117度の情景
今朝、早起きして、多摩川の土手に行った。こないだの日記、「真っ赤な曼珠沙華」に、曼珠沙華の写真を添えようと思ったからだ。だけど、いつものことながら、あたしのケータイはキレイな写真が撮れない上に、あたしの腕も悪いから、何枚か撮ったんだけど、どれもイマイチだった。ホントは、土手にポツポツと咲いてる曼珠沙華の遠景を撮りたかったのに、それだとカンジンの曼珠沙華がよく見えなくて、単なる土手に見えちゃう。それで、仕方なく、1本の曼珠沙華を見上げるようにして、空も入るように撮ってみた。そして、その画像を「きっこのブログ」の最後のとこに、チョコっと添えてみた。
曼珠沙華の写真はイマイチだったけど、朝から秋らしい青空が広がってて、多摩川の土手は気持ちよかった。お天気が良くて、遠くには富士山が見えた。今までにも何度か書いたと思うけど、あたしのとこからは、富士山の手前に丹沢山系があるし、その手前には神奈川の団地とか工場とかがあるから、富士山は上の半分しか見えない。「あたしのとこ」っていうか、東京からだと、どこからでもおんなじなんだと思うけど、たとえ上の半分だけでも、ニポンイチの富士山が自宅から見えるってのは、何よりもワンダホーなことだ。それに、手前の丹沢山系のギザギザしたシルエットも、なかなか味わいがある。
そして、あたしが、東京から富士山を見るたびに思うのが、「富士山のてっぺんの角度って117度なんだよな~」ってことだ。これは、実際に分度器で測ってみたワケでもなく、何かの専門書に書いてあったワケでもなく、太宰治の「富嶽百景」の冒頭にそう書いてあったから、中学生の時に読んでから、ずっとそう信じて来た角度だ。だから、もしも、太宰治がテキトーなことを書いてたとしたら、あたしは20年以上も、富士山を見るたびに、間違った角度を思い浮かべてたことになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、太宰治の「富嶽百景」の冒頭では、広重とかの浮世絵の富士山が、実際の富士山をそうとうデフォルメして描いてあるってことを指摘してる。広重の浮世絵の富士山のてっぺんは、85度くらいの角度だそうだ。北斎に至っては、てっぺんが30度くらいで、「エッフェル塔のような富士」だって書いてる。そして、太宰治は、当時の陸軍の実測図を使って、富士山の東西と南北の縦断面の角度を測ってみたら、東西の断面のてっぺんが124度で、南北の断面のてっぺんが117度だったって書いてる。だから、ものすごくリアリティがあるし、あたしもまだ純粋な中学生だったし、この角度を信じたってワケだ。
それに、「124」と「117」って覚えやすい数字だから、東京から富士山を見た時に「117度」って思い浮かべてただけじゃなくて、新幹線とかから富士山が見えた時には、パッと「124度」って思い浮かべて来た。だから、あたし的には、今さら「118度でした」なんて言われちゃうと、ものすごく悲しい気持ちになる。だけど、ひとつだけ不安なのは、太宰治って、ものすごいウソつきなんだよね。だから、いかにもホントっぽく書いてるけど、「陸軍の実測図」なんてのはウソで、実はテキトーな角度を書いてたって可能性もある。
あたしは、多くの人たちと同様に、思春期に太宰治を夢中で読んだ。よく、「太宰はハシカみたいなもんだ」なんて言う人がいるけど、ホントにその通りで、思春期の一時期だけ夢中になるタイプの作品が多い。代表的なのは、やっぱり「人間失格」と「斜陽」だと思うし、あたしも両方とも大好きだ。特に「斜陽」は、その世界観に影響を受けた作家やミュージシャンもすごく多いと思う。逆に、教科書でムリヤリに読まされる「走れメロス」は、あまりにも最悪で、あたしとしては、太宰治の作品のワースト1だと思ってる。
‥‥そんなワケで、太宰治って、生き方そのものが「虚」と「実」とのハザマを行ったり来たりしてたみたいな感じだし、注射器を手放したことがないほどのパビナール中毒だったから、麻薬中毒者に多い「今度こそ完全に薬はやめました」っていう大ウソを周りの人たちに何度も何度もついて来た。「今後こそ本当に薬をやめた。だからお金を貸してくれ」って言って、友人や知り合いから借りたお金で、また薬を買いに行く。こんなことの繰り返しだった。
太宰治が師として仰いでた井伏鱒二のとこにも、「もう酒もタバコもやめました。薬もやめました。本当です。信じてください」って内容の手紙を送ってて、その数日後には、泥酔した上に薬までやって自殺未遂騒ぎを起こしてるのだ。だから、太宰治の場合には、「ウソをつく」ってよりも、ホントに「このままじゃダメだ」って思って、ホントに薬をやめるつもりで、その意志を強いものにするために、「宣言」みたいな感じで、井伏鱒二に手紙を送ったのかもしれない。だけど、悲しいかな麻薬中毒ってものは肉体的な依存だから、どんなに強い精神力を持ってても、意志の力だけじゃやめることは難しい。それも、誰よりも精神的に未熟で弱い男だったんだから、なおさらムリに決まってる。そんな太宰治が、井伏鱒二に送った手紙の中に、すごく興味深い一節がある。
「私、世の中、いや四五の仲間を、にぎやかに派手にするために、しし食ったふりをして、そうして、しし食ったむくい、苛烈のむくい受けています。食わない、ししのために。」
いかにも太宰治って感じの独特の表現だけど、ようするに、4~5人の仲間の前でイイカッコをするために、食べたことのないイノシシの肉を「自分は食べたことがある」って言っちゃったワケだ。学生時代から、身分不相応な高価な着物をまとったりと、どうしても周りにイイカッコしたがるタイプだった太宰治だから、すごく「らしい」って感じがする。さらには、一度「世の中」って言ってから、「いや四五の仲間」って言い直すあたりも、いかにも太宰治らしい。その証拠に、おんなじ手紙の中に、こんな一節もある。
「私の悪いことは、『現場よりも誇張して悲鳴をあげる。』と、ある人、申しました。」
太宰本人は、自分はそんなことないって、この進言の内容を否定してるんだけど、それ自体も「分かった上での否定」であって、自分の弱さやイイカッコしたがるタイプだってことは、誰よりも本人が一番よく知ってたハズだ。そして、そのルーツを感じさせるのが、「ロマネスク」の最後に登場する「うその三郎」だ。あたしは、もちろん「ロマネスク」も大好きな作品なんだけど、最初に読んだ時にも、次に読んだ時にも、何度読んでも読むたびに感じるのが、「うその三郎」のリアリティの異常さだ。
説明の必要はないと思うけど、念のために書いとくと、「ロマネスク」は、第1部が仙術を使う「仙術太郎」のお話で、第2部がケンカの強い「喧嘩次郎兵衛」のお話で、第3部がウソつきの「うその三郎」のお話だ。そして、まったく別々のお話だと思ってた「仙術太郎」と「喧嘩次郎兵衛」が、第3部の「うその三郎」に登場して、この3人のお話として完結する。複数の別々のストーリーが、最後に合流していろんな伏線の謎が解消されるってのは、今じゃよくあるパターンだけど、当時としては斬新だったんじゃないかなって思う。
で、第1部の「仙術太郎」では、太郎の生い立ちだの、仙術を使えるようになってからのことだのが描かれてるんだけど、仙術なんて現実にはないから、全体的にアニメの「日本むかしばなし」みたいなノリになってる。そして、第2部の「喧嘩次郎兵衛」では、ケンカに強くなりたいと思う次郎兵衛が、いろいろと独自に考えたケンカの練習をしてくんだけど、それが、ただ単に壁を殴ってみたり、木を殴ってみたりと、あんまり実戦向きな練習とは言えない。ケンカなんかしたこともなさそうな太宰治が、脳内だけで考えた「ケンカに強くなる練習」って感じなのだ。
つまり、「仙術太郎」は、テーマからして非現実的なワケだし、「喧嘩次郎兵衛」は、ケンカの経験がない者が想像だけで書いたっていう非現実さがあるってワケだ。それなのに、親にウソをつき続けて、そのうちにウソでお金儲けをするほどの男になっちゃった「うその三郎」は、前の2編とは雲泥の差のリアリティが満載なのだ。ウソをつくコツはもちろんのこと、ウソをついてる時の自分自身の精神状態の分析など、そこらの心理学者も顔負けな理論を展開してるのだ。たとえば、三郎は、学生が実家の親に仕送りをせがむ手紙の代筆を請け負うんだけど、その手紙の書き方のコツとして、こんなふうに書いてる。
「親元へ送金を願う手紙を最も得意としていた。例えばこんな工合いであった。謹啓、よもの景色云々と書きだして、御尊父様には御変りもこれなく候(そうろう)や、と虚心にお伺い申しあげ、それからすぐ用事を書くのであった。はじめお世辞たらたら書き認(したた)めて、さて、金を送って下されと言いだすのは下手なのであった。はじめのたらたらのお世辞がその最後の用事の一言でもって瓦解(がかい)し、いかにもさもしく汚く見えるものである。それゆえ、勇気を出して少しも早くひと思いに用事にとりかかるのであった。なるべく簡明なほうがよい。このたびわが塾に於いて詩経の講義がはじまるのであるが、この教科書は坊間(ぼうかん)の書肆(しょし)より求むれば二十二円である。けれども黄村先生は書生たちの経済力を考慮し直接に支那へ注文して下さることと相成った。実費十五円八十銭である。この機を逃がすならば少しの損をするゆえ早速に申し込もうと思う。大急ぎで十五円八十銭を送っていただきたいというような案配(あんばい)であった。そのつぎにおのれの近況のそれも些々(ささ)たる茶飯事を告げる。昨日わが窓より外を眺めていたら、たくさんの烏(からす)が一羽の鳶(とび)とたたかい、まことに勇壮であったとか、一昨日、墨堤を散歩し奇妙な草花を見つけた、花弁は朝顔に似て小さく豌豆(えんどう)に似て大きくいろ赤きに似て白く珍らしきものゆえ、根ごと抜きとり持ちかえってわが部屋の鉢に移し植えた、とかいうようなことを送金の請求もなにも忘れてしまったかのようにのんびりと書き認めるのであった。」
そして、こんな教科書の話など作り話なんだから、親元から送られて来た「十五円八十銭」は、この学生や三郎たちが飲み食いして使っちゃうってワケだ。もちろん、これは、「仙術太郎」や「喧嘩次郎兵衛」とおんなじに創作なんだけど、非現実的な前の2編と比べると、あまりにもリアリティがありすぎる。この手紙の書き方の説明ひとつを取っても、「ここまで詳しく書く必要があるの?」って思えるほど、現実にも使えそうなレベルの記述をしてる。
これは、それまでは自分の知らない「仙術」のことや、自分の苦手な「ケンカ」のことだったから筆が走ってなかった太宰治が、ここに来て自分の得意分野である「ウソのつき方」についての段になったもんだから、一気に饒舌になっちゃったんじゃないかって思う。読者に感心されたい、読者に「なるほど」と思わせたいって気持ちこそが、太宰治がアイデンティティーを維持するための大きな要因だったからだ。
‥‥そんなワケで、三郎は、あまりにも多くの学生から手紙の代筆を頼まれるため、いっそのこと、この「手紙の書き方」を本にして出版したら儲かるかも?って考える。だけど、そんな本を出版して、学生の親たちが読んだら、すべてバレちゃうからって、出版を諦める。それなのに、この「うその三郎」を書いた太宰治自身は、この物語を自分の親兄弟も読んでるってのに、三郎が書いた手紙とおんなじ書き方で、薬を買うためのお金の無心の手紙を親族へ送りまくってたのだ。この辺のとこが、太宰治がいつまでも子供のままだった部分だと思うし、こんなふうに成熟できなかった人間だからこそ、行間から作者の顔が垣間見えるような素晴らしい作品を書き続けられたんだと思う。そして、そんな人間が「富士山のてっぺんの角度は117度だ」って断言したんだから、あたしは、やっぱり、富士山を見るたびに「117度なんだよな~」って思い続けてこうと決めた今日この頃なのだ。
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