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2007.01.24

退化の改心

Kamenoko1 ここんとこ、夕方から深夜までのお仕事が連続してて‥‥って言っても、昨日の月曜日からアサッテの木曜日までの4日間だけなんだけど、オカゲで、昼間の時間帯にのんびりしてる。それで、ホントはやらなくちゃなんないことがマウンテンなんだけど、あまりにも忙しい日々が続いてたから、少しは精神的にリフレッシュしようと思って、昨日は、1時間ほど多摩川をお散歩した。お天気が良くて、多摩川はキラキラと輝いてて、陽だまりで猫がお昼寝してて、すごく気持ち良かった。

 

で、今日は、お昼くらいまでゆっくり寝てようと思ってたんだけど、朝早く目が覚めちゃったから、午前中にお洗濯をして、11時くらいからサイクリングに行くことにした。だけど、プジョーのマウンテンバイクは、タイヤが2本ともペタンコのままホッタラカシにしてあるから、他には、スケボーか、キックスケーターか、ママチャリしかない。でも、スケボーには「ジェリー・ロペス」って名前をつけてるし、キックスケーターには「ベスパ P150X 工藤ちゃんスペシャル」って名前をつけてるし、ママチャリには「フェラーリ F2004」て名前をつけてるから、名前だけなら一流だ。だけど、名前はともかく、あたしは「サイクリング」をしようと思ったんだから、この中だったら、ママチャリを選ぶしかない。

 

まあ、フェラーリのF1ほどは早くないけど、立ち漕ぎすればケッコー速いし、あたしは楽しくサイクリングしたいだけだから、スピードは要求してない。それで、まずは、お弁当を作ることにして、ゆかりのオニギリとゴマ塩のオニギリを作った。ゆかりのオニギリって言っても、テレビ朝日の「秘湯ロマン」でオナジミの美女、春馬ゆかりちゃんが作ってくれたオニギリってワケじゃなくて、シソの粉みたなのを振りかけたオニギリってワケだし、ゴマ塩のオニギリって言っても、ゴマフアザラシの肉の塩漬けを握ったワケじゃなくて、ゴマと塩を振りかけたオニギリってワケで、こんな分かりきったことを書いて文字数を稼いでみた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、あたしは、オニギリを2個と東京タクアンを3切れのお弁当と、小型の保温水筒にお茶を入れて、サイクリングに出発した。それで、いつもは、多摩川を上流へ向かって走るんだけど、今日は久しぶりに、下流に向かうことにした。裏道から多摩川の土手に出て、最初は土手の上のサイクリングロードを走って、途中でサイクリングロードが無くなるから、そこからは土手の下の平地を走った。とにかく、昨日とおんなじでお天気が良くて、あたしは手袋とマフラーをしてたんだけど、昔のジャイアンツの練習グランドが見えて来た辺りから、だんだん暑くなって来た。

 

それで、ここから先は、土手の下は走れなくなるので、上の玉堤(たまづつみ)通りに出て、しばらく歩道を走ると、アザラシのタマちゃんで有名になった丸子橋が見えて来る。そして、丸子橋の中原街道を越えれば、また河原に下りられるんだけど、あたしは、そこまでは行くのをやめた。何でかって言うと、久しぶりにこっちに来たから、多摩川台公園に行って、あたしの故郷、亀甲山古墳を見ようと思ったからだ。亀甲山古墳は、ホントは「かめのこやまこふん」て読むんだけど、あたしは勝手に「きっこーやまこふん」て読んで、自分の故郷ってことにしてる(笑)

 

簡単に言えば、多摩川を望む高台に、一番大きい亀甲山古墳を始めとして、10個もの古墳が1列に並んでて、それを公園として保存してるのが多摩川台公園てワケだ。高台の上が公園になってるから、急な階段を上ってかなきゃなんないんだけど、足の悪い人や車椅子の人のために、迂回するゆるやかなスロープも作られてるし、広い園内に点在してる公衆トイレは、女性用と男性用の他に、ちゃんと車椅子用の個室もついてる。広い園内には、「あじさい園」「四季の野草園」「水生植物園」があって、ベンチや休憩所もあちこちにあって、すべてにおいてワンダホーな公園なのだ。

 

‥‥そんなワケで、あたしは、玉堤通り沿いの自転車置き場にママチャリを置いて、お弁当を持って、階段を上がって行った。久しぶりに来た多摩川台公園は、お天気が良かったからだと思うけど、あっちのベンチに1人、こっちの四阿(あずまや)に1人、向こうの石段に1人って感じで、日向ぼっこをしながら本を読んでる人がいた。あたしも、本を持ってくれば良かったな~なんて思いつつ、まずはお弁当を食べようと思って、「四季の野草園」に向かったんだけど、こんな時期だったから、何も咲いてない上に、通路に塩みたいな白い粉が撒いてあって、「作業中だから入るな」的なことが書いてあった。

 

だけど、迂回して先に進んだら、斜面には背の低い紅白の梅が咲き始めてて、青空には飛行機雲が流れてて、すごくイイ感じだった。それで、しばらく梅を愛でてから、その先の「水生植物園」に行ったんだけど、ここも、こんな時期だったから、何もなかった。ここは、もともとは、亀甲山古墳の一部だったんだけど、大正時代に、飲み水を作るために、古墳を削って浄水池を作っちゃったのだ。で、その跡地を水生植物園にしてるから、この池の先に見えるコンモリした森が、亀甲山古墳てワケなのだ。

 

ちなみに、ホントは「かめのこやまこふん」て読むのに、あたしが「きっこーやまこふん」だなんて書いちゃったもんだから、文中に「亀甲山古墳」が出て来るたびに、ナニゲに頭の中で「きっこーやまこふん」て読んじゃってる人、あなたは、すでに、あたしの術中にハマってます(笑)‥‥なんてことも言ってみつつ、あたしは、水生植物園の池に渡されてる板の上を歩き回って、しつこく水中を観察したんだけど、水生植物も水生昆虫も何も発見できなかった。それで、あたしは、この池を眺めながらお弁当を食べようと思って、石段に腰を下ろしたんだけど、池の上の立ち入り禁止地区に、ナゼかカラスがいっぱい入ってる鳥小屋があって、カラスたちがバタバタしながら、ずっとカーカーカーカー鳴いててヤカマシイから、別の場所に行くことにした。

 

それで、水生植物が1本もなかった「水生植物園」を出て、亀甲山古墳に沿ってお散歩して‥‥って言っても1分か2分だけど、すぐ先にある、多摩川を一望できる四阿でお弁当を食べることにした。目の前は、木々の間から多摩川が見えるし、振り向けば、あたしの故郷の亀甲山古墳がコンモリしてるし、オニギリも美味しいし、お茶も美味しいし、すごくリッチー・ブラックモアなヒトトキだった。いくら現代人の手によって部分的に削られちゃったとしても、今から1500年も前の古墳時代に作られた亀甲山古墳が、今でも、あたしの後ろにコンモリしてるんだし、いくら現代人のセイで汚されちゃったとしても、人間が誕生する前から流れ続けて来た多摩川が、今でも、あたしの前を豊かに流れてるからだ。あたしは、これって、奇跡だと思う。

 

だって、この亀甲山古墳があるのは、大田区の田園調布なのだ。そう、東京の高級住宅地としてオナジミの田園調布ってワケで、1坪いくらなのか知らないけど、たぶん何百万円もするんだと思う。そして、駅から歩いて2~3分で、タテが100m以上、ヨコが50m近くもある亀甲山古墳は、守銭奴どもの目には、格好のマンション建設予定地にしか見えないだろう。何しろ、その地域の人たちが、毎年、春になって満開になるのを楽しみにしてた歴史ある桜の木を何本も伐り倒してでも、お金のために平然と耐震偽装マンションをおっ建てちゃうようなヤツラだらけの世の中なんだからね。だから、現実に、古代人の住居跡だの、貝塚だの、かけがえのない歴史ある財産がぶっ壊されて、その上にマンションが建てられてる。

 

‥‥そんなワケで、亀甲山古墳が、こんなにもワンダホーな立地条件なのにも関わらず、何で、アベシンゾーの後援会の副会長に破壊されなかったのかって言うと、昭和3年(1928年)に、国の史跡に指定されたからだ。だから、大正時代にはリトル削られちゃったけど、昭和3年以降は、そのままの形で保護されてるし、今でも、周りから見ることはできるけど、1周をグルッと金網で囲まれてて、中に入ることはできない。だけど、この「きっこの日記」とおんなじで、痒いとこに手が届く多摩川台公園だから、亀甲山古墳の端を曲がった運動広場のワキに、管理事務所と併設された、素晴らしい「古墳展示室」がある。そして、何よりも嬉しいのが、無料だってことだ。毎週、月曜日が休館日だけど、それ以外の日は、無料で見学できる。

 

小さなスペースだけど、展示室に入ると、古墳の横穴式石室を再現したドーム型の部屋の中に、周りの古墳から発掘された勾玉(まがたま)などの装飾品とか、刀の錆びてボロボロになったのとか、埴輪(はにわ)や土器のレプリカとかが展示してある。そして、部屋の中央には、棺(ひつぎ)を模したガラスケースの中に、当時の装束を着せたマネキンが横たわってて、その周りには、当時の埋葬とおんなじように、装飾品などが並べられてる。無料で、こんなに興味深いものが見られるだけでも素晴らしいのに、入り口のとこには、「亀甲山古墳」「宝莱山(ほうらいさん)古墳」「多摩川台古墳群」の3枚のポストカードが置いてあって、自由にもらえるのだ。ポストカードって言っても、それぞれの古墳を上空から写した写真と、詳しい解説文が書いてあるもので、誰かに送るってよりも、自分でコレクションして楽しむって感じのものだ。

 

で、「宝莱山古墳」と「多摩川台古墳群」が何なのかって言うと、亀甲山古墳とおんなじくらいの大きな古墳が宝莱山古墳で、この2つは向かい合わせになってる。そして、この2つの大きな古墳の間に、1号墳から8号墳までの小さな古墳が1列に並んでるんだけど、その8つが多摩川台古墳群だ。それで、亀甲山古墳は、国の史跡に指定されてるけど、宝莱山古墳のほうは、1ランク落ちて、東京都の史跡に指定されてる。ま、国でも都でもどっちにしても、史跡にさえ指定されてれば、アベシンゾーの息の掛かった悪徳建設業者に破壊されることはないから、とりあえずは、守銭奴の多い日も安心だ(笑)

 

‥‥そんなワケで、コフンコフンって言っても、別にセキをしてるワケじゃないし、結局は「お墓」のことなんだけど、単なる「お墓」じゃない。ピラミッドとおんなじで、その人が生きてるうちに作って、自分の権力を知らしめるためのものだから、とにかく、デッカイ古墳を作ったほうが偉いってことになる。そして、この、亀甲山古墳とか、宝莱山古墳とか、多摩川台古墳群とかは、いったい誰が作ったのかって言うと、たぶん、雇われたか命令されたかした、何百人もの一般の人たちだ‥‥ってのは答になってないけど、とにかく、これだけの古墳群を作れたんだから、ものすごい権力を持ってた王様ってことになる。で、「日本書紀」の中の「安閑(あんかん)紀」に、「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」について書いてあるんだけど、まずは、そこんとこを抜き出してみる。

 

 

武蔵国造、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と、同族、小杵(おき)と、国造を相争いて、 使主、小杵、皆名なり。 年経(ふ)るに決(さだ)め難し。小杵、性(ひととなり)阻(うぢはやく)くして、逆(さか)ふこと有り。心高びて順(まつろ)ふこと無し。密(ひそか)に就きて援(たすけ)を上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。京に詣でて状(そのかたち)を言す。朝庭(みかど)臨断(つみさだ)めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅す。国造使主、悚憙(かしこまりよろこび)懐(こころ)に交(み)ちて、黙已(もだ)あること能はず。謹みて国家の為に、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たま)、倉樔(くらき)、四處の屯倉(みやけ)を置き奉る。是年、太歳甲寅(きのえとら)。

 

 

‥‥なんて書いても、ぜんぜん分かんないと思うから、簡単に説明しつつ今どきの言葉に訳すけど、まず、「国造(くにのみやつこ)」ってのは、その国を治める首長のことだ。つまり、「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)」ってのは、武蔵の国の一帯を取りまとめてる一番偉い人ってことになる。で、その武蔵の国は、北のほうを本拠地にしてた笠原一族と、南のほうを本拠地にしてた小杵(おき)一族が、もともとは同族なのに、長年、国造の座を争ってて、決着がついてなかった。それで、小杵一族のボスは、すごく激しい性格だったから、笠原のボスを殺してしまおうと思って、今の群馬県にあった「上毛野の国」を治めてた小熊(おくま)一族のボスに協力を頼んだ。

 

だけど、笠原のボスは、その暗殺計画に気づいて、京の朝廷に助けを求めに行った。そして、全国統一をもくろんでた大和朝廷は、もともと巨大な勢力だった「上毛野の国」が目障りだったこともあって、笠原一族に力を貸すことにした。それで、笠原一族のとこに援軍を派遣して、小杵のボスをやっつけて、武蔵の国の国造を笠原のボスにやらせることにした。朝廷のハカライで国造になれた笠原のボスは、心から感謝して、自分の治めることになった武蔵の国の中の、横渟、橘花、多氷、倉樔の4ヶ所に、朝廷の直轄地を作って献上した。そして、このドタバタ劇が、「武蔵国造の乱」てワケだ。

 

で、この「武蔵国造の乱」について書かれてる「日本書紀」の中の「安閑紀」ってのは、その名の通り、安閑(あんかん)天皇の時代ってワケで、神武天皇から始まって27代目の安閑天皇は、元年が534年だ。そして、笠原が本拠地にしてた「武蔵の国の北」ってのが、今の埼玉県にあたる荒川の下領域で、小杵が本拠地にしてた「武蔵の国の南」ってのが、今の多摩川の中流域から下流域に掛けてと、神奈川県の鶴見川の下流域だった。つまり、あたしが、今日、行って来たのは、小杵の本拠地ってワケだ。

 

そして、多摩川に沿って亀甲山古墳や宝莱山古墳が造られたのが、4世紀から5世紀に掛けてで、その上流の野毛古墳群も合わせると、約5kmほどの間に、ナナナナナント! 50もの古墳があるのだ。さらには、もっと上流には、現在の世田谷区の喜多見や狛江市の辺りにも古墳群があって、多摩川に沿ってずっと続いてる。そして、これらの古墳は、出土品や地層などから判断すると、だいたい、6世紀の初めには造られなくなってる。だけど、多摩川沿いの古墳が造られなくなると、今度は、笠原の本拠地の辺りに、次々と古墳が造られるようになる。これが、「さきたま古墳群」で、「さきたま」ってのは「埼玉」のことだ。

 

この古墳建造の流れを見ると、武蔵の国ってのは、5世紀までは小杵一族のほうが力を持ってたんだけど、6世紀に入ってからは、急に、小杵一族の力が無くなって、笠原一族が力を持つようになったってことが分かる。つまり、この境目に起こったのが「武蔵国造の乱」てワケで、朝廷の力によって、北を本拠地にしてた笠原が国造の座につき、小杵一族は衰退したってワケだ。ちなみに、現在の埼玉県には、「笠原」って地名があちこちにあるんだけど、これは、この国造になった笠原の名前から来てるって言われてる。また、野毛古墳群がある世田谷区の「上野毛(かみのげ)」は、小杵が助太刀を頼んだ小熊の国、群馬県の上毛野(かみつけ)と関係があるような気がする。

 

小杵が力を借りた「上毛野の国」ってのは、当時、ものすごく強大な力を持ってて、朝廷からは独立した大きな国だった。現在の群馬県太田市には、全長が210mもある巨大な前方後円墳、「太田天神山古墳」があるんだけど、上から見ると、亀甲山古墳の4倍もの大きさだ。だから、上毛野の国の小熊の力を借りた小杵と、朝廷の力を借りた笠原とは、力関係としてはおんなじくらいだった。だけど、やっぱり、痩せても枯れても朝廷は朝廷だから、最終的には笠原を勝利に導いた。それで、武蔵の国を治めることになった笠原一族は、埼玉に次々と古墳を造り始めたんだけど、それは、小杵に力を貸した上毛野の国への力のアピールでもあった。そして、小杵一族だけじゃなくて、小杵に力を貸した上毛野の国も、だんだんと衰退してったのだ。

 

‥‥そんなワケで、こういった同族間での争いの原因にもなった「国造」ってシステム、「国県制」は、このあとの645年に、「無事故(645)で世づくり」でオナジミの「大化の改新」によって消えることになる。大化の改新による「国郡制」の施行で、それまでの「国」が廃止になったからだ‥‥なんてことも言いつつ、多摩川台公園の古墳展示室を出たあたしは、今度は多摩川駅のほうへ降りてから、駅前の道をのんびりと歩いて、途中のお店で、名物の「鮎焼き」を買うことにした。これは、見た目は鯛焼きの鮎バージョンなんだけど、焼きながら売ってるアツアツなものじゃなくて、できたものが袋に入って売られてて、人形焼の鮎バージョンて感じだ。

 

駅に近いほうのヨロズ屋さんみたいなお店で売ってるほうは、5匹入ってて500円でリトル高いんだけど、背ビレとか顔とかがハッキリしてて、若干、イナバウアーしてるから、イキが良く見える。そして、その数軒ほど先の大黒堂って言う和菓子屋さんで売ってるほうは、5匹入りなら420円、7匹入りなら580円くらいで、1匹80円ちょっとの計算になる。だから、値段はこっちのほうが安いんだけど、全体にヌメ~ッとした形で、あんまり鮎っぽくない。それから、この大黒堂で売ってる「鮎せんべい」も、ただ単に、魚の形をしたおせんべいで、袋には「多摩川」って書いてあるけど、「川崎市指定銘菓」とも書いてあって、東京都で買うには気が引けちゃう。それに、1袋400円くらいするから、いつも100円のお菓子しか買わないあたしとしては、鮎焼きも鮎せんべいも、どっちもすごく高く感じる。

 

だけど、久しぶりに鮎焼きを買ってったら、母さんがきっと喜ぶと思ったから、あたしは、思い切って、5匹入りの420円のを買った。そして、多摩川に向かってもうちょっと歩くと、「多摩川浅間(せんげん)神社」への石段が見えて来る。ここは、最初に自転車を置いた場所のほうに、グルッと回って来た感じで、この神社も、古墳の丘の上に作られてるのだ。で、あたしは、せっかくだから、お参りしてくことにした。石段を上って行って、まずは手水で、左手、右手の順に流してから、左手に水を溜めて口をすすいだ。それから、お賽銭を投げてお参りして、雅楽のテープがエンドレスで流れてるのを聞きながら、人の絵馬を順番に見た。人の絵馬って、時々、変なことが書いてあるのがあって、すごくウケるんだよね(笑)

 

‥‥そんなワケで、あたしは、浅間神社の一角にある展望台広場に行って、しばらくボーッと多摩川を眺めてた。今日は、お天気は良かったけど、丹沢の山々も富士山も見えなかったから、多摩川だけを眺めてた。それで、ずっと多摩川を眺めてたら、この川を1500年も前の小杵一族や小熊一族も眺めてたんだろうな~って思ったんだけど、当時の人たちは、まさか、1500年先のあたしたちが、こんな暮らしをしてるなんて、まったく想像できなかっただろうって思った。自動車や電車が走り、飛行機が飛び、ロケットは宇宙に行き、インターネットで地球の裏側のことも一瞬で分かるような世の中になってるなんて、古墳時代の人たちには想像できるワケがない。だけど、古墳時代の人たちでも、ひとつだけ想像してたことがあると思う。それは、「人間同士の争いは、いつの世も続いて行くだろう」ってことだ。そして、1500年も経った今でも、その通りに、バカな人間たちは、くだらない権力争いを続けてる。世界のあちこちで、今も戦争が続いてるし、この国の総理大臣は、戦争を起そうとしてる。つまり、どんなに文明が発展しようが、どんなに科学が進歩しようが、人間のバカさかげんてもんは、まったく変わらないってことで、それどころか、あたしたちは、古墳時代の人たちよりも、さらに退化しちゃったのかも知れない。だから、1500年前の人たちは「大化の改新」をしたけど、現代のあたしたちは、「退化の改心」でもしたほうが良さそうに思う今日この頃なのだ(笑)

 

 

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