ドラえもんのお誕生日
今日、9月3日は、言わずと知れたドラえもんのお誕生日だ。で、ドラえもんが今日で何才になったのかって言うと、ドラえもんは2112年の9月3日生まれだから、今日で「マイナス106才」だ。そして、来年の9月3日には「マイナス105才」になり、再来年の9月3日には「マイナス104才」になり‥‥ってふうに、だんだんに「0」に近づいてって、2112年の9月3日で「0才」になった時に、やっと「オギャー!」と生まれるってワケだ。だけど、ホントは、ネコ型ロボットのドラえもんが「オギャー!」と生まれるワケはなく、2112年9月3日に「製造」されたってことだから、正確には、「お誕生日」じゃなくて、「製造年月日」ってことになる。
で、何で9月3日なのかって言うと、これは、ドラえもんの身長が「129.3cm」、体重が「129.3kg」、頭の周りや胸囲も「129.3cm」、パワーが「129.3馬力」ってのに合わせて、この「129.3」って数字の頭に「21」をくっつけただけだ。ちなみに、この「129.3」てのは、ドラえもんがスタートした時の対象年齢が小学4年生で、当時の小学4年生の女子の平均身長が「129.3cm」だったため、それに合わせて決められたものだ。だから、意味があるようで意味がない9月3日なんだけど、あたしは、ツネヅネ、この「2112年9月3日」を「ドラえもんのお誕生日」としてることに、プチ疑問を持ってる。
ドラえもんは、未来のマツシバ・ロボット工場で量産されてる子守用のネコ型ロボットで、正式には「特定意志薄弱児童監視指導員」て言う役目のロボットだ。つまり、意志が薄弱で親が手を焼いてるような子供を監視するのが仕事ってワケだ。それで、未来の世界で、のび太の子孫のセワシくんを監視するためにやって来たのがドラえもんなんだけど、最初は、耳もあったし、体も黄色だし、声も高かった。そんなドラえもんが、今のドラえもんになったのは、製造されてから10年後の2122年8月30日のこと、セワシくんのネズミ型工作用ロボットが、ドラえもんの耳をかじってしまい、修理に行った先でもトラブルに巻き込まれて、結局、ドラえもんは耳を失うことになる。それで、精神的に落ち込んだドラえもんは、「元気の素」を飲んで元気を出そうと思ったのに、間違えて「悲劇の素」を飲んじゃって、三日三晩泣き続けて、声が嗄れてドラ声になって、泣き続けた振動で全身の黄色のメッキが剥がれて青い色になっちゃった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、今のドラえもんが誕生したのは、2122年8月30日の3日後、すなわち、9月2日ってワケで、あたしは、ホントのお誕生日は「昨日」だと思うんだけど、1日くらいのズレは別にOKなのか?ってことにして、先へと進む。で、あたしは、「9月3日」って部分はどうでもいいとして、ドラえもんのお誕生日‥‥って言うか、製造年を「2112年」に設定したとこが、藤子・F・不二雄のワンダホーなとこだと思ってる。これは、さっきも書いたように、最初に「129.3」て数字が決まってたんだから、「●●12年9月3日」の「●●」の部分を考えたってことになる。
ドラえもんの連載がスタートしたのは、あたしが生まれる前の1969年で、テレビのアニメがスタートしたのも1973年だから、今から35年近くも前ってことになる。もちろん、スタートした時点で詳しいプロットまでが決められてたのかどうかは分かんないけど、それでも、今から35年も前に始まったマンガなんだから、その時点での「ネコ型ロボットが量産されててタイムマシンがある未来」を想定した時には、「2000年くらいには可能かも?」って考えちゃう人もいると思う。そして、もしも、当時の藤子・F・不二雄がそう考えてたとしたら、「●●」の部分には「20」が入ってたワケで、ドラえもんのお誕生日は「2012年9月3日」になってたワケだ。
そうした場合、今から5年後には、マンガの上でドラえもんが誕生した日が実際にやって来るワケで、あたしも、事故や病気に遭わない限り、生きてその日を迎えることになる。そして、ネコ型ロボットなんか量産されてなくて、タイムマシンも作られてなくて、タイムパトロールもいなくて、マンガの中で描かれてた「未来」とはぜんぜん違う現実を知ることになり、少なからずガッカリしちゃう。だけど、当時の藤子・F・不二雄が、「●●」の部分に「20」じゃなくて「21」を入れてくれたオカゲで、ドラえもんが誕生する「未来」は、今から100年以上も先ってことになり、あたしは絶対に生きてないし、あたしよりも年下でも、今、生きてる人たちはみんな死んでるだろう。
だから、マンガの設定と現実の違いとのギャップにガッカリすることもないし、実際問題としても、あと100年も先なら、ネコ型かどうかは別としても、子守用のロボットが量産されてる可能性も大きいし、タイムマシンが作られてる可能性だってアリエールだ。ちなみに、あたしは、子供のころから何度もUFOを目撃したことがあるんだけど、UFOって、宇宙人が乗って宇宙から来たんじゃなくて、地球の未来から来たタイムマシンなんじゃないかって思ってる。
‥‥そんなワケで、藤子・F・不二雄が、ワンダホーな感性で、ドラえもんのお誕生日を「2112年9月3日」に設定してくれたオカゲで、世界中の数え切れないほどの人たちがガッカリせずに済んだってワケだ。だけど、ドラえもんとは逆に、未来の設定が甘かったセイで、アニメの設定と現実の違いとのギャップにガッカリ‥‥って言うか、シラケちゃったのが、エヴァンゲリオンだ。エヴァンゲリオンは、1995年の秋から翌年の春にかけて、テレビ東京で放送されたそうだけど、その時の設定が、5年後の2000年に南極で「セカンドインパクト」が起こり、2015年に使徒が攻めて来るってものだった。
だから、去年、パチンコの「エヴァンゲリオン・セカンドインパクト」で初めてエヴァンゲリオンを知って、今年になってからアニメを観たあたしとしては、初めてアニメを観た時点で、すでに「セカンドインパクト」から7年も経ってたワケで、これで一気に「所詮はマンガの世界」ってことが実感されちゃって、シラケ度が活動限界になっちゃったってワケだ。たとえば、あたしがアニメを観たのが、「セカンドインパクト」の2000年よりも前だったら、たとえ1年前の1999年だったとしても、「もしかしたら1年後にホントに起こるかもしんない」って思えたから、そこには引きつけるものがあった。だけど、2000年を過ぎちゃって、それも、7年も過ぎちゃってから観たから、なんだかなぁ~って感じになっちゃったのだ。
もしも、ドラえもんのお誕生日が、今の設定よりも100年前の「2012年9月3日」だったとして、あたしがドラえもんを初めて観たのが2013年以降だったとしたら、エヴァンゲリオンを観て感じたのとおんなじようなシラケ感を感じてたと思う。だからこそ、ドラえもんのお誕生日を「2112年9月3日」に設定してくれた藤子・F・不二雄はグレートだと思うし、9月3日のドラえもんのお誕生日をお祝いすることよりも、9月23日の藤子・F・不二雄の命日にお祈りをすることのほうが重要だと思う。
で、藤子・F・不二雄が、ドラえもんの原稿を書きながら、鉛筆を持ったままの姿で亡くなってから、今月の命日で11年も経つけど、作者が亡くなってもずっとテレビアニメが続いてるのは、サザエさんとおんなじだ。そして、作者が亡くなっても、その作品だけがずっと続いてく場合があるってことは、自分の作品が、将来、ドラえもんやサザエさんのような「国民的アニメ」になることを想定して描き始める作者は、その「未来」の設定にも、十分な配慮が必要になって来るってことだ。
たとえば、30才の作者が、今年からスタートするアニメで、未来からやって来た主人公を「80年後の未来からやって来た」って設定にして描き始めたとする。そして、その80年後の未来の世界のこととして、「医療が発達して人類の平均寿命は200才になってる」とか、「人類は食べ物を食べなくても特製のジュースだけで生きられるようになってる」とか、「遠く離れた人同士がテレパシーで会話できる」とか、いろいろと描いたとする。それで、このアニメが大人気になって、10年、20年、30年て続いてって、この作者が亡くなったあとも、ドラえもんやサザエさんのように続いてったとする。
そしたら、いつかは、このアニメで「未来」として設定してた日が来ちゃうワケで、そうすると、このアニメを観て育ったその時代の大人たちや、その時代の子供たちは、現実とはぜんぜん違うアニメの世界の夢物語に、シラケまくっちゃうだろう。実際には、地球温暖化が末期を迎えてて、世界中の海が汚染されてて、世界中で食糧難や貧困が起こってて、人口は今の10分の1くらいになってるのに、「医療が発達して人類の平均寿命は200才になってる」とか、「人類は食べ物を食べなくても特製のジュースだけで生きられるようになってる」とか言われても、シラケまくっちゃうだろう。
だけど、このアニメが、その時点からさらに100年後を設定としてたらどうだろう。そしたら、話は大きく変わって来る。今から80年後、世界中で食糧難や貧困が起こってても、「その100年先には素晴らしい未来がある」っていう希望に溢れたアニメになる。いつの時代にも、希望を持つことは大切だし、逆に、希望を失ったら終わっちゃうこともたくさんある。実際、先進国って言われてるこのニポンでも、コイズミの売国政策によって、5年間で生活苦による自殺者は12万人を超えた。これは、長崎に落とされた原爆による死者の数に匹敵する。つまり、たった1人のアメリカ狂いの売国奴が、12万人もの国民を殺害したのだ。そして、この12万人もの人たちは、一部の大企業やお金持ちだけを優遇するために、次から次へと社会的弱者にばかり負担を強要するコイズミ改革によって、将来の希望を失い、自らの命を絶った人たちなのだ。
‥‥そんなワケで、この12万人もの人たちは、将来の希望を失って、残念ながら自らの命を絶ってしまった。だけど、どんなに小さくても、もしも希望の光が差していたら、死ななくても済んだ人たちもたくさんいたと思う。あたしの周りには、とても重い病気で苦しんでいても、俳句だけを心の支えとして、毎日を笑顔で暮らしてる人がいる。小さな会社が倒産して、ものすごい額の借金を背負ったのに、待望の赤ちゃんを授かったばかりだったから、その子を元気に育てることだけを生き甲斐にして、夫婦で必死にがんばってる人がいる。そうした人たちにとっては、俳句や赤ちゃんが希望の光なのだ。そして、人間の感性は十人十色なんだから、人によっては、アニメによって救われた、アニメが希望の光だって人もいるだろう。だから、あたしは、アニメを作る人たちも、シラケちゃうような安易な未来設定などしないで、ドラえもんのように普遍性のある良質な作品を作って欲しいと思う今日この頃なのだ。
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