恋する猫
ゆうべ、今年初めての「恋の猫」の鳴き声を聞いた。「恋の猫」ってのは俳句の季語で、一般的には「発情した猫」ってことなんだけど、「発情」とか「さかり」とか言うよりも、あたしは、この「恋の猫」とか「猫の恋」とかって言い方のほうが好きなのだ。実際の鳴き声を聞けば、とても「恋」なんていうロマンチックなもんじゃなくて、ギャーギャーワーワーと大騒ぎで、いかにも「発情」って感じなんだけど、それでも、猫好きのあたしとしては、「恋」と呼んであげたい。
で、あたしがゆうべ聞いたのは、まだ本格的な状態に突入する前の、猫自身も自分の状況がよく分かってない「ノーマル時と発情時のハザマ」の鳴き声だった。どんなのかっていうと、こんなのだ。
「ア~オ~‥‥ア~オ~‥‥ア~オ~‥‥ア?」
この、最後の「ア?」のとこが、ハッと我に返って、「オレはいったいどうしちゃったんだ?」っていう「気づき」の部分で、このあと、何秒かの自問自答の間(ま)があってから、また、「ア~オ~」が始まる。あたしは、この状態の鳴き声を聞きながら、その猫が「あれ?」って思ったり、また本能に流されてたりしてる「本能と理性との葛藤」の様子を読み取りながら、ベッドで目をつぶってウトウトしてるのが大好きだ。鳴き声を聞いてるだけだから、どんな猫なのかは分かんないけど、だからこそ、いろいろと想像するのが楽しくなる。
もちろん、「猫に理性なんかない」っていう人もいるだろうし、実際には、いつもと違う状況になりつつある自分にとまどってるだけなんだと思うけど、その状態を人間に置き換えて、「本能と理性との葛藤」として見ると、すごく面白いのだ。そして、恋する猫の鳴き声を聞きながら、自分がその猫になった気分で、葛藤しながら眠りにつくと、ニャンだかとってもエッチな夢を見ちゃう今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?(笑)
‥‥そんなワケで、いくら猫好きなあたしでも、恋のシーズンの本番に突入して、何匹もの猫たちが「ア~オ~ア~オ~」って鳴きまくり、タマに「ウギャギャギャー!」とかってケンカして、何かを「ガラガラガチャーン!」とかってひっくり返しながら走り回られたりすると、サスガに眠れなくて困っちゃう。まあ、今はマンションの2階だし、窓の防音もソコソコだから大丈夫だけど、昔のアパートの時は、窓を開けて「いいかげんにしろー!」って怒鳴りたくなるような時もあった。
だから、あたしが好きなのは、あくまでも、今の時季の「恋の体勢に入ることをとまどってる猫の鳴き声」ってワケで、これには、その猫の葛藤を読み取る楽しさの他に、「走り茶」や「走り蕎麦(そば)」や「走り松茸」などを楽しむのとおんなじに、季節を先取りする楽しみもある。これは、2007年9月15日の日記、「先取りの美学」に詳しく書いてあるけど、「走り」を楽しむことによって、他の人たちよりも、ひと足先に新しい季節を実感できるのだ。
本格的な恋のシーズンが始まる前の「走り」の猫の鳴き声を聞けば、まだ周りは寒いのに、「ああ、春になったんだな~」って感じることができる。そうすると、寒くて寒くて震えるようなお部屋にいても、心の中に春の日差しや息吹が芽生えて来て、暖かな気持ちになって来る。これが、「走りを味わう」ってことなのだ。
たとえば、街の歩道を歩いてると、等間隔に街路樹が植えてあるけど、そんなものは気にもとめないで歩いてる人たちは、街路樹の小さな変化には気づかない。それが桜の木だったとしたら、毎日その道を通ってるのに、桜の花が咲いた時点で、初めて「あっ桜が咲いた!」って気づくだけなのだ。だけど、あたしの場合‥‥って言うか、俳句をやってる人の場合は、いつでも俳句のネタを探してキョロキョロしながら歩いてるから、街路樹のビミョ~な変化も見逃さない。
葉が落ちて枝だけになった寒々しい冬の「裸木(はだかぎ)」の状態でも、毎日見てるから、枝から小さな芽が出たことも見逃さない。そして、毎日その道を通りながら、その芽が大きくなって行く様子を見たり、小さな葉がひらいて行く様子を見たり、ツボミができる様子を見たり、そのツボミが膨らんで行く様子を見たりして、ようやく、「桜が咲いた!」ってなるワケだ。
だから、パッと咲いてパッと散る桜はともかくとしても、花期の長い梅の場合は、少しずつ花がひらいて行く様子をずっと観察してくから、俳句では「梅三分(うめさんぶ)」なんて言って、全体のツボミの数の3割ほどがひらいてる様子なんかを詠んじゃったりする。どんなお花でも、「満開」の状態が何よりも美しいって思うのは、西洋的な感性であって、ニポン人の場合には、3割ほど咲いた「走り」の状態こそを愛でたり、逆に、枯れて行く様子に美しさを見出したりするもので、これは、古代からのニポン人の感性なのだ。
‥‥そんなワケで、街路樹のある道を歩いて会社や学校へ通ってる人がいて、1月のある日、気温が10度だったとする。そして、2月のある日には、気温が0度だったとする。そしたら、この人は、1月のある日のほうが、2月のある日よりも「暖かかった」って思うだろう。これは、普通のことだし、あたしもそう思う。だけど、あたしの場合は、1月のある日に歩いた時には、街路樹は「裸木」だったのに、2月のある日に歩いた時には、枝に小さな芽がポツポツと出始めてることに気づいてるのだ。だから、いくら暖かくても、1月は「冬」って感覚で歩いてたけど、どんなに寒くなっても、2月は「春」の訪れを感じながら歩いてたってワケだ。
ここが、俳句をやってる人とやってない人との違いで、この、小さな「走り」を見つける俳人の目を持てば、「走り」を感じる感覚が形成されて、それは、「走り」を味わう心へと昇華して行くのだ。今は、1年中ほとんどの食べ物があるから、食べ物で季節を感じる人も少なくなって来たけど、仕出し弁当の煮魚に添えられてる「木の芽」を見たり、焼き魚に添えられてる「新生姜(しんしょうが)」を見て、「ああ、春が来たんだな~」って感じられることは、ホントに素晴らしいことだ。これこそが、四季のある国に生まれた喜びだと思うし、四季の中でも、特に「春の到来をひと足早く感じる」ってのは、何よりの喜びだろう。
だからこそ、和食の世界では、常に「走り」に気を配りながら、ちょっとした工夫で季節の移ろいを演出してくれる。今の時季なら、たとえば、先付けで早春の食材を使って早春を演出したら、次の椀物では冬の食材を使って一度季節を戻してから、続いてのお造りや鉢物で春をドーンと表現したりする。こうしたほうが、ただ単に春の食材だけをダダーッて並べ立てるよりも、遥かに季節の移ろいを味わうことができるからだ。もちろん、食材やお料理だけじゃなくて、器や箸置き、お部屋の掛け軸やお花、仲居さんのお着物や帯の柄まで、すべてに演出が行き届いてる。
それなのに、せっかくこうした素晴らしいお料理を食べに行っても、何も見ずに、何も感じずに、出て来たものを順番にパクパクと食べて「あ~美味しかった」ってんじゃ、あまりにももったいないし、とてもニポン人とは思えない。「演出」って言葉を使うと語弊があるけど、ようするに「お客さまをおもてなしする心」ってワケで、その「心」が行き届いたお店なら、お花ひとつとっても、玄関に飾ってあるお花と、通路の途中に飾ってあるお花と、お部屋に飾ってあるお花で、季節の移ろいを表現してる。玄関には「今の季節のお花」を生けてお客さまをお迎えして、途中の通路には「少しだけ前の時季のお花」を生けて季節を戻し、そして、通されたお部屋には、季節を先取りした「走り」のお花が生けてあったりする。
それなのに、何も見ずにお部屋へとスタスタと歩いて行くなんて、風情も何もあったもんじゃない。コレって、相手が「いらっしゃいませ」ってアイサツをしてくれてるのに、こっちはアイサツされてることにも気づかずに、シカトしてることとおんなじなのだ。
‥‥そんなワケで、ほとんどの人が目も向けない街路樹の小さな芽は、季節からのアイサツなのだ。そして、その存在にも気づかずに、コートの衿を立てて足早に駅へと向かう人たちは、季節からのアイサツをシカトしてるってことなのだ。ま、人の生き方は人それぞれなんだから、木の芽なんかどうでもいいって人も多いだろうけど、あたしにとっては、今年の春は今年だけの一期一会であって、もう二度と巡って来ないかけがえのない春だから、何も言わずにヒッソリと顔を出してる木の芽にこそ、17音のアイサツを返してあげたいと思ってる。もちろん、木の芽だけじゃなくて、花にも、鳥にも、お魚にも、食べ物にも、そして、恋する猫たちにも‥‥なんて思って20年以上も俳句を続けて来た今日この頃なのだ。
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