ずぶぬれて犬ころ
あたしは、1ヶ月ちょっと前の9月27日の日記、「枯れかけた花の美しさ」で、34才の若さで亡くなった歌人、宮田美乃里のことを紹介した。何でかって言うと、あたしは今年で34才になるので、今の自分と同じ年で亡くなったってことに、すごく複雑な思いがあったからだ。「枯れかけた花の美しさ」の中で、あたしは、「すべての女性が花であるのです」って言う宮田美乃里の言葉を引いて、体をボロボロにしてまで延命治療をすることよりも、一輪の花として自然に散りゆく運命を選択した彼女のことを紹介して、「あたしが宮田美乃里とおんなじ状況だったら、きっと、おんなじ選択をするだろう」って書いた。
だけど、それは、正直に言うと、「そうできたらいいと思う」っていう漠然とした気持ちであって、もしも、ホントに、今、あたしが乳ガンになって、片方の乳房を切除して、それでも全身に転移して、あと数ヶ月の命だって宣告されたとしたら、宮田美乃里とおんなじ選択ができるかどうかは分からない。体中を切り刻まれて、内臓を次々に摘出されて、いろんな管をつけられて、それで1ヶ月とか2ヶ月とか延命されるよりも、理想としては、少しでもキレイな体のままで死にたいと思う。だけど、ホントにその状況に置かれたとしたら、あたしは、どんなことをしても、少しでも長く生きたいって思うかもしんない。
だから、あたしが、今の自分の年と同じ年で亡くなった宮田美乃里のことを思って、いろいろと複雑な気持ちになったのだって、ハッキリ言えば、遥か彼方のイラクやレバノンの戦争で亡くなってる人たちのことを思う気持ちと同列のことなんだと思う。どんなに「もしも自分がイラクやレバノンの国民だとしたら」って思っても、どんなに「何とかしてあげたい」って思っても、それは、自分は安全な場所にいての「思い」であって、心のどこかに「他人事」みたいな気持ちがあったのかもしんない。だって、ニュースでイラクやレバノンのことを聞いた時には「何とかしてあげたい」って心から思ってるつもりなのに、次の日には、普通にお仕事に行ったり、パチンコに行ったり、ファッション誌をパラパラと眺めたりしてるんだから‥‥なんて思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、もちろん、あたしもそうだけど、あたし以外の人でも、当事者じゃない人たちがあれこれ意見を言うのって、結局は、どっか「他人事」なんだと思う。絶対に安全なちゃんとしたマンションに住んでる人が、耐震偽装マンションについてあれこれ意見を言ったり、自分はトットと大学を卒業しちゃってる人が、高校の履修科目偽装問題についてあれこれ意見を言ったりするのって、ようするに対岸の火事みたいなもんだから、今、耐震偽装マンションに住んでビクビクしてる当事者たちや、今、大学受験を控えてアタフタしてたりする当事者たちとは、ずいぶん感覚が違うんだと思う。
だけど、逆に言えば、当事者じゃないからこそ、見えて来るものもあると思う。たとえば、ニポンに住んでる時には気づかなかったニポンのことが、海外に住むようになって初めて見えて来たって話は良く聞くし、「外側から見てみる」ってことも、ある意味、意義のあることなんだと思う。つまり、良く言えば「客観的な意見」てワケで、悪く言えば「無責任な意見」てワケだけど、これは、必ずしも同一じゃない。それは、そこに、思いやりの心があるかないかの違いによる。自分は当事者じゃなくても、その事件や問題の被害者のことを思いやる心を持っていれば、外部からの客観的な意見は、事件の渦中にいて重要なことが見えなくなっている当事者たちにとって、有益なものとなる場合が多い。だけど、思いやりの心を持っていない人の意見は、その根底に「当事者たちがどうなろうとも自分は痛くも痒くもない」って気持ちがあるから、日本テレビの「ザ・ワイド」に出て来るコメンテーターたちの発言みたいに、極めて無責任なものになる。
でも、これは、社会問題や事件などに対して個人的な意見を言う場合の話であって、宮田美乃里の生き方に対して感じることとは、出発点はおんなじでも、その先が違って来る。思いやりの心を持ってる人であれば、宮田美乃里のことを知った時に、彼女の無念さや潔さなどの「思い」を感じた上で、自分が健康な場合なら、「健康であることのありがたさ」を再確認すると思う。だけど、自分が健康でも健康じゃなくても、思いやりの心を持ってない人、自分さえ良ければいいと思ってる人なら、「ああ、自分じゃなくて良かった」って思うだけだ。ようするに、若くして亡くなった人や、不慮の事故などで亡くなった人の話を聞いた時に限らず、自分よりも不幸な人、自分よりも立場の弱い人の話を聞いた時に、思いやりの心を持ってる人と持ってない人との人間性が明確に分かるってことだ。
‥‥そんなワケで、今日は、ひとりの俳人を紹介しようと思う。だけど、俳人て言っても、8月6日の日記、「原爆の日」で紹介した松尾あつゆきとおんなじで、五七五の定型や季語にはこだわらない「自由律俳句」の俳人なので、ちゃんとした俳句を実践してるあたし的には、俳人とは呼べない。だけど、今回も、便宜上ってことで、俳人として紹介する‥‥って、学校の先生みたいに前置きが長くなっちゃったけど、その人の名前は、住宅顕信(すみたくけんしん)だ。俳句をやってる人なら、知ってて当然の俳人だけど、俳句をやってない人には、あんまりナジミのない名前だと思う。で、いつもなら、どんな人なのかを簡単に紹介してから、その作品を紹介するんだけど、今回は、先入観を持たれないように、まず初めに、代表的な作品を17句ほど紹介しようと思う。
「住宅顕信 17句」
何もないポケットに手がある
若さとはこんな淋しい春なのか
水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
春風の重い扉だ
鬼とは私のことか豆がまかれる
盃にうれしい顔があふれる
あけっぱなした窓が青空だ
初夏を大きくバッタがとんだ
月明かり、青い咳する
夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
両手に星をつかみたい子のバンザイ
重い雲しょって行く所がない
お茶をついでもらう私がいっぱいになる
窓に映る顔が春になれない
気のぬけたサイダーが僕の人生
捨てられた人形がみせたからくり
ずぶぬれて犬ころ
‥‥そんなワケで、この17句を読んで、興味を持った人も、持たなかった人も、意味だけは理解できたと思う。顕信の句は、現代仮名遣いだし、俳人が好むような難しい言葉や、詩人が好むような抽象的な表現がまったく無いから、それこそ、小学生でも理解できるってとこが魅力のひとつでもある。だけど、この、「できる限り簡単な言葉で、できる限り簡単に表現する」ってスタイルは、顕信が心酔してた尾崎放哉の影響だろうから、顕信だけの魅力じゃなくて、尾崎放哉からの流れってことになる。放哉の代表句のひとつ、「咳をしても一人」なんてのは、これ以上ないほどにゼイ肉が削ぎ落とされてるのに、小学生にも分かる単純さと、1冊の純文学のような深さとを兼ね備えてると思う。
で、この住宅顕信は、昭和36年(1961年)に、岡山県に生まれた。この「きっこの日記」を読んでる人の中にも、昭和36年生まれの人もいると思うし、同世代の人も多いと思うので、「自分と同じくらいの年の人なのか」って思いながら、この先を読んで欲しい。住宅顕信は、本名が「春美(はるみ)」って言うんだけど、子供のころはマンガを描くことが大好きで、将来はマンガ家になりたいって思ってたそうだ。そして、昭和51年(1976年)に、岡山市立石井中学校を卒業して、岡山市内の岡山会館に就職して、下田学園調理師学校に入学した。ようするに、昼間は働いて、夜、調理師学校に通ってた。
それで、顕信が早熟だったのか、当時の流行だったのかは知らないけど、顕信は年上の彼女ができて、就職後しばらくして同棲を始めた。文献によって、「4才年上の女性」だとか、「5才年上の女性」だとかって書いてあるから、ハッキリとは分かんないけど、とにかく、年上の彼女だ。そして、略歴には、「約8ヶ月ほど同棲した」って書いてあるんだけど、8ヶ月で別れたワケじゃなくて、同棲を解消しただけで、お付き合いは続いてた。
ま、そんなことは置いといて、当時の顕信は、詩や宗教や哲学に関心を持ち、たくさんの本を読んで独学を続けてた。今どきの若いカップルが同棲なんかしたら、朝、昼、晩とセックスばっかするだろうし、中には、「ラブホ代がもったいないから」って理由で同棲するカップルもいそうだけど、顕信の場合は、昼間は働いて、夜は学校に通ってたのに、彼女の待つ家に帰って来てからも、難しい宗教書や哲学書を読んでたんだから、もしかしたら、これが同棲を解消した理由かもしんない‥‥って、これこそ、「そんなことは置いといて」ってことだけど、昭和53年(1978年)、下田学園調理師学校を卒業した18才の顕信は、ますます宗教や哲学にのめり込んで行って、数々の専門書を読みふけるようになる。
そして、2年後、19才になった顕信は、岡山市役所での清掃の仕事に転職したんだけど、宗教や哲学に対する探究心はますます過熱して行き、昭和57年(1982年)には、とうとう、中央仏教学院の通信教育を受講することを決め、1年かけてきちんと修了した。最近の高校の「履修科目偽装問題」は、高校卒業に必要か必要ないかで履修科目を決めてたんじゃなくて、受験に必要か必要ないかで履修科目を決めてたことが原因だけど、学問てものの本質って、この顕信みたいに、「自分が勉強したいかどうか」ってことだと思う。ま、受験のために、やりたくもない科目をやってる受験生にしたって、誰かに強制的にやらされてるワケじゃなくて、その状況を自分自身で選択してるんだから、誰にも文句なんか言えないハズだし、それがイヤなら、大学なんか行かずに働きゃいいだけの話だ。
で、今どきの学生とは違って、自分の意思で、自分の学びたい学問をきちんと履修した顕信は、昭和58年(1983年)、22才の夏に、京都西本願寺で出家して、浄土真宗本願寺派の僧侶になった。そして、この年の10月には、彼女と「できちゃった結婚」もしたし、両親に頼んで実家の一部を改装してもらって、「無量寿庵(むりょうじゅあん)」て言う仏間を作ってもらった。だから、ここまでは、順風満帆の人生だった。ちなみに、「順風満帆」てのは、「じゅんぷうまんぱん」て読むことくらい誰でも知ってると思ってたんだけど、あたしのお友達のM美が、ちょっと前に、「じゅんぷうまんぽ」ってノタマッてたから、もしかしたら、「きっこの日記」の読者の中にも、「まんぱん」を「まんぽ」だと思ってる人が何人かいるかもしんないので、念のために書いてみた。
それで、万歩計を腰につけてたかどうかは知らないけど、22才までは順風満帆な人生を歩んで来た顕信に、あまりにも過酷な運命が訪れる。結婚もして、自分の仏間もできて、「さあ、いよいよ人生の船出だ!」って思った顕信は、結婚からわずか4ヶ月後、昭和59年(1984年)の2月に、急性骨髄性白血病を発病してしいまい、岡山市民病院に入院することになる。昭和59年て言ったら、今からたった20年前なのに、当時でも骨髄移植とかはあったんだけど、とにかく、「不治の病」って言うイメージが強かった。それで、奥さんのお腹は大きくなってたんだけど、奥さんの両親が、「不治の病のダンナとは結婚させておけない」って言い出して、離婚することになった。そして、この年の6月に、長男の「春樹」が生まれたんだけど、顕信は、自分が命にかかわる病気で入院してるのに、赤ちゃんを引き取って、病室で育てたのだ。
顕信が、熱心に句作に励むようになったのは、このころからだ。だから、最初に紹介した17句も、自分は白血病と闘いながら、赤ちゃんの世話をしながら、病室で詠んだものばかりだ。そして、顕信は、参加してた自由律俳句会の俳誌で、作品が注目され始めて、翌年には「試作帳」って言う句集を自費出版した。だけど、その翌年、昭和61年(1986年)の暮れには、自分でペンを持つこともできないほど病状が悪化して、年が明けた昭和62年(1987年)の2月7日、永眠した。享年25才。顕信が本格的に句作をしたのは、昭和59年から亡くなるまで入院してた3年間だけで、生涯で残した句は281句だけだ。
‥‥そんなワケで、いつも、どんどんダッフンしてっちゃうあたしとしては、文字としては「顕信」て書いてるけど、頭の中じゃ「ケンシン」て思いながら書いてるワケだから、こんなに何度も「ケンシン」「ケンシン」て書いてると、どうしても中日ドラゴンズの川上憲伸のことが浮かんで来ちゃうし、「1986年」て書いたとこでは、顕信と同じく白血病で亡くなった本田美奈子の「1986年のマリリン」が浮かんで来ちゃう‥‥なんてことも折り込みつつも、きちんと本線を書き続けるけど、あたしが、住宅顕信のことを思う時に、何よりも感じることは、その時代背景だ。顕信が、江戸時代や明治時代の人だったとしたら、白血病にならなくて、寿命をまっとうしたとしても、今は生きてない。だけど、顕信は、昭和36年生まれなんだから、もしも生きていたら、まだ45才なのだ。これって、あたし的には、ものすごく生々しいことだ。だって、もしかしたら、どこかで出会ってたかも知れない人だからだ。
すごく変なことだけど、もしかしたら、顕信も、テレビで「笑っていいとも!」を見たことがあるかもしんないし、それが、あたしも見てた回かもしんない。別に、「笑っていいとも!」じゃなくてもいいんだけど、あたしが見てた何かの番組を顕信も見てたかもしんないし、おんなじ新聞や週刊誌を読んだ可能性だってある。それに、子供のころの顕信は、将来はマンガ家になりたいって思うほどマンガが大好きだったんだから、あたしも知ってるようなマンガを読んでたんだと思うし、あたしも知ってるようなアニメをテレビで見てたんだと思う。当然、「サザエさん」や「ドラえもん」は知ってただろうし、「ちびまる子ちゃん」だって知ってただろう。
そう思うと、あたしには、顕信の作品が、ただ単に「いいと思う」とか「共感できる」とかってだけじゃなくて、ヤタラと身近に感じられて、なんか、グッと迫って来る。たとえば、あたしが特に好きな「初夏を大きくバッタがとんだ」って句にしたって、300年前に松尾芭蕉が詠んだり、110年年前に正岡子規が詠んだんだとしたら、おんなじ句だとしても、このバッタは江戸時代のバッタだったり、明治時代のバッタだったりしたワケだ。そして、芭蕉の時代には、テレビどころか電気も無かったワケだし、子規の時代には、マンガくらいはあったかもしんないけど、時代背景がぜんぜん違う。
だけど、この現代に生きてて、テレビであたしとおんなじに「ドラえもん」を見て、松田聖子や中森明菜の歌を知ってたであろう人が詠んだ句だって思うと、胸に迫るイメージが大きく違って来る。顕信が、病室の窓からバッタを見た時に、あたしも、この世にいたワケだ。そして、顕信が句作に励んでた3年間て、あたしは12才から14才の間だから、中学生だったワケだ。そう考えると、あたしが中学生活を送ってた3年間に、おんなじニポンの中の岡山で、闘病生活をしながら、赤ちゃんの世話をしながら、一生懸命に言の葉を編んでた人がいたってワケだ。
‥‥そんなワケで、たとえば、顕信とおんなじ昭和36年生まれの人なら、自分が23才から25才までの3年間、どこで何をしてたのかを思い出して欲しい。その3年間に、顕信は、自分の人生をまっとうする作品を残したのだ。顕信より年上の人も、年下の人も、今から13年前から10年前までの3年間に、自分が何をしてたのかを思い出してみて欲しい。そして、もう一度、最初にあげた顕信の17句を1句1句じっくりと味わいながら読んでみて欲しい。そうすると、最初に読んだ時よりも、何倍も深く感じることができるハズだ。あたしが、最後に挙げた句、「ずぶぬれて犬ころ」にしても、どうして「ずぶぬれ『の』犬ころ」じゃないのかってことが、分かる人には分かるハズだ。そんな、住宅顕信の作品は、全281句が収録されてる句集が、今でも1000円台で手に入ると思うので、あたしが紹介した17句を読み直して、何かを感じることのできた人は、ぜひ、読んでみて欲しいと思う今日この頃なのだ。
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