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2008.11.16

ジュラ紀の小石

最近のあたしは、目いっぱいお仕事を入れてる上に、ちょっとでも時間が空けば、パチンコを打ちに行ったり内職をしたりと、働きっぱなしだ。それで、せっかく目の前を多摩川が流れてるのに、河原でのんびりする時間がなかった。だけど、これは、あたしサイドの問題だけじゃなくて、今、あたしの地元は、東急の守銭奴どもによる再開発でメチャクチャにされてることが大きな原因だ。駅を中心にして、そこら中で酷い工事が続いてる上に、河原へ出られる唯一の橋、兵庫島への橋を渡ると、今度は河原に工事車両がたくさん入ってて、巨大なシートを敷いて、何やら河原を掘り返してる。

その上、関係ない場所でも、あっちこっちに大きなパネルが立てられてて、美しい景観を破壊してる。「釣りバカ日誌 イレブン」で、ウサギを飼ってたOLの桜井幸子が住んでるマンション、あのマンションの前のとこなんか、川沿いの路地のガードレールに大きなパネルがズラーッと打ちつけられてて、河原にも降りられないし、多摩川を見ることもできない。だから、あの映画の中で、ウサギを食べちゃった村田雄浩が、マンションの前の土手の上の電柱にもたれて座ってるけど、あそこに座ることもできなくなった。あたしの愛するニコタマが、東急の守銭奴どものセイで、もうメチャクチャだ。

だから、あたしの足は、自然と多摩川に向かなくなっちゃった。以前は、たとえば、午前10時にお家を出てお仕事に行く日なら、朝の8時ころに猫たちにご飯をあげて、そのあと多摩川まで歩いてって、30分から1時間くらいボケーッとして、それからお仕事に行ったりしてた。たったこれだけでも、大好きな多摩川を眺めてると、心と体がリフレッシュできたからだ。だけど、今は、リフレッシュどころか、気持ちがどんよりするばかりだ。こんなに不景気なのに、バカ丸出しの高層マンションなんかオッ建てちゃって、ぜんぜん入居者が集まらないからって、あたしの郵便受けにまでチラシをねじ込んでく始末。こうなって来ると、マジでダイナミック五郎を呼びたくなって来る今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、しばらく前に、多摩川の支流の野川にビワの葉っぱを採りに行って来たけど、この野川も、あらゆる場所で工事をしてた。狭くて浅い川に巨大なブルドーザーやユンボが入ってて、川そのものを破壊してた。これじゃあ、せっかく増えて来たお魚たちも全滅しちゃうし、野鳥も来なくなっちゃうし、何よりも、あたしが狙ってるオヤニラミの生息域も潰されちゃう。わざわざ莫大な税金を使って自然を破壊するなんて、人間て、ホントに愚かで悲しい生き物だ。

だけど、偉大なパワーを持つ多摩川は、くだらない人間の欲望なんかには負けないのだ。それを確認するために、あたしは、秘密の森に行ってみることにした。多摩川は、大きく左右に蛇行して流れてるから、川沿いの道路から川岸までの距離が、場所によって、近かったり遠かったりする。あたしの住んでる駅の周りなら、川沿いの道路から河原に降りると、もう目の前が多摩川だ。だけど、ずっと上流へ進んでくと、川沿いの道路はまっすぐ伸びてるのに、多摩川は大きく左へカーブしてって、道路と川との距離が離れてく。そして、そのエリアが、場所によっては森になってるのだ。

あたしの秘密の森は、とっても不便な場所にある。まず、どの駅からも、バス停からも、歩いて行ける距離じゃない。そして、近くに車を停める場所がない。そのため、原チャリか自転車で行けるとこまで行って、そこからずっと歩くしかない。だから、荒らされてない。どんな場所でも、足の便が良くなって、人間が行きやすくなると、自然はメチャクチャにされる。富士山だって、高尾山だって、尾瀬だって、道路ができて、鉄道ができて、人間が訪れるようになって、急激に破壊されて来た。地球上のすべての生き物の中で、自然と共生せずに、私利私欲のために平気で自然を破壊するのは、愚かな人間だけなのだ。

‥‥そんなワケで、あたしは、今日はお昼過ぎからの遅めのお仕事だったので、猫たちにご飯をあげてから、愛車のフェラーリF2004(ママチャリ)に乗って、秘密の森を目指して出発した。腰を浮かして本気で漕げば、最終ラップの最終コーナーでトヨタのアホ車を抜いてワールドチャンプになれるんだけど、奥田のバカに「スポンサーを降りるぞ!」って脅迫されると困っちゃうから、あたしは、のんびりと走った。そして、30分弱で到着した。

「到着した」って言っても、これは「自転車で行けるとこまで」ってことで、ここから秘密の森の入り口まで、プチ・インディージョーンズみたいな道のりがある。まずは、ヤタラと滑る「地獄へのスロープ」を必死に下りて行き、その先にあるのは、もたもたしてるとクルブシまで埋まっちゃう「悪魔の湿地帯」だ。そして、そこを何とか抜けると、幅が1mほどの細い水路に沿って、ぬるぬると足を取られる「堕天使の泥道」が続く。もちろん、足元に気持ち悪い虫がワサワサといたり、頭上から吊り天井が下りて来たり、後ろから巨大な岩が転がって来たりはしないから、ホントのインディージョーンズよりは遥かにお気楽なんだけど、それでも、ふだん舗装された道をパンプスで歩いてるあたしにとっては、それなりに険しい道のりなのだ。

そして、これらの難関を約10分で抜けると、ようやく、秘密の森の入り口にたどり着く。木々に囲まれた薄暗い場所の中に、畳にして20畳ほどの小さな広場があって、その奥から森が始まる。でも、ここまでが森じゃなくて、ここから先が森ってのは、あたしが勝手に決めてることで、ここまでの道のりも、森と言えば森みたいなもんだし、ここから先も、単なる野原って言えば野原みたいな気もする。ようするに、あちこちに木が生えてる河原のエリアってことで、ホントの山奥の森とは違うからだ。だから、これを森と呼んでもいいのか、そして、森進一に「おふくろさん」を歌わせてもいいのかは、天国の川内康範先生の耳毛に聞いてみないと分からない。

‥‥そんなワケで、最後にあたしがこの秘密の森に来たのは、足をケガする前だったから、今日は2年ぶりってことになる。だけど、2年前とおんなじところに大きな木が倒れてるし、奥まった場所にツタの絡まった木が生えてるし、細い直進路と迂回路とが合流した先にお花がいっぱい咲いてるし、まるでタイムマシンで2年前に戻ったみたいだった。人工的なものが何もない場所なのに、到木の形とか、お花とかで、ちゃんと記憶してるもんだ。あたしは、2年前とおんなじに到木に腰掛けて、2年前とおんなじに真上を見た。木々の枝や葉っぱに囲まれた丸い青空は、2年前とおんなじに井戸を覗いてるみたいな感じがした。


 水底のやうな青空神の留守  きっこ


しばらく、この場所でプチ森林浴をしてから、もう少し先に進むと、今度は木の数が減って来て、明るくなって来て、草花が増えて来る。右手の日の当たるエリアには、ひとむらのノコンギクが咲いてて、その奥には大きなオニアザミが立派なお花をつけてた。これも、2年前とおんなじだった。ここに来る手前の道路沿いの土手には、近くに住む人たちが植えたコスモスが風に揺れてて、それはそれで美しかったけど、あたしは、やっぱり、こうした自然のお花のほうが好きだ。誰も来ない場所にヒッソリと咲き、誰にも見られぬままに枯れて行くお花。人間が品種改良して、人間が栽培して、人間が売ってるカラフルなお花と比べると、こうして人知れずに咲いてるお花たちって、なんてステキなんだろう。


 人知れずあなたを思ふ野紺菊  きっこ


30分くらいかけて、小さな秘密の森を抜けると、視界が一気に広がった。多摩川だ。3~4cmからコブシ大までのいろんな石で作られた河原が広がってて、なだらかな起伏が折り重なってる。そして、河原まで降りる1mほどの段差のところが、ヒザから腰くらいまでの草むらになってて、いろんなお花が咲いてる。最初に目についたのは、あたしの胸くらいまであるオミナエシの群落だった。オミナエシは、「秋の七草」のひとつとしてもオミナエシ‥‥じゃなくて、オナジミだけど、例のヒョウモンチョウも来てたし、モンシロチョウもモンキチョウも来てて、みんな仲良くヒラヒラしてた。

Tm3
ヒョウモンチョウは、ちょっと変わった模様だったから、そっと近づいてって、ケータイで写真を撮って、あとから図鑑で調べたら、ツマグロヒョウモンのメスだった。こないだ、大葉のお花に来てたのは、ツマグロヒョウモンのオスだったから、これで、あたしは、オスとメスの両方を目撃したことになる。それにしても、オスの蝶なら分かるけど、メスの蝶がオミナエシ(女郎花)に来るなんて、お前はあたしとおんなじ趣味なのか?(笑)


 性別をいとはぬ恋も女郎花  きっこ


あたしは、広い河原へ降りて、歩きにくい石の上をジョリジョリと進んだ。あたしのマンションから数kmの場所なのに、こんなに広くて誰もいない場所があるなんて、ホントに気持ちがいい。空は青いし、河原は広いし、多摩川はキラキラしてるし、「深呼吸しよう」って思わなくても、自然と深呼吸っぽい空気の吸い方になって来る。両手をグルグルと回してみたり、伸びをしてみたりしつつ、少し下流のほうへ歩いてくと、河原に小さな池を発見! 多摩川が増水した時に、河原の凹みに水が溜まり、そのあとに水が引いて、池ができたみたいだ。直径が7~8mくらいで、深さは2~30cmくらいだった。

Tm1
それで、ナニゲに覗いたら、何やらチョロチョロと泳いでる。よく見ると、何かの稚魚だった。2cmくらいの稚魚が、数十匹、群になって泳いでた。きっと、多摩川が増水した時に、どこかに産みつけられてた卵がこの池まで流されて来て、ここで孵化しちゃったんだろう。そして、天敵がいないもんだから、1匹も欠けずに育っちゃったんだろう。でも、この池はそのうち干上がっちゃうだろうから、もう一度、増水でもしない限り、いつかは全滅しちゃうよね。

そんなことよりも、ハヤとかなら4月から5月にかけて孵化して、今の時期にはもっと大きくなってるハズだ。だから、今の時期に「2cmくらいの稚魚」ってことは、秋に産卵するアユの可能性が高い‥‥ってことは、コイツラを網ですくって、家の水槽で飼って大きくすれば、アユの塩焼きが食べ放題じゃん!‥‥なんてことも思いつつ、あたしは、この池に「きっこ池」って名前をつけて、そのままアトにした。自然のことは自然に任せるしかないからだ。


 颱風の名残りの池を愛でにけり  きっこ


Tm2
それから、あたしは、石を拾うことにした。多摩川の河原には、「チャート」っていう堆積岩がいっぱいあって、キレイなものが多い。白や黒、赤や緑、アズキ色のもあるし、模様はシマシマが基本だけど、複雑なひび割れ模様とか、独特な味わいがある。「チャート」は、海中のプランクトンの死骸が海底に堆積して、気が遠くなるほどの月日を経て、石塚英彦‥‥じゃなくて、石英になったものだ。だから、不思議な透明感があって、ずっと眺めてても飽きない。あたしは、河原に来るたびに、気に入った石を1個拾って帰って、水槽の中にポチャンと入れてる。

多摩川の源流域には、南に「四万十帯(しまんとたい)」、北に「秩父帯(ちちぶたい)」っていう地層がある。四万十帯は、1億4000年以上前の白亜紀の地層で、秩父帯は、1億5000年以上前のジュラ紀の地層だ。そして、あたしが拾ってる「チャート」は、この地層から流れて来たものなのだ。つまり、これらの時代には、あたしが住んでる世田谷区は当然として、ニポン列島自体が存在してなくて、この辺はみんな海だったのだ。そして、アジア大陸のフチで起こったプレートの地滑りとか、海底隆起とか、壮大なドラマがいろいろとあって、今のニポン列島の原型ができたってワケだ。だから、今、あたしが、多摩川の中流域の河原で、上流域から流れて来た石を拾ってるのに、その石は「海の底で作られた石」ってワケなのだ。

サスガ、NHKの「高校講座・地学」を何度も観てる上に、伊藤孝先生の弟子を自称してるあたしだけあって、もうじき平野麻樹子ちゃんに追いつきそうな感じだけど、何でもないような河原の石なのに、これが「1億5000年も前の恐竜がいたジュラ紀に、まだニポン列島がなかった時代に、深い海の底にプランクトンの死骸が積もってできた石だ」って思って拾うと、ぜんぜん思い入れが違って来る。手のひらの上の3cmほどの小さな石を見てるだけで、半透明な緑色の部分の奥に、不思議な世界が見えて来る。


 白亜紀の小石を拾ふ四温かな  きっこ

 もみづるやジュラ紀の小石ポケットに きっこ


で、「あれもステキ♪」「これもステキ♪」なんて思いつつ、夢中になって「チャート」を拾ってたら、ハッと気づいた時には、ものすごい量になってた。50個くらい拾っちゃってて、ものすごい重さになってたから、結局、すごく悩みながら選別して、10個だけ持って帰って来た。何かのコンテストとかに俳句を10句提出する時って、だいたい50句から100句くらい詠んで、その中から選りすぐりのものを10句出すんだけど、石を拾うのもおんなじだってことに気づいた。際限なく拾ってると、大して良くない石まで拾っちゃうけど、数を決めて拾えば、いいと思った中でも、さらにいいものだけを残すことになるから、谷村新司に耳元でエロい声で「You are King of Kings」って囁かれちゃうような顔ぶれの石が揃うってワケだ。

だから、この「たくさん拾って大部分を捨てる」っていう、俳句的には、波多野爽波の「俳句スポーツ説」に代表される「多作多捨」を取り入れて河原の石を集めて行けば、いつかは、「無能の人」の竹中直人演じる助川みたいに、「多摩川の河原で拾った石を多摩川の河原で売る」っていう究極の地産地商で生活してくことも可能になる‥‥ワケないか(笑)

‥‥そんなワケで、ホンの2時間ばかりの冒険で、1円もお金を使わずに心身ともにリフレッシュできたあたしだけど、今回、気づいたことは、この「石の拾い方」だけじゃない。人間て、やっぱり「世の中で人間が一番偉い」とか「世の中は人間が中心だ」とかって思ってるからなのか、他の生き物の立場になって考えることがないように思う。他の生き物の立場に立ってみるっていう想像力が欠落してるように思う‥‥ってことに気づいた。だって、もしもあたしがお花に生まれ変わるとしたら、農薬だらけの畑で人間に栽培されて、全身に殺虫剤をかけられて、ハサミで切られて出荷されて、栄養剤を入れたお水に浸けられて売られる美しいバラよりも、誰にも見られない場所にヒッソリと咲く野菊になりたいと思ったからだ。これは、あたしだけが特殊なんじゃなくて、多くの人がおんなじ感覚なんじゃないかって思う。お魚にしても、犬や猫にしても、動物園にいるような動物たちにしても、クジラやイルカにしても、人間が食べるために生産してるウシやブタやニワトリにしても、どんな生き物でも、「もしも自分がその生き物に生まれ変わるとしたら」ってふうに考えたら、何が良くて何が悪いのか、おのずと見えて来るもんだと思う。そして、こうした想像力が欠落した人間ばかりだから、地球がこんなことになっちゃったんだと思う今日この頃なのだ。


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