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2008.05.14

「もったいない」ということ

昨日の続きみたくなっちゃうけど、今日も「もったいない」について書いてみようと思う。それは、去年、大好きな赤瀬川原平さんの「もったいない話です」(筑摩書房)を読んだことを思い出したからだ。原平さんの本だから、もちろんマジメなエコの話とかじゃなくて、独特の視点で人間の「もったいない」という感覚について書いてる上質のエッセイなんだけど、他の著作と同様に、ものすごく楽しめた。そして、いろんな気づきもあった。

この本の冒頭の章で、原平さんは、「猿」に対して怒ってる。山から降りて来て畑を荒らす猿たちが、人間がせっかく育てたダイコンを抜いて、ヒトクチかフタクチほどかじっただけで、ポイと捨てる。そして、また新しいダイコンを抜き、ヒトクチかフタクチほどかじっただけで、ポイと捨てて、畑は、かじられたダイコンが散乱した状態になる。原平さんは、これに対して怒ってるのだ。1本のダイコンを抜いて、それを最後まで食べるのなら、それでお腹がいっぱいになるだろうし、畑も荒れないからだ。

それなのに、カタッパシからダイコンを抜き、ヒトクチかフタクチほどかじっただけでポイと捨ててく行為は、まるで、ホニャララ団かウヨクの嫌がらせのようだ。だけど、猿が「嫌がらせ」のためにそんなことをしてるとも思えないので、これは、純粋に「食べ物を食べてる」だけなんだと思う。そして、原平さんは、猿のこの行為に対して、「猿にはもったいないという感覚がないからだ」としてる。そして、猿に「もったいない」という感覚が芽生えて、人間に進化した‥‥って書いてる。

もちろん、これは、原平さんならではのジョークで、猿と人間とを比較する上での「喩え話」みたいなもんだ。つまり、1本のダイコンを手に入れたら最後まで食べるのが人間で、ヒトクチかフタクチほどかじっただけでポイと捨てちゃうのが猿で、その違いは「もったいない」という感覚を持ってるか持ってないかってことだって書いてる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、原平さんは、この「もったいない」という感覚を持ってない猿は、あたしたち人間の中にも潜んでて、時々顔を出すと言う。原平さんは、「いや猿に向上心を説いても仕方ないが、じつは畑だけでなく、人間界にも猿は出る。日本の成人式ともなると、猿がたくさん会場にあらわれる。成人式でなくても、テレビにはいつも猿が出て笑っている。里山から下りてくるだけではなく、人間そのものの中に潜り込んだ猿が、はい出してきている。買い物の輪ゴムをポイと捨てる手には、よく見ると猿の毛が生えて猿の爪が伸びているのだ。」って書いてる。

原平さんは1937年生まれだから、戦時中から敗戦後にかけて、決して「豊か」とは言えない少年時代を過ごして来たワケで、わざわざ「もったいない」とか「節約」とか「経済的」とかって言葉を口にしなくても、当たり前のこととして、いろんなモノを大切にして来た。食べ物はもちろんのこと、鉛筆1本、消しゴム1個にしたって、最後の最後まで使って来た世代の人だ。そう言えば、原平さんの名著、「純文学の素」の表紙は、赤と青の2色鉛筆が、両側から最後のギリギリまで削られてて、2cmくらいのチビた状態になってる写真が使われてたけど、アレも、この世代の人の郷愁を誘う感覚なんだと思う。

だいたいからして、今の人たちは「鉛筆」ってもの自体をあんまり使わなくなったし、ましてや、青と赤の鉛筆なんて、メッタにお目にかからなくなった。昭和までは、競馬場とか競艇場に行くオジサンたちが、耳に青と赤の鉛筆を挟んでたイメージがあるけど、今じゃ場外馬券売り場もオシャレになっちゃったし、若い女性やカップルなんかもウロウロしてて、鉛筆を耳に挟んだオジサンのイメージは消えかかってる。もちろん、これは、競馬をしないあたしが持ってるイメージであって、実際には、鉛筆を耳に挟んだオジサンはたくさんいるのかもしれないけど。

パチンコ屋さんに行くと、なぜか耳の穴にパチンコ玉とか百円玉を入れてるオジサンとかがいて、あたしはいつも不思議だったんだけど、ここ数年は、ほとんど見かけなくなった。これとおんなじで、あたしの勝手なイメージとして、耳に鉛筆を挟んだオジサンも、競馬場から姿を消しかかってるように感じてる。

で、この「鉛筆」だけど、今は「シャープペンシル」を使ってる人のほうが多いと思う。絵を描く人とかは鉛筆を使うだろうけど、学生の多くはシャーペンを使ってると思う。あたしの母さんの世代は、削った鉛筆を何本も筆箱に入れて、学校に持ってったそうだけど、これは、芯が減ったり折れたりした時に、削ってる時間がもったいないから、予備として何本かは必要だったからだ。そして、3本とか5本とかの鉛筆を持ってて、1つの授業で全部の芯がなくなったら、休み時間に削って、次の授業に備える‥‥ってことだ。

だけど、あたしの学生時代は、シャーペンが普通だったから、たった1本で足りた。芯がなくなれば、ポチッとノックするだけで、新しい芯が出て来る。そして、0.5mmとか0.3mmとか芯の太さが決まってるから、いくら書いても決まった太さのままだ。1本の芯がなくなっても、中に予備の芯が何本も入ってるし、書き間違えたら、ノックするとこのキャップを取れば、中から消しゴムが出て来るから、消しゴムを持ってく必要ない。つまり、シャーペン1本で、何十本ぶんの鉛筆と消しゴムの役目をしてくれるってことだ。

だから、あたしの学生時代の筆箱の中は、シャーペンが2本の他は、ピンクや黄色の可愛い色のラインマーカーとかサインペンや、ラメラメのグリッターペンとか、なくてもいいもの、遊ぶためのものばかりだった。普通に勉強するだけなら、シャーペンだけでも足りたのだ。

‥‥そんなワケで、時代の流れとともに、鉛筆も進化して来たワケだけど、エコって意味で考えれば、鉛筆よりもシャーペンのほうか優れてると思う。何よりも、「木」を使ってないからだ。鉛筆における「木」ってのは、ただ「握りやすくする」ってだけのためで、別に他のものでも代用できる。そして、ただ削って行ってゴミになるだけだ。鉛筆削りの中に溜まった木のカスを集めて再利用してる人なんていないだろうから、途中まで使った鉛筆を捨てちゃう人も、最後まで使い切る人も、どっちも地球にはやさしくない。それよりも、シャーペンを使ったほうがいいってことになる。

だけど、エコとかを考えずに言えば、鉛筆には鉛筆ならでは味わいがあって、その最たるものが、書いてる時の手触りとか書き味とかの「あたたかさ」だ。シャーペンの場合は、常に一定の太さで、どこかデジタルな冷たさを感じるんだけど、鉛筆の場合は、削りたての固い感じから、少しずつ書きやすくなってって、最後には削らないとダメな状態になるから、この一連の流れの中に、なんか、人生みたいなものを感じる。だから、あたしは、どんなに時代が変わろうとも、鉛筆はなくならないと思う。

あたしは、今、この国の政府が声高に叫んでるエコって、「鉛筆をやめてシャーペンにしよう!」って言ってるようなものだと思う。古い家電よりも最新型の家電のほうが消費電力が少ないからって、まだ使える家電を捨ててまで、新製品に買い替えさせるような風潮。そして、あと3年で地デジになったら、ニポン中のほとんどのテレビは使えなくなり、ものすごい量のゴミになる。まだ使えるものを捨てさせる風潮って、ホントにエコなの? みんな、自分の支払う電気代のことしか考えてないけど、捨てられた膨大な「まだ使える家電」を処理するために、どれほどの電力が必要なのか考えてるんだうか?

世の中には、ムダだと思えるものがいっぱいあるけど、これも人それぞれの感覚だから、あたしはムダだと思っても、その人にとってはムダじゃないものもある。だから、イチガイには言えないけど、たとえば、全国にある自動販売機は、そのほとんどが、24時間コウコウと電気をつけてる。利用者の多い都会の駅前の自販機から分かるけど、何時間も誰も通らないような田舎の道に、ポツンと光ってる自販機もある。

で、これらの自販機の電気代は、それぞれの持ち主が支払ってる。だから、誰も文句を言うことはできないんだけど、あたしは、すごくムダだと感じてる。今、全国には、約250万台の自販機があるんだけど、すべての自販機の電源を切ったら、原発1基ぶんの電力を削減できるのだ。つまり、逆に言えば、全国にある55基もの危険な原発のうち、1ヶ所の原発は、自販機のために稼働してるってことなのだ。

そして、東京や大阪や名古屋や博多などの全国の繁華街で、夜通しギラギラに点灯してるネオンサインや看板などの電飾をすべて消せば、原発2基ぶんの電力を削減できるって言われてる。何しろ、宇宙から夜の地球を見ると、このニポンだけが異様なほど真っ白に光ってるそうだしね。それほど、不必要に電気を使ってるってワケで、そのために、不必要な原発が造られて、地域の人たちを危険に晒しながら稼働してるってワケだ。

あたしは、自分でも自販機を利用することもあるし、「すべての自販機を廃止にしろ!」とは思ってない。だけど、誰も通らないような場所で、一晩中コウコウと光ってる自販機を見ると、「もったいない」と思う。これが、もしも自分の家なら、電気をつけっぱなしでお仕事に行っちゃったようなもので、ものすごく「もったいない」と思う。だから、あたしは、普段は最低限の電力だけで稼働してて、人が前に立った時だけ、センサーが反応して、明かりがパッとつくような自販機を開発すべきだと思う。自動車に「アイドリングストップ」を呼びかけるのなら、自販機も「アイドリングストップ」すべきだと思う。

だけど、あたしはムダだと思っても、ムダなものを造ることで私腹を肥やしてる人たちにしてみれば、そのムダなものこそが必要なもののワケで、たとえば、自民党の道路族議員たちが、必死になって死守した道路予算だって、そのうちの7割は採算の取れない「赤字道路」を造るために使われる。つまり、最初から赤字になることが分かってる「ムダな道路」でも、それを造る土建屋からキックバックをもらうために、これほど大きな民意を無視してまでゴリ押しして、「数の暴力」で再可決したってワケだ。

‥‥そんなワケで、原平さんの「もったいない話です」では、冒頭の章で、「もったいない」の感覚がなく、せっかく人が育てたダイコンを抜いて、ヒトクチかフタクチほどかじっただけで、ポイと捨ててる猿に対しての怒りからスタートしたって書いた。そして、原平さんの持ち味の「多角的視点」で、いろんな問題やテーマを面白く分析してくんだけど、最後のほうに、「猿からの反論」ていう章がある。そう、冒頭で批判した猿から、反論が来たっていう設定で書かれた章なんだけど、これが傑作だ。

猿からの反論は、「うるさい」、このヒトコトだけ。ようするに、人間が畑なんか作るのも、そこでダイコンなんか作るのも、みんな人間が勝手にやってることなんだから、それを抜いてかじるのはオレたち猿の勝手だ。オレたちは腹が減る。そして、そこにダイコンがあるから抜いてかじってるだけで、ヒトクチしかかじらないでポイと捨てようとも、どんな食べ方をしようともオレたちの勝手で、とやかく言われるスジアイはない‥‥ってことだ。そして、この猿からの反論に対して、常に客観的な視点を失わない原平さんは、「それも一理ある」って書いてる。

猿は、「気がつけばこの世にいて、腹が減るから勝手に食べて、勝手に生きて勝手に死ぬ。」という生き物で、一方、人間は、自分の誕生や世の中のことをある程度は理解してて、それに意味づけをしようとする。だから、「やっていいこと」と「いけないこと」を自分たちだけで決めてルールを作る。猿にしてみたら、人間が作ったルールなんてバカみたいだと思う、と書いてる。そして、猿の立場になった原平さんは、猿の気持ちを代弁してる。


「生き物は腹が減るから食って、生きて死ぬだけなのに、大根を端まで全部食えだなんて、そんなことどうでもいいじゃないかと。もったいないなんて、得意になっていってるけど、それが結局オゾンホールを開けましたねと。」


そう、地球温暖化の原因も、これからどんどん増え続ける皮膚ガンの原因も、すべてはあたしたち人間が生み出したもので、もしも地球上に人間がいなかったら、こんなことにはなってなかったんだよね。つまり、「もったいない」って感覚を持ってる人間よりも、ヒトクチかじっただけでダイコンを捨てちゃう猿のほうが、地球にはやさしいってことになる。何よりも、猿は、電気を使わないしね。

‥‥そんなワケで、「もったいない」の気持ちを持ってるあたしたちでも、地球の環境から見れば猿にも劣るってのに、そのあたしたちでさえ「ムダだ」って感じるほどの不必要な道路を造り続けて、かけがえのない自然を破壊し続けて、さらに赤字を増やし続ける道路族議員たちって、地球上で最低の生き物だと思う。ま、「吉兆」で人の食べ残しを出されても、気づかずにパクパクと食べちゃうほどの鈍感な人たちだからこそ、目の前に迫ってる地球規模の危機よりも、自分のフトコロを肥やしてくれる土建屋との癒着のほうが大事なんだと思うけど‥‥なんて気がする今日この頃なのだ。


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