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2006.12.16

木枯らしと夕日

東京でも、朝晩は、もうコートを羽織らないと外を歩けないほど寒くなって来た。だけど、風のない日なら、気温が低くても、まだそんなに寒くない。ようするに、「気温」の問題じゃなくて「体感温度」の問題ってワケで、気温が5℃で無風の日よりも、気温が8℃で北風が吹く日のほうが遥かに寒く感じる。だからコートを着るワケだけど、そう考えると、コートの役割ってのは、「重ね着して温かくする」ってよりも、「風をシャットアウトする」ってことのほうが重要になって来る。もちろん、0℃だとか、マイナス5℃だとかってことになれば、風なんか吹かなくても十分に寒いし、「重ね着して温かくする」って意味でコートを着るワケだけど、ちょうど今ころの東京の場合だと、風に体温を奪われないようにするために、「風をシャットアウトする」ってことのほうが重要だと思う。

で、この体温を奪う冬の北風の第1号が、「木枯らし1号」だ。毎年、テレビの天気予報とかで、「今日、木枯らし1号が吹きました」なんて言って、コートのエリを立てて歩く人たちの映像を流したりしてるけど、この「木枯らし1号」には、地域によって、ちゃんとしたキマリがある。たとえば、東京の「木枯らし1号」なら、「10月の半ばから11月末まで」に吹いた、最初の「風力5以上の季節風」で、気圧配置が「西高東低の冬型」になってることと、風向きが「西北西から北」であることを条件にしてる。そして、これらのすべての条件を満たした風が吹いたら、「今日、木枯らし1号が吹きました」ってことになるワケだ。

他の地域でも、「風力5以上の季節風」ってことと、気圧配置が「西高東低の冬型」ってことは共通だけど、期間とか風向きに関しては、地域によって異なる。だから、ヒトクチに「木枯らし1号」って言っても、全国でいっせいに吹くワケじゃなくて、あっちで吹いたり、こっちで吹いたり、そっちじゃ吹かなかったりってって感じで、どっかのアイドルグループみたいに、バラバラだってワケな今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、今年の東京の「木枯らし1号」は、1ヶ月ほど前の11月12日だったんだけど、去年もおんなじ11月12日で、オトトシは1日違いの11月13日だった。そして、その前は11月17日で、その前は11月2日だから、そんなに大幅にはズレたりしないみたいだ。だから、「木枯らし1号」も、テキトーに吹いてるワケじゃなくて、それなりにリチギなのかもしんない。でも、1950年からの半世紀のデータを見てみると、一番早かったのは、1988年(昭63年)の10月13日ってのもあるし、一番遅かったのは、1969(昭44年)と1981年(昭56年)の11月28日ってのもある。さらには、1959年(昭34年)、1962年(昭37年)、1977年(昭52年)、1979年(昭54年)の4回は、「発生せず」ってなってる。

つまり、ここ数年みたく、リチギに吹いてる年もあるけど、1ヶ月もズレてたり、吹かなかった年もあるワケだから、きっと、何年ごとかに、「木枯らし1号」の担当の風神さまが交代するのかもしんない。だから、大幅にズレたり吹かなかったりした期間の風神さまは、コイズミやアベみたいに無責任なヤツで、ここ数年みたくキチンと吹いてる期間の風神さまは‥‥って、ニポンには喩えられる立派な総理大臣が1人もいないや(笑)

ま、そんなことは置いといて、「木枯らし」ってのは、読んで字のごとく、「木を枯らすほどの冷たい風」って意味だけど、この「木」も「枯」も、中国から渡って来た漢字だ。もちろん、これだけじゃなくて、今、ニポンで使われてる漢字のほとんどは、中国から渡って来たものだ。だけど、それだけじゃなくて、ニポンには、ちゃんとオリジナルの漢字もある。たとえば、お寿司屋さんの湯呑みに書いてある「魚ヘン」の漢字なんかは、その多くがニポンのオリジナルで、中国の人たちは読むことができない。他にも、代表的なものだと、「峠(とうげ)」ってのも、ニポンで作られた漢字だ。だから、映画の「イニシャルD」に出演してた中国人の俳優用の台本には、「ナントカ峠」とか「峠で最速」とかってとこは、きっと別の漢字で書いてあったんだと思う。

あとは、「辻(つじ)」とか「榊(さかき)」とか「鞄(かばん)」とかも純国産の漢字なんだけど、これらを見ると、すべてちゃんと意味があることが分かる。「山」の「上」と「下」で「峠」だし、道を意味する「しんにゅう」と十字路を意味する「十」で「辻」だし、「神」の「木」だから「榊」だし、「革」で「包む」で「鞄」だってワケだ。で、こう言った純国産の漢字のことを「国字(こくじ)」って呼ぶんだけど、この国字の中には、「風」に関係したものも多くて、「凪(なぎ)」とか「凩(こがらし)」とか「颪(おろし)」とか「凧(たこ)」ってのがある。これらも、見て分かるように、「風」が「止」んだら「凪」、「木」を枯らす「風」だから「凩」、山から吹き「下」ろして来る「風」だから「颪」ってワケで、それなりに考えられてる。ただ、「凧」に関しては、「布」って意味で「巾」を使ったのか、タコっぽい形だから「巾」を使ったのかは分かんない。

‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻るけど、ニポンでは、漢字で「こがらし」って書く場合に、「木枯らし」と「凩」の2種類があるワケだ。そして、俳句に使う場合には、視覚的にもできるだけシンプルに見せたいって理由もあって、「凩」のほうを使う場合が多い。それで、あんまり良い句じゃないと思うかもしんないけど、こんな句がある。


 凩や海に夕日を吹き落す  漱石

 凩や雲吹き落す海のはて  子規


「凩」と「海」と「吹き落す」がおんなじで、吹き落とすものが「雲」か「夕日」かの違いしかないから、発想もおんなじってワケで、こう言うのを「類想句」って言うんだけど、夏目漱石と正岡子規は、同級生だし親友だったから、もしかしたら、一緒に詠んだのかもしんない。そして、こんな子規の句もある。


 凩や星吹きこぼす海の上  子規


今度は、夜のバージョンにした上に、「吹き落す」を「吹きこぼす」に変えて、リトル違った感じにしたっぽいけど、それでも、類想句っちゃ類想句だ。それに、強い北風が吹いたから、雲だの夕日だの星だのが海に落ちるだなんて、中学生の女の子のポエムじゃないんだから、天下の子規や漱石が、こう言う「ぬるい句」を詠むのはやめて欲しい‥‥って思う人もいるだろう。で、子規や漱石よりも、ちょっとあとの明治生まれの俳人、会津八一にも、こんな句がある。


 凩や雲吹き落す佐渡の海  八一

 凩や雲裂けて星あらはれぬ  八一


上の句なんて、子規の句とソックリで、最後の部分の「海のはて」を「佐渡の海」に変えただけだし、下の句は、子規の2句を1句にマトメたみたいに見える。だから、もしかしたら、どっかのペテン画伯みたく、子規の句に対するオマージュ(笑)として詠んだのかもしんないけど、どっちが先に詠まれたのかってことを抜きにして言えば、故郷の佐渡の海を具体的に詠んだ点や、雲の切れ目から星空が現われる写実性など、八一の句のほうが、ちょびっと水準が高い‥‥って言っても、所詮は類想句だから、この3人の句は、ぜんぶマトメてボツ!(笑)‥‥で、「凩」と「海」が出て来る似たような句が多い中で、突出してるのが、次の2句だ。


 木がらしや目刺にのこる海の色  龍之介

 海にでて凩帰るところなし  誓子


芥川龍之介の句は、あたしも大好きな句で、スーパーとかでメザシを買う時に、いつも思い出す。ホントに、メザシって、焼くまでは海の色をしてる。だけど、焼くと、炭みたいになっちゃうけど(笑)

それから、山口誓子(せいし)の句は、いろんな解釈がされてるけど、江戸時代の中期の俳人、池西言水(ごんすい)の代表句、「木枯の果てはありけり海の音」を踏まえた上で、第二次世界大戦で、特攻隊として海の彼方へと死にに行った少年たちのことを詠ってるとも言われてる。ちなみに、この山口誓子は、水原秋桜子(しゅうおうし)、阿波野青畝(せいほ)、高野素十(すじゅう)と4人で、「昭和の4S」って呼ばれてた俳人だ。それで、さらにちなみに、この4人の中だと、あたしは、一番好きなのが素十で、次に好きなのが誓子で、3番目が青畝なんだけど、残酷な猫殺し俳人としてオナジミの秋桜子だけは、心の底から軽蔑してる。

‥‥そんなワケで、再度、話をクルリンパと戻して、最初に引いた漱石の句をもう一度引いてから、この句のバックボーンを解説する。


 凩や海に夕日を吹き落す  漱石


漱石が、この句を詠んだのは明治29年なんだけど、漱石は、明治時代になる1年前に生まれたから、明治1年には1才、明治2年には2才ってワケで、明治29年には29才になってた。それで、このころの漱石は何をしてたのかって言うと、明治28年の春から、愛媛の松山中学の英語教師をやってて、翌29年の春に、熊本の第五高等学校に転任した。そして、その年の11月には、この高校の修学旅行に引率として参加して、天草や島原を5泊6日で回ってる。そのルートを見ると、寛永14年(1637年)の「島原の乱」に関連した土地ばかりを巡ってるし、途中で、当時の合戦の様子を再現する実習を行なったって記録もある。だから、この修学旅行は、「島原の乱」を勉強するために行なわれたもので、今どきのチャラチャラした修学旅行とは違ってたみたいだ。

それで、毎度のことだけど、痒いとこに手が届く「きっこの日記」としては、当然、「島原の乱」について軽く触れちゃうけど、チョー簡単に言えば、国民の声を無視して、国民に重税を科したり、国民の言論を封殺したりしたアベ内閣に対して、完全にブチ切れちゃった国民が暴動を起こして、ものすごい内乱が起こっちゃったってことだ。

当時の九州の島原と天草は、もともとがキリシタン大名が統治してた土地だったから、キリスト教の信仰が盛んだった。だけど、元和2年(1616年)に、島原にやって来た松倉重政と、そのバカ息子の松倉勝家は、自分たちのお城を新築するから増税だ、海外旅行に行きたいから増税だって、いろんな口実を作っちゃ厳しい年貢を取り立てるようになった。まさに、今のアベシンゾーとおんなじで、政治の私物化、税金の私物化ってワケだ。そして、寛永7年(1630年)にバカオヤジの重政が死んだと思ったら、アトを継いだバカ息子の勝家は、さらに調子に乗っちゃって、旱(ひでり)が続いてお米がぜんぜん収穫できなかった年まで、今まで以上の年貢を要求した。

これだけでもマトモじゃないのに、このバカ息子は、さらに、住民税だとか住宅税だとか、勝手に新しい税金をどんどん作っちゃって、食べ物さえない領民たちを苦しめて行った。それで、年貢を納められない領民たちから、奥さんや娘を人質にとり、それでも期日までに年貢を持って来ないと、その奥さんや娘に蓑(みの)を着せて、その蓑に火をつけて、焼き殺すところを見せつけたのだ。そして、このバカ息子は、火ダルマになって苦しむ女たちの姿を「蓑踊り」と呼んで、退屈しのぎの余興にしてたのだ。

数の力で防衛庁を防衛省にし、数の力で非核三原則を無視して核武装し、数の力で教育基本法を強行採決してお国のために喜んで死んでくれる子供たちを量産し、数の力で平和憲法を改正して戦争のできる国にするってことは、国民を好きなだけ「蓑踊り」させられるから、テッペンでふんぞり返って眺めてるだけのバカ息子は、きっと楽しいんだろうね。

‥‥そんなワケで、アベシンゾーやブッシュや金正日と同レベルのバカ息子、松倉勝家は、寛永14年(1637年)の10月、年貢を納められない領民たちへの見せしめとして、その村の庄屋だった与左衛門の奥さんを人質にした。なんでかって言うと、この奥さんは、臨月だったからだ。それで、あとわずかで赤ちゃんが産まれる奥さんを裸にして、動けないように体を縛り、身も凍るほどの冷たい水桶の中に、首だけ出して沈めたのだ。そして、バカ息子は、この女を助けたければ年貢を持って来いってノタマッた。

村人たちは、何とか庄屋さんの奥さんと赤ちゃんを救おうと、与左衛門のとこに集まって相談したんだけど、自分たちの食べるものすら何もない状態だったから、どうすることもできなかった。そして、与左衛門の奥さんは、冷たい水の中で1週間も苦しみ抜いた果てに、水の中に赤ちゃんを産み落として、奥さんも赤ちゃんも死んでしまった‥‥。


 「ブチッ」


これが、やりたい放題だったバカ息子と、その手下どもに対して、領民たちの堪忍袋の緒が切れた音だ。10月25日、領民たちは、バカ息子の手足となって悪の限りを尽くしてた代官を袋叩きにしてブチ殺した。そして、これが合図となって、その日のうちに、1000人以上の領民たちが集まった。領民たちは、500挺の鉄砲を用意して、翌日には、島原の南の深江を攻めて、バカ息子の手下の兵隊を300人あまりブチ殺し、そのイキオイで島原城に攻め込んだ。だけど、運悪く、バカ息子は、お江戸に出張中で留守だった。

でも、この島原での暴動に触発されて、海を挟んだ天草でも、悪政に苦しんでた領民たちが立ち上がった。そして、島原の領民たちも加勢して、1万人にまで増えた軍勢は、富岡城へと攻め込んだ。この時に陣頭指揮をとったのが、この地で「神童」とか「救世主」とかって呼ばれてた、若干16才の天草四郎だった。キリシタンだった天草四郎は、十字架を掲げて1万の軍勢を指揮して、次々に自民党のクズ議員ども‥‥じゃなくて、バカ殿の子分どもを倒して行った。それで、政府の悪政にブチ切れてた領民たちはどんどん増え続けて、ついには4万人近い大軍になった。そして、長期戦に備えて、使われてなかった古いお城に、奪って来た食料や武器を大量に持ち込んで立てこもり、お城のあちこちに鉄砲隊を配して、臨戦態勢をとった。

そのころ、ようやく、諸悪の根源のアベシンゾー‥‥じゃなくて、似たようなもんだけど、バカ息子が、仲間を連れてお江戸から戻って来た。そして、要請した援軍とともに、3万人以上の兵士でお城を取り囲んだんだけど、天草四郎のミゴトな采配によるいっせい攻撃によって、大打撃を受けて撤退した。そして、日にちを置いてからもう一度攻め込んだんだけど、前回とおんなじ方法で行ったから、またまた何千人もの死者を出して、撤退するしかなかった。それで、このままじゃ勝てないと思った政府は、お城の食料がなくなるのを待つ作戦に出た。そして、篭城が4ヶ月目に差し掛かろうとした翌年の2月27日、政府軍は総攻撃を仕掛け、2日間の激戦の末、ついに、お城は陥落した。

政府軍は、1000人以上が死に、7000人近くが重軽傷を負ったけど、領民たちのほうは、お年寄りも女性も子供も、生き残った全員が処刑された。だけど、それまでの戦いも合わせると、政府軍は、2万人以上の死傷者を出してるし、この大事件の原因を作った天下のバカ息子、松倉勝家も、責任を取らされて斬首刑になった。そして、この「島原の乱」によって、政府は、完全にキリシタン弾圧に力を入れるようになり、ポルトガルからのキリスト教の宣教師を入国させないために、厳しい鎖国体制をとるようになった。

‥‥そんなワケで、ホントはもっともっと複雑なんだけど、これが、ものすごくカイツマンだ「島原の乱」てワケで、いつの時代にも、庶民を苦しめる元凶は、松倉勝家しかり、金正日しかり、ブッシュしかり、コイズミしかり、アベシンゾーしかり、「世襲システムでお殿様になった世間知らずのバカ息子」ってワケだ。そして、思いっきり遠回りしちゃった話がグルッと1周して戻って来ると、この「島原の乱」が起こった現場を見て回ったのが、漱石先生が引率した熊本の第五高等学校の修学旅行だった。それも、記録によると、ただ単に現場を見て回っただけじゃなくて、途中で、「深江の合戦」と「本渡(ほんど)の合戦」の再現実習まで盛り込んだってんだから、この修学旅行自体が、観光じゃなくて、「島原の乱」を勉強することが目的だったのだ。

そして、漱石の句も、この旅行中に詠まれたものなのだ‥‥ってなワケで、この「島原の乱」を踏まえ、年貢の人質に取られて焼き殺された女性たちや、裸にされて冷水に沈められて殺された妊婦を始め、悪政によって残酷に殺された何万人もの領民たち、そして、その領民たちを指揮して、やはり殺されてしまった天草四郎のことを心に置き、本日、3度目だけど、もう一度、ここに引いてみる。


 凩や海に夕日を吹き落す  漱石


ね? 最初に読んだ時とは、ぜんぜんイメージが違って来たでしょ?

冷たい木枯らしが吹きすさぶ中、天草の海にゆっくりと沈んで行く真っ赤な夕日を見た漱石は、わずか300年ほど前に、この地で起こった壮大な悲劇が脳裏を走り、討ち落とされた天草四郎の首や、何万人もの領民たちの流した血を連想したんだと思う。だって、子規から俳句の指導を受けてた漱石なんだから、普通に夕日を見ただけなら、「海へ夕日の吹き沈む」って詠むハズだからだ。

だけど、この句は、「海へ」じゃなくて、「海に」って詠まれてる。これは、そこに強い目的意識を発生させる助詞の使い方で、主観を嫌う俳句では、基本的には「あまり良くないこと」とされている。そして、「落す」って言う表現も、子規の提唱してる客観写生なら、絶対に「沈む」とするとこだ。つまり、あえて主観的に「落す」としたことによって、数え切れない人たちの苦しみや悲しみ、そして、たった2代で落日のように滅びてしまった松倉家のことを表現してるのだ。だから、この句は、パッと見た感じだと、ただ景色を眺めながら詠んだだけみたいに思えるけど、ホントはそうじゃなくて、300年前に思いを馳せて、この地で起こった歴史的悲劇を風景に詠み込んだ、ものすごく深い句ってことなのだ。

‥‥そんなワケで、あたしたちから見たら、「島原の乱」て、370年も前の遥か昔のことで、自分たちとは関係無いって思う人もいるかもしんない。だけど、今から70年前に、漱石が、300年前の「島原の乱」のことを思って、こんな句を残してくれてるんだから、絶対に忘れちゃいけないことだと思う。それに、370年経った今も、何ひとつ変わらずに、世間知らずのバカ息子の悪政によって、国民は苦しみ続けてるんだから‥‥。だから、最初に、「この3人の句は、ぜんぶマトメてボツ!(笑)」って書いたけど、それは訂正して、子規と八一の句はボツでいいけど、漱石の句だけは覚えておいて欲しいと思う今日この頃なのだ。


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