着物の国に生まれて
最近のCMで、中村雅俊の息子がギターを弾きながら「悲しみに~出会うたび~」とかって歌ってると、そこに中村雅俊がやって来て、「ヘタクソ」って言って、自分が見本の歌を歌い出すってのがある。だけど、あれ、何度見ても、あんまり2人の歌の違いが分かんない。10段階だとして、息子の歌のレベルが2か3で、中村雅俊の歌のレベルが8とか9とかなら、違いがハッキリ分かるんだけど、あのCMだと、息子が3で、中村雅俊が4か5ぐらいの感じだから、イマイチ、違いがハッキリしない。
でも、何度か見てるうちにハッと気づいたんだけど、あれって、もしかしたら、息子の歌のことを「ヘタクソ」って言ってんじゃなくて、ギターのことを言ってんじゃないかって思った。歌は関係なしにして、ギターだけを見れば、息子のほうは、何とかコードを押さえて、やっとこさ音を出してる感じなのに対して、中村雅俊のほうは、キレイな音でアルペジオを弾いてる。だから、「あれはきっとギターのことなんだ」って理解するようにしたら、今までモヤモヤしてた気分も解消された。
だけど、CMって一瞬のことだから、こういったカン違いって多い。ちょっと前に、女性の読者から、「岡江久美子の着物の着付けのCMで、着られないなんてもったいない、と言いながら、若い女性に着物を着せるのですが、死人になっているんです。これっておかしくないですか?」って内容のメールが来た。ちなみに、「死人」てのは、着物を左前に着ることだ。それで、あたしは、そのCMは見覚えがあったけど、そこまで細かくは見てなかったから、インターネットで調べてみたら、日本和装のCMで、日本和装のサイトで見ることができた。そして、注意して見てみたら、何のことはない、それは鏡に映した姿だった。ようするに、岡江久美子が、若い女性に着物を羽織らせて、その姿を本人に見せるために、大きな鏡に映してたってワケで、鏡に映った姿なんだから、左右は逆になって当然だ。だけど、そのシーンが映るのはホンの一瞬だから、カン違いしちゃう人も多いと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、自分で言うのも何だけど、お着物の着付けは得意なので、岡江久美子から「着物の国に生まれたのに着られないなんてもったいない」って言われなくて済むし、日本和装の着付け教室にも通わなくて済むんだけど、着付けが得意なあたしでも、いつも不思議に思ってることがある。それが、「右前」と「左前」だ。「死人」て言われてる「左前」ってのは、左の前ミゴロを下にして、その上に右の前ミゴロが来るんだから、右のほうが前になってるワケで、その状況をそのまま言葉にしたら「右前」になる。で、正しい着付けの「右前」のほうは、その逆で、右手をフトコロに入れられるように、左の前ミゴロが前になってるから、言うなれば、これこそが「左前」だ。
一説には、「相手から見て、左が前か右が前か」とも言われてるけど、右手も右足も右目も、ぜんぶ「自分から見て」の「右」なのに、お着物の着付けだけが「相手から見て」ってのは、どうも納得できない。それに、おんなじお着物の場合でも、「右の袖」って言えば、自分から見て右側の、右手を通してる袖のことだ。だから、着付けに関してだけ「相手から見て」ってのは、どうも分かんない。それから、別の説として、左前、右前の「前」は、前か後ろかの物理的な「前」じゃなくて、前(さき)か後(あと)かの時間的な「前」って説もある。つまり、左の前ミゴロをサキに引いて、右の前ミゴロをアトから引けば、ミゴトに左前の死人になるってワケで、あたし的には、こっちのほうがホントっぽく感じる。
で、洋服の場合には、男性は右前で女性は左前って区別されてるけど、和服の場合は、男性も女性も振袖も浴衣も、ぜんぶ右前に着るのが普通だ。細かいことを言うと、お坊さんの衣装の一種の「偏衫(へんざん)」て言う法衣は、左前に着ることになってる。だけど、これは、インドから伝わって来たもので、インドでの着方がモトになってるから、一般的な和服とはちょっと違う。他にも、沖縄の昔の民族衣装は、性別や衣装の種類に関係なく、左前に着てる物が多い。だけど、右前に着てる人もいたから、どっちかに決まってたワケじゃないみたいだ。
ちなみに、これは、沖縄が琉球王国だった時の話で、明治12年(1879年)にニポンに併合して沖縄県になってからは、ムリヤリに「ヤマト化」するために、政府によって、沖縄の方言の撲滅運動や、伝統的な生活習慣などの排除運動が強引に展開された。その1つとして、沖縄の人たちに強制したのが、着物を右前に着ることと、帯を後ろで締めることだった。だから、今でこそ、沖縄の民族衣装の帯を前で締めた姿を見ることができるけど、当時は、日常生活での習慣を強制的に変えられたんだから、沖縄の人たちは大変だったと思う。
‥‥そんなワケで、インドから伝わって来たお坊さんの法衣とか、ニポンに併合される前の沖縄の着物とか、そういった特別なものを除けば、ニポンの着物は右前に着るのがキマリってワケだ。それじゃあ、いつ、そんなキマリができたのかっていうと、これはハッキリと分かってるんだけど、719年、奈良時代のことだ。
600年ころまで古墳時代のニポンは、朝鮮半島と交流してて、いろんな文化のやり取りをしてた。それで、当時のニポン人は、中国の北西部の「胡(こ)の国」、今のモンゴルにあたる国だけど、その遊牧騎馬民族が着てた着物が、朝鮮半島を経由してニポンに伝えられてたものを着てた。どんなのかって言うと、上下が分かれたツーピースタイプのもので、古墳から出土されるハニワは、この着物を着たデザインのものが多いし、古墳の壁画も、この着物を着た人の絵が多い。それで、その壁画を見ると、右前もあるけど、左前に着てるものも多い。これは、もともとの胡の国の人たちが左前に着てたからで、それがそのまま伝えられたからだと思う。
で、何で胡の国の人たちは左前に着てたのかって言うと、遊牧騎馬民族ってのは、極端に言えばギャング団みたいなもんで、馬上から巧みに弓矢を扱って、町を襲ったりしてた。それで、揺れる馬上で弓を引く時に、着物が右前だと、ふくらんだ着物に矢が擦れて失敗することがあるため、みんな、左前に着てた。だから、この左前は、単なる風習とかじゃなくて、ちゃんとした理由があっての左前だったワケだけど、ニポン人は遊牧騎馬民族じゃないから、別に理由はなくて、右前と左前が混在してたってワケだ。
だけど、600年代に入って、小野妹子が遣隋使として中国に行ったりするようになると、今度は、胡の国の遊牧騎馬民族に襲われてたほうの国の文化も入って来るようになった。そして、中国では、618年に、それまでの「隋(ずい)の国」が滅びて、「唐(とう)の国」になったので、ニポンの遣隋使は遣唐使に名前が変わったけど、文化の交流は続いてた。それで、中国では、719年に、左前は恐ろしい騎馬民族の着方だってことから、「我々は日常的には右前で着るように。左前で着るのは死などの非日常の時だけ」ってキマリが出来て、それがそのままニポンにも伝えられたってワケだ。
ちなみに、ちょっとダッフンするけど、719年てのは、楊貴妃が生まれた年だ。さらに、ちなみに、楊貴妃が名前だと思ってる人がいるかもしんないけど、楊貴妃の「貴妃」ってのは名前じゃなくて、王監督の「監督」とか、デヴィ夫人の「夫人」とかとおんなじで、肩書きを表わす言葉だ。楊貴妃の名前は「楊玉環」って言って、玄宗皇帝のたくさんいた愛人の中の1人だ。だけど、何十人もいた愛人にも、上から「貴妃」「淑妃」「徳妃」「賢妃」ってズラーッと順位がついてたから、ー番上の「貴妃」の肩書きをもらってた楊玉環は、ナンバーワンの愛人だった。
‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻るけど、奈良時代の719年に、中国から、「着物は右前で着る」「左前は人が死んだ時だけ」ってキマリが伝わって来て、ニポンでも、だんだんに広まって行った。そして、ニポン人の着物が、古墳時代の上下が分かれたツーピースタイプのものから、そのトップスだけが長くなったワンピースタイプのものへと変わっても、このキマリだけは変わらずに守られ続け、現在に至るってワケだ。だから、左が前になってるのに、何で「右前」って呼ぶのかは分かんないけど、「着物は右前で着る」ってキマリそのものは、1300年も前から続いて来たもので、そのルーツは、中国の文化だった。
着物のことを「呉服」って呼ぶのも、中国の「呉の国」から伝えられた織り方によって作られてるからで、時代劇の水戸黄門が、自分の身分を隠すために、「呉服問屋の隠居です」なんて言ってるのは、今で言えば、ちょっと違うけど、「アウトレットの代理店をやってます」って感じになる。だから、今でこそ、着物はニポンの民族衣装として世界中で認識されてるし、岡江久美子も「着物の国」なんて言ってるけど、歴史的に見たら、中国から伝えられた織り方で作った着物を中国から伝えられた右前で着てるってワケだ。
じゃあ、歴史的に見て、ホントの意味でのニポンのオリジナルの着物、「和服」は何かって言うと、古墳時代のツーピースタイプのは、胡の国の遊牧騎馬民族のだから、その前の時代の服ってことになる。で、その前の時代のニポン人が、どんな服を着てたのかって言うと、大きな長方形の布の真ん中に穴を開けて、そこに頭を入れて、前後にパラリと下ろして、腰の部分をヒモで結んでた。だから、ニポンのオリジナルかもしんないけど、古代の服なんて似たようなもんだろうから、世界のいろんな国にもあったと思う。
大きな布の真ん中に穴を開けただけのものでも、メキシコのポンチョみたいに独自のスタイルが出来上がってれば、堂々とオリジナルって言えるんだろうけど、ニポンの場合は、朝鮮半島からツーピースタイプの服が伝わって来たら、そっちのほうが便利だからって飛びついちゃって、それまでの服は着なくなっちゃった。だから、もしも、朝鮮半島との交流がなくて、その後の中国との交流もなかったとしたら、今のニポンを代表する着物は、メキシコのポンチョみたいなスタイルのになってた可能性もある。
‥‥そんなワケで、着物にしたって、食べ物にしたって、文字にしたって、多くの文化は、他国との交流によって生まれ、それが、長い年月をかけて、ニポンのオリジナルへと昇華したってワケだ。だからこそ、あたしは、この歴史ある文化の数々をヨケイに大切にしなきゃいけないと思う。だけど、人に着付けてもらう成人式の晴着なら、左前になってる死人なんてメッタにいないけど、社員旅行で温泉ホテルの宴会場に集まった浴衣の人たちを見ると、3人に1人は死人になってる。花火大会に行っても、死人になってる浴衣の女の子を良く見かける。そして、あたしが、何よりも危惧してるのは、若いお母さんが、自分の子供の浴衣を死人にして着せてることだ。子供のお手本であるべき親が、正しい着物の着せ方も知らないなんて、その子供が親になったら、いったいどうなっちゃうんだろう?‥‥なんて、岡江久美子に代わって、あたしが言ってみた今日この頃なのだ。
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