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2008.12.11

八文三分の定め

あたしは美女が大好きだけど、美意識は人それぞれな上に、時代によっても流行がある。すごく分かりやすいのが、平安時代と現代との違いだ。平安時代に美女とされてたのは、下ぶくれ、細い一重の目、低くて小さな鼻、薄いクチビルっていう能面みたいな顔だった。俗に「平安顔」って呼ばれてる顔立ちで、大きな目、高い鼻、ぽっちゃりしたクチビルが好まれる現代とは正反対の美意識だった。

 

だけど、この時代の女性の美しさのポイントは、ハッキリ言って、顔よりも髪だった。黒くて長くてサラサラの髪が女性の美しさの第一条件だったから、極端なことを言えば、どんなに顔が美しくても、赤っぽい髪だったり天然パーマだったりする女性は誰からも見向きもされず、逆に、顔はブサイクでも、ツヤツヤでサラサラの黒髪の女性なら、それだけでワリとモテモテだったのだ。

 

Ys6そして、それから1000年が過ぎた現代のニポンでは、ご存知の通り、大きな目の西洋風な顔立ちが美女の基準になった。もちろん、これは、世の中の流行がってことで、あたしの基準は違う。あたしが現代女性の中で一番の美女だと思ってるのは、去年、若くして亡くなった山口小夜子さんだ。あれほど美しい女性をあたしは他に知らない。で、あたしが好きな目の形は、山口小夜子さん、中森明菜ちゃん、「サクラ大戦」の神崎すみれちゃんに共通する「孤高の強さを持った冷たい目」だ。もう、想像しただけでゾクゾクしちゃう。

 

形としては、「ヤッターマン」のドロンジョ様も近いんだけど、とにかく、あたしは、今どきのヒジキの煮物みたいなマツゲで囲んだタヌキみたいな目にはまったく美しさを感じない。あくまでも、冷たくて、ひと睨みされただけで体が石化しちゃうような、オリエンタルな目に美しさを感じる。だから、自分のメークでも、マツゲは上げ過ぎないようにして、アイラインに最大の比重を置き、アイシャドウはあくまでもアイラインのフォローとしての役割でしか使ってない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、平安時代には細い目が美女の条件だったのに、いつのころから大きな目のほうが美女だとされるようになって来たのかっていうと、これが意外と古いのだ。それは、あたしの大好きな井原西鶴の「好色一代女」の中に、こんな一節があることからも分かる。

 

 

「当世顔はすこしく丸く、色は薄花桜にして、面道具(めんどうぐ)の四つ不足なく揃へて、目は細きを好まず、眉厚く、鼻の間せはしからずして次第に高く、口小さく、歯なみあらあらとして白く、耳長みあつて縁浅く、身を離れて根まで見えすき、額ぎはわざとならず自然に生えとまり、首筋たちのびて、後れなしの後髪、手の指はたよわく、長みあつて爪薄く、足は八文三分の定め、親指反つて裏すきて、胸間常の人より長く、腰しまりて肉置(ししおき)たくましからず、尻はゆたかに、物ごし衣装つきよく、姿に位そなはりて心立おとなしく、女に定まりし芸すぐれて万(よろず)に賤(いや)しからず、身に黒子(ほくろ)ひとつもなきをのぞみとあらば~」

 

 

これは、「好色一代女」の巻の一の「国主の艶妾」で、お殿様のためにセックス用の女性を探してた老人が、「この条件に合う女性を探してる」ってことの人相書きに書かれてる文章だ。つまり、これが、この時代の美女の条件てワケで、現代語に訳さなくても、ナニゲに雰囲気は分かると思う。で、これを見れば分かるように、この「好色一代女」が書かれた貞享3年(1686年)の美女の目は、「目は細きを好まず」、つまり、平安以降の「細い一重で切れ長の目」とは違うってことだ。

 

他にも、「眉厚く」ってのは、シッカリと生えた濃い眉ってことだし、「鼻の間せはしからずして次第に高く」ってのは「自然のカーブで高くなって行く鼻」ってことだし、平安時代とはずいぶん変化して来た。また、平安時代の美人画を見ると、どれも首が短めで、ワリとずんぐりとした体型のものが多いけど、この文章だと、「首筋たちのびて」とか「胸間常の人より長く」とかって、現代的なスラッとした体型に変化しつつあることが分かる。

 

だから、近代になって、西洋文化が入って来て、それで西洋風の顔立ちやスタイルの女性が美女の基準になったってことじゃなくて、300年以上も前から、ジョジョに奇妙に美女の基準が変化して来たところに、追い打ちをかけるように西洋文化が入って来た‥‥ってことなのかもしれない。

 

‥‥そんなワケで、この西鶴が掲げた320年前の美女の条件の中で、あたしが一番気になったのが、「足は八文三分の定め」って部分だ。他の項目は、すべて「理想」として書かれてるのに、この足のサイズだけは、「定め」って書かれてるからだ。つまり、他の項目がぜんぶ合格だったとしても、足が八文三分よりも大きかったら、もうその女性は美女じゃないってことになっちゃう。やっぱり、この時代までは、中国から入って来た文化が大きな影響力を持ってたから、女性は子供のころから足を布で巻いたり木靴を履かせてたりして、足が大きくならないようにする「纏足(てんそく)」っていう中国の風習が影響してたんだろうか?

 

それにしても、八文三分って、約20cmだ。今で言うと、小学2年生くらいのサイズだから、あまりにもちっちゃすぎる‥‥って思ったそこの奥さん、そんなこたーない。この時代は、男も女もみんなちっちゃかったからだ。今から300年前の江戸時代は、成人男性の平均身長が155cm、成人女性の平均身長が143cmだった。ちなみに、これは、縄文時代からほとんど変化してない。つまり、あたしたちが今の平均身長になったのは、明治、大正、昭和で急激に伸びたもので、それ以前はずっとプチサイズだったのだ。

 

だから、歴史に名を残してる将軍たちだって、みんなプチサイズだった。徳川家康は当時の平均の157cmで、背が高いって言われてた織田信長でも165cm、背が低かった豊臣秀吉なんて140cmしかなかった。でも、こんなのはまだいいほうで、「お犬様」でオナジミの徳川綱吉なんて、124cmしかなかったって説もある。サスガに、これは、当時でも異常な低さで、低身長症だったんじゃないかって言われてる。

 

これは、大樹寺に納められてる江戸幕府の歴代将軍の位牌が、それぞれの将軍の身長と同じに作られてるって説から言われてることで、複数の位牌と実際の遺骨とを照らし合わせてみても、その誤差は最大で4cmしかなかったそうだ。だから、この説が正しかったとすると、124cmしかない一番低い位牌の綱吉の身長は、高くても130cm以下だったことになる。もちろん、これは、あくまでもひとつの説であって、絶対ってことじゃない。

 

ま、徳川家の歴代の将軍の中でも、「生類憐みの令」だの「マザコン」だのっていろいろと話題を提供してくれるのが、この5代将軍の綱吉ってワケで、何よりもトンチンカンだったのが、自分の子供の「鶴姫」を溺愛するあまり、江戸の市民に「鶴」の文字を使うことを禁止した「鶴字法度の令」だ。突然、こんな法律を作られちゃったんだから、江戸の人たちはプチパニックだ。自分の名前や子供の名前に「鶴」の字を使ってた人たちは、みんな焦ってソッコーで改名だ。昨日まで「お鶴ちゃん」だった娘さんが、今日からは「お亀ちゃん」になっちゃった。もっと困ったのが、屋号に「鶴」の字を使ってた商人たちだ。看板やノレンを作り直したり、台帳やハッピも作り直したりってのも大変な手間だけど、何よりも大変だったのが、お得意さんたちに屋号の変更を通達して回らなきゃならなかったことだ。

 

そんな被害者の中の1人が、さっき、江戸時代の美女の条件を紹介した井原西鶴だ。だって、ミゴトに「鶴」の字を使っちゃってたもんね。だから、西鶴は、仕方なく「西鵬(さいほう)」ってペンネームに変更したってワケだ。だから、この迷惑千万な綱吉が今生きてたら、鶴光や鶴瓶を始めとした笑福亭一門の人たちから、片岡鶴太郎や鶴田真由に至るまで、全員そろって改名しなきゃならなかったってワケだ。こんなことなら、江戸城に住んでた「鶴姫」よりも、ハゲマス城に住んでた「つる姫」のほうが、遥かにマシじゃ~!って思っちゃう。

 

‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻り、江戸時代の身長のことだけど、このころには「身の丈が6尺の大男」なんて言い回しがあった。6尺は180cmちょいだから、現代だと「ちょっと背が高い」って程度で、決して「大男」って感じじゃない。だけど、成人男性の平均身長が155cmで、165cmの織田信長が「背が高い」って言われてた時代なんだから、そんな状況で180cmを超えてたら、ちょっとしたガリバー気分だろう。だから、当時の「身の丈が6尺の大男」ってのは、現代で言えば、2mを超えてる感じなんだと思う。

 

つーか、あたしの身長は161.5cmだから、もしもあたしが江戸時代にタイムスリップしたら、間違いなく「大女」になっちゃうよね。成人女性の平均身長が143cmなんだから、周りの女性たちはみんな子供みたいなもんだし、男性だってほとんどがあたしよりも小さいってことになる。つまり、あたしたちは、テレビの時代劇とかを観て、なんとなく江戸時代の人々の生活とかを想像してたけど、実際の江戸時代ってのは、今の小学生くらいの身長の人たちで構成されてたってことになる。だから、事実に忠実な「リアル時代劇」を制作するとしたら、女性は140cm前後、男性は160cm以下の小さな人ばかりを集めて撮影しないとなんない。

 

でも、それはそれで、それなりに馴染む感じもする。だって、所詮は庶民だからだ。江戸の城下町の商店の番頭さんとか、下町の長屋のおかみさんとかなら、身長が今よりも低くても、「ま、そんなもんか」ってふうに納得できる気がする。だけど、これが、「剣豪」って呼ばれたお侍さんだったり、ましてや将軍とかになってくると、あまりにもイメージがダッフンしちゃう。身長が152cmの剣豪とか、身長が147cmの大将軍とかって、どうもイメージが湧かない。なんか、コントみたいに思えてきちゃう。

 

Pn1だけど、現実には、そうだったんだよね。たとえば、戦国時代の騎馬戦にしても、映画なんかで観ると、現代の馬に現代の俳優が乗って演じてるから、ものすごく迫力がある。でも、実際の戦国時代の騎馬戦は、マザー牧場で子供たちを乗せてるみたいなポニーに、身長155cmくらいの人たちが乗って、それで戦ってたんだよね。これは、当時の戦場跡から発掘された馬の骨からも証明されてるけど、当時のニポンには、ニポン在来馬しかいなかったから、あたしたちが「馬」って聞いて想像する現代のサラブレッドとかよりも、ずっとちっちゃかった。サラブレッドの場合は、肩までの高さが160~170cmくらいあるんだけど、当時の馬は、肩までの高さが140~150cmで、全体的な大きさとしては、今の馬よりも2まわりくらいちっちゃい感じだった。

 

もちろん、現代人がポニーに乗って戦ったらギャグになっちゃうけど、馬も人もおんなじくらいの比率でちっちゃかったんだから、全体的なバランスとしてはおかしくなかったんだと思う。だけど、人と馬との比率はおかしくなくても、いかにも速そうなサラブレッドの体型と比べて、首も足も太くて短いポニーだと、見た目、ナニゲに違和感がありそうな気もする。だから、映画とかで迫力のある戦国時代の騎馬戦を観てるあたしたちが、馬も人もちっちゃかった実際の戦いを見たら、あまりのイメージの違いに、ある意味、ヒザカックンを食らっちゃうかもしれない。

 

‥‥そんなワケで、こうしたことを踏まえると‥‥って、踏まえようもないかもしれないけど、当時の美女の条件の中に「足は八文三分の定め」ってのが含まれてても、まあ納得できる。だって、女性の平均身長が143cmなら、足のサイズだってそれに合わせて小さくなるワケで、20cmでもおかしくない。ただ、あたしがイメージしてた「源氏物語」の愛欲にまみれた世界も、「大奥」の静かに燃え上がる世界も、「吉原」の妖艶な世界も、すべては小学生みたいな身長の女性たちが繰り広げてたのかと思うと、なんだか学芸会みたいに思えてきちゃう。「戦国時代」から「吉原」に至るまで、映画の世界のほうがリアリティーがあって、現実の世界のほうは学芸会みたいだったなんて、なんだかとっても複雑な気分の今日この頃なのだ。

 

 

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