かせてくれ
ちなみに、この原詩を書いたフランス人の登山家、ロジェ・デュプロは、1951年に、ヒマラヤのナンダデビィ峰(7816m)で消息を絶ち、帰らぬ人となった。享年30才だった。また、訳詩の深田久弥(きゅうや)も登山家で、「日本百名山」で読売文学賞を受賞し、日本山岳会の副会長に就任したんだけど、1971年に、茅ヶ岳の登山中に脳卒中で亡くなった。そして、作曲の西前四郎も、今は故人だけど、世界的な登山家として有名な人だった。つまり、この歌に関わってる人は、すべて、本物の登山家なのだ。
ロジェ・デュプロが書いた原詩は、もっと長いものなんだけど、サスガ、登山家同士ってことで、要点を絞ってすごく良くマトメてあると思う。5番の部分は、原詩を直訳すると、「(俺が山で死んだら)俺の仲間よ、俺のピッケルを拾ってくれ。こいつが恥辱の中で朽ち果てて行くのは、俺には耐えられないんだ。どこか美しい斜面に持って行って、こいつのために、特別に小さなケルンを積んでくれ。そして、そのケルンのてっぺんに、このピッケルを刺してやって欲しい。」って書いてある。これだけの長さのものを「(俺が山で死んだら)友よ、山に小さなケルンを積んで墓にしてくれ、ピッケル立てて」ってマトメてるんだから、ワンダホーな仕事だと思う。
‥‥そんなワケで、ここまで書いて来て、今さら言うのもナンだけど、この「いつかある日」って歌は、昭和33年ころに「女性自身」に紹介されて有名になったそうだ。だから、人々に歌われるようになったのは、石橋辰之助の没後であって、たとえ、石橋辰之助と渡辺立男が一緒に山登りをしてたとしても、この歌は歌ってないのだ。だけど、少なくとも、渡辺立男は、のちにこの歌を知ることになるし、他のメンバーとの登山で、何度も歌ったことだろう。そして、この歌を歌うたびに、石橋辰之助のことを思い出してたに違いない。そう考えると、渡辺立男の句の「ケルンを重ねる」という描写は、歳時記に載ってるような「道しるべ」としての意味じゃなくて、この歌のように、「友の墓標」としての意味なんだって思う。これが、あたしが、「これこそが、本物のオマージュだ」って言った理由であって、こういった本物を知ったら、和田義彦のようなペテン画家が、私利私欲のために他人の作品を盗作し続けて来たものなど、口が裂けても「オマージュ」だなんて呼べないと思う今日この頃なのだ。
★ 今日も最後まで読んでくれてありがと~♪
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