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2009.01.17

チンコ切り

(前略)すると藤木さんは言った。

「チョン髷(まげ)に結っておくれ。」

あたしは前かけをとって、彼の頭にチョン髷を結びつけた。小僧さんのする盲目縞(めくらじま)の真黒な前かけでもあることか、紫地に桜の花がらんまんと咲いて、裏には紅絹(もみ)のついているちりめんのチョン髷、しかも額に緋ぢりめんの紐の結び目が瘤のように乗っかっている。それで平気で煙草を吹かしている。その背中が真ん丸いので、あたしは拳骨(げんこ)でコツコツ叩いた。

「痛いよ、痛いよ。」

「でも猫のようだから。」

「ニャアン、鍋島の猫だよ、化猫だよ。ゴロニャーン。」

彼はフーッといって、背中を見る見る盛上げた。
それは全く奇怪な存在だった。アンポンタンはおしっこが出るほど吃驚(びっくり)して、火鉢の縁を握ったまま、首をすくめて中腰になった彼を見詰めた。(後略)


‥‥ってなワケで、唐突にスタートしちゃったけど、これは、あたしの大好きな女流作家、長谷川時雨の大傑作、「旧聞日本橋」の中の「朝散太夫(ちょうさんだいぶ)の末裔」の一節だ‥‥って言っても、知らない人にはチンプンカンプンだと思うから、簡単に説明すると、この「旧聞日本橋」って作品は、明治12年(1879年)生まれの長谷川時雨が、自分が子供のころの「江戸の風情が残ってたころの明治初期の思い出」を綴った回想録みたいな本で、すべて実話だからメチャクチャに面白い。

で、その中でも面白いのが、この「藤木さん」ていうおじさんで、これは、幼い時雨を相手に「髪結いさんごっこ」をした時のやりとりだ。時雨が、前かけを丸めて藤木さんの頭に乗せてチョンマゲにしてるワケで、今から80年近くも前の昭和初期の「女人藝術」に連載してた作品なのに、「あたし」ってとことか、「アンポンタンはおしっこが出るほど吃驚して」ってとことか、他にもたくさん「きっこ風味」な部分が満載な今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、この長谷川時雨の「旧聞日本橋」は、全編を「青空文庫」で読むことができるので、痒いとこに猫の手が届く「きっこの日記」としては最後にちゃんとリンクしとくけど、これ、内容の面白さもさることながら、文体の楽しさがサイコーなのだ。夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」は、もちろん創作だけど、この「旧聞日本橋」は、ドキュメンタリー版の「吾輩は猫である」って感じなのだ。あたしは、長谷川時雨が大好きなので、他の作品もぜんぶ何度も読んでるけど、とりわけ好きなのが、この「旧聞日本橋」だ。

長谷川時雨は、本名が「康子ちゃん」て言うんだけど、マクラで挙げた一節にもあるように、子供のころは「アンポンタン」なんていう名誉なアダ名で呼ばれてた。それにしても、今から80年近くも前に「アンポンタンはおしっこが出るほど吃驚して」なんて書かれちゃうと、サスガのあたしもビックル一気飲みでオシッコが漏れそうになっちゃう(笑)

で、この「旧聞日本橋」に登場する「実在した面白い人たち」の中で、この「藤木さん」ておじさんが一番の変わり者なんだけど、このおじさん、とにかく運が悪い。「ちびまる子ちゃん」の例もあるけど、「藤木」って名前の人は不運な人が多いのか? ハタマタ、「ちびまる子ちゃん」に出て来る藤木くんは、この藤木さんの子孫なのだろうか?‥‥ってなワケで、この藤木さんがどれほど不運なのかってことは、次の一節を読めば分かるだろう。


(前略)その頃藤木さんは、災難つづきで極度な落目だった。下谷青石横町の露路裏のドンヅマリの、塵埃(ごみ)すて場の前にいたが、隣家の女髪結さんから夜中火事を出して、髪結さんは荷物を運び出してしまってから騒ぎだした。一ツ棟だ、かえって火元よりは火廻りの早かった藤木の方が何もかも丸焼けで、垣根を破って隣裏へ逃出し一家命だけは無事だった。で、神田白銀町の煙草問屋へチンコッきりに通うようになった。あたしたちが牢屋の原とよぶ、以前の伝馬町大牢のあった後の町から、夕方になると、蝙蝠(こうもり)におくられて、日和下駄をならして弁当箱をさげて、宿り番に通って来てくれたのだった。(後略)


ようするに、長屋の隣りの髪結いの女が夜中に火事を出しちゃって、そのセイで藤木さんちも全焼しちゃったってワケだ。それも、火事を出した髪結いの女は、とにかく自分の荷物を真っ先に外に運び出して、それから初めて「火事だ~!」って騒いだもんだから、藤木さんがその声で目を覚ました時には、すでに火の海で、命からがら逃げ出すのが精一杯だったワケだ。だから、藤木さんの家財道具はみんな焼けちゃって、火元の女よりも藤木さんのほうが被害を受けたってワケだ。

それにしても、この一節を見ても分かるように、「ドンヅマリ」ってカタカナで書くとことか、「で、神田白銀町の煙草問屋へ~」の「で、」とか、ホントに「きっこ文体」に似てる‥‥って言うか、あたしのほうが「時雨文体」に似てるってことなんだけど、長谷川時雨の文章は、他にも似てるポイントがいっぱいあって、とても他人とは思えない。あたしの場合は、文章を読むのが苦手な人たちが、少しでもスラスラと読めるようにと思って工夫してるんだけど、すべてを漢字にしないで、ところどころカタカナにしてるのも、活字嫌いの人に「ラクに読めそう」って感じさせる演出の1つだ。そして、「で、」とか「ま、」とかで文章にリズムをつけて、読み始めるとスイスイと進んでくように組み立ててる。

‥‥そんなワケで、あたし的には、まるで文章の書き方のお手本みたいな長谷川時雨の「旧聞日本橋」なんだけど、この「で、神田白銀町の煙草問屋へ~」の先がどうなったのかって言うと、藤木さんは、「チンコッきりに通うようになった」ってワケだ。「チンコッきり」ってのは、当時、時雨が暮らしてた東京は下町に近いエリアでの言い方で、正しくは促音が入らずに「チンコ切り」って言う。使う道具はマナ板と包丁だけで、このマナ板の上に「何か」を乗せて、大きな包丁で「トン!」と切るワケだ。この描写だけで、多くの男性が「イタタタタタッ!」って言いながら股間をおさえたかもしれないけど、男性にとっては、ある意味、「派遣切り」よりも痛そうな感じの響きを持ってる言葉、それが「チンコ切り」だろう。

でも、これは、漢字で書くと「賃粉切り」ってことで、タバコの葉を細かく刻むことなのだ。今は「紙巻きタバコ」が全盛だけど、江戸時代はキセルで吸う「刻みタバコ」が全盛だったから、タバコの葉は細く刻んだ状態で売られてて、それを自分の愛用のキセルに詰めて吸うのが当たり前だった。で、当時の町のタバコ屋さんは、たいていは夫婦2人で商ってて、奥さんがタバコの葉を巻いて揃えて、それをダンナさんが細く刻むっていう完全分業のスタイルをとってたから、「かかぁ巻き、ととぅ切り」なんて呼ばれてた。

そして、庶民の間に喫煙の習慣が広まって行くに連れて、夫婦2人じゃ手が回らなくなって来て、人を雇うようになる。タバコ屋さんも大きくなって、何人もの職人を雇ってる大きな問屋とかも現われて来る。そうしたお店で、タバコの葉を刻むためだけに雇われてたのが「チンコ切り」ってワケで、日給とか時給とかじゃなく、どれだけ刻んだかっていう量によって賃金をもらえる出来高制だったから、そのために「賃粉切り」って呼ばれてたのだ。

江戸後期から明治初期にかけて、ニポンの人口は約3500万人、東京(江戸)の人口は約100万人ほどだった。だから、全国の人口としては今の3分の1ほどだったんだけど、東京の人口としては今の10分の1くらいだったワケで、比率的には、そんなに東京に集中してるワケじゃなかった。ようするに、今みたいに、地方から東京に出て来る人が殺到してなかったのだ。江戸時代、江戸に上って来るのは、仕官の道を探してる下級武士とかが多かったから、100万人の人口のうち、半分の50万人は武士だった。そして、そのうちの多くの下級武士や浪人たちは、長屋に住んで、内職やアルバイトでギリギリの生活をしてた。

で、長屋住まいの浪人の内職って言うと、よく時代劇とかで見るのは、とにかく多いのが「傘貼り」の内職だろう。あとは、勉学に自信のある浪人が、「寺子屋の先生」をやって、子供たちに読み書きを教えたりなんてのもある。他にも、腕に自信のある浪人が「ヤクザの用心棒」をやったり、「ぶらり信兵衛」みたいな「道場破り」なんてのもある。だけど、これらは時代劇の中の話で、実際に多くの浪人や下級武士が生活の糧にしてたのは、「傘貼り」と「刃物研ぎ」と「チンコ切り」だった。だけど、いくら浪人とは言え、仮にも武士のハシクレが、食って行くために「チンコ切り」に通うってのは、ものすごく恥ずかしいことだった。なにしろ、「士農工商」ほどの細かい区別はなかったにしろ、武士は上で町民は下っていう順位だけは明確だった時代なんだから、その武士が町民に使われるなんて、武士のプライドを捨てるようなものだったからだ。

だから、ほとんどの浪人は、あんまり人に見られずに自宅でできる内職を選ぶことが多かった。「傘貼り」の他にも、「風車」などの子供のオモチャを作ったりする内職だ。そして、そうした仕事にありつけず、ホントに食うに困ったボロボロの浪人とかが、恥も外聞もかなぐり捨てて通ったのが、この「チンコ切り」だった。だから、貧乏な町民が「チンコ切り」に通うのは、「ちょっと恥ずかしいバイトをする」ってレベルだったんだけど、こと浪人や下級武士になると、そんなレベルじゃなかったのだ。

‥‥そんなワケで、時代は江戸から明治へと変わり、政府は近代国家を目指すために、それまでの身分制度を取り止めにして、「四民平等」の政策をとった。そして、文明開化の音が「ポン!」と鳴り、人々の暮らしも劇的に変わり始めた。だけど、まだ国民の半数くらいがチョンマゲをしてたような明治初期には、底辺の生活をしてる庶民の暮らしは江戸時代とほとんど変わらなかった。長屋に住んでる人たちはそのままだし、食うに困れば「傘貼り」の内職をしたり「チンコ切り」に通ったりしてたのだ。そして、長屋が火事になって焼け出された藤木さんは、食ってくために、神田白銀町の煙草問屋へ「チンコ切り」に通うようになったってワケだ。

「チンコ切り」は、現代の人たちが想像するよりも、遥かに重労働だった。床に座ったままの姿勢で、大きな「切り板」の上に乗せたタバコの葉を「押さえ板」で押しつけて、端から髪の毛ほどの細さに刻んで行く。ちょうど、お蕎麦を切ってくような感じだ。だから、あぐらをかいて座ってても、少しお尻を浮かして、押さえ板と包丁に体重をかけるような姿勢になる。だから、しばらく続けてると、腕だけじゃなく、肩や腰まで痛くなって来る。その上、当時の包丁はステンレスだったりカーボンだったりするワケがないんだから、ある程度、作業を続けてると、切れ味が悪くなって来る。そのために、時々は砥石で研がなきゃならなかった。

それで、あまりにも疲れるから、1時間に1回とか休憩するワケだけど、目の前にタバコの葉がマウンテンなんだから、ここで一服するワケだ。自分の愛用のキセルに、刻み立てのタバコの葉を詰めて、プカ~ッと吹かして疲れをとる。だけど、ここで気をつけなきゃならないのは、その火の始末だ。周り中が燃えるもので囲まれてるんだから、そこらへポンとタバコの火なんか捨てたら、アッと言う間に火事になっちゃう。自宅が火事になって「チンコ切り」に来てるのに、職場まで火事になっちゃったらシャレにもならない。それで、「チンコ切り」の人たちのルールとして、「一服したらキセルの火は必ず水の中へ捨てる」って決まりがあった。それぞれの脇に、包丁を研ぐための砥石を沈めた水桶が置いてあったから、そこへキセルの火を捨てるワケだ。


「ふきがらをじゅうといわせるちんこ切り」


これは、江戸中期から幕末までの川柳を集めた「柳多留(やなぎだる)」の名句選に収められてる句で、水桶の中へキセルの吸いがらを捨てて、「ジュッ」って音を立ててるところを詠んでるものだ。「吸いがら」のことを「吹きがら」って言ってるのは、「吹田」を「ふきた」じゃなくて「すいた」って読むようなもので、昔の人にとっては、「吸う」も「吹く」も似たようなニュアンスだったんだろう。そして、ここまで何度も「チンコ」「チンコ」って連発して来たから、一部の期待してる人たちのために、ついでにこんな川柳も紹介しよう。


「金玉の休む暇(いと)なしちんこ切り」


これは、「チンコ切り」の人たちが、お尻を浮かした姿勢でタバコの葉を刻み続けてるから、股間のオイナリさんがブラブラと揺れ続けてて、休むヒマもないってことだ。当時の人たちは、ブリーフだのボクサーパンツだのを履いてるワケもなく、ズボンを履いてるワケもない。フンドシに着物って決まってるんだから、股間のオイナリさんの自由度も大きくて、不健康なパンツを履いてる現代の男性たちよりも、ずっとインタークーラーとしての役割を果たしてたんだと思う。で、そのインタークーラーがブラブラと揺れ続けてたワケだけど、こんな川柳が詠まれたくらいだから、当時の人たちも、「賃粉切り」の「賃粉」を男性の股間の「チンコ」と重ねて考えてたってワケだ。

ちなみに、最近は、「パンドルショーツ」とかいう女性用のフンドシが登場したり、挙句の果てには「男性用のブラジャー」なんて意味不明なものまで現われちゃって、何が何だかワケが分からなくなって来たけど、フンドシはオイナリさんがついてる男性のための下着であり、ブラジャーはオッパイがついてる女性のための下着なのだ。人間、自分の体に合ってないものを着用すると、必ず何らかの不具合が生じて、場合によっては健康被害が出て来る。あたしは、仲良しのスタイリストからもらった「パンドルショーツ」を履いてみたんだけど、血圧が下がって体調を崩しそうになった。

‥‥そんなワケで、時代は江戸から明治に変わったけど、庶民の暮らしはそれほど変わらず、長屋が火事になった藤木さんが、食ってくために神田白銀町の煙草問屋へ「チンコ切り」に通うようになったってのが、「旧聞日本橋」の11章の「朝散太夫の末裔」に書かれてることで、この次の12章のタイトルが、その名もズバリ、 「チンコッきり」だ。この章もまた、内容も文体もサイコーに面白いんだけど、さらに面白いのが、なにやらボーッとしてる子供だった「アンポンタン」の様子を客観的に書き留めてるとこだ。

当時の小伝馬町には、時雨の通ってた学校があったし、長唄のお稽古に通ってる教室もあったし、お友達が何人も住んでたし、親の知り合いのお家もあったので、時雨にとっては、まさしく自分のテリトリーだった。そして、興味のあるものを見つけると、いつまでも無言で眺め続けてるクセのあった時雨だったから、町工場の前を通れば、必ず足を止めて、鉄を解かして型に流し込む作業をずっと眺めてたり、ガラスを溶かして瓶を作る作業をいつまでも眺めてたりもした。そんな時雨が、ある日、煙草問屋で「チンコ切り」をしてる藤木さんを見つけたってワケだ。その時の様子は、こんなふうに書かれてる。


(前略)藤木氏がチンコッきりをしていたのもその近所だった。はじめ私が発見した時、私は藤木氏なんぞ目にも入れなかった。忙しなく煙草の葉を揃える人の手元や、ジャキジャキと煙草の葉を刻んでいる職人の手許を夢中になって眺めていた。その日の夕方、いつものように来て、藤木さんは母に呟(こぼ)していた。

「今日ってきょうは弱ったのなんのって、汗が出たね。だんまりはいいがね、いつまでもいつまでも立って見ているのだからね。こっちのほうがなにか言わなくちゃならない気がして‥‥」

だが真から心配そうにもいった。

「あんな道草していて、稽古にほんとにゆくのかしら?」

その翌日あたしは、藤木さんのチンコッきりを立って見ていてはいけないと誡(いまし)められた。そのついでに母と誰かが話していたのだが、チンコッきりおじさんは、職人としても好くないのだそうだ。(後略)


‥‥そんなワケで、「チンコッきりを立って見ていてはいけない」ってとこに反応しちゃった人は置いてくけど、この一節から分かることは、「チンコ切り」は「いやしい職業」だったってワケだ。あたしは、「いやしい職業」って言い方は好きじゃないけど、この「旧聞日本橋」を読むと、当時の人たちが普通に持ってた「職業差別」って感覚が垣間見られる。たとえば、この藤木さんに関する記述で、こんな一節がある。


(前略)藤木さんはその頃が貧窮のどん底だったが、細君の前だけでは、封建的殿様ぶりを発揮して、怒鳴ってばかりいた。蜜柑箱にキンタマ火鉢を入れたのが長火鉢かわりの生活でいて、

「貴様なんぞはボテイフリの嬶(かかあ)にでもなれ。」

というのが口癖で、魚売は自分よりよほど身分違い‥‥さも低級でもあるように賤しめて罵る習慣があったのだ。貞淑な細君は、そんな事を言われても尤ものように押だまって辛棒強く働いていた。(後略)


この「ボテイフリ」ってのは、ここでは「魚売」って言ってるけど、農村や漁村から町へと作物やお魚を売りに来る行商人のことを指す言葉だ。てんびん棒を担いで、両端に荷物を提げて売り歩くことから、「棒手振り」って書いて「ぼてふり」って読む。この「ボテイフリ」ってのは、「チンコ切り」を「チンコッ切り」って言うみたいな、当時のこの地域の方言なんだと思う。

で、人々から下に見られる職業の「チンコ切り」をやってた藤木さんは、それでも、どっかの都知事みたいに、ニポンの悪しき伝統芸能である「男尊女卑」の精神に支配されてたみたいで、奥さんにだけは威張り散らしてたワケだ。そして、こうした行商人のことを「自分よりもさらに下の職業」として口にすることによって、間接的に自分のプライドを死守してたってワケだ。どっかの都知事と同じく、あまりにも軽薄で情けないけど、これが「男」って生物の大かたの姿なんだよね(笑)

‥‥そんなワケで、あたしの大好きな長谷川時雨は、19才の時に親にムリヤリに嫁入りさせられたんだけど、自分の望んだ結婚じゃなかったから、苦労の果てに、29才の時に協議離婚をした。そして、それからは、文学に邁進して、自由な恋愛を楽しみ、昭和に入ってからは、恋人でベストセラー作家だった三上於菟吉(みかみ おときち)の金銭的援助を受けて、女流文学誌「女人藝術」を創刊主宰した。これは、当局の弾圧で廃刊させられるまで続き、何人もの女性作家を世に出すことに貢献した。「アンポンタン」て呼ばれて、藤木さんの「チンコ切り」をボーッと眺めてた1人の少女が、ニポンの女流文学の道しるべを作るまでに大成したってワケだ。だから、あたしも、その末裔の1人として、ここはひとつ、フンドシを締め直して「きっこの日記」を書き続けてこうと思った今日この頃なのだ(笑)


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※「旧聞日本橋」を始め、長谷川時雨の作品は、以下の「青空文庫」で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person726.html#sakuhin_list_1

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