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2008.05.06

死刑廃止が生む冤罪の増加

昨日の日記は、長くなりすぎちゃって、書き切れなかったことがあるので、今日は続きみたいな感じで書いてくけど、まずは、1通のメールを紹介する。


お名前:S
コメント:はじめましてきっこさん。私はオーストラリア在住の●●歳の主婦です。職業は美容師です。いつも拝読させてもらっていますが、きっこさんへメールを送ったことはありませんでした。無知な私ですが、きっこさんの日記のお陰で社会や政治に少しずつ興味が湧いてきましたし、分かりやすい解説と深い知識にいつも感動しています。今日の日記を読み、涙が止まらなくなり、初めてメールしました。本当に人の痛みが分かるきっこさんの文章は、ひしひしと私の心に伝わってきました。私は死刑制度には漠然と賛成派でしたが、オーストラリア人の夫やこの国の多くの人達は死刑制度に反対です。(オーストラリアは死刑がありません。)どうして日本のような先進国にまだ死刑制度があるのか不思議だと言います。今の私は、きっこさんの意見にとても共感していますし 光市の事件に関しても極刑を望んでいました。でも、それが本当に正しいのかはよく分かりません。意味不明なことを書いてしまいましたが 私もきっこファンとして心から応援しています。これからもお身体を大切にして頑張ってくださいね。


ホントのとこは、どうなんだろう? あたしが知ってるのは、オーストラリアで、今から5年前、2003年に行なわれた世論調査なんだけど、この時には、56%もの人たちが「死刑制度の復活」を望んでた。だから、このSさんの言ってることがホントなら、オーストラリアでは、今は世論が逆転して、死刑制度に反対の人のほうが増えたってことになる。もしもそうだとしたら、去年の11月に政権交代したことが、世論の変化のキッカケになったのか、それとも、世論のほうが変化したから、政権交代したのか‥‥。


オーストラリアは、もともとは死刑大国だった。そして、その反動で、死刑制度が廃止になったっていう流れがある。オーストラリアは、イギリスの流刑植民地だったから、220年前に最初に入って来たのは、イギリスの犯罪者たちだった。ようするに、オーストラリアってのは、イギリスで罪を犯した犯罪者たちの「島流し」の場所だったってワケだ。だから、イギリスの多くの犯罪者たちが、オーストラリアに島流しにされて、酪農とかをさせられてた。

だけど、イギリス自体が、厳罰主義の死刑大国だったから、殺人などの凶悪犯罪を犯したものはソッコーで死刑だったし、窃盗や傷害や婦女暴行などでも、悪質なものはイギリス国内でカタッパシから死刑にされてた。だから、オーストラリアに島流しになるような犯罪者たちは、軽い罪を犯した者たちだった。そのため、オーストラリアに犯罪者たちを野放しにしておいても、殺人のような凶悪な事件はそれほど起こらなかった。起こるのは、他人のヒツジを盗んだり、女性をレイプしたりと、殺人までは行かない犯罪が多かった。

でも、当時のオーストラリアでは、厳罰主義のイギリスの法律によって、ヒツジ泥棒もレイプ犯も、捕まればみんな死刑になった。レイプ犯を死刑にしてくれるなんて、当時のイギリスやオーストラリアって、女性にとっては天国のような国だったのだ。だけど、所詮は男性社会だから、「人の痛みが分からない人たち」の言いぶんとして、「たかがレイプくらいで死刑は重すぎる」っていう世論が広まって行った。この「たかが」は、「たかが2人しか殺してないのに死刑は重すぎる」の「たかが」とおんなじだよね。

当時のオーストラリアでは、年間に80人から100人、週に2人のペースで死刑が執行されてた。そして、その罪状の多くは、窃盗とレイプだった。そして、1967年に最後の死刑が執行されるまでに、1648人が死刑になった。ニポンの場合は、一例として、1980年から1990年までの10年間で死刑が執行されたのは14人だから、オーストラリアの執行数のすごさが分かると思う。

だけど、時代の流れとともに、人々の感覚も変化して来て、死刑制度を廃止する州が出て来るようになり、1985年には、オーストラリア全土で死刑が廃止になった。でも、それから11年が過ぎた1996年4月28日、全豪どころか、世界中を震撼させた大事件が起こった。オーストラリアの犯罪史上、最悪の大量殺人事件、ポートアーサーの銃乱射事件だ。観光客で賑わうタスマニア州ポートアーサーのカフェで、当時28才のマーチン・ブライアントは、突然、観光客や通行人を無差別に銃撃したのだ。セミオートマチックのライフルから発射された銃弾は、わずか15秒で12人を射殺し、さらには、通行人を車のトランクに閉じ込めて火をつけて、3人を焼き殺した。そして、人質をとって近くの施設に立てこもり、この施設にも放火して、何人もの人質を焼き殺した。マーチン・ブライアントが殺したのは、彼とは何の関係もない、たまたまこの日に観光に来ていた人たちや地元の人たち、35人だった。


この35人の中に、もしも自分の家族や恋人がいたら、あなたはどう思うだろうか? 神様のような広い心で、「彼は少年時代に不幸だったから死刑はかわいそうだ」とでもノタマウのだろうか? でも、そうした神様のような心を持った「人の痛みが分からない人たち」のご希望通り、オーストラリアは全土で死刑制度が廃止になってたから、これほどの凶悪犯罪を犯した鬼畜でも、国によって命が保障され、3食ベッド付きの別荘で、一生、涼しい顔をして生活できるのだ。さらには、頑丈な檻の中にいるから、ハラワタが煮えくり返ってるご遺族たちも、この鬼畜に復讐することができない。そして、100人以上のご遺族たちが、事件から12年経った今も、ずっと苦しみ続けてるのだ。

でも、オーストラリアには、神様のような人たちばかりが住んでるワケじゃないから、この凶悪な事件をキッカケにして、「死刑制度の復活」を望む声が出始めた。そして、その声が一気に大きくなったのが、2002年にバリ島の「サリクラブ」で起こった爆破テロ事件だ。死者193人中、オーストラリア人が87人もいたことによって、数百人ものご遺族たちを中心にして、犯人たちへの死刑を望む声が高まった。そして、オーストラリアの当時の首相、ジョン・ハワードも、このテロ事件の犯人たちへの死刑判決を支持した。

ま、ジョン・ハワードの場合は、ニポンのコイズミ、イギリスのブレアと並ぶ、ブッシュのコシギンチャクだったから、イラク戦争の片棒もかついだし、フセイン前大統領に対する死刑も支持してた。つまり、自国では死刑制度が廃止されてるのに、自分自身は死刑制度に賛成してたってワケだし、立派な戦争犯罪者だったってワケだ。

本来なら、死刑制度を廃止してる国の首相が、こうして他国で起こった事件の犯人への死刑を支持するというのは、極めて異例のことなのだ。だって、「自国の法整備には欠陥がある」って公言することとおんなじだからだ。だけど、事実そうだったんだろう。もしも自国の法がベストだと思ってたんなら、自国の国民が何十人、何百人殺されようとも、法のトップに立つ首相の立場から、弾固として「死刑は反対!」って表明するのが普通だからだ。


で、話はクルリンパと戻るけど、オーストラリアは、1985年に全土で死刑制度が廃止になってから、なんとか今までやって来たけど、1996年のポートアーサーの銃乱射事件や、2002年のバリ島の爆破テロ事件によって、国民の意識や危機感が変化して来て、2003年の世論調査では、56%もの人たちが「死刑制度の復活」を望んだってワケだ。そして、あたしが知ってるのはここまでで、今現在のオーストラリアの世論は知らないから、メールをくださったSさんが書かれてるように、今の世論は逆転してるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないし、あたしには分からない。

ただ、ひとつだけ言えることは、ポートアーサーの銃乱射事件で殺された、何の罪もない35人もの人たちのご遺族や、バリ島の爆破テロ事件で殺された87人もの人たちのご遺族は、未だに苦しみ続けてるし、これからも苦しみ続けてかなくちゃならないってことだ。犯人が死刑になろうがなるまいが、何の因果関係もない人たちが、たまたまその場に居合わせたというだけで、一瞬にして命を奪われるという不条理。そして、1人の命が理不尽に奪われたことによって、その人を愛する家族や友人、何十人という人たちが不幸のどん底に叩き落とされ、それからずっと悲しみに暮れて生きてかなきゃならない。

こうした人たちに共通する感情は、犯人に対する憎しみから死刑を望む気持ちと、もう1つ、二度とこんな不幸な事件を起こしちゃいけないっていう気持ちだ。自分がつらい思いをしたからこそ、こんな思いをする人を増やしちゃいけない、こんな思いをするのは自分で最後にして欲しいって思うのだ。

沖縄の14才の少女がレイプされた事件を受けて、3月23日に北谷(ちゃたん)町で開催された「米兵による事件・事故に抗議する集会」には、大雨という悪天候にも関わらず、6000人もの市民が参加した。そして、アメリカ兵によるレイプ被害者の代表として、横須賀でアメリカ兵にレイプされたオーストラリア人の女性が檀上に上がった。彼女は、自分が受けた恐怖と屈辱を一生背負って行かなければならないと訴え、「日米両政府は、なぜ私たち被害者を裏切り続けるのか?」と両政府を批判したあと、最後にこう結んだ。


「神様、どうか私を最後の強姦被害者にしてください!」


これが、被害者の声なのだ。自分自身のつらさや苦しさ、加害者を憎む気持ちとは別に、「こんな思いをするのは自分で最後にして欲しい」って思う。これこそが、理不尽な痛みを実体験させられた被害者の願いであり、被害者が救済されるための唯一の道なのだ。

時計の針は戻せないんだから、自分が受けた言葉にならないほどの恐怖と屈辱は、もうどうすることもできない。たとえ加害者が死刑になったとしても、本当の意味では救われない。だけど、自分の事件をキッカケにして、アメリカ軍がニポンから出て行ってくれたり、政府が厳しい制度を作ってくれたりして、在日アメリカ兵による凶悪犯罪がゼロになれば、この被害者は、「自分の受けた苦しみ、屈辱がムダじゃなかった」って思えるのだ。そして、救われるのだ。

あたしをレイプしたヤツラは、少年法で守られて、何のオトガメもなかった。そして、成人になってからのレイプで逮捕されるまで、何人もの女性をレイプし続けた。だから、あたしの心の傷は癒えないのだ。あたしは苦しみ続けてるのだ。それは、あたしの受けた苦しみや屈辱が、何の役にも立たずにムダになったからだ。たとえ未成年であっても、あたしの事件の時に厳罰に処していてくれたら、少なくとも、十数人の女性が、こんな苦しみを背負わずに済んだのだ。そして、あたしは、救済されただろう。

犯罪被害者の声、被害者遺族の声ってのは、単なる憎しみだけじゃない。単なる復讐心だけじゃない。もちろん、憎しみや復讐心こそが怒りのエネルギーになってるけど、いくら憎んでもどうにもならない、復讐したくてもそれも叶わない、法が加害者を守り続けてる今の司法制度の中じゃ、被害者を救済するために唯一残された道は、「同類の犯罪の抑止」しかないのだ。自分を最後にして同類の犯罪がなくなれば、被害者やご遺族は少なからず救われるのだ。


名古屋の磯谷利恵さんの事件でも、お母さまが犯人たちに極刑を望んでるのは、大切な娘さんを惨殺された憎しみだけじゃなく、二度とこんな悲惨な事件が起きて欲しくないと思ってるからだ。こんなにつらい思いをするのは、自分で最後にして欲しいと思ってるからだ。「これほどの罪を犯せば死刑になるんだ」という前例を作り、凶悪犯罪を抑止したいと思ってるからだ。そして、私利私欲のために、何の落ち度もない利恵さんを惨殺した鬼畜は、テレビのレポーターに対して、「別に謝罪する気なんかないよ。どうせ極刑にはならないし」と平然と語っている。被害者のご遺族にとって、これほどの屈辱はないだろう。

オーストラリアには、ニポンと違って、一生刑務所から出られない「終身刑」がある。だから、35人もの人を殺したマーチン・ブライアントも、当然、この「終身刑」だ。だけど、それでも国民の半数以上が「死刑制度の復活」を望んでるってことは、「死刑制度を復活させないと抑止できないほど凶悪犯罪が多発するようになった」ってことで、あたしは、この事実こそが、死刑制度の必要性を物語ってると思う。つまり、「死刑を廃止する代わりに終身刑を導入する」なんてのは、わずか20年ほどでボロが出る「場つなぎ制度」でしかなく、本当に凶悪犯罪を抑止したいのなら、死刑と終身刑とを併用する必要があるってことだ。

光市の凶悪犯にしたって、死刑と無期懲役っていう、あまりにも極端に差がある2つの刑の間で論じられてたから、「死刑」を望む声が多かったワケで、死刑と終身刑との間で論じられてたのなら、死刑を望む声の何割かは意見を変えてたかもしれないと思う。


ニポンで死刑制度に反対してる人の多くは、「冤罪」の恐さを語る。もしも、死刑が執行されてから、新犯人が逮捕されて、死刑になった人の無実が分かったら、もう取り返しがつかない‥‥ってことだ。そして、死刑を廃止して最高刑を終身刑にすれば、無実だってことが分かった時点で、釈放することができる‥‥ってことだ。この理屈は、あたしにも理解できる。だけど、あたしが理解できるのは、あくまでも「理屈」だけで、これほど現実離れしてることを言ってても無意味だと思う。

だって、誰がどう見ても無実としか思えない「袴田事件」がいい例だろう。元ボクサーの袴田巌さんは、不当逮捕をされ、暴力刑事から殴る蹴るのリンチを受けて、「自分がやった」と自白を強要され、それを証拠にデタラメ裁判が行われて、死刑の判決を受けた。どれほどデタラメかって言うと、死刑判決に関わった元裁判官自身が、「私は無罪だと確信していた」とまで断言してるのに、それを無視する法廷。そして、事件当時、袴田さんが履いてたとされてる証拠品の血がついたズボンが、実際に袴田さんに履かせてみたら、小さすぎて履けなかったのだ。そしたら、検察は、「ズボンが縮んだ」とかノタマッて、その意見が採用されちゃったのだ。

まるで、高知のスクールバス事故の、警察が捏造したスリップ痕とおんなじだ。事故のすぐあとに現場を見た人が、「そんなスリップ痕などどこにもなかった」って証言してて、専門の鑑定士も、「これはタイヤの痕ではなく、誰かが路面に描いたものだ」って鑑定結果を出してるのに、これらの証言や鑑定結果をすべて認めずに、警察の言いぶんだけを採用して「有罪」にするなんて、こんなデタラメが裁判をやってるから、冤罪がなくならないのだ。つまり、死刑制度の是非を問うことと、冤罪の問題とは、切り離して考えるべきなのだ。「冤罪で死刑になったら取り返しがつかない」っていう考え方は、逆に言えば、「死刑制度をなくせば、どんなに冤罪が起こっても大丈夫だ」ってことで、今以上に、デタラメな裁判が行われることウケアイだ。

その上、死刑制度がなくなれば、「何をやっても死刑にならない」「何人殺しても自分は殺されない」と思ったヤツラが、これまでのニポンの犯罪史上に類を見ないほどの残虐な凶悪犯罪を起こすようになる可能性が極めて高い。人を殺しても死刑にならないんだから、ただのレイプ犯が、レイプ殺人犯へと変貌する恐れも十分にある。あたしは、刑罰の意味の1つに「犯罪の抑止効果」がある以上、刑罰を変更するのであれば、こうした「負の面」こそを重要視すべきだと思ってる‥‥ってことで、昨日と今日は、こんな内容だったから、「いかがお過ごしですか?」とか「そんなワケで」とか「今日この頃なのだ」とかは抜きにして書いて来たけど、こんな話題ばかり書いてると気持ちが暗くなってきちゃうから、明日からは、また、いつものノリで書いてこうと思う。


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