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2008.12.18

温故知新のススメ

ドラクエの新作、「ドラゴンクエスト9 星空の守り人」が、来年の3月28日に発売されるそうだけど、今までに何度も発売予定時期が延期されて来たから、ゲームのことに疎いあたしでも、この「星空の守り人」っていうタイトルだけは覚えちゃった。だけど、これ、耳からじゃなくて、インターネットとかで目から覚えてたから、あたしはずっと「星空のもりびと」だと思ってた。だって、「精霊の守り人」を始めとした上橋菜穂子さんの「守り人シリーズ」だって、ぜんぶ「もりびと」って読むからだ。それに、「子守り」は「こもり」、「灯台守り」は「とうだいもり」、「桜守り」は「さくらもり」って、昔から決まってるからだ。それで、あたしは、当然のこととして「星空のもりびと」だと信じ切ってた。

それなのに、2~3週間くらい前に、ナニゲにテレビ朝日の「Sma STATION」を観てたら、小林克也さんが「星空のまもりびと」って言ったのだ。それで、あたしは、「えっ?」ってことになった。あの小林克也さんが原稿を読み間違えるワケはないから、もしかしたら、これ、「まもりびと」って読むの?‥‥ってことになった。それで、インターネットで調べてみたんだけど、発売元の「スクウェア・エニックス」のサイトにも、開発の「レベルファイブ」のサイトにも、漢字で「星空の守り人」って書いてあるだけで、読み方は書いてなかった。

そして、念のために見てみたウィキペディアには、「ほしぞらのまもりびと」って読み方が書いてあったけど、今まで何度も訴えて来たように、ウィキペディアにはデタラメが多く書き込まれてるから、書かれてることを鵜呑みにはできない。事実、ウィキペディアを参考にしてレポートを書いたら、間違いだらけで単位がとれなかったっていう学生もいる。だから、ホントに「まもりびと」って読むのが正しいかどうかは、「スクウェア・エニックス」に電話して聞いてみないと分からないんだけど、あたし的には、「ほしぞらのもりびと」にしたほうが、語呂も良くなるし、ニポン語としても正しくなるし、何よりも「9作目のドラクエ」ってことを踏まえれば、やっぱり「ほしぞらのもりびと」って9文字にしたほうがいいと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、テレビゲームの中じゃRPGが一番好きで、RPGの中じゃ「ドラクエ」が一番好きなんだけど、サスガに、15年くらい前に一度やって、スーパーファミコンのソフトを持ってる「ドラクエ5 天空の花嫁」が、ニンテンドーDSで出たからって、また新たに買ってやるほどオメデタくはない。だって、これは、15年前に「天空の花嫁」が出た時には、まだ生まれてなかったりして、このゲームをやったことのない子供たちのために発売されたものであって、前にやったことのある人がワザワザ別のハードでやり直すなんて、愚の骨頂もイイトコだからだ。

でも、懐かしいRPGをやってノスタルジーにひたりたい人もいるのかもしれないし、おんなじゲームのソフトを買い直してもビクともしないお金持ちもいるのかもしれないし、人それぞれなんだから、あたしが口を出すことじゃない。だけど、1点だけ、どうしても口を出したいことがある。それは、昔、スーパーファミコンにしろ、プレステ2にしろ、この「天空の花嫁」をやったことのある人が、今年、ニンテンドーDSのソフトを買って、またやり直したのに、昔とおんなじ相手と結婚した人たちに対する苦言だ。

皆さんご存知のように、このゲームは、「天空の花嫁」ってタイトルがついてるくらいだから、主人公の自分の性別は男で、ゲーム中に花嫁さんをもらう。花嫁候補は2人で、幼なじみのビアンカとフェミニンなフローラのどっちかを自分の好みで選ぶワケだ。あたしがやった15年前には、たしか「ファミ通」か何かに書いてあったけど、ビアンカを選んだ人が7割、フローラを選んだ人が3割くらいの感じだった。もちろん、ほとんどの人が、結婚する前のとこでセーブしといて、順番に両方と結婚してみたワケだけど、やっぱり、ずっと一緒に旅をして来て、心が通じ合ってるビアンカを選ぶ人が多いのは当然だろう。

そして、このビアンカが発展したのが、「ドラクエ8 空と海と大地と呪われし姫君」の、あたしの愛してやまないゼシカちゃんだ。気が強いのにセクシーで、走ると揺れるオッパイに目が釘づけになっちゃうし、どんなに防御力が低くなっても、どうしてもバニーガールの衣装を着せたくなっちゃうことウケアイだ。そのクセ、ゲーム後半では、「タンバリンを叩きまくらせる」っていう重要な役割があるから、絶対にパーティーから外せない‥‥って、話がダッフンしちゃったよ(笑)

で、「天空の花嫁」に戻るけど、ニンテンドーDS用のソフトは、リトル変更されてる部分があるそうで、その中の1つが、「花嫁候補が1人増えた」ってことなのだ。昔のビアンカとフローラの他に、ツンデレで黒髪のデボラってのが増えたそうだ。だから、今回初めてプレイする人は、この3人の中から好きな子を選べばいいけど、昔プレイしたことのある人は、絶対にデボラを選ぶべきなのだ。それなのに、あたしが調べた「狭い範囲の情報」によると、「昔もビアンカを選んだのに、今回もビアンカを選んだ」って人と、「昔もフローラを選んだのに、今回もフローラを選んだ」って人がすごく多かった。これじゃあ、おんなじRPGをやり直す意味がまったくない。

‥‥そんなワケで、有名な四字熟語に「温故知新」てのがある。これは、「論語」に書かれてる孔子の教えの1つで、一般的には「故きを訪ねて新しきを知る」って訳されてるけど、原文のままだと「故きを温めて新しきを知る」ってことになる。これは、中国では、肉がトロトロになるまで煮詰めることを「温」ていって、それが転じて、「ものごとをじっくりと勉強する」って意味を持つようになったからだ。つまり、直訳すると、「古いものをじっくりと勉強すれば、そこから新しいものを知ることができるよ」ってことで、このままじゃ具合が悪いから、体裁よく「故きを訪ねて新しきを知る」ってふうにマトメたってワケだ。で、もっと正確に言うと、「論語」には、こう書いてある。


「温故而知新、可以為師矣」


これは、「故きを訪ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」って意味だ。ようするに、単に「古いものをじっくりと勉強すれば、そこから新しいものを知ることができるよ」って言ってるだけじゃなくて、「そうすれば人の上に立つ立派な人になれるよ」ってオマケまでついてたってワケで、何だか得した気分だ。そして、この教えから分かることは、自国の歴史も知らない上に中学生レベルの漢字も読めないようなバカは、当然、人の上になんか立つことはできないってことだ。

ま、これは、すでに10%台にまで急落した内閣支持率が証明してるように、ニポン人の9割が気づいてることだから、ここではスルーしてくけど、せっかく、ニンテンドーDSで「天空の花嫁」をやり直して「故きを訪ねて」るのに、またおんなじビアンカと結婚しちゃって、ちっとも「新しきを知」ろうとしない人たちは、二度と戻って来ない人生の貴重の時間をムダにしてるってことになる。

たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」や「三四郎」なんかは、多くの人が中学生の時に初めて読んだと思う。そして、それぞれの人が、それぞれの感性で、いろんなものを受け取ったと思う。だけど、それは、あくまでも、人生経験の少ない中学生の時の感性だったワケだ。だから、大人になってから読み直すと、中学生の時には分からなかったものが、たくさん見えて来る。これは、夏目漱石の作品に限ったことじゃなくて、芥川龍之介でも、太宰治でも、誰の作品でもおんなじことだ。

あたしの場合、12才の時に読んだ「吾輩は猫である」と、17才の時に読んだ「吾輩は猫である」と、25才の時に読んだ「吾輩は猫である」は、それぞれが別の作品だった。12才の時には分からなかったことが17才の時には分かるようになり、17才の時には気づかなかったことが25才の時には気づけるようになったからだ。だから、あたしは、これから先も、40才の時の「吾輩は猫である」や、60才の時の「吾輩は猫である」が何を教えてくれるか、今から楽しみにしてる。これが、あたしにとっての「温故知新」だからだ。

‥‥そんなワケで、簡単に「温故知新」とか「故きを訪ねて新しきを知る」って言っても、いったい何をどうすればいいのか分からない人も多いと思う。だって、「天空の花嫁」をDSで再プレイして、またおんなじビアンカをお嫁さんにするような人だったら、昔読んだ小説を読み直したところで、決して「新しきを知る」ことなんてできないからだ。小説にしろ、マンガにしろ、ゲームにしろ、何年か経過してから読み直したり再プレイしたりするなら、以前とは違った新しい発見がなければ、それは単なる「ノスタルジーにひたる」っていう自慰行為でしかない。それはそれで否定はしないけど、新しく得るものがなければ、自分自身の成長にはつながらない。

で、正しい「温故知新」の方法として、とっても役に立つのが、松尾芭蕉の教えだ。芭蕉は、俳句の上達の方法として、こんなことを言ってる。


「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」


これなんだよね、何よりもカンジンなポイントは。最初は、当時の流行だった「俳諧」をやってた芭蕉だけど、頭の中だけで作る言葉遊びの「俳諧」に疑問を感じてた芭蕉は、500年以上も前の古人である西行に憧れて、どうしても西行の和歌の世界観を自分のものにしたかった。そして、芭蕉がどうしたのかっていうと、西行の和歌を研究したり、西行自身のことを研究したワケじゃない。芭蕉は、西行が旅をした道をたどって、「おくのほそ道」の旅へと出発したのだ。

これこそが、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」ってことで、芭蕉は、この「おくのほそ道」を始めとした数々の旅によって、西行の精神性に通じる「風雅の誠」に到達することができたのだ。芭蕉の「笈の小文(おいのこぶみ)」には、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものひとつなり」って書いてあるけど、これこそが「風雅の誠」ってワケで、芭蕉がここに到達した瞬間に、それまで言葉遊びだった「俳諧」が、高い精神性を持った芸術へと昇華したってワケだ。

‥‥そんなワケで、西行だの宗祇だの雪舟だの利休だの芭蕉だのって羅列しちゃうと、ヨケイに身がすくんじゃうかもしれないけど、ようするに、「温故知新」の「温故」ってのは、「古人のことを勉強する」ってことじゃなくて、「古人の求めたものを自分も求めてみる」ってことなのだ。もちろん、全行程が2000キロ以上もある「おくのほそ道」を当時とおんなじに歩いてたどることは厳しいけど、そこまでやらなくても、昔ヒットした本を読んでみたり、昔ヒットした映画を観てみることも、おんなじ方向性を持ってる。

たとえば、「源氏物語」なんかは、ものすごい大ヒットをした名作なんだから、「古人の求めたもの」の1つってことになる。だから、現代のあたしたちが「源氏物語」を読むことは、単に「古典を読む」ってだけじゃなくて、「古人の求めたものを読む」ってことであり、つまりは、「古人の視点に立つ」ってことになるのだ。映画にしても、次々と公開されるアメリカのバカ映画やジャニタレが出てるアホ映画なんかを観るんじゃなくて、ニポンの古き良き映画を観ることで、当時の人たちの視点に立つことができる。そうすると、現代の自分とは違ったモノの見方ができるようになり、たった1年で総理大臣のイスを丸投げするようなオトボケオヤジよりは、よっぽど自分のことを客観的に見ることができるようになる。

で、最近、あたしが観て、いろんな新しい発見があったのが、小津安二郎監督の「浮草」だ。これは、1934年に公開された「浮草物語」を1960年に小津監督自身がセルフリメイクした作品なんだけど、当時には珍しいオールカラーの作品で、映像もすごくキレイだった。ドサまわりの旅の一座、「嵐駒十郎一座」が、志摩半島の小さな島に立ち寄ったところから始まるんだけど、とにかく、あたしにとっては、あまりにも新鮮なシーンの連続だった。

座長の駒十郎は二代目中村雁治郎で、ヤタラと威張り散らすゴーマンさや、平気で女性を殴る男尊女卑っぷりや、ストリッパーのヒモの役の時の玉川良一をホーフツとさせるダメっぷりまで兼ね備えてて、いろんな意味でたまんない。そして、そんな駒十郎に惚れちゃってるのが、お色気ムンムンの京マチ子で、これまたサイコーの演技を見せてくれる。さらには、ピチピチの若尾文子もバツグンに美しいし、とてもじゃないけど、後に建築家の黒川紀章と結婚して、都知事選で恥ずかしい歌を歌うダンナを生暖かく見守るハメになるとは想像できない。

そして、何よりのポイントが、「川口探検隊」のヤラセ映像で一世を風靡した川口浩が、まだ若々しい好青年で、若尾文子とキスを連発しちゃうとこだ。その上、「小川軒」ていう床屋さんの看板娘が、後に川口浩と結婚する野添ひとみなんだから、あまりにもできすぎてる‥‥って、そんなことはいいんだけど、とにかく、「大人50円、小人20円」ていうお芝居の入場料から推測できる時代の、それも田舎の小さな島を舞台にした人間模様なのに、あまりにもたくさんの新しい発見がキラキラと輝いてた。

たとえば、この映画は、真夏の設定なので、みんな「暑い暑い」って言ってて、常にセンスやウチワでパタパタとしてる。どこにも扇風機なんかないから、そんな時代なんだろう。それなのに、昼間でも、みんな熱燗を飲んでるのだ。一番初めのシーンは、「遠くに灯台、手前にビール瓶」って絵だったから、ビールは存在してるハズなのに、どの人も、どこに行っても、飲むのは必ず熱燗のニポン酒なのだ。

俳句の季語では、「ビール」の他に、「焼酎」と「甘酒」も夏の季語になってる。これは、度数の強い焼酎には暑気払いの効果があり、熱くて甘い甘酒には夏バテ防止の効果があるからだそうだ。だけど、「熱燗」は、冬の季語になってる。あたし自身も、ニポン酒は大好きだけど、サスガに夏は「冷酒」しか飲まない。それなのに、この映画では、男も女も昼でも夜でもみんな熱燗を飲んでるのだ。それも、「暑い暑い」と言いながら、体の汗を手拭いで拭きながら、熱燗を飲んでるのだ。だから、ちゃんと調べてみたワケじゃないけど、熱燗には、もしかしたら、冬に体をポカポカと温める効果だけじゃなくて、夏には暑さをやわらげる効果があるのかもしれない。

‥‥そんなワケで、偉そうに「温故知新」なんて言っておきながら、こんな発見じゃ申し訳ないけど、これはホンの一例で、他にも、いろんな発見があった。川口浩のお母さん役の杉村春子や、ラストシーンの京マチ子からは、当時のニポン女性の素晴らしさをいっぱい感じることができたし、他にも、古い映画だからこその新しさをタップリと味わうことができた。あたしは、こういうことが、「温故知新」なんだと思う。そして、あたしとおんなじ「温故知新」を味わってみたい人は、この映画、「浮草」は、あとちょっとしか時間がないけど、21日の日曜日の正午までGyaOで無料配信してるから、お酒でも用意して、ジンワリと楽しんでみて欲しいと思う京マチ子‥‥じゃなくて、今日この頃なのだ(笑)


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「浮草」(12/21(日)正午まで )
http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0015349/

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