なくて七草
今日、1月7日は、「五節句」の1つの「人日(じんじつ)」だった。前にも書いたと思うけど、奈良時代に中国から入って来た「五節句」は、1月7日の「人日」の他は、3月3日の「上巳(じょうし)」、5月5日の「端午(たんご)」、7月7日の「七夕(しちせき)」、9月9日の「重陽(ちょうよう)」って、みんなゾロ目になってるのに、1月だけ「1月1日」じゃない。これは、ホントは「1月1日」にしたかったんだけど、1年のうちで1月1日から6日までは、神様が地上に戻って来る特別な日で、人間の節句に神様の日は使えないって考えから、1月だけ人間の日に戻る「1月7日」にズラしたってワケだ。
もっと詳しく言うと、1月1日は「鶏の日」、2日は「狗(犬)の日」、3日は「猪(豚)の日」、4日は「羊の日」、5日は「牛の日」、6日は「馬の日」で、ようやく7日が「人の日」になる。これが何かって言うと、この日には、これらの生き物を殺したり食べたりしちゃいけないって決まりになってた。つまり、1月1日に鶏肉の入ったお雑煮を食べた人や、おせちに飽きた5日にビーフカレーを食べたりした人は、その1年が最悪の年になるってことなのだ。もちろん、もともとは中国の風習だから、関係ないっちゃ関係ないんだけど、お雑煮にはホウレン草しか入れない上に、ヘナチョコベジタリアンのあたし的には、さらに関係ない。
で、もっと基本的なこととして、何で「五節句」は3月3日とか5月5日の奇数の日だけなのかっていうと、中国では、奇数を「陽」、偶数を「陰」としてて、「陽(奇数)」と「陽(奇数)」が重なって「陰」になることを忌み嫌ってたのだ。これを「重陽(ちょうよう)」って言って、9月9日が不吉のピークにあたることから、9月9日を「重陽」って呼んでる。それで、こうした「重陽」の日には、その時期の植物から聖なるパワーをもらって、邪気を払おうってことになったのだ。だから、1月7日には「七草粥」を食べ、3月3日には「桃の花」を飾り、5月5日には「菖蒲湯」に入り、7月7日には「笹」を飾り、9月9日には「菊の花びら」を浮かべたお酒を飲むことになった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、今日は「七草粥」を食べて邪気を払わないと、少なくとも次の「重陽」である3月3日まではアンラッキーが連発しちゃうってワケで、あたしは「七草粥」を作って、母さんと一緒に食べた‥‥って言っても、何でもフランク・ザッパなあたしのことだから、当然、「春の七草」がキチンと入ってるワケがない。ちなみに、「春の七草」と言えば、今さらだけど、「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」ってワケで、現代ふうに言えば、「セリ」は「セリ」だけど、「ナズナ」ってのはペンペン草」のことだし、「ゴギョウ」は「母子草(ははこぐさ)」のことだし、「ハコベラ」は「ハコベ」のことだし、「ホトケノザ」の「タビラコ」のことだし、「スズナ」は「カブ」のことだし、「スズシロ」は「ダイコン」のことだ。
それで、あたしのとこには、暮れに俳句仲間が送ってくださった手作りのお野菜があって、その中にカブとダイコンがあったので、この2種類だけで「七草粥」を作ったのだ。ザックリと言えば、「カブ」と「ガブの葉っぱ」と「ダイコン」と「ダイコンの葉っぱ」で4種類ってことにした上に、カブは「くし切り」と「半月切り」にして、ダイコンは「千切り」と「イチョウ切り」と「短冊切り」にした。これで、材料は2種類だけど、7種類のものが入ったワケで、「七草粥」は「七種粥」とも書くから、これでいいのだ(笑)
でも、これだけだとコジツケすぎるので、母さんと一緒に食べる時に、あたしのケータイをコタツの上に置いた。今、ストラップにエヴァンゲリオンの「ペンペン」がついてるから、これを「ペンペン草」の代わりにしたってことだ。なんか、こっちのほうが、さらにコジツケっぽいけど、スーパーで売られてる「七草セット」なんかを高いお金を払って買って来るよりも、よっぽどホーリーな感じで、邪気を払うための植物パワーがみなぎってると思った。なんたって、「朝顔やつるべ取られてもらひ水」でオナジミの江戸時代の女流俳人、加賀千代女の句でも、こんなのがあるくらいだ。
七種やあまれどたらぬものも有り 千代女
ようするに、7種類どころか、8種類も10種類も集めて来たってのに、カンジンの七草がぜんぶそろってなかったってことだ。喩えとしては変かもしれないけど、麻雀をやろうと思って、いろんな人に手当たり次第に電話して家に呼んだら、5人もやって来たんだけど、その中で麻雀を打てる人が2人しかいなかったって感じだ。でも、大切なのは、キチンと数を揃えることじゃなくて、その心意気なのだ。だから、この場合なら、3人麻雀をやればいいってワケだ。つまり、あたしの作った変則的な「七草粥」は、3人麻雀みたいなもんなのだ。そして、スーパーで買って来た「七草セット」で作ったほうは、数こそ揃ってるけど、自分以外の3人はコンピューターが打つテレビゲームの麻雀みたいなもんなのだ。
‥‥そんなワケで、どんなことでも、そのルーツにまでさかのぼってみると、「何をすべきか」ってことが見えて来る。今日の「七草粥」にしても、大切なのは、重陽の邪気を払うために、今の時期の植物の生命力を分けてもらうってことなのだ。逆に言えば、重陽の邪気を払えるほど、その時期の植物には強い生命エネルギーがあるってことだ。だから、1月7日の「七草粥」は食べるけど、3月3日の「桃の花」や7月7日の「笹」は眺めるだけだし、5月5日の「菖蒲」はお風呂に入れて浸かるだけで邪気を払えるのだ。
その時期の植物を眺めただけでも邪気が払えるってことは、そうとう強力な生命エネルギーがあるワケで、それを利用したのが、今日の「爪切り」なのだ。もう、ほとんどのニポン人はやらなくなっちゃったけど、今日、七草粥を作る時に、七草を洗ったお水は、捨てずに取っておく。そして、そのお水に両手を浸けてから、新年を迎えて初めての爪切りをする。そうすると、お水の中に溶け出してる七草のパワーが指先から入って来て、今年1年、風邪をひかなくなるって言われてるのだ。
ま、今じゃ、こんなことをしてる人も少なくなったばかりか、「新年を迎えたら人日が来るまで爪を切っちゃいけない」ってことすら守ってる人も少なくなっただろうし、若い子たちなんて、こんなこと知らない人のほうが多いかもしれない。お正月に門松を立てるのは、神様を迎え入れる目印にするためで、そして、お元日にやって来てくださった神様がいる間は、爪を切っちゃいけない。これって、普通に考えたら当たり前のことなんだけど、こうした当たり前の感覚がどんどんなくなってって、通例的に門松やお飾りを飾り、通例的におせち料理を食べ、通例的に仕事始めを迎える‥‥ってことが繰り返されてくうちに、一番大切な「心」の部分が失われてくんだよね、きっと。
だから、あたしは、スーパーで買って来た七草セットで作ったお粥を通例的に食べるよりも、たとえスズナとスズシロの2種類しか入ってないお粥でも、そのルーツに沿って感謝していただき、さらには、洗ったお水に両手を浸けてから爪を切ったほうが、より多くの植物エネルギーを体内に取り入れられたと思ってる。言葉は違うかもしれないけど、「量より質」って言うか、「見かけよりもハート」って感じだ。そして、この考え方で行けば、3月3日や5月5日に、何十万円もするような高価なお雛様や五月人形を飾ったって、これらの節句にとって何よりもカンジンな「桃の花を愛でる」とか「菖蒲湯に入る」とかってことをしなけりゃ、たったの1ピコグラムも植物エネルギーをいただけないワケだし、重陽の邪気も払えないってワケだ。
‥‥そんなワケで、戦中や戦後の何もなかった時代には、鉛筆1本を短くて持てなくなるまで使い、さらには、その短くなった鉛筆を差し込んで持てるようにするためのアダプターみたいな器具まであったそうだ。新聞に挟まってる大量のチラシなんて、今は見もしないでそのままゴミ箱に捨ててる人がいっぱいいるけど、あたしのおばあちゃんの時代には、裏が無地のチラシを集めて、それを針と糸で綴じて、ノートにしてたそうだ。ダイコンやニンジンだって、今のあたしたちなら普通に捨てちゃってる葉っぱやヒゲ根の部分まで、ぜんぶ大切に使ってたそうだ。
今は、日用品でも文房具でも食べ物でも何でもたくさんある時代なんだから、何もチラシを集めてノートを作れとは言わない。ダイコンやニンジンだって、スーパーで売られてるものは最初から葉っぱがついてないし、もしも葉っぱがついてても、農薬まみれで食べられたもんじゃない。だから、何から何まで昔とおんなじにしろとは言わない。だけど、こうして、お金さえあれば何でも手に入る時代になったことによって、何よりも大切な「心」の部分、「精神」の部分が失われてきちゃったように思う。それは、「感謝の心」「感謝の精神」だ。
モノのない時代に、1本を鉛筆を最後まで大切に使った心には、絶対に「感謝」の気持ちがあったと思う。最後の最後の1cmくらいになって、もうアダプターに差し込んでも使うことができなくなった時に、心の中で「ありがとう」って言って、引き出しの中の小箱に入れたんだと思う。使えなくなったからって、とても捨てることなんてできないから、その小箱の中には、今まで使って来た1cmくらいの鉛筆がいくつも溜まってるのだ。まるで、宝物のように。
‥‥そんなワケで、気持ちの方向が精神性よりもモノのほうへ向いちゃえば、「感謝の心」を始めとして、いろんな心が失われてく。ようするに、精神性の退化ってことだけど、その最たるものが、今日の「七草粥」を始めとした、古くからの習わしにおける「本意の喪失」だ。1ヶ月後にやって来る「節分」にしたって、前にも書いたように、本来は1年に4回あるもので、立春の前日に行なう今度の「節分」には、キチンとした「本意」がある。それなのに、多くのニポン人は、表面上だけの豆撒きをして、この「節分」を済ませた気になっちゃってる。まあ、これも時代の流れなのかもしれないけど、こうした何でもないような部分から、「感謝の心」を持ったニポン人が少なくなり始めちゃったように思う。こうした何でもないような部分から、この国は壊れ始めちゃったようにも思う。だから、あたしは、これからも、できるだけ「本意」に沿ったイベントを心がけて行こうと思う今日この頃なのだ。
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