仰臥漫録
あたしのリスペクトしてる正岡子規は、慶応3年(1867年)10月14日に生まれて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなった。だから、36才のお誕生日を迎える1ヶ月ほど前に、35才で亡くなったことになる。つまり、あたしは、もう子規より1年も長く生きてることになるんだけど、子規の足元にも及ばない。もちろん、それは当然のことだけど、晩年は脊髄カリエスっていう重病で、自力で寝返りを打つこともできなかったのに、それでも日記を書き続けた子規にちょっとでも近づきたいから、あたしは、どんなに疲れてる日でも、できる限り日記を書き続けてる。
子規の日記は、「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」と「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」とがあるけど、この2冊は、「俳諧大要(はいかいたいよう)」とともにあたしのバイブルで、3冊とも岩波文庫だから、遠出する時はどれか1冊をバッグに入れて行く。病床から動けなくても、あらゆるものに興味を示した子規は、俳句仲間や弟子たちが持って来たお土産の果物や庭の草花などを丁寧に写生して、日記に描き添えてる。だから、そうした絵を見ると、「この人はホントに病人なのか?」って思えるほどだ。
重病の自分のことを客観的に見て、ワリと淡々と書かれてる「病牀六尺」は、各方面から高い評価を受けてるけど、あたしは、子規の少年のようなキラキラした心や人間らしさがいっぱいの「仰臥漫録」のほうが好きだ。あたしは、どっちも数え切れないほど読んでるけど、「仰臥漫録」のほうは、読んだ回数だけ泣いて来た。そして、これからも、読むたびに決まったページで泣くと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、この「仰臥漫録」の「仰臥」ってのは、「仰向けに寝る」ってことで、反対に「うつぶせに寝る」ことは「伏臥(ふくが)」って言う。子規の場合は、仰向けに寝たまま、ほとんど動くことができなかったので、そのままの状態で、半紙を綴じて作ったノートに、病気による苦痛と闘いながら、文章や俳句、絵などを記して行ったのだ。そして、この「仰臥漫録」には、明治34年9月から、死の直前の35年9月までの1年間が、書き綴ってある。
明治三十四年九月二日 雨 蒸暑し
庭前の景は棚に取付てぶら下がりたるもの夕顔ニ、三本、瓢(ふくべ)ニ、三本、糸瓜(へちま)四、五本、夕顔とも瓢ともつかぬ巾着(きんちゃく)形の者四つ五つ
「仰臥漫録」の1日目は、この文章に、夕顔や糸瓜などの絵が添えられてスタートする。ちなみに、この日記を書き始めた時点で、子規の肺は左右ともにほとんど空洞になってて、お医者さまからは「生存していること自体が奇跡」って言われてた。それも、すぐに治療が受けられる病院に入院してるんじゃなくて、自宅のお布団に寝てたワケで、母と妹が身の回りの世話をしてたのだ。普通なら、苦痛にのたうちまわったり、自分の余命に絶望したりして、とても絵や文章を書き続けるような人はいないと思うんだけど、読み進んで行くと、だんだんと子規っていう人のことが分かって来る。そして、誰もが驚くのが、とても病人とは思えない子規の食欲だ。試しに、ある日の食事を例にあげてみる。
朝 粥(かゆ)三椀 佃煮 茄子と瓜のお新香 ココア入り牛乳五勺 塩せんべい三枚
昼 かつおのさしみ 粥三椀 みそ汁 西瓜二切 梨一つ
間食 菓子パン十個 塩せんべい三枚 茶一杯
夕 栗飯三椀 焼き魚(さわら) 芋煮
ちなみに、この日だけが特別なんじゃなくて、ほとんど毎日、このくらいの量の食事をしてるのだ。特に驚くのは、おやつの「菓子パン10個」だ。たぶん、ひと口サイズの小さなものだと思うけど、それにしても、お昼ごはんをタップリ食べて数時間で、よくこれだけのものが食べられると関心しちゃう。あたしには、子規のこの異常とも思える食欲が、生きることへの執念のように思えてならないのだ。
‥‥そんなワケで、この「仰臥漫録」には、その日の食事の他に、自分の病状や連日尋ねて来る来客のこと、そして俳句など様々なことが書かれてる。体の激痛、頭痛、発熱、吐き気、動くことのできない子規を次々に襲う病魔‥‥。それでも子規の作る俳句は、病気の句の合間に、作者の苦しみなど感じさせない秀逸な写生句が並んで行く。
秋の灯の糸瓜の尻に映りけり 子規
もしも、あたしが死の淵にいたら、こんな句が詠めるかと、いつも考えてしまう。そして、スタートしてから2週間目の9月14日の日記には、あまりの苦しさに「絶叫号泣」と記されてる。それでも、少しでも痛みが去れば、また筆を取り、仰向けのままで日記を書き、絵を描き、俳句を作り続ける子規。この「子規」って俳号は、自分が吐血したことから、「血を吐いても歌い続けるホトトギス」にならって、「ホトトギス」を漢字で書いた「子規」を俳号にしたものだけど、この生き様が、「子規」そのものだと思う。
比較的病状が安定している日には、書生時代の旅行の思い出や、病床で思うことなどを随筆的に書き綴り、来客の持参したお見舞いの品々を見て俳句を詠んで行く。だけど、腹部の包帯を替えるごとに、わき腹に開いた患部の穴は大きくなって行き、子規を絶望の底へと突き落とす。
そして、大雨の降る10月13日、あまりの苦しさに耐えられず、頭がおかしくなって来た子規は、「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と連呼し、母に弟子を呼びに行かせる。その間、ひとりになった子規は、手元の硯箱(すずりばこ)にある小刀と千枚通しに目をやり、いっそこれを使って死んでしまえば、この苦しさから開放される、と言う思いと格闘するのだ。
しかし、子規の本当にすごいところは、このあとなのだ。激痛が治まり、平静な精神状態に戻った子規は、この時の様子を冷静に日記に書き、さらには、自分の命を終らせようとした小刀と千枚通しをスケッチしているのだ。あたしは、これほどの究極の客観写生を他に知らない。そして、この時の子規の気持ちを思うと、どんなにつらかったのかと思うと、涙が止まらなくなる。
この日記は、10月の子規の誕生日をもって、病状の悪化により一時中断する。そして、翌年の3月から再開するんだけど、激痛を和らげるために麻痺剤を服用し始めたものの、ほとんど効き目がなくて、毎日、苦しさに泣いている。7月を過ぎると、いよいよ誰の目にも最期だと言うことが分かるようになり、弟子の高濱虚子、河東碧梧桐(へきごとう)、寒川鼠骨(そこつ)などが、当番制で毎日訪れるようになる。7月以降は、衰弱により日記を綴ることもできなくなるけど、それでも、意識のもうろうとする中で、必死に筆を取り、死の間際の9月初旬まで、植物を写生してる。そして、9月19日、絶命する。子規の生きざまは、まさに、命を懸けた客観写生そのものなのだ。
‥‥そんなワケで、あたしがリスペクトしてるのが正岡子規なら、ハイヒール・リンゴさんがリスペクトしてるのが司馬遼太郎で、司馬遼太郎の代表作のひとつ、「坂の上の雲」は、正岡子規と、軍人の秋山好古(よしふる)、秋山真之(さねゆき)の兄弟を中心に描かれた歴史大作だ。そして、あたしの大好きな土方歳絵ちゃんの出て来る「機動新撰組 萌えよ剣」のネタ元はと言えば、これまた、司馬遼太郎の代表作のひとつ、土方歳三を描いた「燃えよ剣」だ‥‥ってワケで、あたしも、ナニゲに司馬遼太郎はたくさん読んでるんだけど、長い小説を読むのが苦手な人にも、この「坂の上の雲」だけは、ホントに素晴らしい小説だから、ぜひ読んで欲しい。でも、どうしても読むのがメンドクサイって思う人は、来年の2009年から、3年間をかけて、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」を放送するから、それを観て欲しいと思う今日この頃なのだ。
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スペシャルドラマ「坂の上の雲」
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