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2008.04.12

袖振りあうも他生の縁

あたしは、スタイル的に言うと、七分袖のブラウスが好きだ。手首まである長袖よりも、手首のまわりが出てるほうが、ブレスレットや時計も見せられるし、お仕事もしやすいし、ステキに見えるからだ。だから、寒い日でも、ムリして七分袖のものを着ることもある。そして、これからのシーズンは、五分袖のものも多様するし、夏になれば、ノースリーブが多くなる‥‥ってことで、あたしには、ずっと前から疑問に思ってることがある。それは、「半袖」って言葉だ。

七分袖や五分袖が、何に対して七分や五分なのかって言えば、それは、長袖に対してだ。つまり、手首まである長袖を「十分袖」として、それに対して、7割ほどの長さだったり、5割ほどの長さだったりってことだ。だから、まったく袖がないノースリーブは、「0分袖」ってことになる。そしたら、「半袖」ってのは、「十分袖」である長袖と「0分袖」であるノースリーブとのちょうど半分じゃなきゃおかしいワケで、本来ならば、五分袖のことを「半袖」って言わなきゃおかしいことになる。それなのに、実際の「半袖」は、肩から15cm前後の袖しかない。だから、七分袖や五分袖の方式で表現すれば、今、「半袖」って呼ばれてるものは、「二分袖」か「三分袖」ってことになる。

新入社員の「半人前」しかり、定食屋さんの「半ライス」しかり、茹でタマゴの「半熟」しかり、「半」て文字がつく場合には、必ず10割のものがあって、それに対しての半分てことなんだから、「半袖」の場合には、10割にあたる「長袖」の半分じゃなきゃおかしい。でも、実際の「半袖」は、五分袖の半分くらいなんだから、このまま「半袖」って言葉を使い続けるんなら、今の五分袖が「十分袖」ってことになっちゃう。そしたら、今の七分袖のことは「十四分袖」、今の長袖のことは「二十分袖」って呼ばなくちゃなんなくなると思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、「袖」と言えば、中学生の時まで、「袖すりあうも他生の縁」のことを「袖すりあうも多少の縁」だと思い込んでたあたしだけど、高校生の時には、「袖すりあうも」の他に、「袖ふりあうも」とか「袖ふれあうも」とかのバージョンもあるってことを知った。意味としては、どのバージョンもおんなじで、「町ですれ違って、お互いのお着物の袖がふれあっただけの他人でも、別の世界では縁のある人なのかもしれない」っていうような意味だ。

だけど、ここで、あたしが疑問に思ったのが、「半袖の場合はふれあわないじゃん!」‥‥てことじゃなくて、その表記だった。「袖すりあうも」は、「擦りあうも」だから、「こすれあう」ってことで問題ない。だけど、「袖ふりあうも」や「袖ふれあうも」の場合は、多くの本に「振りあうも」「振れあうも」って表記されてたのだ。「こすれあう」って意味なら、「触りあうも」「触れあうも」じゃなきゃおかしいワケで、「振る」って字を使われると、なんかイメージが違って来ちゃう。

だって、「袖振りあうも他生の縁」だと、すれ違う2人の様子じゃなくて、少し離れた場所にいる2人が、お互いに袖を振りあってるように思えるからだ。ま、「擦りあう」にしても「振りあう」にしても、現代のお洋服の袖だとなかなか難しいワケで、やっぱ、昔のお着物の袖ってことになるんだけど、ずっとさかのぼって「万葉集」を見ると、たくさんの「袖を振る歌」が詠まれてる。


 茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  額田王

 石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか  柿本人麻呂

 あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君  湯原王

 娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは  柿本人麻呂

 袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば  山上憶良


‥‥って、他にもいっぱいあるので、書き出してるとキリがないんだけど、今まで「きっこの日記」を読んで来た人なら、これらの歌の「君」とか「妹(いも)」とかが、すべて「恋人」や「奥さん」のことだってことくらいは分かると思う。そして、他の歌も、すべてが「君」や「妹」に対して袖を振ってる。つまり、万葉の時代に「袖を振る」のは、愛する人への愛情表現だったり、その思いを伝えようとする仕草だったってことだ。

そして、万葉の時代のお着物って言えは、今で言う和服とは違って、スサノオノミコトとかヒミコとかみたいなフレーバーが残ってるもので、袖はと言えば、幅の広い「筒袖」だった。文章で説明するのは難しいけど、パンタロンみたいな袖ってワケで、手よりも長くてヒラヒラしてた。だから、日常生活には不向きかもしれないけど、この時代は、「袖を振る」ってことが、愛する人への愛情表現だけじゃなくて、何かの儀式で神様を祀ったり、何かの御霊を鎮めたりって、いろんなことに使われてた。

だから、愛する人への愛情表現って言っても、袖を振りながら「すみれちゃ~ん!愛してるよ~!」なんていう軽いノリじゃなくて、袖を振ることによって、相手の魂を自分のほうに引き寄せるっていう呪術的な意味があったのだ。好きな相手の気持ちを引き寄せるために、オマジナイだの何だのにハマッちゃうのは、いつの時代も女性のほうが多いワケで、愛する人と結ばれるためなら、ヤモリを煮込んだスープまで飲んじゃったりする女性もいる。

で、最初に紹介した額田王(ぬかたのおおきみ)も、万葉を代表する女流歌人でありながら、恋人のためならヤモリのスープも飲んじゃいそうなイキオイの女性だったから、他の男性陣の歌よりも、遥かに思いが深くて、ある意味、恐くなる‥‥ってことで、この歌だけ解説しちゃおう。


 茜(あかね)さす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る  額田王


最初の「茜さす」ってのは、ホントに夕日か何かが差してたワケじゃなくて、「紫」に掛かる枕詞だ。現代の紫は、すみれちゃんのお着物みたいな紫だけど、万葉の時代の「古代紫」は、今よりも赤っぽかった。それで、「紫」って色を際立たせる手法として、「茜さす」っていう枕詞を使ってるのだ。それから、「紫野」ってのは、「紫草が咲きほこっている野」ってことなので、この歌の「茜さす紫野」は、単なる「紫野」よりもずっと美しい景色になる。

そして、「標野」ってのは、天皇とかの偉い人が「標(しめ)した地域」ってことで、ようするに、一般人の立ち入りを禁止した御領地ってことだ。だから、この歌の場合は、「天智天皇の御領地」ってことになる。そして、「野守」ってのは、その御領地に一般人が立ち入らないように見張りをしてる人ってことだ。で、この歌を直訳すると、「美しい紫草が咲きほこっている天智天皇の御領地を行ったり来たりしながら、あなたは私に袖を振ってくれていますが、野の見張り番に見つかってしまいますよ」ってことになる。

ここで問題なのは、この歌を詠んでる額田王が、天智天皇の奥さんだってことだ。天智天皇の御領地で、ダンナである天智天皇が、奥さんである額田王に袖を振ってるなら、何も問題はないし、見張り番に見つかっても関係ない。じゃあ、この袖を振ってる男が誰なのかっていうと、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇なのだ。

実は、額田王って女性は、もともとは大海人皇子の恋人だった。それで、額田王に横恋慕しちゃった兄貴の天智天皇が、弟から奪っちゃったのだ。それで、未だに額田王のことを忘れられない弟は、兄貴の留守にコッソリと御領地にやって来て、かつての恋人に袖を振りまくって、「今でも愛してるよ~!」ってやってたってワケだ。そして、この額田王の歌に対する大海人皇子からの返歌が、次の歌だ。


 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも  大海人皇子


「紫草のようにかぐわしい君のことは、ちっとも憎いなんて思ってないよ。人妻になってしまった今でも、こんなに君を恋しく思ってるんだよ」‥‥ってワケで、あまりにも切なすぎる。単なる三角関係ならともかく、もともとは自分の恋人だったのに、兄貴が天皇っていう権力を使って横取りしたんだから、あたしは、大海人皇子のことを「女々しいヤツ」だなんて思わない。それどころか、ちぎれるほど袖を振りまくっちゃえ!って思う。

‥‥そんなワケで、単なる愛情表現のレベルを超えちゃいそうなほど激しい「袖を振る」って行為だけど、最初の額田王の歌の出て来た野の見張り番、「野守(のもり)」、コレッて、ナニゲに「ヤモリ」とも読める。だから、コイツを捕まえて、大鍋で何時間も煮込めば、呪いのスープが出来て、これを飲めば、兄貴から恋人を取り戻せるかもしれない‥‥なんてこたーないけど‥‥って、これは「タモリ」だけど、「ヤモリ」「タモリ」と来れば、残りは「イモリ」ってワケで、あたしは、小学生の時に、水槽でイモリを飼ってたことがある。

ヤモリだと、何匹かいたら区別がつかないけど、イモリの場合は、お腹の赤と黒のマダラ模様が1匹ずつ違うから、ちゃんと見分けがつく。ま、そんなことはどうでもいいんだけど、イモリだって恋愛をして、オスとメスとで愛し合うのは、人間とおんなじだ。だけど、イモリの場合は、どんなに相手を好きになっても、お着物を着てないから、相手の気を引くために袖を振ることができない。そんな時、オスのイモリはどうするのかっていうと、お尻の穴からメスを引き寄せるためのフェロモンを分泌しちゃうのだ。で、このフェロモンの名前が、ナナナナナント! 「sodefrin(ソデフリン)」って言うのだ!

これは、単なる偶然とかじゃなくて、このフェロモンを発見した学者が、額田王と大海人皇子との相聞歌から「袖を振る」という愛情表現を引用して名づけたものなのだ。だから、この学者の目には、メスを引き寄せるために必死にフェロモンを分泌するオスのイモリの姿が、紫草の咲きほこる野で、愛するかつての恋人に袖を振り続ける大海人皇子の姿とオーバーラップしたんだと思う。

‥‥そんなワケで、万葉の歌には、「振る」以外にも、たくさんの「袖」の描写が登場する。代表的なものは、恋人に会えない思いや失恋の悲しみを表現する「袖を濡らす」や「袖の露(つゆ)」だけど、他にも、かつての恋人の思い出のことを「袖の香」、愛し合ってた2人が別れることを「袖の別れ」、器量の小さいことを「袖が狭い」など、いろんな使われ方をしてる。だから、あたしも、七分袖のブラウスばかり着てないで、これからは、指先が隠れるくらいまでシフォンの袖があるステキなパオラフラーニのブラウスでも買って、いろんな袖の表現にチャレンジしてみたいと思う‥‥って言っても、5万円以上もするパオラフラーニのブラウスなんて買えるワケないし、これがホントの「無い袖は振れない」ってワケで、誰かから「袖の下」でももらわなかったら、いつまでも袖を振ることができないと思う今日この頃なのだ(笑)


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