紫陽花の道
東京も、そろそろ梅雨入りっぽいので、去年の梅雨入りは何日だったのか、日記のバックナンバーを見てみたら、2005年6月10日の日記、「茶碗蒸しな日々」が、 「東京は、今日、梅雨入りした。」っていう文章でスタートしてた。だから、温暖化だとか何だとか色々と言われてるけど、とりあえず、ちょうど1年で、また梅雨が巡って来たってワケで、これほど人間がメチャクチャにしてんのに、地球って偉いなあって思った。そう考えると、ジメジメした梅雨に対して、単純に「ウットウシイ」って思うんじゃなくて、なんか、ありがたいような、嬉しいような気持ちになって来ると思うんだけど、どうだろう?
子供のころって、梅雨に限らず、雨の日が、そんなにイヤじゃなかった。もちろん、遠足の日とか運動会の日は晴れて欲しかったけど、それ以外の普通の日は、雨が降ってもイヤじゃなかった。特に、新しい長靴とか傘とかを買ってもらった時なんか、早く雨の日にならないか待ち遠しかったし、新しい長靴があるのに、何日もずっと雨が降らないと、わざわざホースで水を撒いて、わざわざ水たまりを作って、そこを長靴でビチャビチャと歩いてみたりしたほどだ。
でも、大人になるに従って、だんだんに雨の日が嫌いになって来るのが、ワリと一般的だと思う。それは、通勤が大変になったり、髪のセットが決まらなくなったりと、色々とメンドクサイコトが増えるからだ。だけど、あたしの場合は、ずっと子供のころのままで、今でも、雨の日は雨を楽しんでる。なんでかって言うと、中学2年生の時から、俳句を始めたからだ。俳句をやってると、俳句的視点てものが備わって来て、色んなモノやコトを客観的に見られるようになって来る。「雨の日はイヤだ」ってのは、自分の主観によるものだから、客観的な視点でモノゴトを見られるようになると、晴れの日も雨の日も、同じように受け入れられるようになる。だから、あたしは、雨の日には雨の日にしか味わえない楽しみがあるし、梅雨には梅雨にしか味わえない楽しみがある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしには、梅雨の楽しみが色々とあるんだけど、その中のひとつに、「紫陽花(あじさい)」がある。紫陽花は、野山へ出かけなくても、住宅街のあちこちで普通に見ることができるから、通勤やお買い物の途中でも、ボケーッと見ることができる。同じ紫陽花なのに、あっちのお家の庭の紫陽花と、こっちの植え込みの紫陽花とで色が違うから、それぞれを楽しむことができる。あたしは、駅のすぐ裏手に住んでるから、駅まで最短距離で歩けばアッと言う間だけど、30分ほど早く出て、傘をさしながらのんびりと遠回りして、あちこちの紫陽花を見てから、駅に行くこともある。
こういう楽しみ方ができるのは、それぞれの紫陽花の色が違うからだ。どこの紫陽花も、ぜんぶおんなじ色だったら、そんなに何ヶ所も見ても意味は無いし、一番良く咲いてるとこだけ見れば十分だ。で、何で同じ紫陽花なのに、色が違うのかって言うと、ひと昔前までは、その紫陽花の生えてる土の酸性度によって、花の色が変わるって言われてた。もうちょっと詳しく説明すると、紫陽花の花は、土が酸性だとブルーとか藍色になって、土がアルカリ性だとピンクとか赤っぽくなるって言われてた。それで、紫陽花は、そこの土の酸性度を知るための「指標植物」ってされてた。
だけど、リトマス紙じゃあるまいし、そんなに都合良く色が変わるのはヘンだし、まったく同じ酸性度の土でも、別の色の紫陽花が咲いてる場所もいっぽいあるから、この説にはツジツマの合わない点もあった。それで、今では、この説はガセビアっぽく思われてて、最新の説では、土の中の鉄分とかが関わってるって言われてる。ま、あたしは、化学的なことはぜんぜん分かんないから、「原因」はどうでもいい。あたしにとって重要なのは、おんなじ紫陽花なのに、キレイなブルーのもあれば、ピンクのもあれば、ムラサキのもあれば、それぞれの混ざったようなのもあれば‥‥って言う、「結果」のほうなのだ。
同じ花なのに、咲いてる場所によって色が違うってだけでもワンダホーなのに、さらに、ひとつの紫陽花の色も、日にちが経つにつれて、だんだんと変化して行く。これが、紫陽花の別名が「七変化(しちへんげ)」って呼ばれてるユエンなんだけど、なんてったってアイドルだったヤマトナデシコのキョンキョンが、今や、年下のジャニタレを食っちゃうような魔性の熟女に七変化しちゃったのは、体内の鉄分が不足してたからかも知れない‥‥なんてことも言ってみつつ、同じ場所の紫陽花が、日にちによって色が変化して行くんだから、毎日、同じ道で通勤してても、その変化を楽しめるってスンポーだ。
‥‥そんなワケで、紫陽花は、晴れてる日に見るよりも、雨の日に見たほうが、うんとキレイに見える。雨に濡れた紫陽花は、とってもイキイキしてて、晴れの日よりも元気に見える。それに、色も深みを増して、特に、あたしの好きなブルーの紫陽花は、ずっと見てると、吸い込まれそうな気持ちになって来る。だから、オシャレなブランド傘をさしたスタイルのいい女性が、ブルーの紫陽花の前に佇んでたら、それは、きっと、あたしだ(笑)
でも、こんなに美しい紫陽花なのに、万葉集には、たったの2首しか詠まれてない。万葉集には、ぜんぶで4500以上もの歌が収められてて、そのうちの1700以上に植物名が詠み込まれてるんだけど、紫陽花の歌は、大伴家持(おおとものやかもち)と橘諸兄(たちばなのもろえ)の、たった2首しかない。その上、平安時代になると、サッパリ詠まれなくなる。古今集から新古今集までの八代集の中には、紫陽花を詠んだ和歌は、ぜんぜん見当たらないのだ。
だから、この時代の紫陽花は、今みたいにキレイな紫陽花じゃなくて、ジミな「ガクアジサイ」か「ヤマアジサイ」だったんじゃないかって言われてる。植物の専門書とかにも、「万葉の時代には、原種のガクアジサイとヤマアジサイしかなく、その後、観賞用に品種改良されて、現在のアジサイへと変化して行った」って書いてある。だけど、これは、リトル怪しい。だって、万葉集に載ってるのは、次の2首なのだ。
言問はぬ木すら味狭藍(あじさい)諸茅(もろち)等が練(ねり)の村戸にあざむかえけり 大伴家持
この歌は、大伴家持が、大好きだった女性、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った、5首ワンセットの歌の中のひとつだ。「諸茅」ってのは、正確には分からないけど、色か形が変化する植物だって解釈されてる。それから、「練の村戸」ってのは、「良く練られた心」「すごく計算高い心」って感じの意味だ。だから、「言葉をしゃべらない木でさえも、色の変化する紫陽花や諸茅などの、計算高い心を持った植物に欺かれることがあります」って意味で、ようするに、これを踏まえた上で、大好きな坂上大嬢に、「植物でさえ、そうなんだから、ましてや人間であるボクは、変わりやすい貴女の心に惑わされちゃてますよ」ってことを伝えてるのだ。平たく言えば、「貴女は、色が変化して行く紫陽花よりも、ボクの心を惑わせる」ってことで、結局、大伴家持は、この坂上大嬢を正妻に迎えることになったんだから、「大伴家持、グッジョブ!」って感じだ(笑)
安治佐為(あじさい)の八重咲く如く弥(や)つ代(よ)にもいませわが背子(せこ)見つつ偲ばむ 橘諸兄
「弥つ代」ってのは「八千代」、つまり、「すんごく長い間」って意味だ。だから、単純に訳せば、「紫陽花が美しく八重に咲き続けるように、あなたも、ずっと元気でいてください。私は、紫陽花を見るたびに、あなたのことを思い出しますね」って感じだ。だけど、「背子」ってのは、「夫子」とか「兄子」とか表記することもあるんだけど、基本的には、女性が、自分のダンナとか恋人とか兄弟とかの「愛する男性」を呼ぶ時の言葉だ。あとは、男性が親しい男性を呼ぶ時にも使われることがあるんだけど、橘諸兄は、KABAちゃんとか前田健とか織田裕二とかとは違って、奥さんも子供もいる普通の男性だ。
じゃあなんで、橘諸兄は、こんな、女性が恋人に贈るラブレターみたいな歌を詠んだのかって言うと、これには、深い政治的背景があるのだ。この歌は、天平勝宝7年の5月に、当時の左大臣だった橘諸兄が、自分の部下の丹比国人(たじひのくにひと)の屋敷に招かれて、そこでの宴会で詠んだものだ。左大臣て言えば、当時の最高権力者だから、今のニポンで言えば、コイズミってことになる。そして、この丹比国人てのは、次の左大臣のイスを狙ってるコバンザメみたいなもんだから、安倍晋三ってことになる。
だけど、この時代は、今のニポンと違って、自民党の完全独裁じゃなくて、ソコソコ野党も力を持っていた。それで、今で言うところの小沢一郎、つまり、右大臣の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、何とか橘諸兄に代わって政治の実権を握ろうと、裏で色々と根回しをしてたのだ。その動きを知ってた橘諸兄は、自分の後継者である丹比国人に対して、この歌を贈った。つまり、表向きは恋人に贈るラブレターみたいだけど、その裏には、「色が変化して行く紫陽花のように、政治の世界も常に変化し続けています。ちょっと油断をすると、すぐに寝首をかかれてしまうから、くれぐれも気をつけてくださいよ」って意味を込めてるのだ。自分の任期が残り少なくなったら、これほどニポン中がメチャクチャな状態だってのに、ぜんぶホッポリ出して、連日、旅行気分でアチコチを遊び回ってるコイズミと比べれば、当時の最高権力者が、どれほど責任感のある人物だったのかが、良く分かると思う。
‥‥そんなワケで、この橘諸兄の歌で、もうひとつ注目する点がある。それは、「八重咲く」って部分だ。最初に、万葉集には、紫陽花を詠んだ歌が2首しかないし、そのあとも長いこと詠まれてないから、この時代の紫陽花は、今みたいなキレイな紫陽花じゃなくて、ジミな「ガクアジサイ」か「ヤマアジサイ」だったんじゃないかって説があるって書いた。そして、その説は、植物の専門書にも書いてあるって言った。だけど、コレが問題なのだ。「ガクアジサイ」も「ヤマアジサイ」も、花弁は4枚で、だからこそジミなのだ。そして、今の紫陽花が美しいのは、「八重咲き」だからなのだ。こんなに「なのだ」を連発しちゃうと、また、バカボンのパパに憑依されちゃいそうだけど、とにかく、この歌から分かることは、平安時代よりも前の万葉の時代に、丹比国人の屋敷の庭には、二羽ニワトリがいた‥‥じゃなくて、八重咲きの紫陽花が咲いてたってワケだ。
だから、今の紫陽花とまったく同じとは言えないけど、少なくとも、専門書に書かれてる「ガクアジサイ」と「ヤマアジサイ」の他に、八重咲きの紫陽花が存在してたってワケだ。それが、観賞用に品種改良されたものなのか、突然変異したものなのか、突然確変で連チャンが始まったものなのかは分かんないけど、とにかく、「ガクアジサイ」や「ヤマアジサイ」よりはハデな紫陽花があったワケで、それなのに、このあとの平安時代になると、紫陽花の歌はパッタリと消えちゃう。つまり、歌に詠まれなくなったのは、「ジミな紫陽花しかなかったから」って理由じゃなくて、何か別の理由があったんだと思う。たとえば、「色が変化する紫陽花は不吉な花だ」ってウワサが流れたとか‥‥。ま、コレばっかりは、サスガの迷探偵キッコナンでも調べようがないし、ホントのとこは、のび太の机の引き出しを開けて、ドラえもんのタイムマシンに乗って、平安時代に行って、実際に見てみないと何とも言えないけどね。で、平安時代に入ったら、歌の世界から姿を消しちゃった紫陽花だけど、平安時代の後期ころからは、またポツポツと詠まれるようになって来た。
あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな 源俊頼 (散木奇歌集)
夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり 藤原俊成 (千五百番歌合)
あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る 藤原定家
でも、これは、どれも「よひら」、つまり、花弁が4枚の紫陽花だから、「ガクアジサイ」か「ヤマアジサイ」ってことで、丹比国人の屋敷の庭にあったような八重咲きの紫陽花じゃない。それに、これだけシツコク、みんなが「よひら」「よひら」って詠んでるのは、「よひら」の「よひ」を「宵」にカケてるワケで、和歌特有の言葉遊びとしての意味が強いのだ。だから、ホントの意味で、紫陽花って花を詠むようになるのは、江戸時代になり、俳諧が生まれてからってことになる。
‥‥そんなワケで、ニポンに古来から自生してた紫陽花だけど、今やたくさんの品種が作られて、ジメジメした梅雨の時季に、人々の目を楽しませてくれるようになった。だけど、中には、外国へと輸出されて、外国で品種改良されて、それが逆輸入されたものもある。誰でも名前くらいは聞いたことがあると思うけど、江戸時代の終わりころに、長崎に来てた、シーボルトって人がいる。この人は、「オランダ東インド会社」っていう貿易会社の専属医師として、ニポンに来ていたドイツ人なんだけど、ここだけ読むと、オランダ人なんだかインド人なんだかドイツ人なんだか分かんなくなりそうだ。
で、当時のニポンは鎖国してたんだけど、このシーボルトは優れた眼科医だったので、特別扱いを受けてて、ワリと自由に出歩くことができた。それで、ニポンの植物に興味を持ったシーボルトは、自分の国にはないニポンの植物を何種類も採取したり分類したりして、帰国する時に持って帰った。それで、その中に、ニポンのブルーの紫陽花も入ってて、それが、ヨーロッパで品種改良されて、濃い赤の「西洋アジサイ」になって、ニポンに逆輸入されたのだ。
シーボルトは、仲間と一緒に、自分たちの調べたニポンの植物をマトメて、「フローラ・ヤポニカ(日本の花)」って言う本を出したんだけど、その中に、ニポンの在来種のブルーの紫陽花も入ってるのだ。それで、その本の中では、ニポンの紫陽花は、「Hydrangea Otaksa(ハイドランジェ・オタクサ)」って命名されてる。「ハイドランジェ」ってのは、「水の容器」とか「水の壺」って意味なんだけど、あとの「オタクサ」ってのが、トンデモナイとこから来てる名前で、シーボルトの愛人の名前なのだ。シーボルトには、当然、自分の国に奥さんがいたんだけど、長いことニポンにいるうちに、長崎の出島にあった遊郭(ゆうかく)に通うようになっちゃって、そこで、まだ17才だったソープ嬢、楠本滝、通称「お滝さん」のことを好きになっちゃう。それで、足しげく通いつめた挙句に、その遊郭に大金を払って、お滝さんを身請けして、ニポンでの現地妻として、一緒に暮らすようになっちゃった。やるねえ、シーボルト!
つまり、ニポンの植物だけじゃなく、ニポンの女性にも目がなかったシーボルトは、ニポンの花の中で一番気に入ってた紫陽花に、溺愛してた現地妻、「お滝さん」の名前をつけることにしたんだけど、「オタキサン」が訛って「オタクサ」になったってワケなのだ。だけど、中学の時の歴史でも、高校の時の日本史でも習ったと思うけど、文政11年(1828年)に、例の「シーボルト事件」が起こって‥‥って、「例の」なんて言われても覚えてないって? シーボルトが、国外に持ち出すことを禁止されてた、ニポンの地図とか、北海道の地図とかを持ち出そうとしたのがバレちゃって、ニポンの関係者は死刑になっちゃうし、シーボルトは国外追放とかになっちゃったアレだよ。
でも、コレって、表向きはシーボルトを悪者にしてたけど、実際のとこは、コイズミ自民党が強行に推し進めてる「共謀罪」とおんなじで、独裁者による単なる「弾圧」だったんだよね。結局、30年後の安政5年(1858年)に、ニポンとオランダとの「日蘭通商条約」の締結で、シーボルトの追放は解かれて、翌年にはソッコーでニポンにやって来て、幕府の外交顧問になったとさ、めでたし、めでたし‥‥ってワケで、ナニゲに読んでるだけで、リトル勉強にもなっちゃう「きっこの日記」は、来年から、中学の教科書に使われる‥‥ワケがない(笑)
‥‥そんなワケで、ジメジメした梅雨をウットウシク思うよりも、梅雨の時季だからこそ美しくなる紫陽花を愛でてみれば、雨の日の通学や通勤も楽しくなることウケアイだ。何も見ないで早足に駅へ急ぐんじゃなくて、ホンのちょっと早く出て、そのぶん、ゆっくりと、周りを見ながら歩いてみると、「え?こんなとこに紫陽花が咲いてたの?」なんてことに気づくハズだ。そして、毎日、同じ紫陽花を見てると、だんだんに色が変わって行くのが分かる。そんな小さな発見が、日々の楽しみになり、そのうち、雨の日曜日にも、傘をさして、わざわざその紫陽花を見に行くようになったりする。あたしは、雨の日のお散歩も、ケッコー楽しいと思う今日この頃なのだ。
町内の紫陽花ひととほり巡る きっこ
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