缶詰と缶切
あたしのマンションの駐車場に来る猫たちのご飯は、缶詰よりもカリカリのほうが多い。それは、予算的な問題とか、手間の問題とか、空き缶がゴミになる問題とか、複数の理由によるものだ。だけど、やっぱり、カリカリばかりじゃかわいそうなので、2日に1回くらいは缶詰をあげてる。月曜日の朝はカリカリ、夜もカリカリ、火曜日の朝もカリカリ、そして夜が缶詰‥‥って感じだ。もちろん、これは、だいたいの感じだから、場合によってはカリカリが何日も続く時もあるし、2日続けて夜が缶詰の時もある。で、中には缶詰よりもカリカリのほうが好きな子もいるんだけど、ほとんどの子は缶詰のほうが好きだ。そして、猫たちだけじゃなくて、あたしも缶詰のほうが好きなのだ。
カリカリの場合は、袋を開けて器に出すだけだから、アッと言う間に用意ができる。あたしの車のボンネットの上に、猫たちの器を並べて、そこにカリカリを出してって、車の周りに等間隔に並べてく。あちこちから集まって来てた猫たちは、思い思いの器から食べ始める‥‥って形だ。だけど、缶詰の場合は、車のボンネットの上に置いて缶切で開けるのは、ボンネットに傷がつきそうでイヤなので、しゃがんで、自分のヒザの上で開けるようにしてる。そうすると、あたしの姿勢の違いとかで、猫たちも「今日は缶詰だ!」って分かるから、あたしの周りに群がって来る。そして、「早くちょうだ~い!」って感じで、せかして来る。
でも、1缶ごとに器に出してくと、それを奪い合うことになっちゃうから、4匹の時には4缶、5匹の時には5缶って、猫の数だけ缶を開けて、それを器に出して、全員のぶんをいっぺんにあげないといけない。それで、あたしがモタモタと缶詰を開けてると、猫たちが鳴きながらあたしのまわりをゆっくりと回り始める。それが、普通にニャーニャー鳴くんじゃなくて、あたしのゴキゲンをうかがうように、甘えるように、「ニャア?」とか、「ホニャ?」とか、ナニゲに疑問形で鳴きながら回るのだ。これがもう、可愛いの可愛くないのって、どっちなんだい?‥‥って感じの今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、缶詰が嬉しくてあたしのまわりを回る猫たちが可愛くてジンジャエールなんだけど、2匹とか3匹の時は、思ったよりも早く缶詰が開いちゃうから、猫たちが回り出す前に用意ができちゃう。猫たちが缶詰を食べたくてガマンできなくなるのは、だいたい4缶目を開けてるくらいのとこからなのだ。ようするに、3缶目くらいまでは、まだ、それぞれが好き勝手にしてて、あたしの靴の匂いをかいだり、隣りの猫の肛門の匂いをかいだり、自分の体をなめたりしつつ、チラチラとあたしの様子をうかがってるって感じで、4缶目を開け始めるころから、だんだんにガマンできなくなって、変な疑問形の鳴き方をしながら、あたしのまわりを回り始めるのだ。
時間にすると、1分まではガマンできるけど1分半を過ぎるとガマンできないとか、たぶん、それくらいの感じなんだと思うけど、猫的に「目の前の大好物をガマンできる限界」が、この辺のラインなのかもしれない。だから、あたしは、別にジラしてるワケじゃないんだけど、猫の数が少ない日には、ワザとゆっくりと缶詰を開けて、猫たちが回り出すのを待ってから、ご飯をあげるようにしてる。だって、猫たちが回り始めると、何だか、あたしをイスにして、イス取りゲームをしてるみたいで、ホントに可愛いんだもん。
で、先月お誕生日を迎えたあたしは、読者の皆さんからたくさんのプレゼントを送っていただき、感謝感激アメトーークって感じなんだけど、その中に、いろいろな食糧の詰め合わせを送ってくださった人がいた。それで、すごくアリガタイザーだったんだけど、その中に、猫たちへのプレゼントとして、缶詰も入ってたのだ。それも、「きっこの日記」をよく読んでくれてる人で、あたしがマグロのキャットフードを与えないようにしてることをちゃんと把握してて、ぜんぶカツオの缶詰だった。それも、いつもあたしが買って来るのよりも高級なヤツで、あたしの行く量販店だと、3個パックが250円前後のヤツだった。あたしがいつも買ってるのは、4個パックで200円以下のだから、1個あたりの値段にすると、1.5倍も高級だ。
それで、ここんとこ寒くなって来たし、猫たちにも栄養をつけてもらおうと思って、数日前の夜、そのいただいた缶詰をあげることにした。それで、3個パックを2つ持って、駐車場へ降りて行った。そしたら、目ざといマイケルはすぐに缶詰だってことが分かったみたいで、ソッコーであたしの足元にまつわりついて来たし、他の子たちも、カリカリの時とは違ったソワソワ感を漂わせ始めた。それで、あたしは、今日も素晴らしい猫回転を楽しもうと思ったのもトコノマ、ナナナナナント! その缶詰は「パッ缶」だったのだ!
サスガ、高級な缶詰だけのことはある。缶切を使わなくても開けられるなんて、ものすごく便利なんだけど、一瞬で開いちゃうから、あたしが楽しみにしてた猫回転を見ることができない。それで、あたしのとった行動はって言うと、待ってる猫たちにはかわいそうだったんだけど、「缶詰を缶切で開けてるフリ」っていう荒ワザだった。パッ缶なのに、上の部分を愛用の缶切で開けてるフリをして、リアリティーを出すために、ちょっと叩いて金属音を出してみたりもした。そして、普通の缶詰を1個開けるのとおんなじくらいの時間をかけてから、最後にパッ缶を開けて、次の缶詰へと進む。
そして、これを繰り返してたら、あたしの作戦はマンマと成功して、4個目の缶詰を手にしたあたりから、待ちきれなくなった猫たちが、「ニャア?」とか、「ホニャ?」とか、疑問形で鳴き始めて、あたしのまわりをグルグルと回り始めた。やったぜ!舞の海も顔負けの「猫だまし」(笑)‥‥ってワケで、初めて口にした高級な缶詰は、よっぽど美味しかったのか、ジジともんじゃは「ウニャ食い」をしてた。「ウニャウニャ」と鳴きながら食べるアレだ。
‥‥そんなワケで、昔は、缶詰を開けるには缶切が必要不可欠だったけど、今は、人間用の缶詰はほとんどがパッ缶になった。缶切が必要なのは、中国やシンガポールを始めとした外国から輸入されてるホワイトアスパラとかフルーツとかの缶詰くらいで、ニポンの缶詰はほとんどがパッ缶になった。まあ、これも時代の流れなんだろうけど、あたしは、缶詰は缶切で開けるほうが好きだ。だって、缶切で缶詰を開けるっていう過程こそが、「これから缶詰を食べるんだ」っていうワクワク感を増幅してくための大切な儀式だからだ。
自分でコーヒーをいれて飲む場合、インスタントコーヒーよりもドリップでいれたほうが美味しく感じるのは、もちろん、挽いてある豆からいれたほうが香りとかがいいのは事実だけど、あたしは、それだけじゃないと思ってる。例の逆三角のアレにペーパーをセットして、計量スプーンでコーヒーを入れて、沸かしたお湯を最初はちょっとだけ入れて、コーヒーを蒸すような感じにして、それから回すようにお湯を入れて‥‥っていう過程によって、「これからコーヒーを飲めるんだ」っていうワクワク感が高まって来る。そして、このワクワク感が、実際よりも何%かコーヒーの味を美味しくしてくれるんだと思ってる。それに、何だか、理科の実験をしてるみたいで楽しいし(笑)
一瞬で開く缶詰って、確かに便利だ。そして、缶切で開ける缶詰もパッ缶も、缶の中身は一緒なんだから、インスタントコーヒーと豆からいれるコーヒーの違いみたいな根本的な味の違いはない。単に、パッケージのタイプが進化したってだけで、中身の美味しさに変わりはない。だけど、あたしにとっては、缶切で缶詰をコキコキコキって開けてく過程が好きだから、せっかくの楽しみを奪われちゃったみたいで、リトル寂しい気分になる。
だから、あたしは、缶切がないと開けられない缶詰でも、ペンチみたいになってて、缶詰のフチの部分をバチッとはさんで、横のハンドルみたいなのを回してくと、半自動的みたいにスルスルと開いてく缶切も嫌いだ。最初に使った時は「おおっ!」って感動したけど、何度も使ってるうちに、だんだんにつまらなくなって来た。アレを使うと、どうしても「缶詰を開けてる」っていう実感が湧かないのと、フタの周りがギザギザにならないから、味わいを感じられないのだ。缶切は、やっぱり、コキコキコキって開けてくのが王道だと思う。そこで、唐突だけど、こんな俳句を紹介しよう。
鳥渡るこきこきこきと缶切れば 秋元不死男
秋元不死男は、俳句をやってる人なら知らない人はいない著名俳人で、この句は、その不死男の代表句の1つだ。で、今、初めてこの句を読んだ人は、「自分は缶詰を開けてて、空には鳥が飛んでる」っていう文字の上の景しか読み取ることができないと思う。だけど、この句の詠まれた時代背景や、不死男自身の背景を知れば、この17音の向こう側の世界が見えて来る。
詳しくは、2005年8月18日の日記、「京大俳句事件」を読んでもらうとして、ここでは簡単に説明しとくけど、戦前の不死男の時代のニポンは、例のトンデモ幕僚長やアベシンゾーとかのクルクルパーどもが理想とするキチガイ国家だった。だから、純粋に俳句という文芸の可能性を模索してた数多くの俳人たちが、何ひとつ政治的な運動なんかしてないのに、「危険思想の持ち主だ!」って決めつけられて、特高警察に逮捕されて、拷問を受けたり長期勾留をされたりした。
俳句が大好きで、仲間たちと俳句雑誌を作ってた不死男も、何もしてないのに、治安維持法違反で逮捕されて、連日、拷問を受けた挙句に、2年間もノミとシラミだらけの牢屋に入れられた。とにかく、当時の特高警察は、現代のヤクザよりも酷かった。たとえば、不死男の句で「冬空をふりかぶり鉄を打つ男」って作品があるんだけど、いったい、この句のどこに問題があるって言うんだろう?‥‥って、普通は誰でもそう思うだろう。だけど、頭の狂った特高警察は、この句に対して、「鉄と言うのは資本主義のことで、プロレタリアがそれを叩き潰すと言う意味なんだろう?」って言いがかりをつけて、不死男のことを何日も何日も拷問したのだ。
敗戦によって、不死男はようやく自由の身になれたけど、危険思想の持ち主として2年も投獄された前科が、その後の不死男についてまわる。「言論の自由」などミジンもなかった時代に、国の暴力によって受けた冤罪は、決して晴らすことはできなかったのだ。世間からは前科者の犯罪者として見られ、周りは焼け野原で、食べる物もない。ロクに食べ物もない時代だったから、このころの缶詰ってのは、ものすごい貴重品だった。だから、たとえ缶詰を持ってても、多くの人たちは、すぐには食べなかった。ホントに困った時のために、大切に大切にとっておいた。
そして、不死男も、大切にとっておいた缶詰をいよいよ開ける時が来た。やっと食べられるという喜びと、これを食べたら次に何か食べられるのはいつになるか分からないという不安。でも、ずっととっておいた缶詰に、缶切の爪が最初に食い込んだ瞬間は、至福の喜びを感じたに違いない。そして、コキコキコキと切り進めて行くうちに、ふと空を見ると、渡り鳥の群れが飛んでいた。この時の不死男の目には、自由に空を渡る鳥たちの姿がどんなふうに映ったんだろう。
鳥渡るこきこきこきと缶切れば 不死男
こうした背景を知ってから読むと、この句の17音の向こう側の世界が垣間見えて来たと思う。あたしは、ずっと言い続けてるように、俳句は17音のみを鑑賞するもので、誰の作品だとか、その句の詠まれた背景だとかは関係ない。だけど、この句のように、あまりにも現代とはかけ離れた時代に詠まれた作品の場合には、ある程度の背景を知らないと、句意が正確に伝わらないのだ。「言論の自由」などミジンもなかった時代に、国の暴力によって言われなき冤罪を受け、2年も投獄されたこと。そして、たった1つの缶詰が、ものすごく貴重な時代だったこと。この2点は、この句を鑑賞する上で、最低限、知っておかなきゃならない予備知識なのだ。
‥‥そんなワケで、ずいぶん遠まわりをしちゃったけど、あたしが缶詰を缶切で開けるのが好きなのは、それも、今どきのスピーディーな缶切じゃなくて、昔からある原始的な缶切で開けるのが好きなのは、コキコキコキって開けてく過程に、いろんな物語が見えて来るからだ。時間にしたら、わずか15秒か20秒くらいのことなのに、そこには、喜びも、悲しみも、幸せも、切なさも、無限の世界がある。たとえば、大好きなシャケ缶を開ける時には、サバの水煮よりもワクワク感が何倍もアップして、コキコキコキって音が、北海道の海でシャケを獲るアイヌの人たちの舟を漕ぐ音みたいに聞こえて来る。だから、あたしは、人間用の缶詰のほとんどが缶切不要のパッ缶になっちゃった今、猫たちの缶詰を開けることが、日常の中の小さな楽しみの1つなのだ。そして、缶詰を開けるコキコキコキって音に合わせて、猫たちがあたしのまわりをグルグルと回り出してくれると、まるで魔法使いにでもなれたようにウキウキとしてきちゃう今日この頃なのだ。
缶切れば猫あつまり来冬の月 きっこ
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