美人は脚が命
しばらく前から、何とか杖を使わなくても立ってられるようになったので、オトトイから杖を持たずに歩く練習を開始した。今までも、杖を持ってお散歩に行っても、杖を使わずに何歩か歩いて、足が痛くなったら杖を使って‥‥って感じでリハビリしてたんだけど、4月の終わりにケガをしてから、ちょうど半年になったのを機会に、「もう頬杖はつかない」 by 桃井かおり‥‥じゃなくて、「もう杖は使わない」 by きっこ‥‥って決めたのだ。それにしても、最初は「全治4週間から6週間」て言われたケガが、こんなにも長引くとは、肉体的にも、精神的にも、生活的にも、ホントに苦しい半年間だった‥‥っていうか、現在も進行中なんだけど(笑)
で、心配してくださってる人に現状報告すると、最初は、足首のほうが先に痛みがなくなって、ヒザのほうがいつまでも長引いてたので、ヒザのほうが重傷なんだと思ってたんだけど、今は、逆になっちゃってる。ヒザのほうは、赤穂市のYさんていう読者が送ってくださった靭帯保護用のサポーターのオカゲで、すごくラクになった。そして、このサポーターさえつけてれば、杖を使わなくても歩けるようになった。だけど、ヒザの痛みがやわらいで来るにしたがって、最初に痛みがなくなった足首のほうがだんだん痛くなり始めて来て、今は、ピーク時の痛みを10とすると、ヒザが1くらいなのに対して、足首のほうは4か5くらいの感じになっちゃった。
それで、今は、足首の2ヶ所の傷も、醜くクッキリと残ってて、ぜんぜん消える気配もないし、その傷のまわりが広範囲にマヒしてて、皮膚を触っても感覚がない。そして、つま先を床につけて体重をかけると、「ピキーン!」って、引きつるような痛みが走る。最初のころの激痛とは違って、十分にガマンできる痛みなんだけど、体重をかけるたびに痛みが走るから、無意識のうちに杖に頼った「右足に体重をかけない歩き方」をするようになっちゃった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、オトトイから杖を持たずに歩く練習を開始したワケだけど、今までずっと杖に頼って歩いてたから、「杖を持たずに外に出る」ってことが、何だかすごく心細くて、外に出ても、道の真ん中を歩くことができない。今まで、杖を持ってお散歩に出た時は、杖を使わずに何歩か歩いてみても、「ヤバイ!」って思ったら、すぐに杖で支えることができたから、ワリと限界までチャレンジすることができた。だけど、今は杖を持ってないから、塀とか電柱とか、近くにつかまるものがないとすごく恐くて、猫みたいに、道の右側の他人の家のブロック塀に沿って歩いたりしてる。その上、一歩ごとに「ピキーン!」「ピキーン!」ってなりながら、まるで井上和香のスキップのようにギクシャクと歩いてるから、思いっきり挙動不審な人になっちゃってる(笑)
だけど、あたしは、いつまでもパチンコだけで食いつないで行くワケにも行かないから、がんばってリハビリして、早く普通に歩けるようにしないと生きて行けなくなっちゃう。世の中の99%の人たちとおんなじに一般人のあたしは、仮病で長期バカンスを楽しんでる朝青龍なんかとは立場も違うんだし、癒着企業から湯水のごとく接待してもらえる守屋武昌なんかとも立場が違うから、自分の力で生きてかなくちゃなんない。だから、今は、リハビリってよりも、自分に課せられた運命を克服するために痛みに耐えてるって感じなんだけど、コイズミによる長年の痛みに比べたら、こんなの、お茶の子サイサイの手塚眞って感じだ。
だから、あたしとしては、なかなか歩けるようになれないこともキビシーけど、それよりも、足首に残った醜い傷跡のほうが気になってる。だって、半年も経ったのに、ぜんぜん薄くならないどころか、ヤケドの跡みたくなってて、このままずっと残りそうだからだ。足首の内側の関節のとこに、ちょうど1円玉を3枚、縦に並べたみたいに傷跡が残ってて、浅かった真ん中は皮膚の色に近くなったから、遠目には分かんないんだけど、上と下の2ヶ所は肉までえぐれたとこだから、今でも凹んでて、そこが黒っぽいケロイド状になってる。ようするに、周りから皮膚が出来たんじゃなくて、皮膚のない肉のまま乾いたって感じなのだ。
で、この傷跡が何でそんなに問題なのかって言うと、あたしの大好きなパンプスが履けるようになった時に、思いっきり目立っちゃう部分だからだ。最初は、外側のクルブシのとこじゃなくて内側だから、そんなに目立たないって思ってた。だけど、だんだんに歩けるようになって来て、パンプスが履けるようになる日も近いって思って来たら、脳内でシミュレーションする「パンプスを履いたあたし」の姿もリアリティーを増して来た。それで、最初みたいに「ただ立ってるあたし」じゃなくて、いろんなシチュエーションを想像するようになって、その中に、「脚を組んでるあたし」ってのも登場するようになった。
そしたら、右脚を組んだら思いっきり傷跡が見えちゃうし、左脚を組んでも、それまで右脚の傷跡を隠してた左脚が移動することによって、右脚の傷跡はノーカバーになっちゃうから、どっちにしても脚が組めなくなるってことに気づいたのだ。「そんなら脚なんか組まなきゃいいじゃん!」て言われそうだけど、あたしの大切にしてるパンプスたちは、華奢なヒールの美しさと、小生意気そうなトゥの表情と、何とも言えないサイドラインのエレガントさが織りなす芸術作品だから、脚を組むことによって、ナニゲにアピールする必要があるのだ。さらには、あたし的にココ1番のルブタンを履いてる日には、赤いソールをアピールするために、なおさら脚を組む必然性があるから、ヨケイに困っちゃうってワケだ。
せっかくのルブタンに、脚の色が見えないほどのタイツを履くワケにも行かないし、最終的には、カバー用のファンデを塗って傷跡を隠すってことになると思うけど、これがまたメンドクサイ。今も、腕の傷跡は、カバー用のファンデで隠してるけど、それは腕を出す季節だけで、長袖を着る季節は何もしてない。だけど、足首の場合には、季節に関係なく、ブーツを履く時以外は、毎日のようにカバー用のファンデを使わなきゃなんないワケで、これはなかなかメンドクサイ。
‥‥そんなワケで、こんなことになったのも、あたしが靴フェチだからってワケで、さらに言えば、自意識過剰だからってワケだ。だって、あたしなんかが歩いてても、すれ違う人たちはぜんぜん気にしてないし、あたしが脚を組もうがどうしようが、別に誰も見てないからだ。たとえば、渋谷のハチ公側の駅前のスクランブル交差点の真ん中で、にしおかすみこみたく大マタびらきの3点倒立でもしてれば、きっとみんなが見てくれると思うけど、普通に歩いてるだけだったら、誰も見向きもしない。だから、あたしが足首の傷跡を気にしてるのは、所詮は自己満足と自己納得の世界ってワケだ。
だけど、世の中のほとんどの女性が、自己満足と自己納得のためにオシャレしてるワケで、アイドルやタレント、モデルやスターでもない限り、多くの人たちから注目されることなんてナッシングだ。だから、アイドルやタレントでもない上に、三十路を超えたあたしなんかは、世の中的に言えば、「微熟女倶楽部」で働けるのもギリギリってワケで、たとえば、面白い模様の野良猫とあたしが並んでたら、前を通りすぎる人の10人に9人は、きっと、面白い模様の野良猫のほうに注目しちゃうと思う。
だけど、アイドルだけに限って言えば、今は、ハロプロのアイドルとかを見れば分かるように、特別に可愛いワケでもなく、特別に歌やダンスの才能があるワケでもなく、そこらにいるような女の子がアイドルをやってるワケで、アイドルってもんのハードルが限りなく低くなった。さらに言えば、テレビに出てるアイドルなんかよりも、そこらの女の子たちのほうが、遥かに可愛かったりする。その上、テレビに出てるアイドルたちは、ひと昔前とは違って、タバコやお酒は当たり前で、オッサンと温泉旅行に行っちゃうようなアバズレから、毎晩のようにセックスしまくって、トットと「できちゃった結婚」しちゃうようなバカ女まで、あまりにも知能程度が低くなったから、一般の女の子たちのほうが、外見も内容も優れてるんじゃないかって思う。
‥‥そんなワケで、今や地に落ちちゃったニポンのアイドルだけど、そんなアイドルがニポンに初めて誕生したのは、意外と古くなくて、今から250年ほど前、江戸時代の明和年間(1764~1771年)なのだ。もちろん、うんと昔にも、小野小町をはじめとして、いろんな歴代の美人がいたけど、それらは、一部の貴族たちからモテモテだっただけで、一般大衆の人気を集めたアイドルとは違った存在だった。だから、今のファンたちがアイドルのもとに殺到するような形ができたのは、浮世絵の美人画が庶民の楽しみになった江戸時代からなのだ。
当時、人気のあった浮世絵師たちは、空想で美人画を描くんじゃなくて、ちゃんとモデルを使ってた。で、そのモデルってのが、町の茶屋のカンバン娘だったりしたワケだから、その美人画を買った男たちは、ひと目、本物を見てやろうと、わざわざ遠くからもその茶店に行くワケだ。だから、人気の出た美人画のモデルがいる茶屋は、ものすごく繁盛した。そして、その女の子は、最初はお客さんたちにお茶やお団子を運んで働いてたんだけど、そのうち、お店にいるだけで集客力があるから、入り口に腰掛けてニコニコしてるだけで良くなった。これがホントのカンバン娘ってワケで、器量のいい娘がいた茶屋は、それだけで儲けることができたのだ。
ちなみに、この時代のナンバー1は、谷中(やなか)の笠森稲荷にあった「鍵屋(かぎや)」っていう茶屋の娘、おせんで、鈴木春信の錦絵(多色刷りした浮世絵)に描かれて人気が出た。とっても可愛かったおせんは、アッと言う間に江戸中の人気者になって、鍵屋は連日の大盛況。すぐに、おせんを描いた手拭いや、おせんの双六(すごろく)、おせんの絵本なんかが作られて、飛ぶように売れまくった。挙句の果てには、今で言うとこのフィギュア、おせん人形まで売り出されたんだけど、これこそが、アイドルグッズの先がけだろう。そして、おせんの人気はとどまるところを知らずに、おせんを題材にした歌がヒットしたり、しまいには、「鍵屋おせん」なんてお芝居までが上演されるようになった。
だけど、18才の時に、父親が経営してた鍵屋の手伝いをするようになったおせんは、20才の時に、突如、姿を消した‥‥って言うか、幕府の偉いお侍さんに見初められて玉の輿に乗ったんだけど、普通なら、お侍さんが町人の娘なんかをお嫁さんにできなかった時代だから、これも、おせんが人気者になったタマモノってことだろう。そして、江戸中の人気者になったのに、わずか2年弱で姿を消しちゃったとこも、いかにもアイドルって感じがする。
で、この時代のナンバー1が鍵屋のおせんなら、おせんと人気を二分するほどのナンバー2が、浅草の観音堂裏の「柳屋」って茶屋のカンバン娘、お藤だった。お藤は、愛嬌があって可愛らしかったおせんとは対照的に、大人っぽくてどこか影のある美人だったそうだから、きっと、松田聖子と中森明菜のような感じだったんだと思う。そして、この2人に、浅草の二十軒茶屋の「蔦屋(つたや)」のおよしが加われば、この時代の「三美人」てワケで、この3人を1枚に描いた鈴木春信の錦絵は、刷っても刷っても追いつかないほど売れまくった。
‥‥そんなワケで、リトル時代が進み、寛政年間(1789~1800年)に入ると、一世を風靡したのは、もちろん、喜多川歌麿の錦絵だ。独自の手法で次々と芸術性の高い錦絵を世に出した喜多川歌麿は、女性を見る目も確かだった。男の子を見る目が確かなジャニー喜多川が、自分の気に入った少年だけを執拗にホニャララするかのごとく、喜多川歌麿は、1人でも気に入った女性を見つけると、その子ばかりを執拗に描き続けた。そして、それが、浅草観音境内の「難波屋」のおきただった。
当時、歌麿に描かれるってことは、ひと前で言えば篠山紀信に撮られるようなもんだし、今で言えば山岸伸に撮られるようなもんだから、人気が出ないワケがない。それでも人気が出なかったとしたら、そのモデルの魅力が足りなかったってだけで、絵師やカメラマンのセイじゃない。で、歌麿が夢中になっちゃうほど美しかったおきたは、当然のことながら、江戸を代表する美人の名を欲しいままにするようになり、おきたがカンバン娘をつとめる難波屋は大繁盛した。
ま、おきたは、歌麿が一番多く描いた女性だし、「高名美人六家撰」の中にも、「江戸三美人」の中にも入ってるし、お茶を運んでる絵を見たことのある人も多いと思う。ちなみに、この絵の左上のとこに、ちっちゃい別の変な絵が描いてあるんだけど、これが「判じ絵」って言って、その絵のモデルを表わすオヤジギャグになってるのだ。「難波屋おきた」の中の判じ絵は、上から、ほうれん草みたいな菜っぱが2把、矢が1本、そして、海の沖と田んぼの絵が描いてある。これが、菜が2把で「なにわ」、矢が「や」、沖と田で「おきた」、つまり、「なにわやおきた」ってことなのだ。おお~、地球温暖化なのに、寒いこと寒いこと!(笑)
‥‥そんなワケで、このオヤジギャグが炸裂してる判じ絵を見てみたい人は、「難波屋おきた」で画像検索すれば、すぐに見ることができると思うし、歌麿とおきたとのことを詳しく知りたい人は、今から60年くらい前の映画、「歌麿をめぐる五人の女」をレンタルして来て観れば、八代目坂東三津五郎と田中絹代による名演が楽しめると思う。そして、こんな方向にダッフンした日記を書いてるうちに、あたしには、ものすごいグッドアイデアが浮かんじゃった。それは、これからは日常的にお着物で過ごすことにすれば、足首の傷跡は足袋で隠れるし、お草履ならパンプスよりも脚に負担が掛からないし‥‥ってワケで、どっかのパチンコ屋さんで、「ハイパー海物語 IN カリブ」を打ってる着物姿の場違いな女を見かけたら、皆さん、そっとしといて欲しいと思う今日この頃なのだ(笑)
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