八十八夜
オトトイは、立春から88日目にあたる「八十八夜」だったけど、オナジミの「夏も近づく八十八夜~♪」って歌で、「茶摘み」のシーズンだと思ってる人が多い。もちろん、お茶を摘むシーズンには間違いないんだけど、昔は、この時季だけ、年に1回だけお茶を摘んでたから、それでも良かった。でも、今は、今の時季に摘む「一番茶(新茶)」のあとにも、45日ほどして、次に出て来た葉を摘む「二番茶」、その次に摘む「三番茶」もあるし、さらには「四番茶」もある。そして、「三番茶」を摘まずに生育して、秋になってから摘む「秋冬番茶」もある。つまり、現在では、4月の半ばから秋口まで、1年の半分は「茶摘み」のシーズンてことで、今の時季に限ったことじゃないのだ。
ちなみに、「番茶」ってのは、もともとは、初夏までに摘む「一番茶」や「二番茶」に対して、晩夏から初秋にかけて摘む「三番茶」以降のものを「晩茶」って総称してて、それが転じて「番茶」って表記するようになった。季節を先取りすることを美徳としてる「食の世界」では、「新茶」や「一番茶」はイメージがいいけど、「晩」なんて文字がついちゃうと、ガクッとイメージが悪くなっちゃうからだ。ようするに、中身はおんなじでも、「後期高齢者医療制度」って言うとイメージが悪いから、「長寿医療制度」に名前を変えたみたいなもんだ。
だけど、こうした「番茶」は、若葉を摘む「一番茶」と違って、少し成長した葉を摘むから、カフェインが少ない代わりにタンニンが多くて、ほど良い渋みがある。だから、コーヒーでも、苦みの強いものが好きな人や酸味の強いものが好きな人がいるみたいに、お茶でも、「新茶」よりも「番茶」のほうが好きな人もいる。それに、「番茶」の場合は、殺菌効果が高いっていうメリットもある。だから、どのお茶が良くてどのお茶が悪いってことじゃなくて、それぞれのお茶にそれぞれの良さがあると思う今日この頃、皆さん、いかがお茶を濁してますか?(笑)
‥‥そんなワケで、あたしは、ちびまる子ちゃんほどじゃないけど、お茶をよく飲む。お茶って言っても、緑茶だけじゃなくて、麦茶も飲むし、ウーロン茶も飲むし、鉄観音茶も飲むし、ローズヒップティーも飲むし、カモミールティーも飲むし、何でも飲む。とにかく、炭酸の入ったジュースと甘すぎる飲み物が苦手なので、ソフトドリンクを飲む時は、コーヒーかお茶のどっちかが多い。だから、ヤタラとオシッコがよく出る(笑)
俳句をたしなんでる上に、江戸っ子の流れをくむ東京っ子のあたしとしては、どうしても「初モノ」に目がないワケで、ワイン好きの人たちがボジョレーヌーボーを楽しみにしてるように、春の新茶のシーズンになると、できれば新茶が飲みたくなる。だけど、新茶はそこそこ高いから、節約生活をしてるあたしとしては、自分で買ってまでは飲めない。それで、どこかに行った時に、たまたま新茶が出たりすると、すごく嬉しかったりする。
それで、八十八夜の日に新茶を飲むと、次の八十八夜まで、無病息災だとか、長生きできるとかって言われてる。だけど、あたしは、いつも悩むことがある。自分の家に新茶があれば、八十八夜の日に飲めばいいだけなんだけど、新茶がないあたしとしては、八十八夜の日に新茶じゃないお茶を飲んだり、八十八夜の何日か前とか何日かあとに、どこかで新茶をいただいたりする。それで、この場合は、どっちのほうが効果があるのか?ってことだ。どっちのパターンも似たようなもので、一部を妥協してるワケだから、完璧なパターンよりはご利益(りやく)が減っちゃうとは思うんだけど、それはそれとして、どっちのほうがマシなのか?ってことだ。
で、あたしの感覚だと、やっぱ、「八十八夜の日に飲む」ってことのほうがウエイトが大きいと思ってる。だから、新茶じゃなくても、八十八夜の日に飲んだほうが、2日後とか3日後に新茶を飲むよりも、効果があると思ってる。これは、恋人から、お誕生日の日にカードを1枚もらうことと、お誕生日の3日後に豪華なプレゼントをもらうことと、どっちが嬉しいか?って想像してみた結果だ。
‥‥そんなワケで、2つの妥協案の間を行ったり来たりした挙句に、「新茶を飲む」ってことよりも、「八十八夜の日に飲む」ってことのほうを重要視することにしたあたしとしては、「八十八夜」を詠んだ俳句を鑑賞してみた。
山の湯に膝抱き八十八夜かな 木内彰志
海に降る雨の八十八夜かな 大石悦子
音立てて八十八夜の山の水 桂信子
犬猫に八十八夜の道濡れて 岸田稚魚
八十八夜猿股あまた干されあり 鳴戸奈菜
八十八夜草の匂ひの猫を抱く 坂本敏子
どの句も素晴らしいけど、これらの句は、3つのパターンに分けて並べてみたものだ。それは、「八十八夜」って季語の置かれてる場所の違いだ。五七五の俳句は、最初の五を「上五」、真ん中の七を「中七」、最後の五を「下五」って呼ぶんだけど、最初の2句は、中七と下五とにまたがるように「八十八夜」を置いて、「かな」という切れ字で詠嘆を与えて、句の型を整えてる。そして、次の2句は、中七に「八十八夜」を置いていて、最後の2句は、上五に「八十八夜」を置いている。
ここで問題なのは、「八十八夜」って季語が、「7音」だってことだ。俳句は、五七五の定型を守ることが大切だから、音数がオーバーする「字あまり」や、音数の足りない「字たらず」は、基本的に許されない。そして、この6句を見ると、真ん中の2句は、7音の「八十八夜」に「の」をつけて8音にしちゃってるから、五八五の字あまりだし、最後の2句に至っては、7音の「八十八夜」をムリヤリに上五に置いちゃってるんだから、七七五で2音も字あまりしちゃってる。
つまり、厳しい言い方をすると、この6句の中で、俳句として成立してるのは、最初の2句だけってことになる。もちろん、これらの句は、すべて素晴らしい俳句作品であって、どの俳人もあたしはリスペクトしてる。マニアックなことを言えば、これらの句の字あまりには、そぞれ深い意味がある。大好きな桂信子さんの句の場合は、あえて「の」という助詞を使って字あまりにして、続く「山の水」の「の」と共鳴させ、全体にゆるやかな流れを作ってる。そして、この「の」によって、上五の「切れ」を明確にして、聴覚に作用する上五の景と、視覚に作用する中七、下五の景とを切り離し、立体的なイメージを喚起させている。
また、鳴戸奈菜さんの場合は、故・永田耕衣さんを師事していた俳人なので、師系として、定型や季語よりも、言葉の持つ力や表現の多様性を重んじてる。だから、この句の場合も、単純な字あまりではなく、「八十八」という大きな数字の持つイメージと、一面に干されている猿股のイメージとを重複させるために、意識的に字あまりにしてる。他の句も、それぞれに深い意味があっての字あまりなので、簡単に言えば、「ダメな字あまり」じゃなくて、「許される字あまり」ってワケだ。
だけど、そこまで説明してると大変だから、基本的には「字あまりはダメ」ってことで話を進めてくけど、あたしの場合は、自分の詠む俳句に関しては、極度の潔癖症だ。だから、「定型」「季語」「切れ」「俳言(はいごん)」ていう俳句の四本の柱に関しては、パーフェクトに守らないと気が済まない。たとえば、五七五の定型を守り、キチンと季語が入ってても、「切れ」のないものは交通標語みたいに感じちゃうし、「俳言」のないものは自分の句とは思えない。
‥‥そんなワケで、あたしが「八十八夜」の句を詠む場合には、「の」をつけて中七に置いたり、ムリヤリに上五に置いたりするのは、どうしても自分のポリシーが許さない。だけど、先に中七と下五のフレーズが生まれちゃって、どうしても上五に「八十八夜」を置きたくなることもある。だけど、これは、「八十八夜に去年のお茶を飲む」みたいな妥協案であって、どうしてもあたし的にガマンができない。八十八夜に飲むお茶は妥協できても、俳句では絶対に妥協したくない。
だから、あたしの場合は、最初の2句のように、「八十八夜かな」って収めるパターンになっちゃうことが多いんだけど、このパターンには、ひとつのマイナス点がある。それは、「八十八夜」だけでも7音もあるのに、「かな」を入れると9音になっちゃうってことだ。全部で17音しかないのに、季語だけで9音も使っちゃうと、自由に使える音数は、たったの8音しかないのだ。
「たった8音で何が言えるのか?」
俳句を始めた20年前は、そんなふうに思ってた。だけど、長いこと俳句をやって来たら、「8音もあるから何でも言える」って思えるようになった。だから、今じゃ、「セイタカアワダチソウ」なんていう10音もある季語で、自由に使える音数がたったの7音しかなくても、「7音もある」って思えるようになって、「葬列の過ぎて背高泡立草」なんてサラッと詠めちゃうようになった。
コレッて、すべてのことに通じる感覚で、金銭感覚もおんなじだ。1日のオヤツ代を100円て決めてるあたしは、悪政による値上げラッシュが続いてるセイで、今まで100円で買えてたお菓子が、次々と買えなくなって来た。だけど、ここで、「駄菓子を買う」ってことに方向転換したら、「100円もあるから何でも買える」って思えるようになったのだ‥‥って、ちょっとムリのある喩えになっちゃったけど、この感覚を身につけておくと、精神的に豊かに生きることができる。
何にもオカズがなくて、フリカケやタクアンだけでご飯を食べる時でも、お米が買えない時の多いあたしの場合は、「ご飯がある」ってだけで、ものすごく幸せだ。そして、タクアンだって高くてタマにしか買えないから、「ご飯があるだけでも幸せなのに、タクアンもある」ってことになって、この段階で、すでにソートー幸せを感じてる。だから、これに、お味噌汁やメザシがプラスされた日にゃあ、もう、何の不満もないどころか、最高レベルのハッピーだ。
‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻って、「八十八夜」の俳句だけど、あたしの得意ワザの「八十八夜かな」ってパターンを使えば、誰でも簡単に本格的な俳句を詠むことができる。このパターンを五七五で区切って書くと、次のようになる。
●●●●●/●●●八十/八夜かな
つまり、この黒丸のとこに入る8音を考えればいいだけの話で、気をつける点は1つだけ。8音なら何でもいいワケじゃなくて、「5音+3音」の形にするってことだ。そうしないと、読んだ時に、リズムが生まれないからだ。たとえば、次の2句を読み比べてみて欲しい。
ジーパン脱いだら八十八夜かな
ワンピース脱いで八十八夜かな
上の句は、8音の部分が「4音+4音」だから、俳句のリズムが崩れちゃってるけど、下の句は「5音+3音」だから、「ワンピース」で軽く切って読むと、キチンと俳句らしい調べになってるのだ。俳句や短歌は、「詩」じゃなくて「歌」だから、リズムが整ってて、調べがないとダメってことだ。
で、「5音+3音」で考えるには、この「ワンピース」の句みたいに、「5音の名詞と3音の動詞」ってパターンの他に、「4音の名詞+1音の助詞+3音の動詞」ってパターンもある。たとえば、「ブラウスの透ける八十八夜かな」みたいなパターンだ。他にも、「出窓から覗く八十八夜かな」みたいに、「3音の名詞」に「から」とか「より」とかをつけて5音にしてもOKだ。そして、「セントラルパーク八十八夜かな」みたいに、8音の名詞でも、「セントラル/パーク」ってふうに、5音のとこで切れてるものなら、リズム良く収まる。ようするに、リズムさえ崩さなきゃ何でもいいってワケで、これなら、誰にでも簡単に詠めると思う。
あとは、ちょっとメンドクサイことを言うと、このパターンは、句の最後が「かな」で大きく切れてるから、1句に大きな「切れ」は1ヶ所って決まりがあるので、途中は大きく切っちゃいけない。だから、「ワンピース脱ぐや八十八夜かな」ってすると、「脱ぐや」でも大きく切れて、最後の「かな」でも大きく切れて、NGになっちゃう。簡単に言えば、前半の8音の部分だけが独立しないように、後半の「八十八夜」につながるような作りにすればいいってことだ。
それから、次の注意点は、俳句の季語は1句に1つって決まってるので、すでに「八十八夜」が季語なんだから、8音の部分には季語を使わないようにするってことだ。たとえば、今の時季のお花とかを詠んじゃうと、季語が2つになっちゃって、俳句としてはNGになっちゃう。
そして、最後の注意点は、「お茶」のことは絶対に詠まないようにするってことだ。これは、「八十八夜」っていう季語の中に、すでに「お茶」とか「茶摘み」とかのイメージも含まれてるから、そうした題材を詠むと、「季語がすでに表現してることをわざわざ繰り返して言った」ということになり、俳句の専門用語で「ツキスギ」って言う、ものすごくダサイ俳句になっちゃうのだ。だから、「茶柱の立って八十八夜かな」なんて詠むと、大恥をかいちゃう。これだけは注意して欲しい。
‥‥そんなワケで、俳句の話題の時は、いつもあたしが勝手に鑑賞したり解説したりするだけだったけど、今日はリトル趣向を変えて、俳句の詠み方を書いてみた。何でかって言うと、「きっこの日記」を読むようになってから俳句に興味を持った‥‥って人がケッコーいるみたいだからだ。だから、ちょっとでも興味のある人は、人の句を鑑賞するだけじゃなくて、ぜひ、「八十八夜」の句を詠んでみて欲しい。今回のパターンで詠めば、初めてでも、2~3年くらい勉強した人とおんなじくらいのレベルの句が簡単に詠めちゃうから‥‥なんてオススメしてみた今日この頃なのだ。
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