東京タクアン
いつも言ってるけど、あたしは、お漬物が大好きで、炊き立てのご飯と好きなお漬物があれば、それだけで満足だし、あとダイコンのお味噌汁があったら、言うことなしって感じだ。もちろん、そればっか何日も続いたら飽きて来るし、栄養的にも足りなそうだから、あと、アジのひらきとか、塩ジャケとかがあったらサイコーだし、味付け海苔なんかが添えてあったりしたら、パーフェクトな食事になる。ようするに、あたしは、旅館で出る朝ご飯みたいなのが好きなんだけど、あたしん家は旅館じゃないから、朝からあんなにゴージャスなメニューは望めない。だけど、あたしの大好きな3種類のお漬物、「キュウリのキューちゃん」「東京タクアン」「柴漬け」があったら、色としても、緑、黄色、赤のラスタカラーになってカラフルだし、朝からモリモリとご飯を食べることができる。
それで、この3種類のお漬物をジャンル分けすると、キュウリのキューちゃんは安いし、自分で作ることもできるし、あたしにとって生活必需品みたいなものだから、必要度としてはナンバーワンで、冷蔵庫に入ってる確率が一番高いお漬物だ。それに比べて、柴漬けは、自分じゃ作れないし、どうしても無いと困るってワケでもなくて、言うなれば、タマにムショーに食べたくなるって感じだから、冷蔵庫には入ってないことのほうが多い。たまたま安売りしてたら買って来て、それを食べ尽くしたら、また、しばらくは無い状態が続くって感じだ。そして、東京タクアンは、この3種類の中で言うと、あたしとしては別格で、値段が高いこともあるけど、メインディッシュ的な位置づけになる。
キュウリのキューちゃんや柴漬けは、あれば食べたいだけ食べるけど、東京タクアンに関しては、一度の食事で「3枚まで」とか「5枚まで」とか決めて、大切に大切に食べてる。それは、塩分の取りすぎとかを気にしてるワケじゃなくて、単に、もったいないからだ。だけど、東京タクアンをオツマミにしてニポン酒を飲んでると、もう止まらなくなっちゃって、小型のタッパーの半分くらいを食べちゃって、次の日に後悔したりすることもある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、いろんな種類があるタクアンの中で、まっ黄色の東京タクアンが大好きなんだけど、東京タクアンの歴史は浅い。ま、その名前を見れば分かるように、「東京」って名づけられてるんだから、少なくとも、江戸時代にはなかったワケだ。江戸が「東京」って呼ばれるようになってから出来たワケで、どんなに古くても、明治時代以降に作られたタクアンてことになる。
江戸が「東京」って呼ばれるようになったのは、江戸時代の慶応4年(1868年)に、それまで京都にいた明治天皇が江戸にやって来て、「江戸は東国一の大鎮なり。今より江戸をもって東京とせん」て言って、こっちに住むようになった時からだ。そして、この時から明治時代が始まったワケだから、東京タクアンが出来たのも、このあとってことになる。ちなみに、「東京都」が誕生したのは、昭和18年(1943年)7月1日で、それまでの「東京府」と「東京市」をマトメて「東京都」って呼ぶことになった。だから、あんがい知らない人が多いけど、明治時代や大正時代は当然として、昭和になってからも18年間は、「東京」って地名はあったけど、まだ「東京都」じゃなかったのだ。
で、あたしも、東京タクアンがいつ出来たのか知らなかったから、リトル調べてみたら、「大正時代の終わりころ」ってことが分かった。関東のタクアンは、まずはダイコンを干して、ダイコンの水分量が70%くらいになってから漬けるんだけど、何でかって言うと、そのままのダイコンを漬けたら、水分が多すぎてベチャベチャになっちゃうからだ。それだけじゃなくて、保存食としての問題とか、旨味の問題とか、歯応えの問題とか、いろいろとあるんだけど、とにかく、ダイコンの水分量を減らしてから漬けないと、美味しいタクアンは出来上がらない。
でも、これは、関東の話で、他の地方では、水分を抜く割合が違って来る。俗に、「関東の3割干し、渥美の半干し、宮崎の7割干し」って言われてて、水分を30%抜く関東方式が、一番ゆるい抜き方ってことになる。だから、この違いが、味の違いや歯応えの違いにも関係して来るんだと思う。つまり、あたしが東京タクアンを好きなのは、ちっちゃいころから食べて来て、東京タクアンの味や歯応えになじんでるからで、渥美の人なら渥美のタクアン、宮崎の人なら宮崎のタクアンが好きなんだと思う。
‥‥そんなワケで、大正時代の終わりころまでは、東京でも、ダイコンを干してから漬けてたそうだ。だけど、東京のタクアンは美味しいってことで、注文がどんどん入って来るようになって、タクアンの生産が追いつかなくなった。それで、何とか時間を短縮するためにと考えられたのが、ダイコンを干して水分を抜く代わりに、塩に漬けてムリヤリに水分を抜く方法だった。これで、タクアンの生産スピードは一気に上がり、出荷が間に合うようになり、この時から、「東京タクアン」て言う名称がついたそうだ。つまり、それまでは、他とおんなじ方法で作ってたから、「東京で作ってる普通のタクアン」だったんだけど、オリジナルの製造方法を開発したことによって、堂々と「東京タクアン」て呼べるようになったんだと思う。
それで、「東京タクアン」が誕生するまでの東京のタクアン事情ってどうだったのかと思って、練馬ダイコンでオナジミの練馬区のホームページを見てみたら、ものすごく詳しく掲載されてた。「練馬区史」(昭和32年刊)に、大正時代の練馬のタクアンの生産について、次の記述があるそうだ。
「近年交通機関の開けし為、大に販路拡張せり。生産三万六千樽の中、村内の消費量は二千二百五十樽にして、残りの三万三千七百五十樽は内地においては秋田・宮城・新潟より、鳥取・岡山の諸県、海外においては清国及米国に輸出せらる。」(下練馬村報告)
「以前は乾だいこんにて埼玉県川越町及所沢町方面へ主として販出せしも、近年に至り沢庵漬として、東京市及埼玉県へ輸出するもの多く、将来益々盛大となる見込なり。」(大泉村報告)
下練馬村では、36000樽ものタクアンを生産したうち、自分たちの村で消費するのは1割以下の2250樽で、残りの33750樽は、すべて他県や外国へ売られている。それにしても、大正時代に、中国(清国)はともかくとして、アメリカにまでタクアンが輸出されてたとは、なかなかワンダホーなニポンの文化だと思う。また、大泉村のほうの記述を見ると、以前は干したダイコンをそのまま売ってたけど、このころからタクアンにしてから売るようになり、そうしたところ、注文が増えて来たってことが分かる。だから、このころまでは、ちゃんと干したダイコンを使ってタクアンを作ってたってワケで、このあと、もっともっと売れまくっちゃって、ダイコンを干してると間に合わなくなって、塩を使って水分を抜くようになった。塩を使って水分を抜くと、干す時間も短縮できるけど、それだけじゃなくて、漬け込む時間も短縮できる。干したダイコンを使う場合には、最低でも1ヶ月は漬け込む必要があったんだけど、塩で水分を抜いたダイコンは、吸収も早いので、わずか1週間で食べられるようになる。
この「東京タクアン」の製造方法ができたことによって、それまでのタクアンのことを「干しタクアン」て呼ぶようになって、「東京タクアン」のほうは「塩押しタクアン」て呼んで、ハッキリと区別するようになった。当時、東京には、300以上のタクアン屋さんがあったそうだけど、そのすべてが、製造時間を大幅に短縮できる「塩押しタクアン」にしたから、東京で作られてたのは、すべて本物の「東京タクアン」だったってワケだ。でも、昭和になり、第二次大戦が起こり、ほとんどのタクアン屋さんは無くなっちゃって、今では10軒ほどしか残っていない。その代わり、「塩押しタクアン」は、製造時間が短くて済むだけじゃなくて、「干しタクアン」よりもソフトな歯応えがアゴの弱い現代人に好まれるため、東京だけじゃなくて、関東のほとんどのタクアン屋さんが、「東京タクアン」を作るようになった。だから、「千葉県にあるのに東京ディズニーランド」とおんなじで、「埼玉県で作ってるのに東京タクアン」てものが存在してる。逆に、ちゃんと東京で作ってても、ダイコンを干して作ってたら、「東京タクアン」じゃなくて、「東京で作ってる普通のタクアン」てワケだ。
‥‥そんなワケで、東京タクアンの何よりの特徴は、まっ黄色のその色だ。だけど、あたしは、大正時代の東京タクアンは食べたことがないから、当時の東京タクアンが、今とおんなじにまっ黄色だったのかどうかは知らない。その前に、何でタクアンが黄色いのかって言うと、本来は、自然に黄色くなるのだ。ダイコンを漬けると、ダイコンに含まれてる辛味の成分が変化して、だんだんに黄色くなって来る。だから、辛味の強いダイコンほど、黄色くなる。だけど、この黄色い色素は、光に弱くて、外に出しておくと白くなっちゃう。それで、お客さんが来ると、漬けてる樽から1本1本取り出して売ってた時代には良かったんだけど、あらかじめ1本ずつビニール袋に入れて、店頭に並べて売るようになったら、せっかくの黄色いタクアンが、光に当たってる部分だけが白くなって来ちゃった。そして、それはマズイってことで、光に当たっても白くならないように、黄色く着色するようになった。
で、基本的には、ウコン(ターメリック)とか、紅花とか、クチナシの色素とかの天然着色料を使って黄色くするんだけど、ここで気をつけなきゃなんないのは、恐怖の「黄色4号」を使って着色してるものも多いってことだ。スーパーのお漬物コーナーに行くと、半分に切ったタクアンが真空パックになってるのが並んでるけど、ものすごくアバウトに言えば、有名なメーカーのもので、それなりの値段のものは、ほとんどがウコンや紅花を使ってて、聞いたことのないメーカーの安いものは、ほとんどが黄色4号を使ってる。ちなみに、これは、「きいろ4号」じゃなくて、「おうしょく4号」って読むんだけど、数ある人工着色料の中で、もっとも人体に危険なのが、この黄色4号なのだ。
だから、あたしは、東京タクアンを買う時には、絶対に表示を確かめて、ウコンや紅花で着色してるものしか買わない。これは、いかにも「化学的に着色してます」って感じの、まっ黄色のタクアンでも、天然着色料だけを使ってるものもあるし、いかにも「自然の色です」って感じの、色の薄いタクアンでも、黄色4号を使ってるものもある。だから、絶対に、きちんと表示を見て、確かめてから買うしかない。
この黄色4号ってのは、別名を「タートラジン」て言うタール色素で、肝臓ガンの原因にもなる恐ろしい人工着色料だ。もちろん、黄色4号で着色したタクアンをひと切れ食べたからって、次の日に肝臓ガンになったりはしないけど、黄色4号を使った食品を長い年月食べ続けてると、発ガン物質が少しずつ肝臓に蓄積されて行く。他の人工着色料も、すべて人体に害があるけど、その中で、もっとも危険だと言われてるのが、この黄色4号を含むタール色素のグループなのだ。そして、その、どれもが危険なタール色素のグループの中で、一番危険だって言われてるのが、この黄色4号なのだ。
タール色素は、あまりにも危険なので、ヨーロッパでは厳しく規制されてて、特に、スウェーデンやノルウェーなどでは、使用が全面禁止されている。つまり、ニポンでは、食べ物から飲み物まで数え切れないほどの食品に使われてる人工着色料なのに、スウェーデンやノルウェーでは、いっさい使用できない‥‥って言うか、スウェーデンやノルウェーの人たちから見たら、自分たちの国では危険だから使用禁止になってるタール色素なんかをジャンジャン添加しまくってるニポンのほうが異常だってことになる。
ちなみに、黄色4号は、タクアンを始めとしたお漬物の他にも、ジュース、キャンディー、お菓子類など、子供が口にするものに多く使われてる。また、黄色4号以外のタール色素は、アイスクリームやジャム、タラコや梅干しなんかに使われてる。あたしは子供はいないけど、もしも自分に子供がいたら、自分の食べるものよりも、子供の食べるものに気を使うと思う。だって、子供に安全なものを食べさせるのは、親としての最低限の義務だと思うからだ‥‥って言うか、自分の愛する子供に、他国では全面禁止されてるような危険なものを食べさせたくない。だから、コンビニやスーパーで、子供の欲しがるお菓子やジュースを何も考えずに買い与えてる親を見ると、他人のことだけど、なんか悲しくなって来る。
他にも、妊婦が摂取すると、お腹の中の赤ちゃんの細胞が突然変異を起こす「赤色104号」にしても、メーカー側が自主規制してるだけで、国としては使用禁止にしてない。だから、今でも「赤色104号」は製造されてるし、表示を偽って使用してる会社もあるかもしんない。蛇足だけど、今の子供たちが、すぐにキレたりするのは、黄色4号や赤色3号などが、脳に作用したのが原因のひとつだって言われてる。黄色4号は、さっきも書いたけど、ジュースやキャンディーやお菓子に使われてるし、赤色3号は、カンヅメのサクランボとかに使われてるから、ケーキやパフェの上に乗ってたりする。どっちも、子供の喜ぶ食べ物だ。だから、小さいころから、安全な食品を食べてたか、それとも、危険な食品を食べてたかによって、大ゲサに言えば、性格までが変わってしまうってことにもなる。その子が18才になった時に、安全な食品を食べて育って来たんなら、ケンカになんかならなかった状況でも、危険な食品を食べて育って来たとしたら、ついカッとなって、相手をナイフで刺し殺しちゃうかもしんない。
‥‥そんなワケで、話をクルリンパとタクアンに戻すけど、タクアンを最初に考えたのは、宮本武蔵の師匠の沢庵和尚(たくあんおしょう)だって言われてる。だけど、これは、デタラメな話で、宮本武蔵も沢庵和尚も実在の人物だけど、2人は何の接点も無いし、タクアンを考案したのは沢庵和尚じゃない。だから、この話は、ダブルで間違ってるってワケだ。まず、「宮本武蔵の師匠が沢庵和尚だ」ってのは、吉川英治が書いた小説の「宮本武蔵」の中の作り話で、現実のことじゃない。そして、「沢庵和尚がタクアンを考案した」ってのは、沢庵和尚が生まれた天正元年(1573年) よりも前からタクアンはあったから、これもアリエナイザーってことになる。
沢庵和尚は、江戸時代の初期のお坊さんだけど、タクアンは、それより200年も前の室町時代から作られてた。ただし、室町時代から「タクアン」て呼ばれてたかどうかは不明だから、もしかしたら、昔からあった「ダイコンのお漬物」のことを沢庵和尚が「タクアン」て命名した可能性はある。ま、どっちにしても、沢庵和尚がタクアンを広めたことだけは確かみたいだし、他にも、俳句や書画や茶道にも精通してたお坊さんてことで、名実ともに優れたお坊さんだったから、小説では宮本武蔵の師匠ってことにされちゃったんだろう。
で、俳句が好きなあたしとしては、沢庵和尚がどんな句を詠んだのか気になって調べてみたかったんだけど、この日記を書いてるのが深夜なので、図書館には行けなかった。それで、インターネットで調べてみたんだけど、見つからなかった。その代わりに、沢庵和尚が詠んだ「江戸狂歌」が一首見つかった。
有明のつれなくいへぬ皮癬瘡かくばかり身に憂きものはなし 沢庵和尚
「皮癬瘡(ひぜんがさ)」は、「疥癬(かいせん)」とも言う病気のことで、簡単に言うと、ダニによって陰部などが痒くなる病気で、「インキンタムシ」と並ぶ痒さだそうだ。それから、「江戸狂歌」ってのは、低俗で面白おかしい短歌や、下品でエッチな短歌のことで、昔の有名な和歌をパロディーにして詠むことも多い。この沢庵和尚の歌も、百人一首の壬生忠岑(みぶのただみね)の歌のパロディーだ。
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし 壬生忠岑
こう言うのって、ホントなら、「パロディー」とは呼ばずに「本歌どり」って呼ぶんだけど、この酷さじゃ、あたしとしては、ちょっと「本歌どり」とは呼べないので、「パロディー」って言葉を使わせてもらった。で、意味としては、壬生忠岑の本歌のほうは、「夜が明けても有明の月が空に残っている時に、好きな彼女と別れたから、今でも明け方になると、その時のことを思い出して嫌な気分になる」って感じの意味だ。そして、沢庵和尚のほうは、「明け方に、なかなか治らない陰部をボリボリと掻くだけの自分が、ホントに嫌になって来る」って感じで、意味としては最悪だけど、ナニゲに「ワビ」とか「サビ」とかを感じさせるとこが、茶人としての力量なのか?‥‥なんてことも言ってみつつも、陰部をボリボリと掻いた手で、タクアンを漬けてたんだろうか?‥‥ってことのほうが気になって来る(笑)
‥‥そんなワケで、1年中、いつでも食べられるタクアンだけど、俳句では、冬の季語になってる。トマトなら夏、柿なら秋って感じで、たいていの食べ物は、その「旬」の時季の季語になってるんだけど、タクアンに「旬」なんてないから、タクアンを漬ける時季である冬の季語になってる。これとおんなじで、「旬」のない梅干しは、梅干しを漬ける夏の季語になってる。だから、いくらタクアンや梅干しが季語だからって、ただ「タクアンを食べました」「梅干しを食べました」ってことを俳句に詠んでも、それじゃあ俳句とは呼べないのだ。ちょっと難しいことを言うと、「季語があっても季感のない句」ってワケで、俳句は「季節に対するアイサツ」だから、季感がなければ俳句とは呼べなくなる。
来て見れば沢庵漬の石一つ 服部嵐雪
沢庵や家の掟の塩加減 高浜虚子
沢庵の重石に足すや谷の石 井熊茂
沢庵の桶に去年の石を置く 稲野博明
沢庵漬ける父祖伝来の石のせて 武田日出夫
ただ「タクアン」を詠み込むんじゃなくて、これらの句みたいに、「タクアンを漬けてる様子」を詠まないと、俳句とは呼べないってワケだ。だから、タクアンは冬の季語だからって、スーパーでタクアンを買って来て、それを食べながら1句詠んでも、ダメってことになる。タクアンを詠むためには、自分でタクアンを漬けるか、タクアンを漬けてる人を見学に行かないと、ダメってことになる。
‥‥そんなワケで、あたしは、まっ黄色の東京タクアンが大好きなんだけど、体に害のない天然着色料を使ってるものは、平均すると、1本の半分で300円くらいするから、そんなにチョクチョクは買えない。その上、タマに買っても、俳句に詠むことができない。だから、食べ物を俳句に詠むのが好きなあたしとしては、リトル残念なんだけど、それでも、小型のタッパーの中にキレイに並べた半月型の東京タクアンを楊枝でつつきながら、辛口のニポン酒をクイクイと飲んでると、何とも言えないシアワセな気分になって来る今日この頃なのだ。
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