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2007.11.25

芭蕉カジキの独り言

児島玲子ちゃんのオフィシャルサイトの「ダイアリー」をチェキしてる人はご存知だと思うけど、ほとんどお休みなく飛び回ってる玲子ちゃんは、先月の半ばから5日間、マレーシアに行って来た。で、ダイアリーに写真も載ってるけど、港から船で1時間くらいのとこで、カジキが入れ食いだったんだって! カジキって言っても、カジキの中じゃ一番小さいバショウカジキなんだけど、それでも、1m50cmから2m以上もあるワケだし、それが、トローリングじゃなくて、デッキからのキャスティングで釣れちゃうワケだから、ドハデなシイラ釣りみたいなもんで、ニポンじゃ考えらんない光景だったと思う。こないだ、ちょこっと玲子ちゃんに聞いたら、「船のまわりをバショウカジキが背ビレを出してウジャウジャ泳いでた」ってことだから、想像しただけで妊娠しちゃいそうなくらいコーフンしちゃう(笑)

玲子ちゃんは、他にも、バラマンディーの釣堀とGTの釣堀にも行って来たそうだけど、GTの釣堀だなんて、ニコタマの釣堀「わんぱく太郎」で、15cmくらいのコイの子供を釣ってキャーキャー騒いでるあたしとしては、想像しただけで妊娠‥‥って、これはもういいけど、とにかく、すんごい国だね、マレーシアって‥‥。で、入れ食いだったバショウカジキの話だけど、バショウカジキって、英語だと「セイルフィッシュ」って言って、直訳すれば「帆の魚」ってワケだ。この名前の通りに、背ビレが帆船の「帆」みたいに大きいんだけど、それが植物の「バショウ」の葉っぱにも似てることから、ニポンでは「バショウカジキ」って呼ばれてる。だから、漢字で書くと「芭蕉梶木」ってワケなんだけど、玲子ちゃんのダイアリーには、分かりやすいように「芭蕉カジキ」って書いてあった。それで、あたしは、この「芭蕉カジキ」って名前を見た時に、ナニゲに、大人計画の「松尾スズキ」さんと似てる気がしちゃった上に、両方を合体させると「松尾芭蕉」になるってことに気づいちゃった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、とうとう35才になっちゃったワケで、平均寿命が延びた現代だからこそ、「人生の折り返し地点」てふうに思えるけど、松尾芭蕉の時代だったら、もう、人生の晩年に差し掛かったってことになる。芭蕉の時代は、ニポン人の平均寿命は50才から60才くらいで、芭蕉も51才で亡くなってる。だけど、それからずっと経った近代でも、正岡子規は35才で亡くなってるし、ボブ・マーリィは36才で亡くなってるし、2人とも、あたしが心からリスペクトしてる偉大な先駆者なのに、その2人が亡くなった年とおんなじになっちゃったってことが、ものすごく感慨深い。

だけど、いくら平均寿命が延びたって言ったって、普通に歩道を歩いてただけなのに、酔っぱらい運転の暴走車が突っ込んで来るかもしんないし、上から工事の鉄柱が落ちて来るかもしんないし、頭のおかしい在日アメリカ兵にレイプされて殺されるかもしんないし、いつ死ぬか分かんない。だから、35才を迎えたあたしとしては、いつ死んでも悔いが残らないように、常に「今」を大切に生きて行こうと思う。だからって、「今」のことだけしか考えなくて、明日のこととか来週のこととかをまったく考えないワケには行かないから、その辺は臨機応変に対処するつもりだけど、とりあえず、生きてるかどうかも分かんない何十年も先のことまで心配するのはやめようと思った。

つまり、芭蕉の時代とおんなじに、「人生50年」て考えて生きといて、もしもそれ以上生きることができた場合には、そのぶんは「ラッキーなオマケの人生」って思うことにした。これなら、あと10年ちょっとで死んでも、そんなには悔いは残らないだろうし、55才になっても60才になっても元気に生きてたとしたら、ものすごく得したみたいな気持ちになるからだ。

‥‥そんなワケで、あたしは、「人生50年」だった芭蕉が、今のあたしとおんなじ35才の時に、どんなことを考えてたのかって思って、芭蕉が35才の時に詠んだ句を見てみた。でも、細かいことを言うと、芭蕉が「芭蕉」って俳号を名乗るようになったのは、39才の時からなのだ。芭蕉は、38才の時に、門弟から芭蕉の木を贈られて、それを深川の庵に植えた。そして、その翌年から、その木にちなんで、「芭蕉」って俳号に変えたってワケだ。だから、芭蕉は、今のあたしとおんなじ35才の時には、「芭蕉」の前の「桃青(とうせい)」って俳号だった。ま、そんなことは置いといて、ここでは「芭蕉」で統一しちゃうけど、芭蕉が35才の時に詠んだ句で、「人生50年」だった芭蕉を語るのにピッタリの句がある。


 初花に命七十五年ほど  芭蕉


「初花(はつはな)」ってのは、その年の春に初めて咲いた桜、初めて見た桜を指す言葉で、見るものも食べるものも、何でも「初もの」をありがたがってた江戸の人にとっては、とてもワンダホーなものだった。それで、芭蕉は、「春の訪れを感じさせてくれる初桜を愛でることができたのだから、私の寿命も75才くらいまでは延びたことだろう」って詠ってみたのだ。今なら、75才は平均寿命だけど、「人生50年」だった江戸時代のことだから、この「命七十五年ほど」って表現は、今で言えば、「おめでたいものを見たんだから、100才まで長生きしちゃうね」って感じのニュアンスなのだ。

これと言った持病もなく、健康に暮らしてる人間が、自分の寿命、自分の余生について真剣に考えるのって、人それぞれの部分もあるけど、たいていは「50才」っていう節目を迎えた時とか、「60才」っていう還暦を迎えた時だと思う。だけど、「人生50年」だった芭蕉の時代には、今のあたしとおんなじ35才で、もう人生の3分の2を過ぎちゃったワケで、芭蕉に限らず、多くの人たちが、自分の寿命、自分の余生について考えたんだと思う。

芭蕉のこの句は、もともとは「初ものを食べれば寿命が75日延びる」ってコトワザをベースにしてて、それを踏まえた上で、「初桜を見たんだから、75日どころか、75才まで長生きできるよ」って意味を持ってる。だけど、「初花や」ってバッサリと切らずに、「初花に」っていうビミョ~な切り方にしたことで、単なる言葉遊びじゃなくて、実際に自分自身の寿命や余生について深く考え始めた「35才を迎えた芭蕉」の心象風景が垣間見られる。

‥‥そんなワケで、今でこそ「俳聖」だなんて呼ばれちゃってる芭蕉だけど、まだ俳句ってものが確立されるずっと前の時代だから、俳句の前身である俳諧(はいかい)を芸術の域にまで昇華させた仕事は評価できるけど、それだって、晩年の10年ほどのことだ。まだ「桃青」を名乗ってた30代は、他の流派の下品な俳諧師たちとそれほど大きな違いもなく、似たような方法論の句もたくさん詠んでる。たとえば、これも35才の時の句だけど、これにはビックル一気飲みだ。


 塩にしてもいざ言伝てん都鳥  芭蕉


この句は、これから京都へ向かう人に対して詠んでるんだけど、「都鳥(みやこどり)」ってのは、今で言う「ユリカモメ」のことだ。ようするに、「都を代表する鳥であるユリカモメを捕まえて、塩漬けにでもして、江戸からのお土産として持たせてやるから、私からだとコトヅテしてくれ」って詠ってるのだ。もちろん、ユリカモメの塩漬けなんかアリエナイザーだし、当然、ユリカモメを捕まえて食べる人なんかいなかったから、単なるシャレなんだけど、この品(ひん)のなさは、とてもワビだのサビだのシオリだのってノタマッた人の句とは思えない。だけど、これは、あくまでも、この句だけを読んだ場合の感想であって、この句には、ベースになってる在原業平の有名な歌がある。


 名にし負はばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと  業平


これは、「古今和歌集」や「伊勢物語」に出て来る業平の歌で、遠い都にいる自分の恋人の安否を気づかって、「名前に都という文字がついている鳥なのだから、きっと、都にいる私の恋人がどうしているか知っているだろう。だから、あの都鳥に問うてみよう」って意味だ。そして、この歌から、隅田川の言問橋の「言問(こととい)」って地名が生まれたって言われてる。で、「伊勢物語」のクダリには、こんなふうに書いてある。


なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中にいと大きなる川あり。それを隅田川と言ふ。その川のほとりに群れ居て、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡し守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて渡らんとするに、みな人もの侘しくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥のくちばしと脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。


ようするに、「京では見たことのない鳥」だったってワケで、だから、京から来た御一行様は、船頭さんに「あの鳥は何?」って聞いたってワケだ。そして、「都鳥」だって名前を教えてもらったから、「都」って文字のついた鳥なんだから、京に残して来た自分の恋人の安否を知っているかもしれない‥‥っていうロマンチックな展開にしたってワケだ。

で、話はクルリンパと戻って、芭蕉の下品な句だけど、これで分かったと思うけど、ただ単に業平の歌をパロディーにしてるだけじゃなかったのだ。これから京へと向かう人に対して詠ってることで、ちゃんと「京では見たことのない鳥」ってことを踏まえてる。だから、一見、乱暴に見える「ユリカモメの塩漬け」なんだけど、このパロディーには、京に残して来た恋人を思い、その安否をユリカモメに尋ねようとした業平の心が底流してたってワケで、これこそが、芭蕉が、下品なだけの江戸俳諧とは一線を画した存在だったってことの証なのだ! なのだったらなのなのだ!

‥‥そんなワケで、今から、たった300年前の芭蕉は、今のあたしとおんなじ年の時に、自分の寿命や余生のことをシッカリと考え、先人である業平の思いをアイサツ句に底流させ、そして、すでに人生の晩年を歩き始めてたってワケだ。だからこそ、わずか51年の生涯で、大衆文芸だった俳諧を崇高な芸術の域にまで昇華させることができたワケだし、後の正岡子規が「俳句」を確立させるためのイシズエを築くことができたってワケだ。だから、桃青が39才の時から「芭蕉」を名乗るようになったのにあやかって、あたしも39才になったら「芭蕉カジキ」って俳号にしてみようかと思ってる今日この頃なのだ(笑)


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