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2008.05.22

飛島リターンズ!

オトトイの日記、「センチメンタル飛島ジャーニー」で、あたしは、山形県の「飛島(とびしま)」へ行ってみたいってことを書いたら、さっそく、山形の人たちからメールをいただいた。


お名前:norippe
コメント:きっこさん、おはようございます。いつも楽しく読ませていただいております。毎朝PCを立ち上げて日記を読んでから仕事を始めるのですが、本日はナ・ナ・ナ・ナント!←きっこ風。飛島じゃーありませんか!
申し遅れました、私山形県鶴岡市に生息しております。生粋の庄内人でございます。東京(羽田)から飛行機で庄内空港まで約1時間。意外と近いんですよ。まず、食べもんが美味い。←どこに行って美味しいものを出されても地元の魚の方がうまい。米どころなので酒もうまい。空気が美味い。←羽黒なんか行くだけで癒されます。
山も海も近いのでアウトドアレジャーも満喫できます。月山スキー場がOPENしたので、夏になると半袖でスキーを楽しみその足で山を下り(1時間弱)日本海へ飛び込むという、なんとも贅沢な遊び方も出来るんです。しかし、案外近くにあると気が付かないもの…。地元の人って『いつでもいける』と思うから行かないんですよね。
飛島の『とびうおダシ』はおいしいですよ!私は好きです。しかも飛島でしか作っていないという、ビール瓶入り『イカの塩辛』も旨かったなー。魚も旨いはずですよー。そういえば、うちのダンナが仕事で飛島に行った際に、天候が悪くて2日くらい船が出ずに足止めを食らったことがあります。島へ行く時は日程に余裕を持った方が無難かもしれませんね。
前にダイビングをかじった事がありまして、飛島近辺は最高のダイブポイントなんだそうです。サンゴはもちろん赤や黄色の魚がいるらしいですよ。サメも生息しているらしいです。大人しいドチザメだそうですが。とにかく興奮して書きまくりましたが、運転好きのきっこさんなら庄内空港でレンタカーを借りて庄内一周するのがオススメですよ。是非是非庄内を満喫する夢が叶いますように。きっこさんの願いが叶いますように♪


‥‥飛島のことを取り上げただけで、メールの文面からナニゲにコーフンしてる感じが伝わって来るので、自分のメールが掲載されてるのを見た今朝は、さらにコーフンしてる気がする今日この頃、norippeさん、どうもありがとうございました♪


‥‥そんなワケで、「魚も旨いはずですよー」の「はず」とか、「飛島近辺は最高のダイブポイントなんだそうです」の「だそうです」とか、「サンゴはもちろん赤や黄色の魚がいるらしいですよ」の「らしいですよ」とかの「あやふや感」がリトル気になりつつも、ドチザメに関しては、カラテカの矢部が海に潜って、岩場にいた1m以上のドチザメの背中をなでてたので、生息してるのは間違いない。ただ、あたしは、スキーもできないし、ダイビングもできないので、海釣り公園でエギングをして、イカを釣って、その場で「イカソーメン」にして、キャッチ・アンド・ストマックって感じだ。

ただ、やくみつる夫妻が行った時に泳いでるのが見えたのは、ヤリイカとかマルイカみたいな、普通のとんがったイカだった。岸からエギを投げて釣るエギングの場合は、アオリイカとかコブシメとかのコウイカが対象だから、岸からでも、普通のイカを釣る場合には、エギじゃなくてイカツノを使うんだろうか? 実は、こないだ、釣り具の「上州屋」に行ったら、980円のエギがワゴンセールで100円になってたから、可愛いピンクのを1個買っちゃったんだよね。だから、それを使えるならいいんだけど、イカツノを買わなきゃなんないと大変だ。どうせなら、その名もいやらしい「おっぱいスッテ」を使ったほうがいいのかな?

でも、イカツノとかスッテとかは船からの垂直の釣りで使うもので、岸からキャスティングするなら、エギじゃないと泳がない。だけど、飛島の海釣り公園のイカがいた場所って、海面からすごく高い足場から見下ろしてたから、真下に疑似餌を落として釣るみたいな感じだから、やっぱイカツノなのかな?‥‥って、こんなこと悩んでてもジンジャエールなので、次のメールを紹介する。


お名前:A
コメント:いつもブログを読ませて貰っています。今日はいつも海の向こうに見える飛島のことだったのでメールしてしまいました。飛島は標高も高くなくなだらかな小さい島です。冬の北西の季節風が強いときには波が島全体を覆うのではないかと心配になるくらいです。きっこさんは釣りが好きみたいですが、野鳥観察の好きな人々にとっても飛島は結構有名な所のようです。春と秋の渡りの時期には珍しい鳥が随分多く見られるという話を聞きました。何で飛島かというと鳥海山が噴火して飛んで出来たからとか。海の向こうから鳥海山を眺めるのもいいかも知れません。夏場は結構強力なブヨがいるそうですのでその対策も必要でしょう。


Aさん、どうもありがとうございます♪‥‥ってお礼しつつ、このAさんも、最初のnorippeさんとおんなじで、「のようです」とか「という話を聞きました」とかの「あやふや感」がマンマンなので、ここは一丁、あたしが飛島に行って、自分の目で確かめてみるっきゃない。でも、「いるそうですので」っていうブヨに関しては、「絶対にいる!」って決めつけて行かないとマズイので、スズメバチの巣をとる人が着てる宇宙服みたいなのを着てくか、霊子甲冑に乗ってくか、モビルスーツに乗ってくか、エントリープラグに入ってエヴァンゲリオン四号機に乗ってくか‥‥。

でも、今は、神崎すみれちゃんのコスプレにハマッてるから、だらしなく着くずしたお着物で行ったりすると、首から胸元までブヨの総攻撃を食らっちゃいそうだから、普通に防虫スプレーを持ってくか‥‥なんてことも織り込みつつ、あたしの夢は広がって行く。

で、野鳥に関しては、あたしも、「飛島のホームページ」を見て、いっぱいいることは知ってた。飛島は、渡り鳥の休憩地みたいだ。このページで紹介されてるけど、ジョウビタキ、キビタキ、オオルリ、ベニマシコ、マメジロタヒバリ、ムギマキ、エゾビタキ、ウソ、ハギマシコ、キレンジャク、イカル、ユキホオジロ、オジロビタキ‥‥っ、あたしの大好きな「スズメ目」の野鳥たちがマウンテンだ。特に好きなオジロビタキもいるし、キレンジャクなんか見ちゃった日にゃあ、あと、アカレンジャク、アオレンジャク、ミドレンジャク、モモレンジャクを呼べば、「野鳥戦隊ゴレンジャク」ができちゃうじゃん!(笑)

これなら、懸賞で当たった宝物の双眼鏡も大活躍しそうだし、「美女ウォッチング」と「釣り番組ウォッチング」と「バードウォッチング」の世界三大ウォッチングに目がないあたしとしては、お昼前からウキウキウォッチングだ♪‥‥ってワケで、続いてのメールは、山形県とは正反対の四国は高知からのメールを紹介する。


お名前:吉澤
コメント:きっこ様、いつもいっつも、興味深く楽しんで読まさせてもらいよります。高知県の吉澤ともうします。ひまわり乳業という、かなりへんてこりんな商品を創っては、自己満足に浸りゆう、乳業メーカーを経営しよります。どんな風にへんてこりんかは、弊社HPをご覧頂ければ幸甚なのでありますが。今日はそんなお話ぢゃあ無うて、飛島のお話。私も四国の太平洋側の人間ですので、対極みたいな所に位置する飛島には、もちろん行ったことはないのですが、私も行ってみるのが夢なのであります。
民俗学の巨人と言われ、全国を自分の脚で歩き回られた、宮本常一さんという方をご存じでしょうか。昭和初期から活躍された方ですきに、もちろんもう故人ですが、その業績、人徳、残された文章などなど、もう、それはそれは素晴らしいものがありまして、私の大尊敬する偉大な人物です。その方の著作集の中に、昭和30年代に書かれた、飛島に関する文章があります。その昔と今(昭和30年代)、哀しい話やこれからの話が、実に見事に書かれちょりますね。この文章を読んで、私も、ぜひぜひ一度飛島へ行ってみたいと思いゆうのであります。
その文章、以前、テキストに打ったことがありましたので、かなり長くなりますが転載しますね。中盤から終盤にかけて、どんどんと引き込まれていく文章です。もし、ご興味がおありでしたら、ご一読下さい。では、以下転載です。


‥‥そんなワケで、吉澤社長、どうもありがとうございました♪‥‥ってお礼を言いつつ、「ひまわり乳業」の吉澤社長が送ってくださったのは、「宮本常一著作集」の第35巻に収録されてる「離島の旅/飛島」の全文だったんだけど、約9000文字で、長い時の「きっこの日記」とおんなじくらいの分量だった。吉澤社長のおっしゃる通り、とても引き込まれる内容で、ものすごく興味深いものだった。だから、ホントは全文を紹介したいとこなんだけど、長さの問題もあるし、たぶん著作権とかの問題もあると思うので、読んだあたしが自分の文章に書き直して紹介しようと思う。


で、チョチョ~ンと拍子木でも打ってスタートしてみるけど、時は寛文11年(1671年)、当時のニポンは、内陸部の山越えのルートが険しかったから、船による海上輸送がメインだった。船って言っても、江戸時代なんだから、当然、エンジンなんかついてるワケはなくて、何人もの漕ぎ手がエッチラオッチラと漕いで沖へと出て、あとは帆を上げて走る船だった。だから、風向きや天候の影響を受けちゃうんだけど、それでも、大量の物資を遠方に運ぶには、陸路よりも遥かに便利だった。そして、運搬船の基地の多くは、海の交通の便のいい瀬戸内海にあった。

瀬戸内海を出発した運搬船は、ニポン海を北へと上り、今の山形県の酒田港へと入港して、庄内平野で収穫されたお米を大量に積み込み、またニポン海を戻って行く。そして、本州をグルッと回って、太平洋を北上して、江戸へと運ばれた。また、山形を超えて北上して、秋田や青森のお米を運んだり、北海道のニシンやコンブも輸送された。で、山形ならともかく、青森や北海道まで行ったら、その先は太平洋を南下したほうが江戸には近いような気もするんだけど、海流の問題なのか風向きの問題なのか、たとえ北海道からでも、ニポン海を南下して、本州をグルッと回って北上する「西廻航路」が使われてたのだ。

で、山形の沖合40kmにある飛島は、こうした運搬船の通るルートになってたので、飛島の近くを通ってた時に海がシケたりすると、船は島陰に入って批難したりしてた。そして、飛島には、こうした運搬船の乗組員たちを休ませるための宿が何軒かあった。これらの宿は、「船問屋(ふなどんや)」って呼ばれてて、運搬船がやって来ると、磯舟を漕いで迎えに行った。運搬船は大きくて接岸できないから、こうして小型の舟で乗組員だけを島へと渡したのだ。

そして、船問屋は、やって来た乗組員たちに、お茶を出したり、食事を出したり、お風呂を用意したり、宿泊させたりして、わずかばかりの礼金を受け取っていた。キチンとした料金設定はなく、それぞれの船の船頭の器量で料金が支払われていた。ちなみに、「明治三〇年ごろには二〇銭か三〇銭であり、五〇銭も出す船は稀であった。」って書かれてるから、現代の感覚だと、2000円から3000円くらいだったと思われる。これが、1人につき2000円から3000円ならいいんだろうけど、船1艘につきの金額だから、何人もの乗組員のお世話をしてこの金額じゃ、ちょっと悲しくなる。それでも、当時の島民にとっては貴重な現金収入だったようで、どの船問屋も、一生懸命にお世話をしてた。

何しろ、1年に、2000艘から3000艘の船がやって来てたそうで、それも、危険な冬の間は航行しないから、春から秋にかけての期間にこれだけの船が来てたのだ。つまり、1日に10艘くらいの船が来てたってことで、それぞれ船問屋はテンテコマイだったと思う。

おんなじ船問屋でも、瀬戸内海などの立地の良い場所では、豪華な料理やお酒が出たり、コンパニオンみたいな女の子を置いてたり、女郎屋まで併設してたりしたんだけど、この飛島の船問屋は、とても質素だった。大皿に魚やイカをブツ切りしたものを並べた「サハチ」と呼ばれる料理を真ん中にドンと置き、それぞれの前には大きな桐の葉を配り、その葉をお皿の代わりにして食べる。お酒も、島で造ってるドブロクだし、コンパニオンなんかいるワケもなく、お酒を注ぐのは船問屋の奥さんだった。

で、ようやくここから本題に入るんだけど、江戸の終わりのころのこと、1軒の船問屋の息子が、お嫁さんをもらって、宿を継いだ。それで、このお嫁さんてのが、とても働き者だったんだけど、イマイチ要領が悪かった。忙しくなるとパニックになっちゃって、カンジンのことがスポッと抜けちゃったりする人だった。

それで、ある日のこと、一度に何艘もの船がやって来ちゃって、このお嫁さん、台所でパニック状態になってた。このお嫁さんには、やっと立って歩けるくらいの男の子がいたんだけど、バタバタと動きまわるお嫁さんの足元をついて回ってた。一方、座敷でくつろぐ大勢の乗組員たちは、そんなお嫁さんと男の子の様子に目をやりながら、食事ができるのを待ってた。

そしたら、この男の子が急に立ち止まって泣き出したので、どうしたのかと思って、みんながいっせいに目をやった。男の子は、オシッコを漏らしてて、足元の板の間にはオシッコの水たまりができてたのだ。で、このお嫁さんは、大あわてで子供のオムツを外して、それで板の間のオシッコを拭いて、こともあろうに、そのまま手も洗わずに、料理の続きを始めちゃったのだ。「吉兆」や「魚きん」みたいに、お客の見てないとこでやるんならともかく、お客さんが全員見てる前でそんなことをしたもんだから、いくらワイルドな海の男たちだって、こりゃカンベンしてくれってワケで、みんなゾロゾロと出て行っちゃった。そして、人の口に戸は立てられないってワケで、この話はアッと言う間に広がっちゃって、それ以来、この船問屋はカンコドリが鳴くようになっちゃった。

これに困ったのが、この船問屋のダンナさんや、じいさん、ばあさんたちで、「この嫁がいてはお客が寄りつかない」ってことで、やむなく離婚して、お嫁さんを里に帰したのだ。だけど、「里」って言っても、狭い飛島の中なんだから、このお嫁さんは、毎晩のように船問屋にやって来て、子供に合わせてくれと泣き叫び続けた。それで、もうどうしようもなくなり、本土へと流すことにした。当時は、「島流し」の反対で、島で悪いことをした者を本土へと流す「地方流し(じかたながし)」があったのだ。そして、ダンナさんは、年上の気が利く女性と再婚して、この船問屋は元通りに繁盛するようになった。そして、みんなで海辺へ行きましたとさ。めでたし、めでたし‥‥ってワケで、ここから先は、「部分的な引用」ってことで、宮本常一さんの名文を味わって欲しいと思う。


(引用開始)
だが話はこれで終わったのではない。地方流しになった女の噂がすっかり消えて、その女の生んだ子供が成長して家をついだ。その頃がこの家の一ばん栄えていたときである。世はもう明治になっていた。そしてその女の孫が二〇歳の頃のことで、島の若者たちが大山の善宝寺へまいることになった。大山の善宝寺というのは、庄内平野の中心都市である鶴岡市の南の方にある。その寺に十六善神がまつってある。その十六善神は、日本海の船人たちには船の神様として尊崇されていた。そして、海にのぞんでいる村々では善宝寺講を組んで、村人たちが集まっておまつりをし、夜になると、海のほとりにある善宝寺灯籠に火をともしてお祈りをささげたものである。

佐渡の南海岸の村々などには、その部落にもこの善宝寺灯篭が海の中の岩の上にたてられている。また講中の者は、ひまなときを見はからって善宝寺まいりをしたものであった。飛島の人たちも時折、善宝寺へまいることがあった。問屋の孫の若者も、仲間といっしょに酒田にわたって、そこから歩いて善宝寺へまいった。その善宝寺からさきに山の、海にせまった海岸に湯之浜という温泉がある。善宝寺へまいったものは、たいていこの温泉で一泊してくるのである。

飛島の若者の一行も湯之浜へゆくことにした。大山を出て山すそにそってゆくと海岸へ出る。その海岸へ出たところに茶屋が一軒あった。若者たちはその茶屋へ寄って休むことにした。もう七〇歳ほどの婆さんがいた。若者たちが海を見ながら「ここから飛島が見えないか」と話していると、婆さんは、「おまえたちは飛島のものか」ときいた。「そうだ」と答えると、婆さんは、「飛島になにがしという問屋があるのを知らないか。いまどうしているであろうか。元気で暮しているか」ときいた。「ああ、元気に暮しているよ、それ、その男がその家の息子だよ」と仲間の一人が問屋の孫を指さした。

婆さんはその若者の顔をしげしげと見ていたが、父は何というか、祖父は何というか、ばあさんはいるか、と家の様子をくわしくきいた。若者が問われるままに答えていると、「それではおまえが私の血をわけた孫なのか、なつかしや、なつかしや」といって若者の頭をなでて泣いた。若者はくわしい事情は知らなかった。しかし、父の実母が離縁になった話はきいていた。五〇年あまりまえ、地方流しにおうた船宿の嫁の、それは年老いた姿であった。ながれながれて、かすかに飛島の見える丘のほとりに住みついてから、いたましい思いを胸にひめながら生きてきた姿であった。

若者は旅からかえるとそのことを家の者にはなした。家にはまだ後ぞいの婆さんが生きていて、その人への遠慮もあって、当主は親をたずねて行きかねて、善宝寺まいりする村人に茶屋へ行って見てもらうことにした。しかし行って見ると、茶屋はとざされたままであった。かえりにもう一度寄ってみたが、やはり戸はしまったままであった。たった一軒家で、周囲にきいてみることもできなかった。その後、また飛島の者がそこを通りあわせたときは、茶屋すらもなくなっていたという。
(引用終わり)


‥‥そんなワケで、これは、小説じゃなくて、実話なのだ。そして、このあとには、当時の庄内平野のことや、大正から昭和にかけてのこと、そして、宮本さん自身が飛島を訪れた時のことが書かれていて、とても優れたものだった。おんなじ9000文字でも、中身の薄い「きっこの日記」とは比べ物にならない‥‥ってワケで、あたしは、飛島に行くことができたら、ものすごく中身の濃い旅行記を書こうと思った今日この頃なのだ! なのだったらなのなのだ!(笑)


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