Lucky Dube
「南アを代表するレゲエ歌手、子どもの目前で射殺される」 (ヨハネスブルク 19日 ロイター)
南アフリカを代表するレゲエ歌手のラッキー・デューベさん(43)が18日夜、息子と娘の目前で何者かによって射殺された。南ア放送協会(SABC)のラジオ局が19日に報じた。報道によると、デューベさんは自動車強盗に銃撃されたとみられ、警察が現在容疑者3人の行方を追っている。デューベさんは南アフリカで最も売れているレゲエ歌手で、これまでに国内外で20以上の賞を受賞している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071019-00000335-reu-ent
‥‥あたしは、今朝、このニュースを知って、愕然とした。それで、大好きだったラッキー・デューべについて、今日の日記に書こうと思ったんだけど、気持ちが落ち着かなくて、ぜんぜん書くことができなかった。久しぶりに、ラッキー・デューべのCDをかけて、ソファーに寝転がってたんだけど、「殺された」「死んでしまった」っていう実感がわいて来なくて、なんか、まだ、現実味がない。だから、今回のことについては、しばらくして、気持ちが落ち着いたら書こうと思うので、今日は、4年ほど前に、別の場所に発表した、ラッキー・デューべに関するエッセイを紹介させてもらうことにした。別の場所に発表したものだから、言葉づかいも文章も「きっこ風味」じゃないけど、大好きなラッキー・デューベのことを1人でも多くの人に知ってもらおうと思って、一生懸命に書いたものだ。
「Lucky Dube」
アフリカの音楽ばかり紹介していても、読む人が飽きてしまうと思うので、(本当は書いてるあたしが飽きて来たんだけど、笑)、今回は、同じアフリカのミュージシャンでも、アフリカン・ポップスではなく、レゲエのミュージシャン、ラッキー・デューべを紹介します。
ラッキー・デューべは、南アフリカ出身のアフリカを代表するレゲエ・シンガーで、デューべ(Dube)と言うのは、英語のドープ(Dope)を指す南アフリカの言葉です。ドープと言うのは、一般的には、スポーツ選手が薬物を使うことを「ドーピング」などと言いますが、アメリカのスラング(俗語)では、マリファナを吸引する行為を指します。レゲエの世界では、マリファナは「ガンジャ(神の草)」「ジャーウィ-ド(神の雑草)」などと呼ばれていて、ラスタカラー(赤、金、緑の三色)とともに、そのアイデンティティーとなっているのです。つまり、ラッキー・デューべとは、「幸福への一服」と言う、とってもオシャレな芸名なのです。
ラッキー・デューべは、ボブ・マーリィに代表される、正統派のレゲエ「ルーツ・ロック・レゲエ」のシンガーで、もちろんポブの影響を強く受けています。しかし、本場のジャマイカのシンガーたちとは違い、良い意味でのオリジナリティーを確立しています。それは、マハラティーニたちの作り上げたムバカンガとの融合なのです。
もちろん、リリックス(歌詞)やリズムからアレンジに至るまで、すべて正統派のレゲエなのですが、ギターのカッティングやコーラスなどにムバカンガのエッセンスを取り入れていて、それが、彼の音楽の最大の魅力となっているのです。
あたしは、ラッキー・デューべのライブは3回観ていますが、一番初めに観たのが、1991年の10月、三軒茶屋の昭和女子大の人見記念講堂で開催された「コンダロータ ’91」と言うアフリカン・ポップスのイベントでした。アフリカの音楽が大好きなあたしのために、例のマハラティーニの時の男の子が、チケットを取って誘ってくれたのです(笑)
でも、それほど好きなミュージシャンが出るわけでもなかったので、気乗りがしていませんでした。ただ、席がすごく良くて、1階S席の前から4番目だったので、一応OKの返事をしていました。
そうしたら、何とライブ当日の2週間ほど前になって、急遽、ラッキー・デューべの参加が発表されたのです!
あたしは狂喜乱舞し、それまでは、前日になってカッタルかったらドタキャンかな?って思ってた気持ちが、行く気マンマンに変わったのです(笑)
さて、当日のライブはと言うと、まだ日本ではそれほど知られていない上に、日本盤のアルバムは1枚しか発売していなかったため、会場に来ているほとんどの人が、ラッキー・デューべを知らないような状態でした。それに、ほとんどと言うか、すべての観客が、ラッキー・デューべ以外のミュージシャンのアフリカン・ポップスを聴きに来ているので、そんな場所で、他ジャンルのレゲエを知名度の無いシンガーが歌っても、それほど受け入れられるとは思えない雰囲気でした。
でも、始まってみたら、彼のほうが一枚も二枚もウワテだったのです。
何十曲もオリジナルがあるのにも関わらず、ショッパナからボブ・マーリィの名曲中の名曲、「バッファロー・ソルジャー」で幕開けして、その力強い歌声とリズムで、会場全員を総立ちにさせてしまったのです。
そのあとも、これでもか、これでもかのボブ・マーリィの大メドレーで、自分の曲など、最後のほうにたった2曲歌っただけなのです。
いくらジャンルが違っても、アフリカン・ポップスのファンで、ボブ・マーリィを知らない人などいないので、その盛り上がり方と言ったら、ハンパなノリではありませんでした。
ラッキー・デューべのドレッド・ロックス(縄のような髪の毛)は、今でこそ腰近くまでありますが、当時は、まだ肩にも届かない長さでした。そんな短いドレッドを振り回し、ゲリラが着るカーキ色の野戦服で、時にはステージを踏み鳴らし、時には大きくジャンプし、力強く歌い続けるラッキー・デューべに、会場に集まったすべての観客が魅了されたのです。
その証拠に、帰りに出口のところの仮設売店の前を通ったら、彼のCDのコーナーだけが、黒山の人だかりになっていました。
さて、最初に、ラッキー・デューべはボブ・マーリィの影響を受けていると書きましたが、もっと正確に言うと、ボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズのメンバーだった、ピーター・トッシュの影響を受けているのです。そのボーカルスタイルや過激なリリックスなどは、ピーター・トッシュそのものなのです。
ピーター・トッシュのソロアルバムも、リリックスの内容が問題になり発売禁止になったものがありますが、ラッキー・デューべも同じく、初期のアルバム、「ラスタ・ネバー・ダイ」が、南アフリカでは発売禁止になっています。
その後、スレイヴスと言うバンドを結成し、1枚目の「シンク・アバウト・ザ・チルドレン」と2枚目の「スレイヴ」がヒットしました。89年には、初めてのアメリカ、フランスのツアーを行い、「トゥギャザー・アズ・ワン」「プリズナー」、2枚のアルバムをリリースし、大ヒットします。特に「プリズナー」は、南アフリカだけで、発売5日で200万枚ものセールスを記録したのです。
それからの彼は順風満帆で、世界最大のレゲエの祭典、ジャマイカの「レゲエ・サンスプラッシュ」に、アフリカ人として初めて出演し、日本とオーストラリアでのライブを成功させます。そして、ワールド・ミュージックのビッグ・イベント「ウォーマッド」で、あのジェネシスのピーター・ガブリエルと競演、その後リリースしたアルバム「ヴィクティム」は、前作以上の大ヒットとなり、押しも押されぬ大スターになったのです。
今は、自分のことを神様かボブ・マーリィの再来かと勘違いしちゃってるようで、何だか教祖さま的な怪しい雰囲気になってしまいましたが、あたしがライブで夢中になっていた10年以上前は、ホントに素敵なミュージシャンでした。
そんなわけで、もし、CDを買って聴いてみようと思う人がいたら、なるべく古いものがオススメなのです。
【文 シスター・キッコ】
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