双方の言いぶん
9月18日の夕方、福岡県西区の小戸(おど)公園で、小学1年生の富石弘輝(こうき)くんが、何者かによって殺されたっていう悲惨な事件があった。そして、その報道を聞いたほとんどの人は、とても悲しい気持ちになったハズだ。あたしも、多くの人たちとおんなじように、「また幼い命が奪われる残酷な事件が起こった」って思って、まだ誰だか分からない犯人のことを心から憎んだ。
それなのに、その4日後に、弘輝くんのお母さんの富石薫(かおる)容疑者が逮捕された。この報道を聞いて、あたしは、何とも言えない思いがした。あたしは、「自分の子供を殺すなんて、どうしてこんな残酷なことができるんだろう。最低の母親だ。いや、母親なんかじゃない」って思った。そして、見ず知らずの犯人による殺人よりも、もっと嫌な気持ちになった。
そしたら、今度は、実は弘輝くんは障害をもってて、お母さんの薫容疑者も難病をかかえてて、将来を悲観しての犯行だったって報じられた。薫容疑者は、弘輝くんを殺してから自分も死ぬつもりだった。だけど死にきれなかったって報じられた。だから、あたしは、それまで薫容疑者のことを憎んでた気持ちが反転して、今度は殺された弘輝くんも殺した薫容疑者も、2人とも気の毒だと思った。
だけど、昨日、またまたあたしの気持ちが反転する続報が伝えられた。それは、「弘輝くんには死亡した場合に1千数百万円が支払われる生命保険がかけられていた」ってことと、「弘輝くんが病院に運ばれて死亡が確認されたすぐあとに、その病院から薫容疑者が保険会社に電話して、弘輝くんが死亡したことを自分で伝えていた」ってこと、そして、「弘輝くんを公園に連れて行く前に、薫容疑者は昼間なのにビールを飲んでいた」ってことなどだ。
こうなって来ると、もう、何が何だか分からなくなって来る。ここで「もしかしたら保険金殺人だったの?」なんて思ったりしても、何日かしたら、また別の報道がされて、また正反対の状況になるかもしれないと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、こんなこと考えたくないけど、もしもあたしが薫容疑者の立場で、ホントに子供と自分の将来を悲観して親子心中を図ろうとしたのなら、公園なんかに行かず、自宅で一緒に死ぬなり、海とか山とかに行って一緒に死ぬと思う。自分の子供を愛してて、それでも将来を悲観して死を選んだんだから、抱きしめたり、手をつないだりして、一緒に死ぬ。少なくとも、他にたくさんの人がいる近所の公園なんかには行かないし、そこで子供だけ殺して死体を放置して、自分は別の場所で死のうなんて思わない。これは、あたしが特別なんじゃなくて、普通は誰でもそうだと思う。
だけど、「あたしはこう思う」「普通はこうだろう」っていう、こうした推測も、所詮はあたしの主観によるものだし、さらには、新聞やテレビで報道された断片的な情報だけを見たり聞いたりしてのものだから、真実は何も分からない。だって、犯人像ひとつを取っても、第一報を聞いた時、あたしは、「小学1年生の男の子を殺すなんて、きっと異常な性癖の大人の男に違いない」って思ったからだ。もちろん、これは、あたしの先入観によるもので、何の根拠もないことだから、誰にも言わなかったし、当然、この日記にも書かなかった。
そして、4日後に「お母さんが犯人だった」ってことが分かった時は、ホントに驚いたし、それと同時に、すぐに秋田の畠山鈴香の事件を思い出した。あたしは結婚もしてないし、当然、子供もいないけど、畠山鈴香も、今回の富石薫も、2人とも35才で、あたしと同い年なのだ。そして、2人とも母子家庭で子供を育ててた。だから、あたしは、とても他人ゴトとは思えない。
もっと小さな子供なら、育児ノイローゼとかで、発作的に我が子を殺しちゃうってケースがあることは知ってる。だけど、今回の弘輝くんの場合は7才、畠山鈴香の事件の彩香ちゃんの場合は9才だった。子供を産んだことのないあたしだから、理解できないのは当然だけど、7年も9年も育てて来た我が子を殺せるなんて、いったいどういう感情なんだろう。拾った捨て猫でさえ、2週間も世話してたら愛しくて手放せなくなっちゃうのに、自分がお腹を痛めて産んだ我が子を、それも何年間も一緒に暮らして来た我が子を殺せるなんて、とても普通の感覚じゃ解明できない世界だと思う。
たとえば、コイズミ改革による規制緩和によって、商売が成り立たなくなった小さなお豆腐屋さんのご主人が、将来を悲観して、寝た切りの老母を殺して、自分も首を吊って自殺したケース。自公政権が強行採決した「障害者自立支援法」によって、生活ができなくなり、お母さんと障害を持つ息子とが無理心中した母子家庭のケース。自公政権が強行採決した「後期高齢者医療制度」の導入に将来の不安を覚えて、無理心中したお年寄りのケース。こうしたケースの数々は、すべて理解できる。政官財が癒着して一体化した独裁政権によるシワ寄せが、社会的弱者を直撃した結果であることは明白だ。
だけど、いくら苦しかったとは言え、人並みの部屋に住み、人並みのものを食べ、子供を学校に通わせて、それなりの水準の生活をしてたお母さんが、我が子を殺すなんて、あたしには理解できない。そして、きっと、報道上は似てるようなケースでも、1件1件がそれぞれまったく違う「根」を持ってるんだと思う。畠山鈴香のケースと今回の富石薫のケースでも、その「根」はまったく違うんだと思う。
‥‥そんなワケで、こうした問題についても、いつかはキチンと考えて書いてみようと思うんだけど、それ以前に、あたしたちには、「報道に踊らされないようにする」っていう大前提があると思う。今回の弘輝くんの事件では、マクラのとこに書いたように、新しい報道がされるたびに、事件に対する印象や薫容疑者に対する心象が次々と変化して行った。だから、第一報や第二報のあたりで、その時点で分かったことだけで自分の意見を書いたりしてたら、何度も訂正をするハメになってたと思う。
あたしのとこには、ものすごい頻度で、「この問題を取り上げて欲しい」ってメールが来る。たとえば、「自分がどこそこの飲食店に行ったら、とても酷い対応をされた」とかっていう小さな問題もあれば、「どこそこの公園に行ったら、自分の大型犬のリードを離して、他の人の小型犬に噛みつかせている人がいた」とかっていう「自分が目撃した他人の問題」を取り上げて欲しいって言って来る人もいる。
「きっこの日記」は、あたしが思ったことや感じたことを書くための個人の日記であって、駆け込み寺じゃない。だけど、あまりにも理不尽な被害に遭った人からのメールが届き、何度かのメールのやりとりをして、その問題を日記で取り上げることが意味のあることだって判断した場合には、取り上げることもある。ただ、その場合、何よりも困るのが、あたしが「被害者側の言いぶんしか聞いてない」ってことなのだ。
たとえば、高知のスクールバスの事故の場合は、あたしはスクールバスを運転してた片岡さんや奥さんとメールのやりとりをしたのは当然として、片岡さんを支援してるグループの人たちからも状況を聞いた。そして、県警側の言いぶんは、公式コメントとしてリリースされているものをすべて読み、双方を取材した瀬戸内海放送の担当記者からも話を聞いた。そして、スクールバスに乗ってた学生さんからも、直接、「バスは完全に止まってました。警察は嘘をついています」って証言を聞いた。その上で日記に書いてるワケで、新聞記者でも探偵でもない一般市民のあたしとしては、これが限界だ。だけど、双方の言いぶんを聞いた上で書いてるんだから、個人の日記としても十分だろう。
だけど、「どこそこの飲食店に行ったら、とても酷い対応をされた。だからそれを取り上げてください」だなんて言われても、あたしがそのお店まで出向いて行ったり、わざわざ電話を掛けたりして、お店の人の言いぶんを聞いて、その上で日記を書くなんて、やってられるワケがない。だからって、相手の言いぶんを聞かずに、メールの内容をそのまま日記に書けば、そのお店の人から営業妨害だとか風説の流布だとかって言われて、損害賠償の訴訟を起こされちゃうかもしれない。これはあたしの趣味の日記なのに、何でそんなことしなきゃなんないの?って思う。自分が日常生活で不愉快な思いをしたのなら、自分のブログに書けばいいじゃん、て思う。
‥‥そんなワケで、話はリトルそれちゃったけど、あたしが言いたかったことは、どんなことでも、一方からの話を聞いただけじゃ、ホントのことは分からないってことだ。よくある例だと、女友達から電話が掛かって来て、「彼氏に裏切られた」とかって相談されるアレだ。その子の話を聞いてると、何から何まで彼氏が悪くて、その子には何も非がないようなことを言う。時にはコーフンしてまくしたてたり、時には泣いたりして、かわいそうに思うけどメンドクサイ。で、あたしとしては、その子に同情するようなことを言って、「彼氏はホントに酷いよね」って言って、なぐさめてあげる。それしか方法がないからだ。だけど、あとから、その彼氏の友人とかから、「彼女のほうが先に彼氏を裏切った」なんて話が耳に入って来る。いっつも、このパターンなのだ。
だから、今回の弘輝くんの事件でも、第一報や第二報の時点で、イサミ足で判断しちゃうのはお話にならないと思うし、それ以前に、偏向的なマスコミの報道なんかを鵜呑みにして、それをベースにして論じること自体が愚かなことだと思う。マスコミの報道にしたって、所詮は「一方の話」でしかないからだ。
で、ちょっと長くなるけど、今日は、こうした問題を考える上で、すごく参考になる文章を紹介しようと思う。それは、黒岩重吾の「深海パーティ」(集英社)っていう小説の中のワンシーンだ。黒岩重吾は、ジメッとした昭和の湿気が強い小説家で、古代史モノも面白いけど、あたしは、裏社会をテーマにしたジメジメの作品群が大好きだ。この「深海パーティ」は、昭和30年ころの大阪ミナミのキャバレーを舞台にした短編集で、当時は巨大なグランドキャバレーの時代だったから、主人公のガイド主任、海堂が務めるキャバレー「ホース」も、ホステスが500人もいる巨大なキャバレーだ。
海堂は、来店したお客をテーブルまで案内するガイド主任で、中間管理職っぽい立場の男だ。だから、ボーイたちの世話やホステスたちの愚痴を聞いたりもすれば、上司の命令で、ホステスの面接をしたり、他のキャバレーの人気ホステスの引き抜きをさせられたりもする。そんな海堂が、東京から来たエミという若い女を面接して、入店させた。エミはホステスの経験がないため、ベテランの麗子にエミの面倒を頼んだ。麗子は、自分のお客が来ると、エミをヘルプで呼び、自分のお客たちに紹介して、エミを可愛がった。エミも、だんだんと慣れて来て、それなりに稼げるようになって来た。
そんなある日、麗子のパトロンである問屋の社長の山崎と、エミとが仲良く昼間デートしてた現場を1人のホステスが目撃して、それを麗子に密告した。麗子は激怒して、エミを呼びつけ、みんなの見てる前でエミの頬を叩いた。そして、その話を聞いた海堂は、とにかくエミの話を聞いてみようと思い、人事係からエミのアパートの住所を聞き、訪ねて行った。で、ここから先は、小説をそのまま引用する。
(前略)
ところが、その住所に、エミの部屋がない。名簿には光陽荘というアパートの名が書かれている。光陽荘は確かにあるのだが、エミはそのアパートに住んでいないのだ。つまりエミは嘘の住所を人事係に教えたのである。
海堂はがっかりした。エミに裏切られたというより、エミもやはり、キャバレー勤めの普通の女であったのか、という気の抜けた思いである。
点呼が済んでから、海堂はエミを呼んだ。
「昨日、君のアパートに行ったんだ。何故、嘘の住所を書いたんだね」
するとエミは笑窪をつくると、海堂の膝に手を置き、
「あら、だって店の女(こ)で、いい加減なところを書いている女多いわ。エミの場合は違うわ」
「どう違う」
「だって、一週間ほど光陽荘に居たのよ。でもね、お店から遠いでしょ。だから住吉のアパートに移ったの。知らせるのを忘れていたの。御免なさい」
そう云われると、海堂もそれ以上責めるわけにはいかない。そこで山崎の問題に触れた。するとエミは思い出したように頬に手を当てた。
皆の前で殴られたと云う。あんなに口惜しいことはない、と涙さえ浮かべるのである。
「殴られたのも仕方ない。君の売り上げが多くなったのは、麗子がヘルプで君を呼んでくれたおかげだろう。それなのに麗子の大切なお客さんと‥‥」
エミは海堂の膝をゆすって、違うわ、違うわ、主任さんまで酷いわ、と云った。
エミの話によると、エミが初めて山崎の席についた時から、山崎はエミに好意を示した。エミはもちろん応じなかったが、そのうち外から電話を掛けて来るようになった。食事に誘うのである。断ると、それなら店に来ても、麗子を指名せずにお前だけを指名するぞ、と無茶なことを云ったりする。実際、しかねない様子である。もしそんなことをすれば、麗子の面目は丸潰れだし、エミの立場だって悪くなる。と云って、客が誰を指名しようとそれは自由だ。キャバレーは冷酷な世界である。現実にそういう行為を平気でする客も居るのだ。そして、そんな指名に応じる女も居る。
「主任さん、分かってよ。だからエミ、山崎さんに、絶対止して欲しい、と頼むために、一度だけ会ったのよ。そんなことをされたら、エミ、この店に居られなくなるもの」
喋っている間も、エミは盛んに海堂の膝をゆする。温かいエミの手が海堂の太腿をゆするたびに気持ち良く喰い入る。海堂は黙ってエミの顔を見詰めていた。するとエミはハンカチで瞼を押えた。
「主任さんにだけは誤解されたくないの。そんな女と思われたくない」
海堂は返事をする気になれなかった。嘘ならこれほど見事な嘘はない。キャバレーの世界のつぼをちゃんと押えている。住所の時の答弁と同じである。あり得ることだし、現実に同じような人間関係が絶えず起こっているのである。一プラス一は二、エミが出した答弁はそれである。エミの答弁が嘘だと、海堂は云い切れない。本当かもしれない、嘘かもしれない。それは真実なのだ。
麗子がもし山崎に詰問すれば、
「エミか、あんな小娘に興味はないわ。えっ、わしが何回も誘った? 阿呆らし、何処かへ連れてってくれ、いうので、しょうがないから食事に連れて行ったんや。お前も、あんな小娘の云うこと、いちいち本気にしとったらあかんな」
おそらく山崎はそう答えるだろう。それもまた真実なのだ。だが二人の間に、どのような弁解がなされても、要は二人が、麗子に内緒で昼会った、ということなのである。
この世界に居る間に、海堂は曖昧さ、という真実の中の、もう一つの真実を見分ける眼を養っていた。それは冷酷な眼かもしれない。エミの弁解が本当なら、エミに対して気の毒かもしれない。
しかし、海堂は、山崎とエミの間に、何等かの関係が成立した、と判断したのだ。海堂がエミの弁解に期待していたのは、外で一度も会ったことはない、告げ口した人の中傷だ、という答弁であった。
(後略)
‥‥そんなワケで、ちょっと長い引用になっちゃったけど、あたしは、この一節を読んで、う~んと唸っちゃった。あたしは、片方の言いぶんだけを聞いた状態じゃ判断できないって思ってたたけど、海堂の場合は、片方の言いぶんを聞いただけで、もう片方が正反対のことを言うと想定して、正しく判断したのだ。もちろん、この「正しく」ってのは、キャバレーという夜の世界でのホステス同士の問題をうまく解決する上での「正しく」であって、一般的なものとは違う。
たとえば、これが、何かの裁判とかなら、エミの言いぶんだけじゃなく、麗子にも山崎にも言いぶんを聞き、誰の言ってることが真実なのかを検事や裁判官が判断するだろう。だけど、実際にそこまでのことができない世界で、できる限りこの問題をうまく収めるためには、最後に海堂が言ってるように、「外で一度も会ったことはない、告げ口した人の中傷だ」っていうエミの言葉以外にはなかったのだ。つまり、「そんな事実はなかった」っていう答えの他は、たとえどんな理由を並べようとも、「エミが山崎と会っていた」っていう事実に変わりはないってことで、その事実関係こそを問うていたってことだ。
「この世界に居る間に、海堂は曖昧さ、という真実の中の、もう一つの真実を見分ける眼を養っていた。それは冷酷な眼かもしれない。エミの弁解が本当なら、エミに対して気の毒かもしれない。」って書いてるように、これは冷酷な見方なのかもしれない。だけど、今回の弘輝くんの事件に関する次々と変化する報道を見てると、こうした冷酷な見方こそが必要なのか?って思えて来る。薫容疑者が難病であろうが、弘輝くんに高額の生命保険がかけてあろうが、薫容疑者が弘輝くんを殺したという事実は変わらないのであって、薫容疑者がどんな言いぶんを並べても、それは、エミの言葉と同じなのだ。それが真実であっても嘘であっても、弘輝くんは、もう戻って来ないのだ。
‥‥そんなワケで、あたしは、どんな問題の場合でも、片方の言いぶんを聞いたら、もう片方の言いぶんを聞くことが物理的に不可能な状況だったとしても、この小説の海堂のように、「逆の立場の人間の言いぶんを推測してみる」ってことは必要だと思った。そして、それは、あくまでも推測にしか過ぎなくても、そこに十分な可能性がある限り、自分が聞いた片方の言いぶんだけを鵜呑みにしてモノゴトを判断することは、とても軽率なことだと思った今日この頃なのだ。
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