「思い」というパワー
何かの願(がん)を掛ける時って、一方的にお願いをするだけじゃ叶いそうもないからなのか、自分自身に何らかの制約を設けることが多い。サスガに、真夜中に裸足で神社の石段を100回も上ったり下りたりする「お百度参り」とかはキビシーけど、「禁酒」とか「禁煙」とか、自分の嗜好品を断つことは多い。で、あたしの場合は、今月末に母さんの手術があるから、今年のお元日から、あるモノを断って来た。それは、パチンコだ。お酒を断つのが「禁酒」で、タバコを断つのが「禁煙」なんだから、パチンコを断つのは「禁玉」だ‥‥って、開始早々に下ネタってのもナンだから、パチンコを断つことは「禁パチ」って呼ぶことにする。だから、あたしのことは、「禁パチ先生」って呼んで欲しい。
で、なんでパチンコを断つことにしたのかって言うと、あたしの場合、お酒は単なる嗜好品てだけじゃなくて、暖房としても利用してるから、この時期に断つワケには行かないし、タバコは多くても1日に5~6本、吸わない日はぜんぜん吸わないから、断ったとこで「ガマン度」が低すぎる。やっぱり、何かを断って願を掛けるには、ある程度の「ガマン度」がなかったら意味がないワケで、それには、パチンコを断つのが一番だと思ったワケだ。
あたしは、今まで、パチンコは生活のために打って来た。もちろん、楽しみとしても打って来たけど、あたしの置かれてた状況だと、生活のために打つのが9割で、楽しみとしては1割って感じだった。足をケガして働けなくなった時には、パチンコの収入だけで生活しなきゃならなくなって、松葉杖で必死にパチンコ屋さんに通ってたし、痛みで意識がモーローとしてもハンドルを握り続けてた。そして、お仕事に復帰してからも、少しでも時間があればパチンコ屋さんへ行き、稼いだお金を母さんの手術費用の口座に預金し続けて来た。つまり、あたしの場合は、絶対に負けることが許されない状況で打ち続けて来たから、楽しんでる余裕なんてほとんどなかったのだ。
だけど、教師生活25年の町田先生‥‥じゃなくて、苦節5年の禁パチ先生は、やっと母さんの手術費用ができたから、これからはガツガツとドル箱を積まなくてもよくなったワケで、勝てる確率が低い機種や苦手な機種でも「打ちたい機種」を打てるようになったワケだ。それで、あたしは、これからは100%楽しみとして打てるようになってワクワクしてたパチンコを断つことで、母さんの手術の成功の願を掛けることにした今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、現在、3年B組を受け持つ「禁パチ先生」になってるワケで、文化祭でソーラン節をやったり、杉田かおるが妊娠したりといろいろありつつも、何とか今日までこぎつけたってワケだ。で、あたしのパチンコ日記を楽しみにしてる一部のパチンコファンの皆さんには申し訳ないけど、母さんの手術が無事に済み、少し落ち着くことができるまでは、あたしは「打たず、眺めず、入店せず」っていう「非パチ三原則」を守らなきゃなんないワケだ。
でも、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」っていう「非核三原則」も、3つめの「持ち込ませず」に関しては、何度も怪しいことを繰り返して来てる自民党政権のように、あたしの「非パチ三原則」も、3つめの「入店せず」に関しては、ハッキリ言って守ってない。それは、メンバーカードに来店ポイントを貯めてるから、パチンコ屋さんの前を通る日には、必ずお店の中に入って、自分のカードを機械に通してるからだ。さらには、あたしはタバコにはお金を使わないようにしてるので、こないだも、タバコがなくなったから、パチンコ屋さんにもらいに行って来た。「もらいに」って言うか、自分のカードに貯めてる玉で、タバコを10個、交換して来た。
あたしのカードには、今、1万発くらい貯めてある。現金に交換すると1発3円で3万円にしかならないけど、景品と交換する時には1発4円の計算になるから、300円のタバコは75発で1個、750発で10個になる。だから、タバコだけじゃなくて、ちょっとした日用品とかも、パチンコ屋さんに行って、景品の中から選ぶようにしてる。そうすれば、1円も使わずに手に入るってスンポ―なのだ。そのために、たとえば2万2000発出たとしたら、ぜんぶを現金に交換するんじゃなくて、2万発ぶんだけを現金に交換して銀行に預金して、残りの2000発はカードに貯めておく。こうしてチョコチョコと貯めておいて、常にカードの中に1万発くらい入ってる状態にしといて、これをお財布代わりにしてるってワケだ。
だから、あたしは、「禁パチ先生」をやってる今も、パチンコ屋さんにはタマに行ってる。パチンコだけに「タマに」ってワケで、まあ、ここは立ち止まるとこじゃないんだけど、あたしはもともとパチンコが好きだから、パチンコ屋さんに行けば、やっぱり打ちたくなる。それに、どんな新台が入ってるのかも気になるし、「海」のデータも気になる。だけど、ホールをウロウロしたり、データ機でデータを見たりすると、ホントにガマンできなくなっちゃうから、必要な用事だけを済ませたら、ヨケイなことはしないでトットと外に出るようにしてる。
でも、ふと思ったんだけど、「願を掛ける」ために「好きなモノを断つ」ってことなんだから、より「ガマン度」が高いほうが効果的ってことになる。たとえば、何かの願を掛けて「禁煙」をするんなら、自宅ではタバコやライターや灰皿を目につかないとこに隠して、会社でも喫煙ルームにも近寄らないようにして、それで「禁煙」するよりも、タバコやライターは普段通りに持ち歩いて、会社の喫煙ルームにも行き、うまそうにタバコを吸ってる人たちと会話しつつ、自分だけはタバコを吸わない‥‥ってほうが、遥かに「ガマン度」が高い。そして、そのほうが、ナニゲに「願」が叶いそうな気がする。
だから、この理屈で行けば、あたしの場合は、カードに来店ポイントを貯めるためでも、タバコをもらうためでも、とにかくパチンコ屋さんに行った時には、あえてホールの中をウロウロして、新台や爆発してる台をチェキしたり、データ機でデータを見たりして、すごく打ちたい気分になった上で、打たずに帰って来る。このほうが、より効果的だってことになる。つまり、おんなじ「禁パチ」をするにしても、消極的な禁パチ先生よりも、積極的な禁パチ先生のほうが、3年B組の小さいきっこたちから支持されるってことになる。
‥‥そんなワケで、この「願を掛ける」って行為は、今さら説明することもないほど、極めて非科学的だ。だけど、どうしてこんなことが21世紀になっても当たり前のように行なわれてるのかって言えば、それが人間のサガだからだ。毎年、受験シーズンになると、コンビニにあふれかえる「合格祈願」のダジャレお菓子の数々にしても、あんなもんに効力なんてあるワケないことは誰だって知ってる。それどころか、お菓子メーカーのコソクな商売だってことまで分かってても、受験生がついつい買っちゃうのは、それが人間のサガだからだ。
これは、「困った時の神頼み」とか「溺れる者はワラをもつかむ」とかと同列の心理であって、地球上に150万種もいる生物の中で、あたしたち人間だけが持ってる特殊な感覚だ。でも、地球上のすべての生物の中で、もっとも脳みそが発達してて、もっとも科学的であるハズの人間が、どうしてこんなに非科学的なことを実践してるんだろう? たとえば、心の底から「絶対に効力なんかない」って100%理解してて、それでもシャレとして「キット勝ット」だの「受カール」だのを買うんなら分かるけど、こうしたバカバカしいお菓子を買う子供たちって、多少は効力を期待してる部分があるんだよね。そして、この心理って、あたしが母さんの手術の成功を祈って願を掛けてるのとおんなじだと思われちゃう。だけど、これって、ぜんぜん違うんだよね。
あたしは、非科学的なことは信じてないけど、非科学的なことと、まだ科学では解明されてないことは別だと思ってる。そして、科学で解明されてないことに関しては、あたし自身が実際に体験したことだけを信じてる。だから、あたしは、幽霊はハッキリと見たことがあるから信じてるし、UFOも何度も見たことがあるから信じてる。そして、人の「祈り」に力があることも、自分で体験してるから信じてる。
で、この「祈り」の基本になってる「思い」のパワーってのは、あたしの体験から言えば、人に対してなら効力が現われる場合もあるけど、自分に対してはまったく効力を持たない。ようするに、誰かのために祈れば、その祈りが叶うこともあるけど、自分のために祈っても意味がないってことだ。だから、おんなじ「願を掛ける」って行為でも、誰かのための行為なら効力が期待できるけど、自分の受験の合格だとか、自分が大金持ちになりたいだとか、こうした私利私欲のためには何の効力も持ってないってことだ。
‥‥そんなワケで、どうして自分に対しては効力を持たないのかって言うと、そこには対価が存在してないからだ。「対価」っていうと「同等の価値のもの」って意味だから語弊があるけど、ようするに、「自分を犠牲にする心」が存在してないってことだ。あたしが誰かのためにお祈りをする時には、たとえ自分に何か悪いことが起こってもいいから、あの人を助けてください‥‥ってふうに思う。もちろん、アカの他人に対してまで、自分の命を差し出すような思いは持たないけど、それでも、多少なりとも「自分を犠牲にする心」を持ってお祈りする。そして、これが、世界中の誰よりも大切な母さんのことになれば、あたしは、何のタメライもなく自分の命を差し出してもいいって思う。
だけど、命は1つしかないし、粗末にすることはできない。だから、何かをお祈りするたびに、自分の命を差し出すことなんてできない。だから、こうした「自分を犠牲にする心」の縮小版として、滝に打たれてみたり、お百度を踏んでみたりっていうモノがあるワケだし、さらにそのプチバージョンとして、「何かを断つ」ってことがあるワケだ。誰かのために、自分の好きなモノを断つって行為には、決して自己満足なんかじゃない深い「思い」がある。これこそが「相手を思いやる心」であり、その「思い」を一瞬だけのものにしないために、自分の好きなモノを断つワケだ。
フリーアナウンサーの逸見政孝さんが、ガンを告白して闘病生活に入った時、公私ともに仲良くしてたプロレスラーのジャイアント馬場さんは、大好きだった葉巻を断ったそうだ。そして、その願いは叶わず、多くの人に惜しまれながら逸見さんは亡くなってしまったけど、逸見さんが亡くなったあとも、ジャイアント馬場さんは、生涯、葉巻を口にしなかったそうだ。
あたしが言いたいのは、これなんだよね。人が人を「思う」ってことの先にあるのは、決して「見返り」とか「報酬」とかじゃない。そして、そんなものを期待しての「思い」なんか、本物の「思い」じゃない。「思い」ってのは、その行為自体に深い意味があるんであって、自分の願いが叶ったか叶わなかったかなんて、オマケみたいなものなのだ。もちろん、ジャイアント馬場さんは、心の底から逸見さんの回復を願って葉巻を断ったんだと思うし、その願いが叶わなかったから、逸見さんが亡くなったあとも、二度と葉巻を口にしなかったんだと思う。でも、あたしは、逸見さんが回復されなかったことは残念だと思うけど、ジャイアント馬場さんのしたことは、決してムダじゃなかったと思ってる。だって、ここには本物の「思い」があふれてるからだ。
「どんな手段を使ってもお金さえ儲かればいい」っていう最近の風潮とか、ナンミョーみたいに「奉仕」に「見返り」を求めるインチキ宗教がハビコってる現代では、どんなことも「結果」ばかりを重視するようになった。そして、自分が期待した結果が得られなければ、その「過程」を否定するような人たちが増えて来た。だからこそ、主婦や学生までもが「株」なんかをやったり、ナンミョーは定額給付金をゴリ押ししたりしてるんだろうけど、「お金を儲ける」っていう「結果」だけを重視した行為や、「票集め」っていう「見返り」を期待しての行為には、人として何よりも大切な「思い」がミジンもない。
あたしは、2007年9月19日の日記、「おもうわよ」で、大好きな俳人の1人、池田澄子さんのエッセイの一部を紹介した。過去ログを読むのがメンドクサイ人のために、その部分だけ、もう一度、紹介する。
(前略)
島の写真を撮っていたという友人がいる。写真家である彼女が素敵な言葉を教えてくれた。ある島では、別れる時、例えば島を離れる彼女に対して、「さようなら」とは言わないのだそうだ。ましてや、「じゃーね」などとは決して言わないだろう。船を見送る島人は、「おもうわよー」と手を振るのだそうだ。電車を降りる少し前に聞いたその言葉が、どすんと私に入り込んでしまって、瞬間、胸がいっぱいになった。コーフンして握手して別れ、一人になっても、その言葉の余韻にくらくらした。後日、そのことを他の友人たちに言いふらした。皆が感嘆する。
こんなに嬉しい別れの言葉があったなんて、おもうわよ。アナタが目の前から去っても、ずーっと思うわよ。今度逢うまで思っているわよー。
亡先生に、亡父に、叔父に祖父母に、友人(田中さんを含め、私より若い男友達も数人)に聞こえるように‥‥、聞こえるだろうか‥‥、もう逢うことがなくても、ずーっと、ずーっと、思うわよー。
(「角川俳句」平成19年8月号「あさがや草紙/池田澄子」より)
‥‥そんなワケで、ここにも、本物の「思い」がある。地続きでない「島」での別れだからこそ、その「思い」は深く純粋なのだ。そして、こうした「見返り」や「報酬」を求めない純粋な「思い」にこそ、その相手に作用する不思議なパワーが宿るように感じる。だから、あたしは、母さんの手術の成功を祈って願を掛けてるけど、「自分を犠牲にする心」を対価として願いを叶えてもらうパターンの「禁パチ先生」をやりつつも、結果にばかり重心を置いてると効力がなさそうだから、できる限り純粋な気持ちで、あと数日を過ごそうと思ってる今日この頃なのだ。
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