« 地球の家族たち | トップページ | 霊長類の半数が絶滅の危機 »

2008.08.05

これでいいのだ!

Bp1
マンガ家の赤塚不二夫さんが亡くなって、いろんな人たちがいろんなコメントをしてるんだけど、あたしから見て、「なんかズレてる」って感じる記事や放送も多い。何よりも違和感を覚えたのは、今、流行りのバカタレントなんかにコメントを取りに行って、食傷気味のバカコメントを引き出した上で、赤塚不二夫さんのことを「おバカの元祖」って紹介した記事だ。あたしは、これほど失礼なことはないと思った。あんな来年には消えてくような一発屋のバカタレントどもなんかと同列に扱うな!って思った。

それから、各ワイドショーに出てるコメンテーターたちが、ロクに赤塚マンガを読んでもいないのが見え見えなクセに、みんな揃って「ニャロメ」だの「ウナギイヌ」だのって繰り返して、画面にはアニメの「天才バカボン」を流し続けたことだ。赤塚不二夫さんは、マンガだけが自分の作品であって、アニメはテレビ屋が作者の意志を無視して作ったものだって言い続けてた。「天才バカボン」が最初にアニメ化された時には、制作サイドから、それまで謎だったバカボンのパパの職業を何かに設定する必要があるって言われて、ムリヤリに「植木屋さん」てことにされて、それに憤慨したって経緯もある。

さらには、国家権力を振りかざす警官が大嫌いだった赤塚不二夫さんは、目ん玉つながりのおまわりのことを「小バカにする対象」として扱ってて、マンガの中では「ピストルのおまわり」とか「目ん玉つながりのおまわり」とかって呼び捨てにしてた。だけど、これもアニメ化するにあたって「不適切」ってことで、勝手に「本官さん」なんて名前をつけられたのだ。赤塚不二夫さんは、こうしたやり方にガッカリして、「自分の作品はマンガだけだ」「アニメは自分の作品じゃない」って言い続けてた。それなのに、平然とアニメを流し続ける各ワイドショーを見て、あたしは、「まったく何も分かってないんだな‥‥」って思った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、「おそまつ君」はアニメでしか観たことないし、「ひみつのアッコちゃん」にしても、アニメの再放送を観た記憶がウッスラとあるくらいで、それほど印象はない。「天才バカボン」は良く観てたけど、「おそまつ君」と「ひみつのアッコちゃん」はそんなに観てないから、おそまつ君が六つ子だってこととか、イヤミが「シェー!」って言うこととか、チビ太がおでんを好きなこととか、アッコちゃんが「テクマクマヤコン」て言うことくらいは、一般常識として知ってるけど、どんな内容だったのかは、ほとんど覚えてない。それに、ちゃんと観てたとしても、赤塚不二夫さん自身が「アニメは自分の作品じゃない」って言ってるんだから、マンガを読んでないものに関しては何も言えない。

あたしにとっての赤塚マンガって、やっぱり、「もーれつア太郎」と「レッツラ・ゴン」だ。「天才バカボン」があまりにも面白かったから、あとから両方ともコミックスで読んだんだけど、子供のクセに浪花節な「もーれつア太郎」と、あまりにも過激な「レッツラ・ゴン」の面白さは、「天才バカボン」の比じゃなかった。だから、あたしは、チビ太よりもデコッ八のほうに親近感を持ってるし、ピストルのおまわりにしても、「天才バカボン」に出て来る時よりも、「レッツラ・ゴン」に出て来る時のほうが、遥かにメチャクチャにやられてて大爆笑だった。

で、まずは「もーれつア太郎」だけど、今さらあたしが説明するまでもなく、ア太郎は子供なのに1人で八百屋さんをやってる。お父さんは「×五郎(ばつごろう)」って言って、死んだけど幽霊になって自宅にいる。そして、ア太郎の気風に惚れて、押しかけ子分になったのが、デコッ八だ。この「もーれつア太郎」では、主人公のア太郎よりも、脇役のホープのニャロメや、場面転換の時に出て来るケムンパスのほうが知名度があったりする。だから、ニャロメやケムンパスを知ってても、それが登場するマンガが「もーれつア太郎」だってことを忘れてる人も多いくらいだ。他にも、ココロのボスを始めとした名脇役がいろいろと登場するんだけど、あたしはやっぱり、ア太郎とデコッ八とのやり取りが好きだった。

20年以上も前に読んだので、あんまりハッキリとは覚えてないんだけど、キャベツを買いに来た奥さんが、「キャベツは炒めると美味しいのよね」って言ったのに対して、デコッ八は「生のほうが美味しいですよ」って言っちゃう。これは、デコッ八の正直さから出た言葉だ。そして、自分の言ったことを否定されちゃったみたいで、ちょっと不機嫌になりかけた奥さんに対して、商売人のア太郎は、すかさず「やっぱり炒めたほうが美味しいですよ」って言って、ご機嫌をとる。これで、奥さんの機嫌は直って、キャベツを買ってってくれた。

だけど、それを見たデコッ八は、心の底から「キャベツは生のほうが美味しい」って信じてるし、野菜に詳しいア太郎だって絶対にそう思ってるハズだから、ア太郎がお客にオベンチャラを使ってウソをついたと思っちゃう。男の中の男として、自分がリスペクトしてた親分が、こともあろうにお客にオベンチャラを使うなんて‥‥。このショックと、一の子分としての自分の主張を否定されたってことのショックとで、デコッ八は、その場から走ってどこかへ行っちゃう。

そして、夕暮れ。橋の下みたいなとこで、デコッ八がヒザを抱えて泣いてると、そこにア太郎がやって来る。ア太郎は、お客さまあっての商売なんだから、時にはお客さまに合わせなきゃいけないってことを教えるんだけど、デコッ八も、そんなことは分かってた。それよりも、親分が自分のことを心配して探しに来てくれたってことが嬉しくて、ア太郎の胸に飛び込んで泣く。照れるア太郎は、兄貴風を吹かせて、デコッ八の頭をコツンと叩いて、「もうあんなことを言ったらダメだぞ」って言う。すると、デコッ八は、泣きながら、「はい、分かりました!親分!」って言ったあとに、「でもやっぱりキャベツは生のほうが美味しい!」って叫び、2人で笑い合う‥‥って感じだ。

とにかく、20年も前に読んだマンガの内容だから、細かいシチュエーションとかセリフとかは正確じゃないけど、これが、未だにあたしの心に残ってる「もーれつア太郎」の名シーンのひとつだ。あたしは、男同士の友情とか、美しい子弟愛とか、義理と人情とか、自分のまったく知らなかった世界をこのマンガから教えてもらった。だから、コメントを求められて、短絡的に「ニャロメ」だの「ケムンパス」だのって言ってる人たちを見ると、「この人たち、ホントにア太郎を読んでたのかな?」って疑っちゃうのだ。

‥‥そんなワケで、もうひとつのあたしのフェイバリットである「レッツラ・ゴン」は、何と言っても過激さがものすごかった。あたしが大好きだったのは、最終兵器のネコ爆弾、「イラ公」だったんだけど、クマの「ベラマッチャ」も大爆笑だった。そして、最初にも書いたけど、ピストルのおまわりのやられ方もハンパじゃなかった。「天才バカボン」の場合は、やられるって言っても、ちょっと痛い思いをするとか、上司に怒られるとか、恥をかくとか、ようするに、バカボンのパパによって「ギャフンと言わされる」ってレベルだったけど、「レッツラ・ゴン」の場合は、車に轢かれた上にガソリンをかけられて火をつけられるってレベルのやられ方で、ホントの人間だったら完全に死んでるレベルだった。

それも、ピストルのおまわりだけじゃなくて、イジメられ役のベラマッチャも、毎回毎回やられっぱなしで、その方法もメチャクチャだ。殴る蹴るは当たり前で、目玉を何メートルも引っぱられたり、口を縫いつけられたり、挙句の果てには、口から手を突っ込まれて、全身の皮を裏返しにひっくり返されちゃって、体の外側に内臓がぶら下がってるっていう、まるで理科室の人体模型みたいにもされちゃうのだ。いろいろと過激なマンガを読んで来たけど、サスガのあたしも、これにはぶっ飛んだ。

今でこそ、「ハイテンション」とか「シュール」とかって言葉が一般的に使われてるけど、このマンガが描かれた当時には、これらの言葉は一般的じゃなかったと思う。そんな時代に、これほどハイテンションでシュールなギャグマンガを描いてたなんて、ホントに天才だと思う。それなのに、その天才を送るコメントが「ニャロメ」や「ケムンパス」だなんて、赤塚マンガから何も受け取ってない人たちって、あまりにも寂しすぎる。

「レッツラ・ゴン」みたいなマイナーなマンガじゃなくて、誰もが代表作のひとつだと認めてる「天才バカボン」にしたって、コメントを寄せてる人たちの感覚って、やっぱり、なんかちょっと違う。あたしは、「天才バカボン」も好きだけど、何よりも好きなのは「天才バカボンのおやじ」のほうだ。簡単に言えば、「天才バカボン」は子供向け、「天才バカボンのおやじ」は大人向けに描かれたマンガだけど、あたしは、バカボンが好きな人なら、みんながそうだと思ってた。

バカボンが好きってことは、バカボンのパパが好きなワケで、バカボンのパパが好きってことは、バカボンのパパの究極の世界である「天才バカボンのおやじ」が好きに決まってるハズなのに、これほどの大傑作マンガについて、誰ひとり触れもしない不思議。この人たち、ホントに赤塚マンガを読んでたの?って疑いたくなる。この人たち、ただ単にテレビで「天才バカボン」を観てただけなんじゃないの?って思っちゃう。

たとえば、おんなじストーリーであっても、子供向けの「天才バカボン」の場合は、パパが天然でやったことが、風が吹けば桶屋が儲かる式に連鎖してって、最終的にピストルのおまわりがギャフンてなったりする。ようするに、パパには何の意図もないってことになってる。だけど、これが、大人向けの「天才バカボンのおやじ」になると、最後に悪どい顔つきでニヤリと笑うおやじを見て、バカのフリをして、実は最初からすべてを計算してたんだってことが分かる。それが、子供向けとは大幅にタッチを変えた画風とあいまって、何とも言えない笑いを引き出す。まるで、バカのフリをしてアイドルをやりながら、実は株だのFXだの焼肉屋の経営だのでシッカリと財テクしてるゆうこりんみたいで、これこそが赤塚マンガの真骨頂だ。

手塚治虫は、自分の代表作のひとつである「鉄腕アトム」をパロディにして、ネコが主人公の「アトムキャット」を描いたけど、これは、「パロディ」って言葉は正確じゃないし、「リメイク」でもなければ「コラージュ」でもなければ「スピンオフ」でもないし、こういうパターンを何て呼べばいいのか、あたしには分かんない。

ただ、「鉄腕アトム」があったからこそ「アトムキャット」が楽しめたワケで、最初から「アトムキャット」だけしか描かれなかったら、あたしはこんなに好きなはならなかったと思う。「天才バカボンのおやじ」も、これとおんなじで、やっぱり「天才バカボン」があったからこそ楽しめたワケで、パロディでもなく、リメイクでもなく、自分の大ヒット作をこうして生まれ変わらせる才能ってのは、ホントの天才にしかできないことだと思う。

‥‥そんなワケで、赤塚マンガを読んでなくて、テレビのアニメしか観てないような人たちが、知った顔して「ニャロメ」とか「シェー!」とか「これでいいのだ」とか言ってるのを見て、あたしは、すごく寂しい気持ちになった。だって、ホントに赤塚マンガを好きだった人なら、絶対に「天才バカボンのおやじ」と「ギャグゲリラ」の2作の名前を挙げるハズなのに、あたしが観た限り、誰ひとり、これらの大傑作の名前を挙げた人がいなかったからだ。だから、センエツながら、あたしが代表して言わせてもらうけど、ホントの意味での赤塚マンガの代表作は、「天才バカボンのおやじ」と「ギャグゲリラ」なのだ! なのだったらなのなのだ!‥‥ってなワケで、赤塚不二夫さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。


★ 今日も最後まで読んでくれてありがと~♪
★ 「これでいいのだ!」と思った人は、応援のクリックを願いしま~す!
   ↓   ↓
■人気blogランキング■


|

« 地球の家族たち | トップページ | 霊長類の半数が絶滅の危機 »