ペガサスが飛んだ日
ものすごい数の人、人、人‥‥。父さんは、あたしの手を握ってくれてたけど、小さかったあたしは、父さんの手を離さないように、ついて行くのが精一杯だった。そして、あっちこっちに引っぱり回されて、人ゴミの中で父さんに肩車されたら、黒くて大きな馬がやって来るのが見えた。綱で引かれた大きな馬が、次々とやって来て、目の前を通り過ぎて行った。初めて見た本物の馬は、どれも大きくて怖かった。
でも、何頭目かに、今までの馬よりもひとまわり小さくて、白と灰色のマダラの馬がやって来た。その馬は、顔も細くて、とってもやさしい目をしていた。タテガミもシッポも長くて、すごく可愛かった。あたしは、父さんに、その馬を指さして、「あのお馬さんに乗りたい!あのお馬さんに乗りたい!」って言った。
あたしは、父さんに手を引かれて、また人ゴミの中を連れ回されて、途中でジュースを買ってもらった。四角い紙パックのジュースで、リンゴ味だった。そして、ベンチに座ってジュースを飲んでいたら、周りの人たちが騒ぎ出した。ものすごい声だった。
父さんが、あたしをベンチの上に立たせてくれた。急に目の前がひらけたと思ったら、さっきの白と灰色のマダラの馬が、空を飛んでるようなスピードで駆け抜けて行った。そして、その後ろを他の大きな馬たちが、ひとかたまりになって追いかけて行った。その瞬間、周りの歓声がピタッと止まって、すべての世界がスローモーションになって、そのマダラの馬の背中に翼が生えて、カモメのように空を飛んで行った。あたしには、その馬が、ペガサスに見えた。
そして、あたしは、どこかのレストランで、チョコレートパフェを食べていた。これ以外の記憶は、何もない。ただ、ものすごい人ゴミだったことと、白と灰色のマダラの馬がペガサスになったことと、チョコレートパフェを食べたこと、あたしは、これしか覚えてない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、書籍版の第1弾の「きっこの日記」を読んでくれた人は、あたしがハタチになった時に、父さんと銀座でデートしたことを知ってると思うけど、その時のこと、高校1年の時に会って以来、4年ぶりに会った父さんは、ずいぶんと変わってた。大きくて強かった父さんが、何だか小さくなってて、少し寂しい気持ちがした。だけど、それよりも、あたし自身が大人になってて、お化粧して、父さんとお酒を飲んでるってこと自体が恥ずかしかったし、母さんには内緒で父さんと会ってたから、母さんに対して後ろめたいような気もして、すごく複雑な気分だった。
父さんのほうも、最初は何となくヨソヨソしかったんだけど、お酒を飲み始めたら昔の父さんに戻ってくれて、あたしも自然にふるまえるようになった。それで、お酒を飲みながら昔のことをいろいろと話してるうちに、あたしは、ふと、マダラのペガサスのことを思い出した。あたしとしては、それが夢だったのか現実だったのかも分からないし、断片的な記憶しかなかったから、ただ漠然としたイメージしか持っていなかったのだ。それで、あたしは、自分の記憶してることを話してみたんだけど、そしたら父さんは、「それは府中の競馬場に行った時のことだな」って言った。
父さんは、良く覚えてて、すごく詳しく教えてくれた。あたしがまだ4才か5才のころのことで、その日は「AJC杯(アメリカンジョッキークラブカップ)」っていう競馬が行なわれてたそうだ。それで、父さんは、あたしを連れて府中の東京競馬場へ行ったんだけど、レース前にパドックで出走馬を見ていたら、あたしが灰色の馬を指さして「あのお馬さんがいい!あのお馬さんがいい!」って言ったもんだから、父さんは、自分の予想した馬券の他に、その馬の馬券を1000円買ったそうだ。
その馬は、「ホワイトフォンテン」ていう馬で、あたしの記憶だと「あのお馬さんに乗りたい!」って言ったんだと思ってたけど、父さんが言うには「あのお馬さんがいい!」って言ったそうで、どっちがホントかは分からないけど、とにかく、あたしが、その馬を気に入って、指さして騒いだことは間違いなかった。
そして、そのホワイトフォンテンは、あたしの記憶してた通りに、2位以下を大きく引き離して、1着でゴールしたそうだ。もちろん、背中に翼が生えたハズもなく、空を飛んだハズもなく、これらはあたしが幼かったから、そんなふうに感じただけなんだと思うけど、この1000円の馬券が7万円以上になって、そのゴホウビとして、あたしは、帰りにどこかのレストランで、チョコレートパフェを食べたそうだ。だから、夢なのか現実なのか分からなかったあたしの記憶は、ワリと正しかったってことになる。
それからしばらくして、あたしは、図書館に行って、ホワイトフォンテンのことを調べてみた。あたしは、競馬には興味はなかったけど、数少ない父さんとの思い出の中で、一番古い記憶だったから、大切にしたかったのだ。そしたら、ホワイトフォンテンは、1970年生まれで、1972年の秋にデビューした馬だってことが分かった。あたしが生まれたのが1972年11月だから、ホワイトフォンテンがデビューしたころに、あたしは生まれたってことになる。それで、ものすごく親近感を感じるようになった。
だけど、それから1~2年後のこと、どこかのおそば屋さんか何かで、置いてあったスポーツ新聞をナニゲに見ていたら、小さな記事で、ホワイトフォンテンが老衰で亡くなったってことが書かれていた。あたしは、父さんとの大切な思い出がひとつ消えてしまったような気がして、とっても悲しい気持ちになった。
‥‥そんなワケで、あたしが小学校に上がったころから、父さんはタマにしか帰って来なくなり、小学校の高学年になったころには、年に数回しか帰って来なくなり、そして、父さんと母さんは離婚した。だから、あたしには、両手の指で数えられるほどしか、父さんとの思い出がない。「きっこの日記R」の感想メールの多くに、あたしの父さんとの思い出の話が良かった、感動したって書いてもらえて、あたしはホントに嬉しいんだけど、あれは、数えるほどしかない思い出の中で、一番印象に残ってる出来事だ。
そして、今回のホワイトフォンテンのお話は、あたし自身は、最初のマクラの部分で書いたような、断片的な記憶しかなかった。だけど、ハタチになった時に、母さんに内緒で父さんに会い、そこで、詳しく教えてもらい、自分の記憶のどの部分が現実で、どの部分が夢だったのかが分かった。そして、それから15年も過ぎた今は、幼いころの自分の記憶と、父さんから聞いた話とが混ざり合って、どこまでがホントの自分の記憶なのか、父さんから聞いた話を自分の記憶のように感じてるのか、よく分からなくなって来てる。
だけど、それはそれで、あたしにとっては何よりも大切な父さんとの思い出だから、事実だけを明確にする必要なんかないと思ってる。だって、いくら現実じゃないって言われようとも、あたしの目には、ゴールを駆け抜けて行くホワイトフォンテンが、背中に翼の生えたペガサスに見えたんだから。まるで、自由に空を飛ぶカモメのように見えたんだから。
‥‥そんなワケで、「HNN」の「週刊きっこの目」を読んでくれてる人はゴゾンジだと思うけど、あたしは、ニポンのSF界の重鎮で、競馬の世界でも著名な作家、石川喬司先生とメール交換をしてる。「週刊きっこの目」にも書いたけど、石川先生は、あまりにも競馬が好きだったことから、仲間の手塚治虫さんと星新一さんから、「馬家(ばか)」っていう名誉あるアダ名をつけられたほどで、数多くある競馬に関する著作は、どれもすごく高い評価を受けている。
それで、競馬のことはまったく知らないあたしだけど、石川先生とメールのやりとりをしてるうちに、ふと、このホワイトフォンテンのことを思い出して、「幼いころにこんなことがあった」ということをお伝えした。そしたら、ナナナナナント! 石川先生も、その日に府中の競馬場にいて、そのレースを観ていたと言うのだ! それも、寺山修司さんや虫明亜呂無さんと一緒に観戦してたと言うのだ!
そして、ホワイトフォンテンの父親がノーアリバイという名前の馬だったことと、当時、「逃亡者」というテレビドラマが人気だったことから、寺山修司さんが、ホワイトフォンテンに「白い逃亡者」というニックネームをつけたという話。ホワイトフォンテンのようなタイプの「逃げ馬」には、「俺について来いというリーダー型」と「捕まるのが怖くて夢中で走る怖がり型」とがある、というのが、寺山修司さんの持論だったという話。他にも、いろいろな裏話を教えてくださった。
そう言えば、寺山修司さんには、競馬に関するエッセイ集もたくさんあるし、あたしの読んだ「書を捨てよ、町へ出よう」とか「きみもヤクザになれる」とかにも、競馬の話が書かれてたことを思い出した。あたしは、天井桟敷の寺山修司さんと、俳人としての寺山修司さんしか知らなくて、残念ながら競馬の専門のエッセイ集はほとんど読んだことがなかったけど、ホントに多才な人だったんだと思った。そして、ナニゲにYOU TUBEで「寺山修司」を検索してみたら、ナナナナナント!寺山修司さんが主演の「日本中央競馬会」のテレビCMを見つけちゃった! そして、それが、昭和48年、つまり、あたしが生まれた翌年のものだった!
あたしが生まれた時にデビューしたホワイトフォンテン、その翌年に「日本中央競馬会」のCMに出演した寺山修司さん、そして、その4年後に、父さんに連れられて府中の競馬場へ行ったあたし。幼かったあたしには、まるで翼の生えたペガサスが空を飛んだように見えたんだけど、おんなじ場所でその光景を石川先生や寺山修司さんも見ていたのだ。なんて不思議な巡り合わせなんだろう。
ちなみに、寺山修司さんは1983年に亡くなられたんだけど、その前年の1982年に、「競馬放浪記」の後書きとして、「私の忘れがたかった馬ベスト10」 を挙げている。そして、そこには、「ミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサツシチ」の10頭が挙げられてる。競馬を知らないあたしでも、名前を聞いたことのあるテンポイントやハイセイコーなどの名馬、そして、寺山修司さんが馬主だったユリシーズなどと並んで、そんなにすごい成績を残したワケでもないホワイトフォンテンの名前があった。
おそらく、何百頭という競走馬を見て来たであろう寺山修司さんなのだから、それほどの人が「忘れがたかった馬」のたった10頭の中にホワイトフォンテンを挙げたということは、きっと、30年前のあの日、あたしが見た白いペガサスの飛翔を寺山修司さんも見たのかもしれない思った。
‥‥そんなワケで、あたしは、あたしが生まれる前から寺山修司さんと一緒に競馬場へ通っていた石川先生と、今、メール交換をしてるなんて、何だか夢を見てるみたいな気持ちがして来る。そして、石川先生のメールを読んでいると、父さんに競馬場へ連れて行ってもらったあの日のことが、つい昨日のことのように思えて来る。こんなことを言ったら石川先生に失礼だけど、何だか、会えない父さんとメールをしているような気持ちになって来るのだ。そして、目をつぶると、翼の生えた白い馬が、スローモーションで駆け抜けて行ったような気がした今日この頃なのだ。
「日本中央競馬会CM/寺山修司」
http://jp.youtube.com/watch?v=CMa9z18W5zo
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