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2006.08.07

原爆の日

61年前の今日、昭和20年8月6日、午前8時15分、広島に原爆を落とされた。エノラ・ゲイ(B29)から落とされたリトル・ボーイ(原爆)は、現在の原爆ドームの上空、約600m地点で爆発し、半径2kmの建物をすべて破壊し、14万人の罪もない人たちを焼き殺した。そして、その後の放射能被害による死者も入れると、20万人以上の人たちが殺された。たった1発の爆弾が、20万人以上の人たちの命を奪ったのだ。

そして、3日後の8月9日、午前11時2分には、今度は長崎に原爆を落とされた。ボックス・カー(B29)から落とされたファット・マン(原爆)は、広島に落とされたウラン爆弾よりも強力な、プルトニウム爆弾だった。しかし、平地だった広島と違って、谷になっている長崎は、地形的に爆風が広範囲には広がらなかった。それでも、7万人もの人たちが殺され、その後の死者も入れると、15万人もの人たちが殺されたのだ。そして、もしも、長崎が広島と同じような平地だったら、この4倍から5倍の人が殺されていたと言われている。

だけど、こんなことを言うと怒られるかも知れないけど、戦争を体験してないあたしは、こういう話を聞いても、海の向こうの戦争の話を聞いてるようで、ピンと来ない部分もあった。15万人が殺された、20万人が殺されたって言われても、想像を絶する数字だし、実感が湧かなかった。たとえば、戦争を体験してなくても、広島や長崎に生まれてて、自分の親や親戚とかに原爆の被害者がいたりすれば、子供のころから原爆ってものをもっと深く考えさせられてたと思うんだけど、あたしにとっての原爆は、子供のころに学校で最低限のことだけを習っただけだで、ハッキリ言うと、よその国の出来事みたいに感じてた。

それとは逆は、あたしは、両親ともに何代も前から東京なので、原爆を落とされたのと同じ年の、3月10日と5月25日の「東京大空襲」のことは、おばあちゃんから何度か聞かされてた。おばあちゃんのダンナさん、つまり、あたしのおじいちゃんなんだけど、その人は、戦争でナントカ島へ行かされて、そこで殺されたそうだ。だから、おばあちゃんは、結婚して、あたしの母さんを産んで、それから何年もしないうちに、大切なダンナさんを国に殺されたのだ。それから、おばあちゃんは、ものすごい苦労をして、女手ひとつで、あたしの母さんを育てた。

ちなみに、東京大空襲では、あまりにも東京中がメチャクチャにされて、数え切れないほどの人たちが殺されたから、未だに正確な死亡者数は分かってないんだけど、ものすごくアバウトなとこで、「7万人から10万人」て言われてる。だから、長崎の原爆と同じくらい数の人たちが殺されてるのだ。

これは、あたしの想像だから、間違ってたら申し訳ないんだけど、広島や長崎の人たちは、「東京大空襲」って聞いても、ピンと来ないんじゃないかって思う。広島や長崎の人たちにとったら、戦争って言えば原爆だと思うし、「東京大空襲」ってのがあったことくらいは知ってても、実感を持ったイメージは無いと思う。だけど、あたしは、戦争は体験してないけど、自分のおばあちゃんが、幼い母さんを抱き抱えて東京大空襲の中を逃げまわった話を聞いてるし、おじいちゃんも戦争で殺されてるから、遠い地域に落とされた原爆のことよりも、東京大空襲のほうに実感がある。

なんか、変な書き方をしちゃったけど、あたしが言いたかったことは、たった1人でも、自分の肉親や知り合いが被害に遭ってると、その事件をすごく身近に感じるけど、そうじゃない場合には、どんなに多くの人たちが被害に遭ってても、「大変だったんだな」とか、「ものすごく悲惨だったんだな」とは思うけど、実感が湧かなくてピンと来ないってことだ。たとえば、インドで満員のバスが谷に落ちて50人亡くなったってニュースを聞けば、大変なことだと思うし、亡くなった人たちやその家族は気の毒だと思うけど、それだけで終わっちゃう。だけど、家の近くで、新聞にも載らないような小さな交通事故があったとしても、その被害者があたしの肉親や知り合いだったら、あたしにとっては、インドのバスの事故よりも、こっちのほうが大きな事件になる。

だから、知り合いじゃない人の話でも、実際にその被害に遭った人の話を具体的に聞いたりすると、その事件がグッと身近に感じられるようになる。たとえば、これは「人」じゃないけど、上野動物園のゾウの花子の話がある。有名だから、ほとんどの人が知ってると思うけど、第二次世界大戦中に、逃げ出したら危険だって理由で、花子は餓死させられることになった。それで、花子は、最後まで、エサをもらおうと思って芸を続けたって話だ。これが、「一杯のかけそば」みたいなデタラメな話だったら、感動するどころかウサン臭いだけだけど、花子は実在したゾウだし、この話も本当にあった話だから、多くの人の涙を誘うし、戦争の悲惨さを伝える役割をしてる。

‥‥そんなワケで、広島や長崎の原爆に対して、子供のころは、東京大空襲ほどは深く感じられなかったあたしが、今じゃ同じように感じられるようになったのは、長崎のある俳人のことを知ってからだ。それで、昔のあたしと同じように、広島や長崎の原爆のことを聞かされてもピンと来ない人のために、その俳人を紹介しようと思う。「俳人」ていっても、種田山頭火や尾崎放哉(ほうさい)と同じで、五七五の定型や季語にはとらわれない「自由律俳句」の俳人なので、細かいことを言うと、俳人とは呼べない。だけど、この点に関して、あたしの見解を書き始めると、それだけで終わっちゃうから、それはまた別の機会ってことで、今日は、俳人として紹介する。

その人は、「松尾あつゆき」という俳人で、明治37年(1904年)に、長崎県北松浦郡に生まれた。地元の高校を卒業後、商業学校の教員になり、その数年後、自由律俳句の大家、荻原井泉水(せいせんすい)を師事して、自由律俳句にのめり込む。種田山頭火や尾崎放哉は先輩で、山頭火が長崎を訪れた時には、あつゆきが長崎を案内をしてる。その後、あつゆきは、結婚して、4人の子をもうけて幸せに暮らしていたんだけど、戦争が始まったため、教員を辞めて、長崎の食料営団に勤務するようになる。そして、昭和20年8月9日を迎えた‥‥。


 「原爆句抄」    松尾あつゆき

 
 八月九日 長崎の原子爆弾の日。
 我家に帰り着きたるは深更なり。
 
 「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」

 
 十日 路傍に妻とニ児を発見す。
 重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。

 「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」

 「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」

 「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」

 
 長男ついに壕中に死す(中学一年)。

 「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」

 「母のそばまではうでてわろうてこときれて」

 「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」

 「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」

 
 十一日 みずから木を組みて子を焼く。

 「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」

 「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」

 
 十二日 早暁骨を拾う。
 
 「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」

 「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」

 
 十三日 妻死す(三十六歳)。

 「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」

 
 十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。

 「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」

 「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」

 「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」


‥‥そんなワケで、この作品を読んで、涙しない者はいないだろう。母親は、自分も全身が焼けただれていて重症なのに、死にかけている我が子の口に、木の枝をくわえさせ、「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられない‥‥。そして、先に逝った4才と1才の子のあとに、中学1年の長男が、お堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのだ。

その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、ガレキの中で、3人の我が子を焼いた。「とんぼう」ってのは「トンボ」のことなんだけど、3人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのだ。だって、それまでは、ハエばかりがたかってたんだから‥‥。昨日まで元気だった自分の子供たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸にハエがたかっているなんて、親として耐えられるだろうか。だからこそ、この1匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったんだと思う。そして、次の日の朝早く、子供たちの骨を拾った。たった7ヶ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるだろうか。

これだけでも、あたしだったら、発狂しそうなほどの苦しみなのに、次の日には、奥さんが亡くなった。そして、その奥さんを焼いた日に、戦争が終わった。「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」‥‥なんという悲しみだろう。なんという苦しみだろう。これが、戦争なんだ。これが、未だに、世界のあちこちで繰り広げられてる戦争ってもんなんだ。これは、たったひとりの松尾あつゆきという俳人の話であって、これと同じ思いをした人が、何万人も、何十万人もいたのだ。たった1発の原爆のせいで‥‥。


 八月灼け六日九日原爆落つ   山崎秋穂

 照り返す白紙まぶしき原爆忌   井畑有香

 広島忌声あげてゐる影絵たち   小泉八重子

 ビル影は地に貼りつきて原爆忌   大東晶子

 聴診器胸に祈れり原爆忌   水原春郎

 起きぬけの喉の渇きや原爆忌   山口ひろ女

 米粒の残る茶碗や原爆忌   山内淳一

 原爆の日の拡声器沖へ向く   西東三鬼(さんき)

 年輪の歪に曲がる原爆忌   木村聡

 原爆忌人は孤ならず地に祈る  飯田蛇笏(だこつ)

 死者の数炎の中や原爆忌   清水昶(あきら)

 原爆図中口あくわれも口あく寒(かん)   加藤楸邨(しゅうそん)

 廃線の枕木を踏む原爆忌   松原英明

 八月広島もちの木はふと暗し   友岡子郷(しきょう)

 原爆の地に直立のアマリリス   横山白虹

 原爆忌乾けば棘をもつタオル   横山房子

 わが齢傘寿となりぬ原爆忌   町田しげき

 木を擦りて火を出すあそび原爆忌   長谷川双魚(そうぎょ)

 折れやすき青のクレヨン原爆忌   黒沢久美

 原爆の日の洗面に顔浸けて   平畑静塔(せいとう)

 あさがほのはつのつぼみや原爆忌   久保田万太郎

 今日の鉦少し重たく原爆忌   福田大日之(たいし)

 どの蟻も同じ貌して原爆忌   河野南畦(なんけい)

 ビー玉の落ちて弾みし原爆忌   木峯子

 手がありて鉄棒つかむ原爆忌   奥坂まや

 両の手に拳二つや原爆忌   山崎ひさを

 原爆の日の病む手足洗ひをり   石川桂郎

 ヒロシマ忌泳ぎし素足地を濡らす   鈴木六林男(むりお)

 暑くともなほ暑くとも原爆忌   山田みづえ

 キャラメルの赤き帯封原爆忌   吉村明

 原爆地子がかげろふに消えゆけり   石原八束(やつか)

 糊利いて平らなる褥ヒロシマ忌   澁谷道

 原爆忌老女も靴を履くあはれ   殿村菟絲子(としこ)

 原爆忌市電無数の手を吊りて   今井勲

 川に無数の幽霊の手や原爆忌   田川飛旅子(ひりょし)

 原爆忌生きて自愛の卵割る   中村孝一

 二つ目の原爆の日も過ぎにけり   三橋敏雄

 雀の巣あるらし原爆ドームのなか   沢木欣一

 原爆ドーム仔雀くぐり抜けにけり   草間時彦

 人も蟻も雀も犬も原爆忌   藤松遊子

 原爆の日や白茶けし雀ゐて   森田公司

 噴水は水の花束広島忌   杉田久美子

 満々と今日の河あり原爆忌   板津尭

 原爆忌割れば卵の黄味ふたつ   松本三千夫

 夾竹桃炎ゆ広島も長崎も   関口比良男

 抱きあげて猫の肋や原爆忌   きっこ


‥‥そんなワケで、今日は、話題が話題だから、サスガに「~今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?」のフレーズは使わなかったけど、どうしても文章のリズムがとれないので、「‥‥そんなワケで」だけは使わせてもらった。だけど、こんな文章でも、あたしなりに、エリを正して書いたつもりだ。そして、今回の松尾あつゆきの作品を読んで、少しでも、広島や長崎に落とされた原爆の恐ろしさや、その悲惨さを感じてくれた人のために、ヨケイなことは書かずに、原爆に関する俳句を挙げてみた。あたしの日記は長文を売り物にしてるけど、ダラダラと長く書くよりも、たった17音の俳句のほうが、思いを伝えられることもあるからだ。それから、最後に、以前も一度、紹介したことのある「戦争を語り継ぐ60年目の証言」というサイトを紹介する。多くの戦争体験者たちのナマの声を聞くと、心の底から、「二度と戦争という過ちを犯してはいけない」っていう気持ちになる。特に、長崎の寺田修一さんの被爆体験記、「枯れない涙」は、ぜひ読んで欲しいと思う。 


 ★戦争を語り継ぐ60年目の証言★


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