電脳コイル
11月の終わりのこと、あるポータルサイトの無料アニメの宣伝が目に入った。よくあるパターンの「今なら第1話だけ無料で見られます」ってヤツだ。それで、1話を観てみて、面白いと感じて、続きを観たければ1話いくらでお金を払ってくれってヤツだ。それで、この時は3作くらいのアニメがあったと思ったんだけど、あたしは、その中で「電脳コイル」ってアニメが面白そうだと思って、ナニゲに観てみた。
そしたら、これがすごく不思議な感覚のアニメで、サツキとメイと真っ黒クロスケみたいなのも出て来たし、すごくイイトコで終わってて、どうしても続きを観たくなった。それで、こんなこと書くのは気が引けるんだけど、お金がないあたしは、いつものパターンで、タダでアニメが観られる例の場所にアクセスして、検索してみたら、ドドッと全26話が並んでたので、2話以降を観始めた。
このアニメは、去年、NHKの教育テレビで放送されて、今年の頭にも再放送されたらしいんだけど、あたしはぜんぜん知らなくて、タイトルすら聞いたことがなかった。だけど、2話、3話と観て行ったら、あまりにも面白くて、どんどん引き込まれて行った。設定もストーリーも徹底的にディープに練られてるし、とてもアニメとは思えないほどの驚くべき水準の高さで、このアニメを作った人は天才だと思った。
それで、2~3日で10話くらいまで観たとこで、今年の「日本SF大賞」が発表されたっていうニュースを見たら、ナナナナナント! 今、まさに、あたしが夢中になって観てる「電脳コイル」が、大賞を受賞してたのだ! 「日本SF大賞」は、石川喬司先生が、星新一さんや小松左京さんたちと立ち上げた「日本SF作家クラブ」が創設した賞で、SF作品であれば、小説、映画、マンガ、アニメなど、ジャンルにとらわれずに選考の対象となる。そして、第29回の今年は、貴志祐介さんの「新世界より」(講談社)と、磯光雄監督のアニメ、「電脳コイル」が大賞を受賞した今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、この「日本SF大賞」では、過去に、マンガなら大友克洋さんの「童夢」や萩尾望都さんの「バルバラ異界」など、アニメなら庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」や押井守監督の「イノセンス」なども受賞してるんだけど、やっぱり群を抜いて多いのは、小説を始めとした活字作品だ。だから、毎年、数えきれないほどのマンガやアニメが発表されてることを考えると、こうしたアニメ作品、それも、映画じゃなくてテレビで放送されたアニメ作品が受賞するのは、すごくマレなことで、それほど素晴らしい作品だったってことになる。
あたし自身、途中までは夢中になって観てた「電脳コイル」だけど、20話を過ぎたあたりからは、終わっちゃうのがもったいなくて、1日に1話ずつ大切に観た。それで、約2週間くらいかけて全26話を観たんだけど、ヒトコトで言えば、「他に類を見ないほど完璧な素晴らしいアニメ」だった。ストーリーの面白さは当然として、そのストーリーが、徹底的に練られた緻密な設定に裏打ちされてるから、ツジツマの合わない部分がミジンもなくて、常にムリのない合理性が一貫してる。
往々にしてマンガやアニメに多い「マンガなんだから少々乱暴なことをしてもいいや」っていう雑な部分、たとえば、広げた伏線が戻って来ないで尻切れトンボになってたり、主人公のものすごい必殺ワザで大逆転‥‥みたいな、子供だましの部分が皆無だった。だから、頭のどこかで「どうせこれはアニメなんだから」「どうせこれはSFなんだから」っていう「冷めた部分」を持たずに、全身で楽しむことができた。
そして、あたしが何よりも感動したのが、こうした方向性のアニメにはほとんど期待できない「純粋な子供の目線」が明確にされてたことだ。それも「小学6年生」っていうタイトな設定の世界観が明確にされてたから、小学5年生とも中学1年生とも違うビミョ~な子供たちの感性がキラキラしてる。たとえば、主人公のヤサコは、男の子を好きになり始める年ごろで、そうしたことには敏感なんだけど、友達のフミエは鈍感だ。だから、ダイチが自分に対して行なう意地悪に対して、フミエは本気で怒って反撃する。そして、それを見て、「あなたたちはお似合いよ」なんて言ってクスッと笑うヤサコと、その言葉の意味が分からないフミエ。こうした部分に、同い年でも1人1人の成長度合の違う小学6年生が、すごく丁寧に描かれてた。
あたしたち大人が、たとえば「ちびまる子ちゃん」や「ドラえもん」を観る時って、やっぱり「大人の目線」で観ちゃう。それは、これらの作品が、大人の目線で作られてるからだ。だから、まる子やのび太がお母さんに怒られるのを見て、「しょうがないわね~」なんて思っちゃうのは、無意識のうちに、まる子やのび太は子供だけど、観てる自分は大人っていう線を引いちゃってるからだ。
これは、宮崎駿監督の作品にも言えることで、どれも素晴らしい作品だけど、「となりのトトロ」のサツキとメイにしても、「魔女の宅急便」のキキにしても、「千と千尋の神隠し」の千尋にしても、「大人の目線で見た子供の姿」でしかない。だから、映画の世界に入り込んで楽しむことはできるんだけど、登場する子供の背丈になって、子供の目線になって楽しむことはできない。ようするに、「ちびまる子ちゃん」にしても「ドラえもん」にしても「となりのトトロ」にしても、観るほうの自分も子供なら何も問題はないんだけど、大人になった自分が観ると、どうしても、心のどこかに線を引いて、大人の目線で観ることになっちゃうのだ。それは、これらのアニメが、大人の目線で作られてる作品だからだ。
だけど、「電脳コイル」は違った。あたしは、自分が小学6年生になって、ヤサコやイサコたちと一緒に、ハラハラしたり、ドキドキしたり、ワクワクしたり、胸が熱くなったり、涙を流したりすることができた。お父さんやお母さん、学校の先生などを「自分よりもずっと年上の大人」として見ることができたし、ヤサコの妹のキョウコや、フミエの弟の4年生のアキラを「年下の子」って見ることができた。それは、メガばあなどの一部の大人を覗いて、すべてが「子供だけの世界」として、大人の世界とは切り離されて描かれてたからだ。
そして、随所に散りばめられてる「神社」や「夏祭り」のシーンが、あたしの意識を子供のころへと引き戻す。鼻の奥がツンとして来て、懐かしさと切なさが入り混じった例の感覚に包まれた。そして、20年以上も忘れてた、小学生の時の自分の淡い恋心を思い出して、胸の奥がジーンとした。
‥‥そんなワケで、この「電脳コイル」は、SF作品としてものすごく面白い上に、こうした世界観を楽しむこともできて、それは、本線のストーリーからは外れた「息抜き的」な回が織り込まれてることにも起因してる。そして、子供たちのケータイの普及が問題視されてる今年の社会を予測したかのようなテーマもタイムリーだし、すべてにおいて完璧な作品だと思った。そして、観てて何よりもストレスにならなかったのが、説明がなくても複雑な世界を自然に理解して行けるように、巧みに情報を小出しにしてくれてるとこだった。1話だけを観ると、意味が分からないことや分かりにくいことが何点かあるんだけど、2話、3話と観てくうちに、自然と理解できるように組み立てられてるのだ。
SFの場合、あまりにも複雑で現実離れした設定にしちゃったために、ところどころに長々と説明のナレーションが入ったり、登場人物のセリフがわざとらしい説明調だったりすることが多々あるけど、ああいうのって、ものすごくストレスになる。ほとんどのセリフが「状況を説明するためのセリフ」になっちゃってる「ゲド戦記」なんかが最悪の例で、あれじゃあアニメにした意味がない。
だからって、逆に何の説明もなく、謎は謎のまま、ツジツマの合わない部分もそのまま、すべて観る者に丸投げしちゃったみたいな作品にも閉口する。たとえば、「新世紀エヴァンゲリオン」の場合なんかは、熱狂的なファンとかなら、ああした丸投げに対しても、好意的に読み取ってあげようっていう姿勢で臨むことができるだろう。だけど、あたしみたく、普通にアニメを楽しみたい普通の人間には、説明不足の丸投げはあまりにも不親切だ。最終回が近づくにつれて、今までバラバラになってた伏線が1本の太い道へと集まって来て、普通に謎が解けて、普通に使徒の親玉が登場して、普通にエヴァンゲリオンが戦って、普通に倒してもらいたい。そして、普通にスッキリさせて欲しい。
ようするに、マニアでもヲタクでもない普通の人間であるあたしは、クドクドした説明も嫌いだし、不親切な説明不足も嫌いだってことだ。そして、そうしたことがものすごいストレスになる。だから、複雑な世界なのに、1話、2話、3話と観てるうちに、自然とすべてを理解して行けるように作られてた「電脳コイル」は、まったくストレスを感じることなく、純粋に「作品そのもの」の世界を楽しむことができた。
‥‥そんなワケで、あたしは、ニポン的な「郷愁」も、異国情緒のある「ノスタルジー」も好きなんだけど、もっと好きなのが、自分自身の子供のころや思春期のころの忘れかけてた感覚を思い出すことだ。小学4年生の時にこんなことがあった、中学2年生の時にあんなことがあった‥‥っていうことだけなら、当時の写真や作文としての「記録」も残ってるし、頭の中にも「記憶」されてるから、その出来事自体はいつでも思い出すことができる。だけど、その時に感じた「ほのかな思い」や「切ない胸の痛み」などの言葉にできない「感覚」は、時が経つにつれて薄れてく。こうした感覚は、写真や作文に記録することはできないから、自分が思い出せなくなったら、もう終わりになる。
たとえば、小学6年生の時に、クラスの男の子に対して持ってた「ほのかな思い」、これにしたって、その時の「切ない胸の痛み」を思い出すことができなくなったら、味のしなくなったガムとおんなじで、もう終わりなのだ。卒業アルバムを見れば、その子の写真も載ってるし、もちろん名前も覚えてる。どんな会話をしたのか、どんなことがあったのかも、断片的になら覚えてる。だけど、そうした「記録」や「記憶」ってものは、その時に感じた「感覚」をともなってこそ意味があるワケだし、さらに言えば、「記録」や「記憶」なんてものは、その時の「感覚」を思い出すための小道具にしか過ぎないのだ。
どんなに「記録」や「記憶」が残ってたとしても、その時に感じた喜びや悲しみ、感動や興奮、切なさや胸の痛みなどの「感覚」を思い出すことができなくなったら、それはもう自分の思い出じゃなくなる。その出来事を思い出してみたって、まるで誰かの思い出話を聞かされてるようなもので、自分の中では終わってるのだ。味のしなくなったガムを噛み続けるほど、無意味で虚しいことはない。
だから、あたしは、自分自身の子供のころや思春期のころの忘れかけてた感覚を思い出させてくれる媒体に出会うと、小説であれ、アニメであれ、どんな媒体であれ、心の底から感動する。そして、何十年も前のガムに、まだシッカリと味が残ってたことに感動する。だから、久しぶりにそのガムの味を思い出させてくれた「電脳コイル」には、本当に感動した。あたしは、宮崎駿監督のアニメはほとんど好きだし、「ちびまる子ちゃん」や「ドラえもん」から、「機動新撰組 萌えよ剣」「サクラ大戦」「サムライチャンプルー」「精霊の守り人」‥‥って、他にも好きなアニメはいっぱいあるけど、こうしたアニメとは一線を画した存在として、「電脳コイル」には別次元の魅力を感じたのだ。
これは、SFの世界で言えば、ハインラインの「夏への扉」や、石川喬司先生の「魔法つかいの夏」にも通じる感覚で、最初に読んだ中学生の時には感じなかったのに、大人になってから読み返した時にはシッカリと感じることができた。あたしの心が何かに喚起されて、子供の時の感覚が蘇って来る時の合図、鼻の奥がツンとする例の感じがして、それをキッカケに、はかなくて消えちゃいそうな当時の感覚が、まるで今起こってるかのように感じられて来るのだ。
ちなみに、この「鼻の奥がツンとする例の感じ」ってのは、小学生の時に、学校の水泳の授業で、プールの水が鼻に入ってカルキの匂いでツーンとしたことが、たぶん原因になってるんだと思う。あたしの場合、子供のころの感覚が蘇って来る時とか、意味不明の数字や映像が頭の中のスクリーンに浮かぶ時とか、パチンコで出る台が分かる時とかに、このカルキの匂いがするのだ。
これって、他の人もそうなのか、あたしだけのことなのか分からないけど、あたしって、視覚や聴覚による記憶よりも、嗅覚や味覚による記憶のほうが、子供のころのことを思い出すヒキガネになりやすいみたいだ。たとえば、子供のころに見た景色を見たり、子供のころに聴いた音楽を聴くよりも、子供のころに食べてた駄菓子の味とか、通学路の途中にあった小さな町工場のプラスティックが溶けるみたいな匂いのほうが、より鮮明に当時のことを思い出す。だから、何の根拠もない「きっこ理論」では、視覚や聴覚よりも、嗅覚や味覚のほうが、記憶中枢と密接につながってるような気がしてる。
‥‥そんなワケで、あたしは、最初に「風の谷のナウシカ」を観た時に、あまりにも感動して、アニメに対する見方が変わった。そして、次々と作られる宮崎アニメを観て来て、そのたびに驚いたり感動したりして、「アニメってすごい」って思えるようになった。だけど、ニポン中で高く評価されてて、もはや芸術の域にまで達してる宮崎アニメなのに、あたしにとっては、どうしても「何か足りない」って感じる部分があった。一時は、「ストーリーが破綻してるとこ」とか「ツジツマが合わないことを力技で強引にマトメてるとこ」なんだと思ってたんだけど、それも宮崎アニメの魅力の1つなんだし、何が足りないのか、ずっと分からなかった。だけど、今回、「電脳コイル」を観て、ようやくその謎が解けた。宮崎アニメに足りないもの‥‥って言うか、あたしが満足できなかったのは、大人の目線で子供の世界を描いてるから、あたしにとっては、味のしなくなったガムを噛まされてるような感じがしてたのだ。その点、タイトに「小学6年生」の目線で描かれてた「電脳コイル」は、観れば観るほど、噛めば噛むほど、シッカリと当時の感覚が蘇って来て、あたしは、ホントに久しぶりに、子供のころの「ほのかな思い」や「切ない胸の痛み」を思い出すことができた今日この頃なのだ。
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