人生モノサシ説
子供のころって、1年間がすごく長かった。春も、夏も、秋も、冬も、それぞれがタップリとあって、お正月になって新しい年を迎えると、それまでの1年がものすごく長かったように感じられた。だけど、成長するにつれて、1年の長さがだんだん短く感じられるようになって来て、今なんか、アッと言う間に1年が過ぎちゃうようになった。こないだお正月を迎えたと思ったら、アッと言う間に6月になり、「もう半年も経っちゃったのか‥‥」なんて思ってるうちに、もう秋を過ぎて年末だ。これは、あたしだけが特別なんじゃなくて、多くの人がおんなじように感じてるみたいだ。今までに、いろんなお友達に聞いてみたんだけど、みんなが「大人になったら1年が早くなった」って言う。
それで、これは前にも書いたことがあるかもしんないけど、あたしは、ひとつの仮説を立ててみた。それは、「その人の年齢と1年の長さの感覚とが比例してる」って仮説だ。たとえば、5才の子供なら、1年てのは、その子の年齢の5分の1の長さにあたる。だから、5才の子供にとっての1年てのは、自分が生まれてから現在までの「自分が体験したすべての人生」の5分の1もの長さなんだから、うんと長く感じるだろう。だから、10才になれば、1年の長さの感覚は、5才の時に感じた感覚の半分くらいになる。そして、年齢とともに1年の感覚がどんどん短くなって行き、50才になった時には、5才の時の感覚の10倍の速さで1年が過ぎて行くのだ。
これは、何の専門知識もないあたしが、ナニゲに雰囲気だけで考えてみた仮説なんだけど、ワリと当たってそうな自信がある。だって、何かの大きさとか長さとかの感覚ってのは、人それぞれ違うもので、おんなじ「1メートル」でも、それを長いと感じる人もいれば、短いと感じる人もいるからだ。そして、おんなじ人であっても、子供の時に見たゾウやキリンは、ものすごく巨大に感じられたのに、大人になってから見ると、そこそこの大きさにしか感じられない。これは、自分の体が大きくなったからで、これが、「大人になると1年が短く感じる」ってことに通じる感覚なんだと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、この仮説に、「人生モノサシ説」って名づけてみたんだけど、簡単に説明すれば、「人間は1人1人が自分の年齢のモノサシを持ってる」ってことだ。1年を1センチだとしたら、5才の子供なら5センチのモノサシ、50才の人なら50センチのモノサシ、あたしなら35センチのモノサシを持ってるってワケだ。
だから、1年の長さの1センチは、誰のモノサシで測ってもおんなじ長さだけど、「その1年が全体のどれくらいを占めるのか?」ってことになると、持ってるモノサシの長さによって違って来る。5才の子供にとっては、全体の20%も占める1センチが、50才の人のモノサシなら、たったの2%なのだ。そして、これが、1年を長く感じたり、短く感じたりするってことなのだ。
つまり、すべての人が持ってる「月日の流れのスピードを測るモノサシ」は、それぞれの人の年齢とおんなじ長さで、毎年お誕生日を迎えるたびに、そのモノサシは1センチずつ長くなって行く‥‥ってのが、あたしの「人生モノサシ説」なのだ。どお? なかなかイイトコついてるでしょ?
それで、この「人生モノサシ説」には、オマケの説がある。それは、「感覚の歪(ひず)みによる忘却説」って言って、これはリトル難しくなるんだけど、フランク・ザッパに言えば、「モノサシが短かった幼年期のころの記憶は、モノサシが長くなるにつれてジョジョに奇妙に忘却して行く」ってことだ。誰だって、自分が1才や2才の時のことをものすごく詳しく記憶してるワケはないし、幼稚園や小学校の時の記憶だって、こと細かに覚えてる大人はいないだろう。ほとんどの大人が、ものすごく印象的なことだけが記憶に残ってるだけで、子供のころの日々のことまでを詳細に記憶してる大人なんかいないだろう。
で、これは、多くの人が、「長い年月が経ったから忘れただけ」だと思ってるハズだし、あたしもそう思ってた。だけど、あたしの「人生モノサシ説」で考えてみると、面白い仮説が立てられるのだ。たとえば、10才の時のあたしは、10センチのモノサシを「自分の人生のすべての時間」として生きてたワケだから、1年間は「自分の人生の10分の1」ってことで、それなりに長く感じられた。でも、今のあたしは、35センチのモノサシなんだから、1年間の長さの感覚は、10才の時の3倍以上も速く感じられるようになった‥‥って、ココまではさっきのオサライだけど、ようするに、何才になろうとも「1年が1センチ」っていう目盛りは変わらないんだけど、モノサシ全体の長さが長くなったことによって、全体との比較として、1年の長さの感覚が変化して来たってことだ。
言い換えれば、全体との比較として、それまでの1センチが、5ミリとか1ミリとかに感じられるようになって来たってことで、これは、常に同一でなきゃならない1センチって長さが、自分の感覚のほうが変化したことによって、以前よりも短く感じられるようになって来たってことだ。でも、どんなにモノサシの長さが長くなろうとも、1センチは1センチであって、実際には変化してないのだ。
おんなじ1センチなのに、以前よりも短く感じられるようになったってことは、モノサシの目盛りが変わったんじゃなくて、あたしの感覚のほうが変わったってことで、ここに歪みが生じてるってことなのだ。かつては「1センチは1センチ」として感じられていたのに、その感覚がジョジョに奇妙に短くなって来て、今や「1センチが3ミリ」くらいにしか感じられなくなっちゃった。そして、この「感覚の歪み」によって、当時の記憶のほうも、ジョジョに奇妙に忘却して来たっていう仮説だ。
つまり、逆に言えば、いつまでもおんなじ長さのモノサシを持ち続けていることができたなら、何才になろうとも、常に1年の長さは変わらないってことになる。そして、10年前でも、20年前でも、現在でも、常に「1センチは1センチ」として感じられるから、「感覚の歪み」は生じない。だから、子供のころのことでも、最近のこととおんなじように、細かく記憶してられる‥‥ってのが、「感覚の歪みによる忘却説」っワケだ。
‥‥そんなワケで、どうしてこんな仮説を考え出したのかって言うと、すべての人が、極めて印象的なことだけを記憶してて、特徴のない日常的なことはみんな忘れちゃうってことなら、それは記憶力の問題として片づけられるんだけど、実際にはそうじゃないからだ。自分が小さかったころの記憶って、印象的なことだけじゃなくて、ものすごく平凡なことも覚えてたりするからだ。
「母さんにおんぶされて空地を眺めてたこと」だの、「洗面所で歯を磨いたこと」だの、「窓からぼんやりと道路を見てたこと」だの、何度も何度も繰り返したことのある日常的なことなのに、「ある日」のそのことだけを映像的に記憶してたりする。これは、すごく多くの人が思い当たるハズだと思うけど、こうした「何でもない記憶」が誰にでもあるってことは、出来事の印象度によって「記憶するもの」と「記憶しないもの」とに分けられてるとは断定できなくなる。当時は大変な事件だったのに、今じゃボンヤリとしか覚えてない出来事もあれば、何でもない日常のことなのに、今でもハッキリと覚えてる出来事もある。だから、あたしたちの脳みそってのは、何十年も前の何でもないようなことでも、ちゃんと記憶してられるだけの能力があるってことだ。
特例として、「最後の1人まで、最後の1円まで、ワタクチが責任を持ってすべての人たちに年金をお支払いいたちまつ!」って連呼したのに、「そんなことは言ってない!」ってゴマカシたアベシンゾーとか、慎銀行東京には「税金による追加出資は絶対にしない!」って公言したのに、平然と400億円もの追加出資を脅し取った石原大将軍様とか、こうした、自分の言ったことすら覚えてない特殊な脳みそを搭載した人種は別だけど、普通の脳みそを備えてる人間なら、何十年も前の何でもないようなことでも、ちゃんと記憶してられるだけの能力があるってことだ。
そして、そうした普通の脳みそを備えてるのに、昔のことを忘れちゃうのは、記憶力の問題じゃなくて、時間のモノサシの長さが長くなったことによって、当時と現在との目盛りに歪みが生じたことによって、ジョジョに奇妙に忘却して行くってことなのだ。「ことなのだ」って言っても、あくまでも、これは仮説だけど。
‥‥そんなワケで、何だか今日はヘンテコな日記になっちゃったけど、実は、コレは、明日の日記の前置き‥‥っていうか、序章みたいなもんなのだ。今どきの言い方をすれば、「日記版キッコゲリオン・序」って感じで、明日は、リトル胸がジーンとしちゃうあたしの思い出話を書こうと思うので、皆さん、お楽しみに♪‥‥って感じの今日この頃なのだ。
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★さっき日記をアップしたと思ったら、すでに十数人の人から同様のメールをいただいたのですが、あたしが自分で考えついたと思ってた「人生モノサシ説」は、すでに100年以上も前に、フランスの哲学者で心理学者のポール・ジャネという人が、「60才にとっての1年は20才にとっての3年である」っていう説を「ジャネの法則(ジャネーの法則)」として発表していたそうです。
あたしが発見したと思ってたのに、とてもジャンネンです(笑)
教えてくださった皆さん、どうもありがとうございました。
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