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2007.01.19

和歌を楽しむために

Shimazaki_top 今度の土日がセンター試験だってのに、「きっこの日記」なんか読みに来てる受験生のアナタ! そーとー余裕があるのか、それとも、ちょっとした息抜きなのか、はたまた、アジのヒラキ直りなのか、とにかく、全国の受験生の皆さん、センター試験、がんばってちゃぶだい♪‥‥ってなワケで、今日の日記は、こんな時期に「きっこの日記」を読みに来てくれた受験生のために、読むとタメになる日記を書こうと思う。だけど、高卒のあたしは、センター試験なんて受けたことないし、どんな学科があるのかも知らない。ま、普通に考えたら、英語とか数学とかはあるだろうけど、あたしの英語は、自己流のデタラメ英語で、部分的にパトワ・イングリッシュも混じってるし、数学なんてハナっから分かるワケない。だから、こんなあたしに何ができるんだろう?‥‥って考えたんだけど、ひとつだけ思いついたのは、古文だった。

 

古文なら、中学生の時からずっと大好きだから、ひと通りのことは分かる。ただ、あたしは、好きで読んでるだけで、受験用の勉強はしたことがない。だから、塾とかで教えてる受験用の古文とは違うかもしんないけど、あたしなりに、「このポイントだけ覚えとけば古文なんか簡単だよ」ってのを書いてみようと思う。だから、今度のセンター試験で、受験科目に古文がある人は、あったかいコーヒーでも飲みながら、最後まで読んでみてね♪‥‥とか言いつつも、ダラダラと長い文章を挙げて解釈なんか書くのは大変だし、そんなことしてたら、勉強してんのとおんなじになっちゃうから、あくまでも、「書いてるあたしが誰よりも楽しむ」って言う「きっこの日記」のレーズンバター‥‥じゃなくて、レーガン元大統領‥‥じゃなくて、レーゾンデートルを最優先するために、あたしの大好きな「和歌」を取り上げようと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、いつもなら、思いつくまま、行き当たりばったりに書いてくんだけど、今日は、学校の先生になった気分で、ちょっとは授業っぽく書いて行こうと思う。だから、まずは、ヒザ上10cmのタイトスカートのスーツに着替えて、ザーマスメガネを掛けて、言うこと聞かない生徒を踏みつけるために12cmのピンヒールのパンプスを履いて、ラジオのアンテナみたく伸びる棒の代わりにムチとローソクを持って、これで、「まいっちんぐキッコ先生」の出来上がり‥‥って、ショッパナからダッフンしつつも、まずは、和歌を味わうためのポイントは、「枕詞(まくらことば)」「序詞(じょことば)」「掛詞(かけことば)」「縁語(えんご)」「本歌どり(ほんかどり)」「体言止め」の6つだ。この6つを覚えれば、和歌の表面に書いてある意味だけじゃなくて、詠み手が31音の奥に忍ばせた本当の思いを読み取ることができる。

 

で、「枕詞」ってのは、「ぬばたまの闇」の「ぬばたまの」とか、「あしびきの山」の「あしびきの」とか、「ひさかたの光」の「ひさかたの」とか、「たらちねの母」の「たらちねの」とか、他にもいろいろあるけど、決まった単語の上にくっつけて、その単語に深みを持たせるための装飾だ。だけど、訳すだけなら、基本的には無視しちゃっていい言葉だ。たとえば、「ぬばたまの」だったら、「闇」とか「髪」とか「夜」とか、「黒いもの」にくっつくけど、枕詞には「語調を整える」って役割もあるから、その和歌を詠んだ人だって、そんなにちゃんと考えて使ってるワケじゃない。だから、その和歌の意味を知るだけなら、無視しちゃっていい。

 

だけど、どんな枕詞がどんな言葉にくっつくのかを知っとかないと、和歌の意味が和歌らなくなっちゃうこともあるので‥‥って、やっと、このダジャレが使えてホッとしつつも、たとえば、「水鳥(みづどり)の」って言う枕詞があるんだけど、これは、「鴨(かも)」「立つ」「浮き」「青葉」にくっつく。だから、「鴨」にくっついた場合なら、これが枕詞だって知らなくても、何も問題ない。

 

 

 水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも  笠女郎

 

 

これは、笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌だけど、「おほつかなく」ってのは「ハッキリしない」って意味で、直訳すると、「カモの羽の色のような春の山みたいで、ハッキリしなくてもどかしいのよ」って意味になる。で、「カモの羽の色のような春の山」ってのは、春霞(はるがすみ)が掛かってボンヤリした山のことで、何が「ハッキリしなくてもどかしい」のかって言えば、「あなたの気持ち」、つまり、大伴家持の気持ちってワケだ。ようするに、「あたしのことが好きなのかどうなのか、ハッキリしなさいよ!」ってことだ。そして、この歌の場合は、「水鳥の」が枕詞だってことを知らなくても、そのまま読むことができる。そして、この枕詞が、「立つ」や「浮き」にくっついても、それなりに理解できる。

 

 

 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき  有度部牛麻呂

 

 

この有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)の歌は、説明の必要は無いと思うけど、「父さんと母さんに何も言わずに、急いで出て来てしまった。今思うと、もっと父さんと母さんとの時間をゆっくりと過ごせば良かった」って感じだ。それで、枕詞を無視しても訳せるし、「水鳥が飛び立つように、あわただしく出て来てしまった」って訳しても問題ない。だけど、この枕詞が「青葉」にくっつくと、枕詞だってことを知らない人には、理解できなくなっちゃう。

 

 

 秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば  三原王

 

 

この三原王(みはらのおおきみ)の歌は、前の2首よりも、リトル難しくなる。まず、「移し」だけど、これは、草花を搾った汁を染み込ませた和紙のことで、いったん、この和紙にとった汁をあとから絹などに移して染めたことから、「移し」って呼ばれてた。そして、「水鳥の」は、「青葉」に掛かる枕詞だから、無視して読む。つまり、「青葉の山々が秋の色に色づいてゆくのを見ていると、秋の露を『移し』に染み込ませてあるんだな~って感じるよ」って意味になる。で、万葉の時代には、今みたいに「紅葉」じゃなくて、秋には「黄葉」を愛でたから、この「秋色」は「黄金色」って解釈すべきだろう。だから、この歌を読む場合には、「移し」ってものを知らないと理解できないし、「水鳥の」が枕詞だってことを知らないと、「水鳥の生息地である青葉山に~」なんて、トンチンカンな意味になっちゃうのだ。

 

この、「水鳥の」とおんなじように、覚えといたほうがいい枕詞に、「紅(くれなゐ)の」ってのがある。これは、「色」「浅」「うつし心」などにくっつくんだけど、一番間違いやすいのが、「色」にくっついた場合だ。普通、「紅の豚」‥‥じゃなくて、「紅の色の~」って書いてあったら、これが枕詞だってことを知らなければ、「赤い色」のことだと思っちゃうだろう。だけど、これは、「色の中で一番目立つ」ってことから、「色」の代表として枕詞になってるワケで、赤に限らず、青でも緑でも何色にでも使ってる。

 

 

 言ふことの畏(かしこ)き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも  大伴坂上郎女

 

 

この大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌も、ちゃんと理解するためには、リトル知識が必要になって来る。まず、「畏き」ってのは、「恐き」って書く場合もあるんだけど、「恐い」って意味だ。それから、「な出でそ」ってのは、ずっと前から「きっこの日記」を熱心に読んでた人なら覚えてると思うけど、2005年11月22日の「和歌の心」の中の、柿本人麻呂の歌の「な散り乱ひそ」のとこで説明した、「な」と「そ」のサンドイッチだ。動詞を「な」と「そ」でサンドイッチすると、「~するな」って意味になる。だから、「な散り乱ひそ」は「散り乱れるな」って意味だし、「な出でそ」は「出すな」って意味だ。

 

そして、「紅の色」って書いてあっても、この「紅」は枕詞だから、別に赤いワケじゃなくて、単に「色」って意味になる。だから、「紅の色にな出でそ」ってのは、「色を出すな」って意味になる。で、何の色を出しちゃいけないのかって言うと、全体を読めばナニゲに分かると思う。「言ふことの畏き国ぞ」、つまり、「アベ内閣が共謀罪を強行採決したら、何も言えない恐ろしい国になっちゃうぞ」って言うか、「すでに共謀罪が施行されてるみたいな、言論の自由のない恐ろしい国だ」って言ってるワケで、だから、「言いたいことがあっても、絶対に言っちゃダメだし、それどころか、顔色に出してもダメだよ。たとえ、悩み抜いて死ぬことになったとしても」って意味になる。だから、この「紅の」が「色」に掛かる枕詞だってことを知らなかったら、他の部分がぜんぶ分かってたとしても、トンチンカンな意味になっちゃうのだ。

 

‥‥そんなワケで、単純な「枕詞」なんかサクサクと終わらせて、もっと重要な「序詞」や「掛詞」に重点を置こうと思ってたのに、書き始めると、どんどん長くなっちゃう‥‥って言うか、「枕詞」だけで、あと1万文字くらいは書きたいんだけど、そうも言ってらんないから、続いては「序詞」ってワケで、これは、「枕詞」みたいな決まったものじゃなくて、和歌を構成してる「前半」のことを指す。和歌は、「5・7・5・7・7」だけど、この「5・7・5」が上の句で、「7・7」が下の句で、たいていの場合は、上の句で景色とかを詠んで、下の句で自分の気持ちを詠んでて、この上の句のことを「序詞」って呼ぶ。

 

もちろん、これは、「たいていの場合は」ってことで、そうじゃないのもいっぱいある。たとえば、「5・7」が序詞で、残りの「5・7・7」で自分の思いを詠んでるのもあるし、序詞のないものもある。だけど、和歌の基本構造は、自分の思いを最初っからストレートに言うんじゃなくて、まずは当たり障りのない景色とかのことを詠んどいて、後半にチョロっと自分の思いを言うのが、雅やかな万葉の文化ってワケで、まずは、例を挙げてみる。

 

 

 わが宿の菊の垣根に置く霜の消えかへりてぞ恋しかりける  紀友則

 

 

これは、「古今和歌集」の中の有名な歌だけど、意味としては、そのまんま東で、「私の家の菊の垣根の霜が消えてゆくように、わが身も消えてなくなりそうなほど、あなたのことが恋しいのです」ってことだ。そして、この歌の「5・7・5」の上の句、「わが宿の菊の垣根に置く霜の」が、序詞に当たる。で、この、序詞である「わが宿の菊の垣根に置く霜の」が何を言おうとしてるのかって言えば、「消える」ってことだ。そして、この「消える」が、後半の作者の思いである「わが身も消えてなくなりそうなほど」の「消える」へとつながって行き、最終的には、「それほどあなたのことが恋しいのです」ってことになる。つまり、何よりも伝えたいことは、「あなたを愛してます」ってことで、そこに持ってくために、「垣根の霜」とかを引っぱり出してるってワケなのだ。

 

普通、「序章」とか「序盤」とか、「序」って字がつくと、最初のチョコっとのことなんだけど、和歌の序詞の場合は、全体の半分以上、場合によっては、全体のほとんどをこの序詞が占めてて、最後にほんのちょっとだけ自分の思いを述べるってスタイルなのだ。だからって、序詞とまったく無関係な思いは組み合わせらんないから、簡単に言うと、何かの言葉を引き出すために序詞を詠み、その引き出した言葉が自分の思いへとつながるようになってる。この紀友則の歌なら、「わが身が消えてなくなりそうなほど、あなたが恋しい」ってことを言いたいがために、その中の「消える」って言葉をキーワードにして、そのキーワードを引き出すために、「消える」ものの中で味わいのある「垣根の霜」を序詞に詠んだってワケだ。

 

 

 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か  壬生忠岑

 

 

この壬生忠岑(みぶのただみね)の歌も、おんなじ「古今和歌集」からだけど、これもすごく分かりやすい歌だ。「風が吹いたら桶屋は儲かるけど、山に掛かってる白雲は、その峰に吹き分かれて、途絶えてしまう。それは、まるで、すっかり連絡が途絶えている、つれないあなたの心のようです」って意味だ。そして、この歌の序詞も、「5・7・5」の上の句、「風吹けば峰にわかるる白雲の」ってワケで、この序詞が引き出してる言葉が、「絶えて」ってことになる。つまり、壬生忠岑が言いたいことは、「絶えてつれなき君が心か」の部分であって、ここに持って来るために、そのキーワードである「絶えて」を引き出すための序詞、「風吹けば峰にわかるる白雲の」を前半に置いたってワケなのだ。

 

この2首で、だいたいの雰囲気は分かったと思うけど、詠み手は、まず、自分の思いを伝えるためのキーワードを決めて、そのキーワードを引き出すために、オシャレな前半部分を作ってる。そして、そのオシャレな前半部分のことを「序詞」って呼ぶんだよね。で、この流れでトットと「掛詞」へと突入しちゃうけど、これも、今までに何度か説明したことのある和歌の手法のひとつで、「はる」って書いて「春」と「張る」の2つの意味に読ませたり、「よ」って書いて「世」と「夜」の2つの意味に読ませたりするレトリックのことだ。これも、例を挙げたほうが早いと思う。

 

 

 立ち別れ因幡の山の峰に生ふる待つとし聞かばいま帰り来む  在原行平

 

 

この歌は、「中納言行平」の名で百人一首にも選ばれてるので、知ってる人も多いと思うけど、プチ情報としては、この在原行平(ありはらのゆきひら)は、平安時代の福山雅治、在原業平(ありはらのなりひら)のお兄さんだ。それから、もうひとつ、自分の飼い猫がいなくなった時には、この歌の下の句、「まつとし聞かばいま帰り来む」をワリバシの袋くらいの紙に縦書きして、いつも猫が外に行く時に出入りしてた場所の下のほう、猫の頭の高さくらいのとこに貼っとくと、無事に帰って来るオマジナイになる。

 

で、クルリンパとモトに戻るけど、この歌には、2つの「掛詞」がある。それは、「因幡」と「待つ」だ。「因幡」には「去(い)なば」が掛かってて、「待つ」には「松」が掛かってる。つまり、「あなたと立ち別れて私が去ってしまっても、因幡の山の峰に生えている松のように、あなたがじっと待っていると聞いたら、私はすぐに帰って来ましょう」って意味になる。これが「掛詞」なんだけど、この「因幡」みたく、地名を使ったものがケッコー多い。たとえば、「淡路」と「会はじ」とか、「明石」と「証し」とか、これらはそのままだし、「近江(おうみ)」と「会ふ」とか、「松山」と「待つ」みたいに、部分的なのもある。もっと複雑なものだと、「墨染」と「住み初め」とか、航路を示す標識の「澪標(みおつくし)」 と「身を尽くし」とか、数え切れないほどのパターンがある。

 

ようするに、掛詞って、オヤジギャグみたいなもん‥‥って言うか、オヤジギャグそのものなんだけど、これが、和歌を読む上で、ものすごいポイントになる。何でかって言うと、この掛詞って、その前に説明した序詞と深い関係があるからだ。序詞は、自分の伝えたい気持ちのキーワードを引き出すための前フリだけど、そのキーワードが掛詞になってるパターンの歌がいっぱいあるからだ。たとえば、次の歌。

 

 

 梓弓引けば本末わが方によるこそまされ恋の心は 春道列樹

 

 

この春道列樹(はるみちのつらき)の歌も、「古今和歌集」からだけど、「梓弓(あずさゆみ)」ってのは、その通り、梓の木で作った弓のことだ。だけど、ここがまたまたポイントで、この「梓弓」ってのも、「引く」に掛かる枕詞なのだ。つまり、実際には梓の木で作った弓じゃなくて、別の木で作った弓だったとしても、枕詞として「梓弓」って言葉を置いてる可能性もある。だから、「水鳥の鴨」とおんなじで、「梓」の部分は無視しちゃっていい。ようするに、梓だろうが何だろうが、「弓を引いた」ってことが重要なワケだ。で、弓の上の端を「本(もと)」、下の端を「末(すえ)」って呼ぶことから、「本末(もとすえ)」ってのは、弓の両端てことで、「弓を引いたら、弓の両端が自分のほうに寄って来た」って意味になる。それで、この歌の序詞は、前に序詞のとこで例に引いた2首とおんなじで、「5・7・5」の上の句、「梓弓引けば本末わが方に」ってことになる。そして、この序詞が引き出してるキーワードが、「寄る」ってワケだ。

 

じゃあ、春道列樹は、この「寄る」ってキーワードから何を伝えたかったのかって言えば、「夜こそまされ恋の心は」ってことで、知らないうちに、「寄る」が「夜」になっちゃってる。これは、「昼間でもあなたに恋こがれているのに、夜になればもっと恋心が増すんです」って意味で、最初っからダイレクトに「夜」って言っちゃうと、あまりにもナマナマしいから、「寄る」に掛けて、間接的に言ってるのだ。これが、掛詞をキーワードとして利用した手法で、同音異語が多いニポン語だからこそのレトリックってワケだ。で、ここまでのマトメとして、次の歌を読んでみよう。

 

 

 つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れてあふよしもなし  藤原敏行

 

 

「つれづれ」は、「徒然草(つれづれぐさ)」の最初の「つれづれなるままに~」でオナジミだけど、「長く続く」とか「退屈」とか「ボーッとしてる」とかって意味だ。そして、この「ながめ」は、「眺め」と「長雨」との掛詞になってる。だから、序詞の部分の「つれづれのながめにまさる涙川」は、掛詞によって2つの意味を持ってる。「つれづれの長雨にまさる涙川」の場合は、「涙川」が現実の川のことになり、長雨によって水嵩が増した川の景が見えて来る。だけど、「つれづれの眺めにまさる涙川」の場合は、宙の一点を眺めて、さびしげにボーッと物思いにふけってる作者の姿が見えて来るから、ハマちゃんとミチコさんみたく、この2つを合体させると、「さびしげにボーッと物思いにふけってると、長雨で増水した川のように、私の涙の川もあふれそうになって来ます」って意味になり、そして、後半の「あなたに会えないから、私は自分の袖を涙で濡らしています」って部分へと流れてくってワケだ。

 

で、この歌は、当然、片思いの女の子に贈ったものだけど、その女の子は、まだすごく若くて、上手に歌が詠めなかった。それで、あんまり変な歌をお返しするのも失礼だってことで、自分がお世話になってた家のご主人様に、ゴーストライターを頼んじゃった。それが、またまた登場の平安時代の福山雅治、在原業平だ。何でかって言うと、藤原敏行が好きになって歌を贈ったのは、在原業平の奥さんの妹だったのだ。それで、天下の和歌の名手、在原業平がゴーストライターになったもんだから、ものすごい秀作ができちゃった。

 

 

 浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ  彼女のフリした在原業平

 

 

「ひつらめ」ってのは、「濡れる」って意味の「漬(ひ)つる」に、推量の助動詞、「む」の已然形をくっつけたものだから、「濡れるのでしょう」って意味だ。だから、「袖しか濡れないのは、まだまだ涙の川が浅いからでしょう。あなたの身まで流されるほどだと言うのなら、あなたのお気持ちをお受けしましょう」って感じの意味になる。で、詠んだのはゴーストライターの在原業平だけど、ちゃんと彼女の気持ちを聞いて、それを上手に歌にしたってワケだ。だから、「あなたの気持ちがホントなら、求婚をお受けします」って意味に間違いはない‥‥って、またまたダッフンしちゃったみたいに見えるけど、これらの歌の中に、まだ説明してない「縁語」が使われてるのだ。

 

「縁語」ってのは、読んで字のごとく、「縁のある語」ってワケで、「雨」と「降る」とか、「雪」と「消える」とか、「草」と「枯れる」とか、「海」と「波」とか、「波」と「舟」とか、ようするに、マジカルバナナみたいなもんだ。だから、1つの言葉に1つの縁語しかないワケじゃなくて、「海」だったら、「波」の他にも、「沖」とか「潮」とか「漕ぐ」とか「寄る」とかたくさんある。また、「消える」は「雪」だけの縁語じゃなくて、「火」の縁語でもある。だけど、ここが重要なんだけど、「雪が消える」とか、「海の波」とかって使い方をしたら、縁語でも何でもなくなっちゃう。

 

それで、藤原敏行の歌だと、「長雨」と「濡れて」が縁語ってことになる。何でかって言うと、袖が濡れてるのは「涙」のセイで、雨に濡れてるワケじゃないからだ。それから、彼女のフリした在原業平の歌のほうは、リトル複雑なんだけど、「流る」が「泣かる」と掛詞になってて、そして、その「泣かる」が、「涙」と縁語になってるのだ。そして、この両方のパターンを持ってるのが、次の歌だ。

 

 

 白雪の降りてつもれる山里は住む人さへや思ひ消ゆらむ  壬生忠岑

 

 

またまた登場の壬生忠岑だけど、この歌の「白雪」と「消ゆ」は、藤原敏行の「長雨」と「濡れて」とおんなじパターンで、縁語になってる。そして、「思ひ」の「ひ」は、「火」と掛詞になってて、そして、その「火」と「消ゆ」も、彼女のフリした在原業平の「泣かる」と「涙」とおんなじパターンで、縁語になってる。で、何で「思ひ」の「ひ」が「火」と掛詞になってるのかって言うと、「火の消えてしまった山里」って景をイメージさせて、わびしさを醸し出すためなのだ。

 

‥‥そんなワケで、和歌を楽しむための残りの2つ、「本歌どり」と「体言止め」に関しては、ものすごく説明が長くなっちゃう上に、たぶんテストには出ないと思うから、ここまでに説明して来た「枕詞」「序詞」「掛詞」「縁語」の4つを覚えとけば、ちょっとは役に立つと思う。とにかく、テストに和歌が出て来たら、まずは、その和歌に使われてる名詞や動詞や形容詞などの中で、2つの意味に読める言葉を探すことがポイントだ。「春」と「張る」とか、「松」と「待つ」とかってことだ。そして、そういう言葉が見つかったら、Aの意味で全体を読んでみてから、Bの意味でも全体を読んでみる。そうすると、ホントの意味が見えて来て、作者が一番言いたいことも自然と分かって来る。これは、ほとんどの和歌に通じるポイントだから、センター試験の直前に、ノンキに「きっこの日記」なんか読みに来たことが、もしかしたら、ラッキー、クッキー、八代亜紀ってことになるかも知れないと思う今日この頃なのだ♪

 

 

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