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2008.02.02

ベタの美学

Y953
こないだから始まった新しい「ヤッターマン」だけど、あたし的には、すごく楽しませてもらってる。一部では、「主題歌が悪くなった」とか「昔のヤッターマンのほうが良かった」とか言ってる人もいるみたいだけど、別に、昔のヤッターマンを観てた人たちだけのために制作したワケじゃないだろうし、「犬夜叉」とか「結界師」とかを放送してた月曜日の夜7時って時間帯を考えれば、子供向けの番組だってことは一目瞭然だ。つまり、制作サイドとしては、あくまでも「今の子供たち」のために制作したワケで、大人が文句を言う対象じゃない。だいたいからして、昔の「ヤッターマン」が観たいんなら、GyaOで無料で配信してるんだから、それを観てればいいじゃん‥‥て思う。

あたしとしては、タコ焼きの大食い大会のシーンで、一般の参加者の中に、ナニゲに、ジャイアント白田やギャル曽根ちゃんと思わしきキャラが混じってたとことか、ドクロベエ様が、突然、「ぶらり途中下車の旅~」なんて言っちゃうとことか、細かいツボも散りばめられてて、すごく楽しんでる。それに、何と言っても、昔から一貫してる起承転結がおんなじストーリーのオカゲで、安心して観ることができる。これは、「水戸黄門」をはじめとした時代劇も一緒で、ストーリーの大筋だけじゃなくて、それぞれのキャラの役回りまでが決まってる。だから、こうしたアニメや時代劇ってのは、ストーリーそのものを楽しむものじゃない。

映画とか小説とかの場合は、ある程度は、これからどんなふうにストーリーが展開してくのか、想像しながら観たり読んだりしてる部分もあるから、自分の予想を裏切るような展開や結末を楽しむことができる。だけど、人間てのは勝手なもので、意外な展開や結末を期待してる半面、自分の思い描いてた通りの展開や結末にならないと、ガッカリしちゃう部分もあるのだ。

たとえば、不幸な少女の映画で、これでもか!これでもか!ってくらい、その少女に不幸が訪れながら、ストーリーが進んでったとする。で、最後の最後に、自分が幼いころに死んだって聞かされてたお母さんが、実は生きてたって話が舞い込んだとする。そして、その少女は、雪の中を何度も倒れながら、必死にお母さんの住む町へと歩いて行く‥‥ってことになれば、その映画を観てるほとんどの人は、少女がお母さんと再会して、抱きしめられる感動のラストシーンを想像するし、期待すると思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、この少女は、お母さんの住む町へと、ヒザまであるほどの深さの雪の中を必死に歩きつづけた。だけど、お母さんの住む家の灯りが見えて来たとこで、あとちょっとでお母さんの家に辿り着くってとこで、少女は力尽きて倒れ、動けなくなってしまった。眠るように息をひきとった少女の上に、静かに雪が降り積もってく。そして、パンしたカメラに映し出された家の窓には、暖炉を囲んで楽しそうに笑い合うお母さんと、再婚したダンナさんや子供たちの姿が見えて、THE END‥‥ってことになったら、これはこれでエンディングとしてはアリだと思うけど、多くの人たちは「自分の期待してた通りのハッピーエンドのほうが良かったのに‥‥」って思うだろう。

だけど、この少女がお母さんと再会して、抱きしめられて、予想してた通りに終わったとする。そうなると、今度は、それなりに感動しつつも、何か物足りないような感覚になっちゃうものなのだ。これが人間の勝手な部分で、新しい「ヤッターマン」に文句を言ってる人たちは、もしも、昔のオリジナルの伝統を完璧に引き継いだような新作だったとしたら、それなりに満足したり評価したりしつつも、何か物足りないような感覚に陥ってたハズなのだ。

あたしとしては、起承転結が毎回おんなじなストーリーだっていう伝統芸と、ドロンボーの3人組の声やノリが変わってないってだけで十分で、あとの部分は、主題歌にしても絵柄にしても、新しくなったことに何も文句はない。逆に、基本のポイントを押さえつつ、よくぞここまでリニューアルできたもんだって感心してるほどだ。

たとえば、主題歌も昔のまんま、絵柄も昔のまんまで、ストーリー展開だけが大幅に変わったとする。つまり、いつもの起承転結をやめにして、ドロンボーたちが勝つことがあったり、アイちゃんがガンちゃん以外の男の子のことを好きになったりって、今までとは違ったストーリーで、それが、毎回、いろいろと変化するようになったとする。そしたら、あたしたちは、「今回はどんなストーリーなんだろう?」って思って観るようになる。つまり、ストーリー重視で観るようになるワケで、それはそれで面白い部分も出て来るけど、何よりも楽しいハズの個々のキャラの小ネタとか、要所要所でのお決まりのギャグが楽しめなくなっちゃう。

「水戸黄門」で最後に印籠を出すシーンは、観る者すべてが最初から知って観てるワケで、その演出だって、毎回ほとんどおんなじだ。セリフだって、ほとんど変わらない。それでも人気があって、毎回楽しみに観てる人たちが多いのは、このストーリーが、お年寄りから子供まで、安心して楽しめる「ベタの美学」の世界だからだ。

「ベタ」ってのは、今じゃ一般の人も普通に使ってる言葉だから、詳しく説明する必要はないと思うけど、「ありきたり」って意味の業界用語だ。つまり、「ベタなストーリー」を直訳すれば「ありきたりなストーリー」ってことになるんだけど、これは、ニュアンスがリトル違って来る。「ありきたり」っていうのは、悪い意味にしか使われないけど、「ベタ」の場合には、良い意味に使われる場合もあるのだ。それが、「ベタの美学」なのだ。

‥‥そんなワケで、「ありきたりなストーリー」っていうと、すぐに「予定調和」って言葉が連想されると思うけど、これは根本的に違うものだ。「予定調和」って言葉は、ドイツの哲学者、ゴットフリート・ライプニッツの「予定調和論」から生まれたもので、ものすごく簡略化して言うと、「世界中の森羅万象、すべてのモノやコトは、神の意志によって、あらかじめ最後には調和するように定められている」って論だ。もちろん、この「神の意志によって」ってのは、論を分かりやすくするための方便だから、代わりに「自然の摂理によって」でも、「宇宙の真理によって」でも、何でもいいんだけど、ようするに、すべての出来事は、最後の最後にはツジツマが合うようになってるってことなのだ。

だけど、神様だろうが自然の摂理だろうが、どれにしても「人間の意志によって」じゃないんだから、そう考えると、「人間の思い通りに行くこともあれば、思い通りに行かないこともある」ってことが前提で、「それは、人間以外の大きな何らかの力によって、決まった結論に向かうように運命づけられてる」ってことになる。だから、あたしたちが、「不幸な少女の物語はハッピーエンドになって欲しい」って思うのは、人間の意志によるものなんだから、厳密に言えば、「予定調和」とは言えない。「ヤッターマン」のストーリーにしても、「水戸黄門」のストーリーにしても、こうした勧善懲悪のストーリーってのは、「予定調和」とは違うのだ。

アニメでも、ヒーロー物でも、時代劇でも、刑事ドラマでも、正義の味方と悪者が出て来れば、必ず最後には正義の味方が勝つ。だけど、すんなりとは勝たずに、途中で必ず正義の味方がピンチになる。そして、そのピンチを乗り越えて、最後の最後に正義の味方が勝つ。これは、古今東西変わらない勧善懲悪のストーリーだけど、「正義の味方と悪者」っていう観念自体が、人間の主観によるものなんだから、とても神様の意志や宇宙の真理とは言えないのだ。たとえば、キリストを神様だとする民族と、アラーを神様だとする民族が戦争をすれば、双方が「自分たちが正義で相手が悪」って思うだろう。つまり、ウルトラマンが勝って怪獣が負けるってのは、ウルトラマンのほうを正義ってとらえてる人たちだけの勧善懲悪であって、怪獣サイドから見れば、正反対のストーリーなのだ。

‥‥そんなワケで、この勧善懲悪のストーリーにしても、それをベースにして作られた「ヤッターマン」の基本ストーリーにしても、不幸な少女がハッピーエンドを迎えるストーリーにしても、これらはすべて「人間の意志」、不特定多数の人間が「こうあって欲しい」と望んでる意志によって作られたものだ。そして、こうしたスタイルが作られて来た背景には、神様の意志によって結論が決まってる予定調和の現実世界に対して、理不尽だと思ったり、夢や希望を感じなくなったりってことがキッカケになってる部分もある。

印籠を見せられた悪代官たちが、黄門さまの前にひれ伏すことは最初から分かってるのに、それでも「水戸黄門」を観ちゃうのは、現実世界では自民党の悪代官たちがのさばってるからだ。そして、「水戸黄門」を観て、スッキリするってワケだ。もちろん、この「自民党」ってのは、あたしの個人的な感覚だから、人によっては、黄門さまの前にひれ伏す悪代官たちを見て、自分の上司に置き換える人もいるだろうし、取引先の社長に置き換える人もいるだろうし、人それぞれだろう。とにかく、現実世界では、悪いことやズルイことをしてるヤツラが得をして、マジメにがんばってる人たちが損をすることが多いから、そうしたことに不満を感じてる人は、「水戸黄門」を観てスッキリするってワケだ。

越後屋からワイロを受け取った悪代官が、越後屋だけに仕事を独占させて、他の町民たちを苦しめてることと、癒着企業からワイロを受け取った自民党の政治家が、その企業だけに仕事を独占させて、他の中小企業を苦しめてる図式は、ソックリおんなじだ。そして、1つだけ違う点は、現実世界には黄門さまがいないから、悪者たちはいつまでも甘い汁を吸い続け、国民はいつまでも苦しめられてるってことなのだ。そして、これが神様の意志による予定調和であるのなら、あたしたちは、人間の意志によって作られた「ベタの美学」でお茶を濁すしかないってことになる。

‥‥そんなワケで、妄想好きのあたしとしては、何よりの「ベタの美学」が、恋愛ストーリーってことになる。恋愛映画を観る時、多くの女性は、その主人公の女性を自分に置き換えて楽しむけど、これは、あたしもおんなじだ。そして、恋愛映画の場合は、現実にはアリエナイザーな奇抜なストーリーだと、あまりにもリアリティーがなくて、自分に置き換えて楽しむことができないのだ。

たとえば、SFファンタジーみたいな映画なら、最初から、現実にはアリエナイザーな作り話って割り切って観るワケだから、それはそれで楽しむことができる。そして、そういう映画の場合は、ありきたりなストーリー、ベタなストーリーじゃ、ぜんぜん楽しめない。意外な展開や予想外な結末がないと、ちっとも新鮮に感じられない。でも、普通の恋愛映画の場合には、奇抜なストーリーよりも、ありきたりなストーリーのほうが、奇跡のようなストーリーよりも、ベタなストーリーのほうが、自分を主人公に置き換えて楽しむことができるのだ。

Y952
で、ゆうべのことだけど、世界一ベタな恋愛映画としてもオナジミの、あたしの大好きな「ノッティングヒルの恋人」がGyaOで配信されてたから、夜中にお酒を飲みながら楽しんだ。これは、あまりにも有名な映画だから、観た人もいっぱいいると思うけど、最初から最後までベタ、ベタ、ベタの嵐で、初めて観た人でも、100人のうちの99人が先の展開や結末を簡単に想像することができるベタの王道だ。そして、そのストーリー展開がベタなだけじゃなくて、ジュースを持って歩いてるヒュー・グラントが、出会いがしらにジュリア・ロバーツとぶつかって、ジュリアの服にジュースをかけちゃうような、こうしたイベントの1つ1つまでもがベタだから、頭をカラッポにして、心だけで楽しむことができる。

これは、他人事として観てるとバカバカしいんだけど、あたしの場合は、ジュリア・ロバーツを自分に置き換えて観てるから、こうした陳腐で月並みな定番メニューのほうが、よりリアリティーを感じながらストーリーに没頭して行けるのだ。これが、現実には考えられないような、凝りすぎた出来事だったりすると、せっかく「2時間だけのシンデレラ」を楽しもうと思ってるのに、どうしても他人事っぽくなって、ジュリア・ロバーツになりきれなくなっちゃうのだ。

ちなみに、あたしの場合は、ジュリア・ロバーツをあたし、ヒュー・グラントを福山雅治に置き換えて楽しんだんだけど、分かりきってるエンディングなのに、お酒のセイもあって、感動で大泣きしちゃった。もう、胸が張り裂けそうなほど嬉しくて、この時のあたしは、完全にジュリア・ロバーツになりきってた。そして、どことなく、マンガ家の小林よしのりの若い頃みたいにも見えちゃうヒュー・グラントも、完全に福山雅治に見えてたから、エンディングでのあたしの映画とのシンクロ率は、100%に達してたと思う。そして、これは、エンディングまでの小さなイベントの数々が、どれもベタだったからこそで、そうしたベタの積み重ねが、最後に「ベタの美学」として昇華されたってことなのだ。

‥‥そんなワケで、もしも、この映画をまだ観たことがない人がいたら、2月25日まで無料配信してるから、この方式で、ぜひ楽しんで欲しい。ようするに、自分をジュリア・ロバーツに置き換えて、自分の憧れの男性をヒュー・グラントに置き換えて、お酒を飲みながら観るってことだ。もちろん、男性の場合は、自分をヒュー・グラントに置き換えて、憧れの女性をジュリア・ロバーツに置き換えればいいワケで、これだけで、ものすごく幸せな気分を味わうことができる。サスガに、あたしレベルの妄想マニアじゃないと、エンディングで大泣きすることはないと思うけど、普通の人でも、忘れかけてた「恋愛による胸がジーンとする感覚」を思い出すことができると思う今日この頃なのだ。


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