愛の常識、非常識
今回のMAXのFC会報、37号は、いつも以上にワンダホーな内容で、腰がカクカクしちゃうほど嬉しかった。FC会員だけが購入することのできるオリジナルグッズも、ヒサビサに、あたしの琴線に触れる素晴らしいものだったから、光熱費をアト回しにしてソッコーで申し込んじゃったし、愛する玲奈ちゃんの「おいしゅうございます」にドキッとして、「顔より大っきい落ち葉!」にクラッとして、「最後のディナーはネコちゃん姿でお疲れ様~」の「美味しいニャ~」にハートをワシヅカミにされちゃった♪
う~ん、それにしても、玲奈ちゃんて、なんでこんなに可愛いんだろう? まだ、奈美恵のバックで踊ってたスーパーモンキーズのころとか、その後、MAXとしてデビューしたばっかのころとかは、玲奈ちゃんは黒髪のショートで、あたしは、その男っぷりに惚れてた。今でこそ、自分のことを「レレコはね~♪」なんて言ってるけど、当時は、自分のことを「自分は」なんて、まるで、自衛隊か大門軍団みたいな言い方をしてた。皮ジャンとデニムパンツでバイクに乗って、街のチンピラを相手にケンカして、そりゃあもうカッコ良かった‥‥って、もちろん、これは、ドラマとか映画とかの中の話だけど、でも、自分のことを「自分は」って言ってたのは、インタビューの時だったから、あえて、そういった男っぽいキャラを演じてたんだと思う。
だけど、そんな玲奈ちゃんが、今や、メンバー1の女っぷりを発揮してて、お姉さまキャラのナナ姫さまよりも、セクシー番長のりっちゃんよりも、スポーティー娘のアキちゃんよりも、お嫁さんにしたいナンバーワンになっちゃった。あたし的には、この命が尽きるまで、玲奈ちゃんヒトスジだから、男っぷりのいい玲奈ちゃんも、女っぷりのいい玲奈ちゃんも、どっちもカモ~ンなんだけど、たまに昔のVとかを見ると、黒髪ショートの男っぷりのいい玲奈ちゃんに胸がドキドキしちゃう今日この頃、MAXファンの皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、いつものように、FC会報を楽しく見てるんだけど、今回のFC会報で何よりも嬉しかったのは、ミナコからのメッセージが掲載されてたことだ。あたしは、1月15日の日記、「元(もと)という肩書き」で、2002年の春に、ミナコが「産休宣言」してから、今まで一度も正式な報告がないまま、今日に至ってるってことを書いた。そして、今回のFC会報では、その件に関して、初めて、ミナコからのコメントが出た。その上、ナナさん、玲奈ちゃん、りっちゃんからも、ミナコの件に関するコメントが出てるから、あたしたちファンにとっては、これ以上はない完璧な公式リリースってワケだ。
ちょっとショックな内容だけど、考えようによっちゃ嬉しい内容でもあるし、MAXに対するミナコの愛、そして、そのミナコに対する、ナナさん、玲奈ちゃん、りっちゃんの愛、言葉にはできないほどの愛が詰まってて、あたしは、胸が熱くなった。だから、4人からのコメントを読んだファンそれぞれが、今のMAX、これからのMAXを感じて欲しいと思う‥‥って、ここまで書いて気づいたんだけど、もしかしたら、「37号」だから「3(ミ)7(ナ)号(コ)」ってワケなのかな?(笑)
あたしがMAXを大好きになったのは、初代の4人のメンバーがホントに仲良しで、いつでもラブラブで、愛に満ち溢れてたからだ。あたしの職業ガラの特権で、テレビ局でミニライブの収録をしてるスタジオに潜り込ませてもらい、スミッコのほうでウットリしながら観てると、カメラが回ってない時も、4人はホントに仲が良くて、まるで子猫がじゃれあってるみたいに、いっつもラブラブだった。あたしが見たほとんどのアイドルやタレントは、カメラが止まったトタンにパンサーチェンジしちゃうのに、MAXの4人だけは、いつでも裏表がなくて、ADにまでやさしく声を掛けてた。これこそが、誰よりもファンを大切にするMAXの原点てワケで、だから、MAXが登場すると、それまで殺伐としてたスタジオが、パッと花が咲いたみたいになって、スタジオ中に愛が満ち溢れた。
‥‥そんなワケで、ずいぶん前、まだ、あたしが、ジャイアンツのファンだったころ、原辰徳が、泣きそうな顔をして、両手をグーにして、「ジャイアンツ愛!」とかって言ってたけど、あれは、あまりのチームの弱さと、あまりのナベツネの独裁にイヤケがさしたファンたちが、どんどんジャイアンツから離れ始めてたのを必死に食い止めるための、コイズミレベルの子供じみたパフォーマンスだった。でも、ファンのジャイアンツ離れは収まらなかったし、今でもジャイアンツは弱いし、今でもナベツネはウザイし、今どき「ジャイアンツ愛!」なんてやってんのは、モノマネの神奈月くらいになっちゃった。ようするに、タイガースのファンがタイガースを愛してるような、浦和レッズのサポーターが浦和レッズを愛してるような、ああいった狂気とも言えるような「愛」は、ジャイアンツのファンには存在しなかったのだ。
もちろん、ジャイアンツのファンの中にも、仕事よりもジャイアンツ、家庭よりもジャイアンツ、何は無くともジャイアンツって人もいると思うけど、そういった人の割合が、タイガースや浦和レッズに比べると、極端に少ないように思う。逆に言えば、タイガースや浦和レッズの場合は、ファンやサポーターの7割から8割くらいが、そういった熱狂的な人たちみたいな感じがする。だって、たかがスポーツの応援なのに、あんなに汚い道頓堀に飛び込んだり、すぐに乱闘を起こしたりなんて、ソートー過剰な愛が無かったら、普通はできないと思うからだ。そして、ジャイアンツのファンの多くは、たとえジャイアンツがリーグ優勝しても、ニポンイチになっても、別に川にも飛び込まないし、球場の周りに駐車してる車の屋根の上に上って大騒ぎもしないし、紳士的に、居酒屋さんかどこかで祝杯を上げる程度だろう。だから、ジャイアンツのファンの多くは、愛は無いけど、そのぶん、常識がある。
‥‥そんなワケで、ものすごくデフォルメしたって言うか、ものすごく極端な表現をしてみたワケだけど、あたしは、「愛」の対岸にあるものは「常識」だと思ってる。だけど、これは、恋人との相互関係の愛じゃなくて、あくまでも、タレントを好きになったり、プロ野球のチームを応援したりする時の、一方的な愛の場合だ。恋人との愛の場合には、相手の愛情量とのバランスが何よりも重要だから、そのバランスを保つためには、「常識」ってもんが必要になる。相手はこっちのことを「3」しか愛してないのに、こっちは相手のことを「10」も愛するような非常識なことをしてたら、すぐにバランスが崩れて、その恋愛は、ジ・エンドになっちゃう。
たとえば、つき合い始めたばっかのカップルがいて、彼女が彼氏を愛してるレベルが「5」だとして、彼氏が彼女を愛してるレベルが「9」だとしたら、その差の「4」がギャップになる。彼女のほうは、1日に1回のメールのやり取りで満足できるのに、彼氏のほうは、朝、昼、晩とメールして来て、彼女からの返信がちょっとでも遅れると、ヨケイな心配をし始めちゃう。そんなことが続いてるうちに、彼女が他の男と浮気してるんじゃないかって妄想し始めて、彼女の行動をチクイチ把握しとかないと安心してられなくなって、いろんな面で彼女のことを束縛するようになる。そして、彼女のほうは、彼氏のことが、だんだん重たくなって来る。だんだんウザくなって来る。もちろん、彼氏と彼女が逆のパターンもあるし、すべては、双方の愛情量にギャップがあること、愛のバランスが取れてないことが原因だ。
だけど、双方に「常識」ってもんがあれば、こういった状況は回避できる。正確に言えば、恋愛状態に陥っても、周りのことが何も見えなくなっちゃうようなチョー主観的な状態にはならずに、最低限の「常識」を失わないでいられる程度の客観性をキープしてられるかどうかってことだ。恋愛状態に陥っても、自分自身を客観的に見られる人なら、相手との愛情量にギャップがあっても、「自分が!」「自分が!」にはならずに、相手のレベルに合わせることができる。相手が「5」で、自分が「9」だったとしたら、まずは自分の気持ちを抑えて、相手とおんなじ「5」まで下げて、そこから、時間を掛けて、2人一緒に、「6」「7」「8」って上げてくことができる。そうすれば、常に相手との愛のバランスが取れてるワケだから、その恋愛は長続きするってワケだ。だから、恋人や夫婦、家族や兄弟など、相互関係のある「愛」の場合には、その対岸にあるのは、「非常識」ってことになる。
どちらかが行き過ぎた非常識な愛は、最終的には、必ず破滅する。でも、その「愛」の対象が、芸能人やプロ野球のチームなど、相互関係の無い場合には、正反対の状況になる。こっちの気持ちの中に「常識」なんてもんが残ってたら、いい年こいたオッサンが、モーニング娘のコンサートに行って、始まる前からコーフンしすぎて、3階席から落っこちるほど踊りまくることなんて、できるワケがない。ごヒイキのチームがリーグ優勝したくらいで、汚物だらけの道頓堀に飛び込むなんて、できるワケがない。ここにあるのは、「非常識」っていう「愛」の究極の形であって、わずかでも自分自身を客観視できる「常識」なんてもんが残ってたら、こんなバカなことなんかできるワケがない。
‥‥そんなワケで、フランクザッパに言えば、相互関係のある愛を育むためには「常識」こそが必要で、一方通行の愛で自分だけが完全燃焼するためには「非常識」こそが必要ってことになる。それなら、アベシンゾーが教科書に盛り込んで、子供たちに強制的に押しつけようとしてる「愛国心」てもんは、どうなるんだろう? 「愛国心」、つまり、自分の国を愛するって場合には、相手が人間じゃないから、相互関係のある愛じゃなくて、一方通行の愛になるんだろうか? だから、ネット上に散見されるファッション右翼やニセ右翼みたいに、非常識に、妄信的に、汚物だらけの道頓堀に飛び込むようなイキオイで熱狂することが、「国を愛する心」の正しい姿ってことなんだろうか?
あたしは、そうじゃないと思う。それは、「国を愛する心」ってのが、自分の生まれ故郷を愛する心、「郷土愛」の延長線上にあるものだからだ。自分の生まれ故郷の山や海、森や川、子供ころに食べた故郷のお母さんの味、子供のころに歌った故郷の歌、故郷ならではの数々の行事、こういった自分の生まれ故郷の人と自然と文化を愛する心こそが、「愛国心」の母体となるものだからだ。そして、その土地に暮らす人たちや、その土地を生まれ故郷とする人たちに、本当の「郷土愛」があれば、その土地の人も、自然も、文化も、決して消えることなく、決して変わることなく、後世へと受け継がれて行くものなのだ。
つまり、「郷土愛」とは、その土地への人々の「愛」に対して、その土地が「普遍」という「愛」を返してくれるってことで、そこには、恋人や夫婦、家族や兄弟などの「愛」とおんなじに、相互関係が存在してる。これは、一方通行の非常識な愛とは相反するもので、相手が人間じゃなくても、木を愛せばその木が、川を愛せばその川が、山を愛せばその山が、必ず応えてくれる。ちびまる子ちゃん的に言えば、佐々木のじいさんみたく、木を愛せば、その木が四季折々の美しさでちゃんと応えてくれるし、川田さんみたく、川を愛せば、美しい流れが豊かな四季を運んで来てくれるってことだ。そして、まる子のクラスメートたちみたく、山田を愛せば、山田は「そんなことないじょ~!アハハハハハハ~!」って走りまわって、クラス中に笑いを提供してくれるってことだ。これらの「愛」には、明確な相互関係が存在してる。
ようするに、自分の生まれ故郷を愛する「郷土愛」ってもんは、言うなれば、その土地との相聞(そうもん)てワケで、人々とのふれあい、木々とのふれあい、生き物たちとのふれあい、山や川や海とのふれあい、そして、その土地土地の歴史ある文化とのふれあいってことになる。だから、こういった「郷土愛」の延長線上に「愛国心」があると思ってるあたしとしては、今のニポンの政府がやってることは、愛国心のカケラもない愚かな行為、まさしく、売国行為にしか思えない。そして、「愛国心」の意味も分からない売国奴のアベシンゾーが、国民に「愛国心」を強要し、この国を「美しい国」にするなんてウソぶいてるんだから、おへそがカプチーノを沸かしちゃう上に、チョコチップクッキーを添えてお客さまにお出ししちゃうよ、まったく‥‥って感じがしてる。
だけど、これは、アベシンゾーだけが悪いワケじゃないんだよね。何よりの元凶は、21世紀にもなって、「ニッポンは天皇を中心に回っている神の国である!」だなんて、大爆笑のギャグを真顔で炸裂させてくれた時代錯誤の大バカ、森喜朗なんだよね。この、思考回路がショートしちゃってる戦争マニアの愚か者が、この国を戦前の軍事国家へと逆行させるためのレールを敷いたってワケで、そのレールの上を何も考えずに爆走し続けてるのが、頭の中がカラッポの欠陥機関車、コイズミ号やアベシンゾー号だってワケだ。
たとえば、コイズミ政権下で、当時の総務大臣、「フロッピー麻生」こと、麻生太郎は、ニポン中の小さな市町村を強制的に合併させ、歴史ある文化を数え切れないほど消滅させた。歴史ある地名や何百年も続いて来た風習など、国や県からは指定されてなかったけど、無形文化財と呼んでも過言ではない地方文化の数々が、愛国心のカケラもない冷血漢、コイズミによって、何百、何千と消滅させられたのだ。地名や風習などの無形文化は、金銭に置き換えることはできないけど、ある民俗学者が試算したところ、コイズミ政権下での、これらの文化的損失は、軽く10兆円を超えると言う。
‥‥そんなワケで、2年前に、フロッピー麻生が、コイズミの命令によってニポン中の小さな市町村を強制的に合併させて、数え切れないほどのこの国の歴史ある文化を消滅させたワケだけど、何のためにこんなことをしたんだろうか?‥‥ってワケで、イマイチ分かってない人たちのために、2004年3月18日の参議院総務委員会での、この政策の必要性を説明したフロッピー麻生の言葉を紹介しよう。
「東京の八丈島の南に70キロぐらい行ったところに青ヶ島という島があり、その島に人口が200人もいない今一番小さな村があります。このような村に人が住んでいることこそが、国にとっての大きな財源の負担なのです」
これが、フロッピー麻生の言いぶんであり、フロッピー麻生にこの政策を命じたコイズミの考えなのだ。ようするに、ニポン各地に数え切れないほどある過疎の村、人口の少ない村は、国にとって負担でしかない。だからと言って、過疎の村を次々にぶっ潰して行くワケにも行かない。だから、そういう「国にとってのお荷物」は、カタッパシから、近隣の市町村と合併させちまえ!‥‥ってことなのだ。もっと分かりやすく言えば、1つの村に対して、国が年間5000万円の補助をしてたとする。その場合に、近隣のA村、B村、C村の3つを合併させて1つの新しい村にしちゃえば、それまで合計で1億5000万円の支出だったものが、3分の1の5000万円で済むようになるってことだ。
政治家どもは、税金で豪華なマンションに住み、自家用車から奥さんの訪問着に至るまで、何から何まで政務調査費で買いまくり、天下りした官僚どもは、ガッポガッポと私腹を肥やし、全国には、まったく必要のない官庁の保養施設が林立し、その維持費や運営費の赤字を埋めるためだけでも莫大な税金がドブに捨てられ続けてる。
こんな状況で、少しでも国の赤字の穴埋めをするために考えられたのが、「痛みをともなう改革」を謳ったコイズミによる、市町村合併なのだ。もちろん、この売国政策も、頭のおかしい森喜朗が推し進めて来た愚作の1つで、2005年8月28日に、長野県伊那市で行なわれた「森喜朗と語る会」では、このバカ、こんなにワンダホーなセリフをノタマッてる。
「市町村合併は、故郷が無くなるのだから辛いことだ。でも、子や孫のため良い国を残すためには、この市町村合併は必要不可欠だ。郵政、税制、財政などの構造改革の本質は、まさにここにある!」
サスガ、「サメの脳みそ」って喩えられたほどの大バカの性犯罪者は、言うことがシビレちゃう。子や孫に良い国を残すために、何よりも大切な故郷をぶっ潰すことが「必要不可欠」だとは、開いた口が塞がらない。政治家の詭弁はいろいろと聞いて来たけど、これほど呆れ果てる詭弁も珍しいもんだ。
‥‥そんなワケで、森喜朗の敷いたレールの上を何も考えずに暴走し続けたコイズミ、そして、コイズミが破壊しきれなかったニポンの細部にトドメをさすために、今なお暴走し続けるアベシンゾー。国民から故郷を奪い取り、この国のかけがえのない歴史的な文化を破壊し続け、美しい沖縄の海をメチャクチャにしてアメリカ軍の殺人滑走路を作ろうと画策し、非核三原則を無視して次々に核兵器を持ち込み、そして、青森では、メイド・イン・ニポンの核兵器を作ろうとしてるアベシンゾー。その上、こんな「愛国心」のカケラも無いヤツが、国民に隠れて何をやってるのかって言えば、アパグループのような売国企業と手を組み、国民の命を危険にさらして私腹を肥やし続け、その事実を報道しないようにとマスコミに圧力を掛けてるのだ。だから、国民も、そろそろ本質的な部分に気づいて欲しいと思う。老後の安心から、かけがえのない故郷まで、何から何までを政治家や官僚どもの豪遊のツケを支払うために奪い取られて、それでも、まだ、自民党なんかを支持してられるのは、もはや、相互関係のある常識的な「愛」じゃなくて、どんなに相手のために尽くしても、何ひとつ返って来ない一方通行の非常識な「愛」、汚物だらけの道頓堀に飛び込むような、妄信的な狂った「愛」だってことに気づいて欲しい。そして、政治家や官僚どもがミジンも持ってない「国を愛する心」、ホントの「愛国心」てもんを国民こそが持って欲しいと思う今日この頃なのだ。
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