人格異常者のルーツ
鬼畜、坂東眞砂子が、自分勝手な理屈で、何匹もの子猫や子犬を殺し続けて来たことは、絶対に許されることじゃない。でも、その行為自体、坂東眞砂子の生き方自体は、いくら異常に見えても、いつもあたしが言ってるように、人それぞれの感性、人それぞれの考え方によるものだから、頭ごなしに否定することはできない。だけど、それは、誰にも言わず、自分だけでひっそりと行なってた場合のことだ。「昔は生まれた子猫を袋に入れて川に流した」ってのも、ひっそりと行なっていた行為だと思う。それは、いくら他に選択肢がなかったとはいえ、「せっかく生まれて来た命を人間の都合で殺める」ってことに対する罪悪感があるからだ。こんなことをしたら、とても後ろめたい気持ちになり、いくら流れて行く袋に手を合わせてお祈りしたって、川からの帰り道は足が重かっただろう。
だから、坂東眞砂子の場合も、誰にも言わずに、ひっそりと行なっていたんなら、たとえこの異常な殺戮行為が世間に知られることになったとしても、もうちょっと反応が違ってたかも知れない。だけど、今回の場合は、本人自らが、全国紙に発表したワケだ。それも、「子猫殺し」の冒頭部分を見れば分かるように、世間からバッシングを受けることを前提に書いてる。つまり、坂東眞砂子は、自分の犯して来た行為が、世間一般には批難されることを承知した上で続けて来たワケだし、それを踏まえた上で、あえて公表したってことになる。これは、ある意味、カミングアウトみたいなもんだけど、文章を読んでみれば分かるように、その内容は、トンチンカンな持論による自己の正当化に終始してる。
たとえば、今までの自分の行ないを素直に書き、どうしてそのような行為に及ばなくてはならなかったのかを書き、まったく関係の無い「避妊手術」のことなどを引き合いに出さず、自分の行為についてのみ独白してるんだったら、それは、カミングアウトと呼べるだろう。でも、坂東眞砂子の書いたものは、カミングアウトでも何でもなく、動物を愛する多くの人たちに対して、「お前らのやってることも似たようなもんだろ?」ってケンカを売って来たようにしか見えない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、坂東眞砂子の「子猫殺し」の冒頭部分には、2つの解釈があると思う。1つは、今言ったように、「世の中の猫や犬を愛する人たちに対する挑戦状」って意味だ。自分には自分の考えがあって子猫を殺し続けて来たんだから、文句があるんならいくらでも来い! 喧嘩上等だ!‥‥ってことだ。そして、もう1つは、坂東眞砂子に、ほんの少しでも人としての心が残ってた場合だけど、これまでに自分がやって来た残酷な行為に対して、理屈では自分なりに納得してても、どうしても罪悪感がつきまとってて、何かの機会にその罪悪感から開放されたいって思ってたと仮定する。そして、今回、全国の動物を愛する人たちを敵に回すようなことをワザと書き、たくさんのバッシングを受けることになれば、少しは、殺して来た子猫たちに対する罪滅ぼしになり、自分の気持ちも落ち着くかも知れない‥‥ってことだ。
あたしとしては、どんな理由にせよ、あんなに酷い内容の文章を全国紙に発表して、数え切れないほどの人たちを不快にさせた責任は計り知れないほど重いと思うけど、その理由が、「せめて後者であれば」と願いたい。だけど、あたしのこの願いは、「日経新聞」の「プロムナード」のバックナンバーを見たら、一瞬で吹き飛んだ。昨日は、坂東眞砂子が子犬にまで手をかけてたっていう、とんでもないエッセイを紹介したけど、今回、紹介するのは、彼女をここまで異常な人格にしてしまったルーツについて触れられていた。これを読んで、あたしは、「この人はもう救いようがない」って思った。それは、7月7日付のエッセイなんだけど、問題の部分を以下、引用する。
「生と死の実感」 坂東眞砂子
ドライブの楽しみは、鶏の死骸を発見することだ。私の住むタヒチ島では、野生の鶏がたくさんいて、よく車に撥ねられて死んでいる。それを拾って、新鮮ならば食用に、傷んでいれば犬の餌にするのだ。
数日前も運転していて、路上に茶色の塊を見つけた。しめた、とばかりにスピードを落として目を凝らすと、猫の死骸だった。残念、と思いつつ、また車の速力を上げてから、ふと気がついた。
私は猫好きである。以前ならば猫の死骸を見たりしたら、胸を痛め、その死を悼んだものだった。それがタヒチで八年も暮すうちに、ああ、また猫が死んでる、かわいそうに、程度のものに薄れてしまった。
見慣れたのだ。島には、野生の鶏ばかりではなく、野良犬、野良猫、野鼠などがうようよいて、車に礫かれた死骸が路傍に残されている。ぺしゃんこになった猫や、四肢を宙に突きだして死後硬直した犬、鼠などは灰色の湊みのように地面にくっついている。鼠に関しては、飼っている犬猫が殺した死骸が家の中や庭に転がっていると、尻尾をつかんで茂みに放り投げるほどに平気になった。
考えてみれば、子供の頃、私の育った高知の山間の村では、犬猫、蛇の死骸などが路傍に転がっていた。なのに、都市生活を十数年続けたおかげで、いつか獣の死骸に違和感を覚えるようになっていたのだった。
‥‥そんなワケで、いくらホラー作家とはいえ、「ドライブの楽しみは、鶏の死骸を発見することだ」ってのも異常すぎるけど、これだけのことを書き、何匹もの子猫を崖から投げ捨てて来た鬼畜が、平然と「私は猫好きである」って書ける神経が理解できない。どの世界に、生まれて来た子猫を母猫から取り上げ、崖から投げ捨てるような「猫好き」がいるって言うんだろう? それでも、この人は、3匹のメス猫を飼い、その子供を殺し続けながら、自称「猫好き」を公言してる。
それにしても、「たくさんの動物の死体を目にする土地に住んだことによって、命というものに対する神経がマヒして来た」ってことを自己認識してるんだから、自分が子猫や子犬の命を平然と奪えるようになったのは、「神経がマヒして来た結果」だってことも分かるだろう。それなら、そんな土地に住んでるからこそ、より、命というものを大切に考えるようになるのが普通で、「郷に入れば郷に従え」、「長いものには巻かれろ」で、短絡的に命を軽視するようになったんじゃ、自分でも認識してる「神経がマヒして来た結果」、つまり、「正常じゃない状態」での行動を容認してることになる。
極論かも知れないけど、たくさんの猫の死体を見てるうちに、神経がマヒして来て、子猫を殺すのなんて何とも思わなくなったって言うんなら、たくさんの人間の死体がゴロゴロしてるイラクやレバノンに住んでたら、この人は、人間の赤ちゃんも崖から投げ捨てるようになるんだろうか? 自分の考えを押しつける気はないけど、あたしだったら、たくさんの猫の死体を見れば見るほど、命の大切さを再認識して、生まれて来た子猫たちを何とか元気に、少しでも幸せに育ててやろうって思う。そして、これが、マトモな精神状態の人間だと思う。戦争を体験して、たくさんの死体を見た人のほうが、命というものを大切に考えてると思うし、たくさんの死体を見たから、平気で人殺しができるようなったなんて話、聞いたことがない。
‥‥そんなワケで、あたしは、この気色悪いエッセイや、昨日の「天の邪鬼タマ」、問題の「子猫殺し」などを読むと、坂東眞砂子が、何か問題提起をしたいとか、何かを訴えたいとか、そんなことなどミジンも考えていないことが分かった。これらの文章から受ける率直な印象は、「私はこんなにワイルドに生きてるのだ! どうだ、すごいだろう!」っていう、小学生が、他の子たちが怖がることをやってのけて自慢するような、あまりにも低次元な自己顕示欲だけだ。そして、こういった異常な文章を垂れ流して、多くの人たちが気分を害しているのを見て、1人でニヤニヤとしてそうな感じまでして来る。ようするに、人間としての趣味の悪さがヒシヒシと伝わって来る文章なのだ。ホラー作家なんだから、読者を怖がらせてナンボの世界なんだろうけど、怖がらせるのと気分を悪くさせるのとはまったく違う。坂東眞砂子は、自分の脳内のホラーの世界と、現実世界との境界線を失ってしまい、もう取り返しのつかない犯罪の世界にまで足を踏み入れてしまった、とっても気の毒な人なんだと分かった今日この頃なのだ。
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