« コイズミ改革はイジメの構図 | トップページ | マイケル続投! »

2006.09.28

枯れかけた花の美しさ

Minori1_1
9月23日から、ベルギーのシャルルロワの写真美術館で、天才アラーキー(荒木経惟)の写真展が開催されてるんだけど、それに合わせて、この美術館の壁面に、タテ3mの大きなヌードポスターが貼られた。そしたら、それが、聖母マリア像の真下だったってことで、地元の一部の人たちの間で問題になっちゃった。ようするに、「マリア様を冒涜するな!」ってことなんだと思うんだけど、このポスターの撤去を求める署名運動が始まり、頭に血が上った過激な人が、この壁に火炎瓶を投げつけて大騒ぎになったそうだ。

「気に入らないものは燃やしちまえ!」ってのは、なんか、中国や韓国の反日デモとか、イスラム教か何かの風刺マンガの時の騒動を思い出すけど、どうして、こうも短絡的なヤツラが多いんだろう? 普通に署名を集めて、主催者サイドに撤去を要求するっていう当たり前のことが、どうしてできないんだろう? ま、どこの国にも、こういうジャンルのバカがいるのはジンジャエールだけど、今回のことだって、普通に署名運動をしてた人たちがいるのに、こういうことをする1人のバカのセイで、ちゃんとした活動までが台無しになっちゃうよね。

今回、問題になった場所にヌードポスターを貼ることを提案したのが、アラーキー本人だったのか、それとも、主催者サイドだったのかは分かんない。だけど、どっちだったとしても、それを許可したのは、美術館サイドだろう。そして、その美術館サイドの人たちってのは、当然、現地のことに詳しいベルギー人なんだから、その人たちが、「この場所にヌードポスターを貼っても何も問題無し」って判断して、許可したってことになる。だから、今回のことは、ベルギー人なら誰でもが不愉快に感じるようなことだったんじゃなくて、おんなじベルギー人でも、何とも思わない人もいた‥‥って言うか、一般人よりも公共的な判断能力が高いと思われる美術館の関係者が「問題無し」として許可したんだから、これに対して文句を言ったりする人たちのほうがマイノリティーってことになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、別に、「マイノリティーだから間違ってる」「マジョリティーだから正しい」なんて、ミジンも思ってない。そういうことじゃなくて、こういった「一部の人」が起こした行為だけにスポットを当てて取り上げたニュースとかを見て、それが、あたかも、ベルギーの人たちの総意であるかのように思い込むのが危険だってことを言いたいだけだ。だって、普通に考えてみたら、本物のクリスチャンが、こんなことくらいで火炎瓶を投げるなんて、アリエナイザーだからだ。だから、これは、あたしの推測だけど、マリア像を偶像崇拝する頭のおかしいカルト教団の洗脳信者だとか、単にニポンを嫌いな酔っ払いだとか、この美術館に恨みを持ってた人だとか、そういった人が起こした事件だって考えるほうが自然だと思う。ま、そんなことは置いといて、あたしは、アラーキーの写真が大好きなので、こんな妨害なんかに負けないで、写真展を成功させて欲しいと思うけど。

でも、大好きだって言っても、あたしは、アラーキーの写真集は、「愛しのチロ」と「東京猫町」と「猫日和」の3冊しか持ってなかったし、それも、「東京猫町」以外の2冊は古本屋さんで買ったから、ぜんぜん、ファンとは呼べないと思う。だけど、すごく好きだから、図書館にリクエストして入れてもらったり、機会があれば見るようにしてる。それで、なんで、「3冊しか持ってなかったし」って過去形なのかって言うと、すごく高かったんだけど、どうしても欲しい写真集があったから、しばらく前に無理して買って、今は4冊になったからだ。

それは、歌人の宮田美乃里のヌードを撮った「乳房、花なり。」(ワイズ出版)だ。正確に言えば、これは写真集じゃなくて、アラーキーの写真と宮田美乃里の短歌とのコラボレーションで、「写真歌集」とでも呼ぶべきものなんだけど、アラーキーの撮った宮田美乃里のヌード写真と、宮田美乃里の短歌とが、相聞歌のように紡ぎ出す世界は、生々しいの美しさと、果てしない悲しみが交差する。

子供のころは登校拒否児童で、大人になってからはフラメンコダンサーになり、不倫、自殺未遂、そして、最愛の人からの婚約破棄と、波乱万丈の果てに、短歌の道を選んだ宮田美乃里。そして、第一歌集を出版し、歌人としての人生を歩き始めた矢先の31才の時に、乳ガンの宣告を受ける。32才で左の乳房を全摘出するも、余命を宣告され、以降、いっさいの化学療法を拒み続け、去年、2005年3月28日、34才の若さで逝ってしまった。

あたしが、宮田美乃里を知ったのは、すごく恥ずかしい話なんだけど、テレビだった。宮田美乃里というガンで余命を宣告された歌人がいて、その人がアラーキーに「私を撮って欲しい」と手紙を送り、今、その撮影が行なわれている、というようなトピックだった。それで、海岸での撮影風景とか、病院のベッドに寝ている映像を見たんだけど、あたしは、宮田美乃里のあまりの美しさに言葉を失った。これが、余命を宣告された人の顔だろうか?って思った。

「乳房、花なり。」は、女性のヌード写真集をセックスの対象としてしか見られないような男性は、絶対に見ないほうがいい。そこにあるのは、乳房の代わりに大きな傷のある裸体だからだ。だけど、それが、あたしにとっては、今までに見たどんなヌード写真よりも、美しく感じられた。やっぱり、アラーキーって天才だ。これは、篠山紀信には絶対に撮れない‥‥って言うか、世界中でアラーキーにしか撮れないと思う。でも、もしかしたら、アラーキーにソックリな電撃ネットワークの南部虎弾(南部虎太)なら撮れるかもしんない‥‥なんてことも言ってみつつ、アラーキーは、最愛の奥さんの陽子さんをガンで亡くしてるから、特別の思いでシャッターを押したのかもしんない。

‥‥そんなワケで、ここで、宮田美乃里の歌を何首か紹介する。


 乳がんで乳房を切った女たち夜風に揺れる野の花となれ

 生きている私に触れて今朝咲いた桜のように濡れているから

 目が覚めて猫のひたいにキスをする「お互い今朝も生きてたね」って

 藤の花あなたは知っているのでしょう私の余命がどれほどなのか

 母の日に真赤なカーネーション贈る(私も子供を産みたかったの)

 聖処女にもどる私は進行がん神のもとへとお嫁にいきます

 いらだって叩き壊したティカップ私の乳房かえしてほしい

 モルヒネも効かぬ五月の病床であなたの指に指をからめる

 わたくしを批判するならご自由にならば自分も脱いでみなさい

 静脈や いのち支えし青き河かなしき流れよ一条の孤独


‥‥5首目の歌の「私も子供を産みたかったの」の部分がカッコで括られてるのは、あたしが解説しなくても、「きっこの日記」の読者なら「推して知るべし」ってことで、説明はしない。で、宮田美乃里は、この写真集のあとがきで、次のように書いている。


三十一歳のとき乳がんを告知され、三十二歳で左乳房を全摘出した私が、
ヌードになった理由は、簡潔に言えば一つです。
乳房を失っても「私は女である」ということを世の中に示したかった、ということなのです。
言い換えれば、同じように乳がんで乳房を失った女性を勇気づけたかった、ということです。
私は、自分の胸の傷跡も、痛みも、悲しみも、すべてを自分の「誇り」だと思っています。だから、世の中にさらしたとしても、それを恥だとは思いません。


‥‥そして、こうも書いている。


「私は一輪の花。いいえ、すべての女性が花であるのです。」


あたしは、この言葉に、深く胸を打たれた。「最善を尽くしても5年生存率は6割」と宣告された彼女に対して、少しでも生存率を高めるために、執拗に化学療法を勧める医師や親類、友人たち。しかし、そういう声に対して、彼女は、「長生きすることに何か意味があるのでしょうか」と言った。そして、「(そういう態度は)若いのにやや厭世(えんせい)的だと思う」という声に対して、こう言った。


「子供のころから病弱で孤独で厭世的だったかもしれない。失恋も影響していると思う。がんと戦っている人たちの手記を読むと、本当に立派だと思うし、尊敬もしますが、私にはできない。私は私の生き方をしたいのです。歌集『花と悲しみ』に収録した歌『スミレにはスミレの美学あるならば 誰も私を規定できない』、そういう気持ちなんです。」


あたしは、宮田美乃里のこの選択を見て、完治のための治療と、延命のための治療とは、大きく違うってことを再確認した。もしも、完治の可能性があったのなら、彼女だって、きっと化学療法を選んだと思う。だけど、「最善を尽くしても5年生存率は6割」と宣告された場合、あたしなら、どうするだろうか? 莫大なお金をかけて、体をボロボロにして、体中にチューブをつながれて、それでも、1日でも長く生きていたいと思うだろうか?


「朽ちて散っていくように、ありのままを受け止めて生きていきたいと思うのです…普通の均整の取れた裸体ならば飽きるほどご覧になっておられることでしょう。けれども、私は、ちょうど枯れかけた花のように、片方の乳房がありません…そこには、私の人生があります」


これは、宮田美乃里が、アラーキーへ送った手紙の一部だそうだけど、この気持ち、この思い、あたしには、すごく良く分かる。自分は「枯れかけた花」なんだから、枯れるにまかせて欲しい。薬品などを使って無理やりに僅かな延命などをするよりも、自然のままにしておいて欲しい。だけど、生きていた証を残したい。だから、片方の乳房を失った自分を、枯れかけている自分を撮って欲しい。

‥‥そんなワケで、あたしは、別に、延命治療を選択している人たちを否定してるワケじゃないし、ただ単に、「あたしが宮田美乃里とおんなじ状況だったら、きっと、おんなじ選択をするだろう」って、思ったってことを書いただけだ。そして、この感覚に底流しているのは、やっぱり、「これ以上つらい思いはしたくない」っていう感覚と、「ジタバタするのはみっともない」っていう感覚との板バサミのような、諦めのようでいて、投げやりのようでいて、ホントは、こういった状況に置かれないと見えて来ない「悟り」のような感覚なんだと思った。だから、今は何とも言えないけど、宮田美乃里が「スミレの美学」を完遂したように、あたしも、あたしの美学を追求して行きたいと思った今日この頃なのだ。


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう♪
★ 1日1クリックお願いしま~す!
   ↓   ↓
人気blogランキング


★ 書籍版「きっこの日記」予約フォーム

 ★7&Y★

 ★楽天ブックス★

 ★アマゾン★

|

« コイズミ改革はイジメの構図 | トップページ | マイケル続投! »