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2008.03.01

さようなら

毎日読みに来てくださる皆さん、しばらく更新できずに、ご心配をおかけしました。のっぴきならない事情で、日記を書くことができませんでした。心配してメールをくださった皆さん、どうもありがとうございました‥‥ってなワケで、ムリにさかのぼって書くほどの余裕もないので、開けちゃった穴はそのままにしてくけど、この「のっぴきならない事情」については、あんまり書きたくないので、代わりに、この「のっぴきならない」って言葉について説明して、お茶を濁そうと思う‥‥なんて書くと、まずは、この「お茶を濁す」から説明することになっちゃうけど、これは、茶道のお作法をよく知らない人が、お茶を立てる時に、お抹茶をテキトーにかき混ぜて、テキトーに泡立てて、テキトーに濁らせて、それなりに見えるようにゴマカシたってことで、それが転じて、「テキトーにその場を取り繕う」ってことだ。

で、テキトーにその場を取り繕いながら進んでくけど、「のっぴきならない」って言葉は、もともとは「退(の)き引きならない」って言葉だった。ようするに、「退くことも引くこともできない状態」、「逃げたり避けたりできない状態」って意味で、「押してもダメなら引いてみな」って言葉があるように、退くことも引くこともできないんだから、あたしは、目の前の困難に向かって前進してくしかなかったワケだ。それで、それがどんな困難だったのかってことがポイントなんだけど、それが、「あんまり書きたくない」ってことなワケだ。

嬉しいお知らせならジャンジャン発表しちゃうんだけど、あんまり‥‥っていうか、激しくバッドな出来事だったから、書くのも気が重いし、せっかくの再開第1弾の日記がドンヨリしちゃうので、書きたくないってのが本音なのだ。だから、この空白の3日間に、あたしに何が起こったのかは、とりあえず、秘密のベールに包みつつ、ジョジョに奇妙にスタートしてって、そのうち、ハッと気づいた時には、ナニゴトもなかったかのように、いつもの「きっこの日記」が続いてる‥‥って作戦でお茶を濁そうと思ってる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしが、駐車場の猫たちにご飯をあげに行った時に、集合した猫たちを点呼して、「ハナコ、マイケル、小林君、マックス、ジジ、ペペロンチーノ、カルボナーラ‥‥あれ?」っていうのは、「のっぴきならない」じゃなくて、「いっぴきたりない」ってことになる。そう、「きっこの日記」の賢明なる愛読者なら、すぐに気づいたと思うけど、ルーキーの「もんじゃ」が足りないのだ。実は、「もんじゃ」っていうのは下の名前で、正式には「高速増殖炉もんじゃ」っていうんだけど、ヘンテコな顔の模様がたまんないほど可愛いから、高速で増殖してくれるようにと、あとから名字もつけてみたってワケだ。

M2
それで、「もんじゃ」がどこに行っちゃったのかっていうと、猫のお茶屋さん「みのり園」さんで、ついに憧れの「看板猫」に登録されたのだ♪ みのり園さんの看板猫は、サイトの右上でお店番をしてるんだけど、アクセスするたびに登録されてる猫のうちの1匹がランダムに表示される。71番が「もんじゃ」で、今んとこ全部で73匹の看板猫がいるから、アクセスした時に「もんじゃ」がお店番をしてる確率は「73分の1」だ。だけど、試しに、「もんじゃ」が出て来るまで数を数えながら何度もアクセスしてみたら、17回目に登場した。だから、あたしは、パチンコと同様に、「のっぴき」‥‥じゃなくて、「ひき」が強いと思ったりもした。

ついでに書いとくけど、みのり園さんで販売してる「べにふうき」は、あたしは花粉症対策として飲んでるけど、説明にあるように、お薬じゃないので、人によって効果はさまざまだ。「べにふうき」自体がナチュラルなお茶だから、あたしみたく、できるだけナチュラルな食材で自炊してる人と、添加物まみれの外食をしてる人とでは、当然、その効き目も違って来ると思う。ま、お湯を注ぐだけで美味しいお茶が飲めるっていう手軽さから、花粉症対策とは関係なく、お茶として楽しむだけでもいいと思うし、これなら、お茶を濁す必要もない(笑)

‥‥そんなワケで、あっちこっちに飛びながら進んでる再開第1弾の日記だけど、さらにダッフンさせていただくと、「こんにちは」を「こんにちわ」、「こんばんは」を「こんばんわ」って書く人がいるけど、これは間違いだ。これらのアイサツは、「今日(こんにち)はご機嫌いかがですか?」とか、「今晩は過ごしやすいですね」とかっていうアイサツを省略したものなんだから、「今日は」や「今晩は」ってことなのだ。そして、これらとおんなじなのが、「さようなら」だ。「さようなら」も、「さようなら何々」っていうアイサツを省略したもので、ホントなら、まだ続きがある。「さようなら」は、漢字だと「左様なら」って書くけど、これは、「左様ですか」っていう時の「左様」だ。つまり、「そうですか」の「そう」が「左様」ってことで、相手が何か言ったことに対しての「返事」ってことになる。

たとえば、誰かのお家にオジャマしてる時に、ついつい長居しちゃって、夕方の晩ご飯の支度の時間になっちゃったとする。それで、相手の人が、「まだお話をしていたいのですが、そろそろ夕飯の支度をする時間になってしまいました」なんて感じのことを言ったとする。ようするに、「そろそろ帰って下さい」ってことを遠まわしに伝えたワケだけど、この言葉に対して、オジャマしてたほうの人は、こんなふうに返す。


「それなら、私はそろそろオイトマいたしますね」


そして、この「それなら」の部分を昔の言い方にすると、「左様なら」ってことになるのだ。もちろん、これは1つのパターンであって、「別れ」には、他にもいろんなシチュエーションがある。たとえば、恋人同士が日曜日にデートをしてて、ホントならもっと遅くまで一緒にいたいんだけど、カレシのほうが次の日の早朝からお仕事があって、今日は早めに帰らないとならない。で、「明日は早くから仕事なので、今日はもう帰らないと‥‥」なんてことを切り出したとしたら、カノジョのほうは、「そうなんだ‥‥じゃあ仕方ないね‥‥」って感じになる。この、「そうなんだ」の部分が、「左様なら」にあたるってワケだ。

‥‥そんなワケで、いろんなシチュエーションがある「さようなら」だけど、1つだけ共通してるのは、本心からだったとしてもタテマエだったとしても、そこには、「まだホントはお別れしたくないんだけど、ある事情によって別れなくちゃならない」って流れなのだ。この「ある事情」ってのは、夕飯の支度やら翌日のお仕事やら様々だけど、それぞれの状況下では、どれも「のっぴきならない事情」ってことになる。そして、どちらか片方がその事情を話し、それに対して、もう1人のほうが、「それならば仕方ないので今日は別れましょう」って答えるのが、「さようなら」の語源てことになる。

だから、この「さようなら」っていう別れの言葉には、「別れを惜しむ心」が底流してるってワケで、こうした「言葉の発生の源流」にまでさかのぼってみれば、「さようなら」を「バイバーイ」なんかとおんなじように軽く使うことはできなくなる。大切な親友が、不慮の事故や病気で亡くなってしまった時に、お通夜のアイサツで、「さようなら」と言う人はいても、「バイバーイ」と言う人はいないだろう。だから、「言葉の発生の源流」にまでさかのぼらなくても、「さようなら」という言葉の語源を知らなくても、多くのニポン人は、この「さようなら」という言葉を「改まった席で使ってもよい正式な言葉」とか、「バイバイよりは重たい言葉」とかって、無意識のうちに認識してるってことになる。だけど、日常的には、「バイバーイ」とおんなじように使ってるし、それどころか、「さよなら」なんて、さらに略して使ってるのが現状だ。

で、ここで登場するのが、お友達同士が別れる時に、「さようなら」よりもヒンパンに使われてる「じゃあね」や「じゃあな」だ。この言葉も、ナニゲに使われてるけど、意味を深く考えてみると、「さようなら」とおんなじなのだ。「じゃあね」の「じゃあ」は、「それじゃあ」を略したもので、この「それ」は、別れに対する理由を指してる。つまり、相手側に、「これから宿題をやらなきゃならないから」とか、「これから部活があるから」っていう明確な理由があれば、その相手側の状況に対して、「それじゃあ、私は帰るね」ってことなのだ。もちろん、別に明確な理由がなくても、「今日はあなたと遊びたい気分じゃないから」ってものでも、「それじゃあ」の「それ」にあたる。そして、こうした場合には、「相手を傷つけたくない」とか、「相手から悪く思われたくない」とかってことから、正直に理由を言わずに、「今ちょっと急いでるんだ」とかって言ってゴマカスことが多い。


「ねえねえ、これからカラオケ行かない?」

「ごめ~ん、今ちょっと急いでるんだ」

「そっか、じゃあまたね」


‥‥そんなワケで、「じゃあね」って言葉は、「さようなら」とおんなじに、「相手の状況を理解した」っていう意味を踏まえた上での「別れの言葉」ってことになる。そして、この場合の「じゃあまたね」は、「じゃあね」に「また」がプラスされた形で、「じゃあまた今度ね」を略したものだ。だから、「相手の状況を理解した」って上で、さらに、「次の機会には一緒にカラオケに行こうね」っていう意味までも内蔵させてる。だから、省略語としてはものすごい情報量を備えてるワケだけど、この言葉には、「さようなら」のような奥深さはない。ホントの意味で相手の状況を理解してたり、ホントの意味で「また次の機会に」って思ってるんじゃなくて、社交辞令みたいな意味合いのほうが強いのだ。

昔から、「『今度』と『お化け』は出たことがない」って言われてるけど、特に、芸能界みたいな社交辞令だらけの世界では、「今度、飲みに行きましょう!」「今度、メシでも行きましょう!」なんて言われても、ホントに行った試しがない。100人の人から100回言われたとすると、ホントに飲みに行ったり食事に行ったりするのは、1回あるかないかだ。だけど、芸能界では、いろんな場所で顔を合わせるたびに、この「今度」って言葉が、まるでアイサツのように使われてる。だいたいからして、ホントに一緒に飲みに行こうと思ったんなら、その場でケータイの番号やアドレスを聞くもんなのに、そうしたこともなく、お互いにダイレクトに連絡をとる方法もないのに、口じゃ「今度、飲みに行きましょう!」なんて言って、言われたほうも「イイッすね!」なんて答えてるんだから、これほどアカラサマな社交辞令も珍しい。

つまり、アイサツにおける「今度」とか「また」ってのは、イヤな相手からの誘いを遠まわしに断る場合や、社交辞令として使う場合のほうが遙かに多いってワケで、言うなれば、お茶を濁す目的として使われてるってことになる。ホントに「今日はダメだけど次の機会には絶対に」なんてケースで使われることは、メッタにないってことになる。これは、言葉の持つ本来の意味が、人間の都合で変えられちゃったってことで、仕方ないことなのかもしれないけど、何だか悲しい気分になる。

‥‥そんなワケで、あたしも、ついつい「また今度ね」とかって言っちゃうことがあったけど、今は、ホントに「今日はダメだけど次の機会には絶対に」って思った時にしか、この言葉は使わないように気をつけてる。そして、誰かと別れる時の「さようなら」は、できる限りその人との別れを惜しんで、心の底から言うようにしてる。相手にしてみれば、あたしがどんな思いで「さようなら」って言ってるのかなんて分らないことだろうけど、これは、あたしの気持ちの問題だし、いつでも心を込めて言うようにしてれば、いつかは、伝わる人には伝わるんじゃないかって思ってる。だから、これからも、心の中では「左様なら」って文字を思い浮かべながら、「さようなら」って言葉を口にしようと思う今日この頃なのだ。


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