「正義」という免罪符の幻想
この「きっこの日記」は、「日記」と言いながらも、「今日は何があった」とか「今日はどんなことをした」とかっていう、あたしの日々の出来事はほとんど書いてない。タマには、その日の出来事を書く時もあるけど、基本的には、「その日に書きたいことを書く」ってスタイルにしてる。1日のお仕事を終えて、夜、パソコンの前に座って、コーヒーを飲みながら、書きたいことを書く。たとえば、その日、お仕事ですごくイヤなことがあったとしても、そのことをクドクドと書くんじゃなくて、ぜんぜん別の楽しいことや気になってることを書き始める。そうすると、この「きっこの日記」の中だけの「もう1人のあたし」が現われて、すごく楽しい気分になって来る。だから、あたしにとっての「きっこの日記」は、日常生活とは別の「もう1人のあたしの居場所」みたいな感じなのだ。
でも、別に「その日のことを書いちゃいけない」なんてルールを作ってるワケでもないから、タマには、普通の日記みたいに、その日の出来事を書く場合もある。そんな時に、あたしは、いつも悩むことがある。それは、「ホントのことでもどこまでなら書いてもいいのか」ってことだ。あたしは、最初のことろは、「あたしの日記なんだから何を書いても自由だ」って思って書いてた。もちろん、ウソを書くことは問題があるけど、あたしが見たり聞いたりしたことなら、何を書こうが自由だと思って書いて来た。たとえば、あたしは、ドコモのケータイを絶対に使わないって言い続けてるし、その理由として、地元の駅の近くのドコモショップの女の対応が最悪にムカついたってことを理由としてあげて来た。
だけど、あたし1人が日記に書いたとこで、それが原因でドコモの売り上げに影響が出たり、ましてやドコモが潰れたりするワケはない。だからこそ、あたしは何の気兼ねもなく書いて来た。でも、これが、小さな個人商店だったらどうだろう。あたしがタマタマお昼ご飯を食べに入った定食屋さんで、ものすごく不愉快な対応をされた上に、出て来た定食が死ぬほどまずかったとする。で、あたしが、そのことを「きっこの日記」で取り上げて、そのお店の名前も場所も明記した上で、ボロクソに書いたとする。そしたら、そのお店のお客は減るだろうし、ヘタしたら、あたしが日記に書いたことがキッカケとなって、潰れちゃうかもしれないと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、対象が「商品」であろうが「お店」であろうが、それをホメて書くぶんには何も問題はないんだけど、悪く書かなきゃならない時って、あたしはものすごく悩んじゃう。それで、結局は、書くのをやめることが多い。だから、「あたしの日記なんだから何を書いても自由だ」って考えは、ずいぶん変わって来た。本心を言えば、あたしがムカついた「商品」や「お店」に関しては、あたしが感じた通りに正直に書きたい。それは、単にあたしの怒りを発散させたいってだけじゃなくて、あたしとおんなじ被害に遭う人を1人でも減らしたいって気持ちもあるからだ。
だけど、こういうのって、やっぱり気が引ける。好きなものや好きなお店をホメるのなら書いてても楽しいんだけど、いくらホントのこととは言え、特定の商品や特定のお店のことを悪く書いて公開するのは、やっぱり気が引ける。ムカついて頭から湯気が出てるその時だけはスカッとするけど、日にちが経つにつれて、だんだん自分のことが卑しい人間みたいに思えて来て、「こんなこと書かなきゃ良かった」って気持ちが芽生えて来る。
それは、「単にあたしの怒りを発散させたいってだけじゃなくて、あたしとおんなじ被害に遭う人を1人でも減らしたいって気持ちもあるからだ」って言いつつも、結局は、「あたしの怒りを発散させたい」って部分がほとんどで、「あたしとおんなじ被害に遭う人を1人でも減らしたい」なんてのは、悪口を公開することに「正義」っていう大義名分を付加させるための免罪符でしかないからだ。もちろん、「あんな酷いお店に行ってイヤな思いをする人を減らしたい」って気持ちがあることは確かだけど、その気持ちの先には、「誰も行かなくなって潰れちゃえばいいのに」っていう卑しい気持ちもあるし、それは、あたし自身が不愉快な思いをさせられたことへの復讐に他ならないのだ。
たとえば、あたしが、どこかのメーカーのある商品を買ってみたら、宣伝に書いてある謳い文句とは正反対の劣悪な商品だったとする。それで、頭に来て、そのメーカーに電話をしたとする。そこで、キチンとした人が電話に出て、キチンと対応してくれて、キチンと謝罪してくれて、「商品を送り返してくれれば代金と送料をお返しします」って約束してくれれば、あたしの怒りはココで収まるし、ワザワザ日記に書こうとまでは思わない。だけど、電話に出たのがムカつくバカ女で、クレームの電話だって分かったトタンにケンカ腰の口調に豹変して、あたしのことをまるで悪質なクレーマーか何かみたいに決めつけて、さんざん不愉快なことを言われたとしたら、たとえ最後に代金を返すって言われたとしても、あたしの怒りは収まるどころか、何倍にもふくれ上がっちゃう。そして、その怒りにまかせて、日記にボロクソに書きまくろうとしちゃう‥‥って流れだ。
だから、この流れを客観的に見れば、あたしが不愉快な思いをした特定の商品やお店のことを悪く書きたくなるって心境は、その大部分が醜い復讐心によるものってことになる。そして、それを自分で分かってるからこそ、そうした醜い心を見られたくなくて、「あたしとおんなじにイヤな思いをする人を減らしたい」なんてイイワケじみたことを補足しちゃうワケだ。だって、冷静に自分のことを見てみれば、心の容量を100だとすると、このうちの99は怒りであって、第二、第三の被害者を減らしたいって思いは1くらいしかないことが分かる。それなのに、その1の部分を何十倍にもして、まるでこっちのほうがメインであるかのような考え方をするなんて、このこと自体が、自分のやろうとしてることが自分の美意識に反してるってことの何よりの証明になる。
で、こんな自己分析から導き出した結論なんだけど、最近のあたしは、日記に書きたくなるほどムカついたことがあった時には、徹底的にボロクソに書きまくってから、その原稿を「きっこの日記」にアップしないで、削除するようになった。そして、「ごみ箱を空にする」をクリックして、例の「ガサッ」て音を聞けば、たいていのことはスッキリできる。これで、あたしの怒りは収まるし、あたしの美意識も保たれる。「あたしとおんなじにイヤな思いをする人」に警告することはできないけど、それは仕方ない。100%の正義感からの告発で見ず知らずの人を救うのなら美しいことだけど、醜い復讐心からの行動を正当化させるために見ず知らずの人を利用するワケには行かないからだ。
‥‥そんなワケで、お笑い芸人のスマイリーキクチさんが、女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人だっていうデタラメをネット上に流されて、それを鵜呑みにした人たちが、スマイリーキクチさんのブログに嫌がらせのコメントを繰り返して、そのうちの悪質だった18人が警察に摘発された。摘発された18人は、札幌の17才の女子高生から大阪の45才の国立大職員まで、さまざまな地域や立場の人たちで、何でこんなことを繰り返してたのかっていうと、「殺人犯が芸人をやってることが許せなかったから」だそうだ。ようするに、ネット上に流されてるデマを鵜呑みにして、正義感から書き込みを繰り返してたってワケだ。
この事件では、飯島愛ちゃんも、同様の被害を受けてた。スマイリーキクチさんに対するデマとおんなじに、愛ちゃんも、「女子高生の監禁されてた部屋を飯島愛が面白半分に見学に行った」なんてデマを流されてた。スマイリーキクチさんに対するデマは、そのうちに「所属事務所が足立区出身の元不良として売り出した」とか「事件のことをお笑いのネタにしていた」とか、どんどん尾ヒレがついてったけど、愛ちゃんのデマもおんなじで、最初は「飯島愛がコンクリ殺人に関与してるらしい」ってデマだったのが、どんどん尾ヒレがついてって、そのうちに「飯島愛は不良時代に犯人グループの1人と付き合ってた」とか「女子高生の監禁されてた部屋を飯島愛が面白半分に見学に行った」なんていうリアリティーのあるデマにされちゃった。愛ちゃん本人は「バカバカしい」って言って気にしてない様子だったけど、そうとうイヤな思いをしてたみたいだ。
あたしも、あたしの母さんが朝鮮から強制連行されて来た朝鮮人で九州の炭鉱で働かされてただとか、その炭鉱で働く人たちと寝る慰安婦だったとか、あたしも朝鮮人でナントカっていう名前だとか、あたしも売春婦でカメラマンのナントカって人の女だとか、挙句の果てにはオウム真理教の信者だとか、民主党の関係者だとか、ありとあらゆるデマを流された。さらには、そんなデマをウィキペディアにまで書き込まれて、ウィキペディアに連絡して削除を依頼したら、担当者から冷たく断られた。そして、そうしたデマを鵜呑みにした人たちから、嫌がらせや脅迫のメールが数えきれないほど届いた。だから、あたしは、スマイリーキクチさんや飯島愛ちゃんが、どれほどつらい思いをしてたのか、すごくよく分かる。
あたしなんか、書籍版の「きっこの日記」を発売した時にも、アマゾンのレビュー欄にまで嫌がらせの書き込みをされた。「レビュー欄」てものは、その本を読んだり、そのCDを聴いた人が感想を書き込む場所なのに、まだ本が発売される前の予約の段階から、「ネット上でタダで読めるものをお金なんか払って買うのはバカ」とか、何度も何度も書き込まれた。あまりにも酷いものはアマゾンに頼んで削除してもらったけど、こういう人たちって、削除したり反論したりするとさらにエスカレートして来るみたいで、同一人物がわざわざ別のアカウントを取得して別名で嫌がらせの書き込みをしたりとか、あまりにも粘着質で気持ち悪いから、もう放っとくことにした。
あたしは、3冊の本をすべて心を込めて一生懸命に書いたし、自分では絶対に定価以上の価値のある本だって自信がある。そして、ちゃんと読んでくれた人たちからは、たくさんの嬉しい感想が寄せられてる。だから、読みもしないで批判する人たちのことなんか無視することにした。何よりも笑っちゃったのが、第1弾の「きっこの日記」のレビュー欄に、「安倍総理のことをバカにした酷い内容に呆れ返った」なんて書き込んでる人がいたことだ。第1弾の「きっこの日記」は、コイズミが総理の時に編集、出版した本で、あたしは預言者でも超能力者でもないんだから、誰が次の総理になるかなんて分かるワケがないし、当然、この本の中には「安倍総理」なんて出て来ない。
ようするに、こういう人たちは、本も読まずに嫌がらせの書き込みをしてるってワケだ。そして、本も読まずにレビュー欄に嫌がらせの書き込みをするってことは、ネット上に流されてるデマを鵜呑みにしてスマイリーキクチさんのブログに嫌がらせのコメントを書き込んでた人たちと同類だ。スマイリーキクチさんのブログに嫌がらせのコメントを書き込んでた人たちは、「正義感から書き込んだ」なんて言ってるそうだけど、相手が無実のスマイリーキクチさんじゃなくて、たとえホントに悪いことをした人に対してであっても、自分の顔を隠して一方的に「死ね!」とか「殺してやる!」とかって書き込むことを「正義」だと思い込んでるのなら、それは違うと思う。
‥‥そんなワケで、誰か悪いウワサのある人を見つけて、その人のブログに嫌がらせの書き込みを繰り返して、それを「正義」だっていう感覚。これって、最初に書いた、あたしが不愉快な思いをした商品やお店のことを日記にボロクソに書こうとした感覚と共通してる部分がある。世の中のことを「善」と「悪」との二元論でしか考えられない知能の低い人間に多い感覚で、相手は誰でもいい、何でもいいから、とにかく「悪」のレッテルを貼れる対象を探し出して、それを一方的に攻撃する。そうすることによって、自然と自分が「善」の立場に立てるから、「正しいことをしてるんだから多少は行き過ぎても許される」って錯覚しちゃうのだ。だから、無実の人のブログに「死ね!」とか「殺してやる!」とかって書き込んでても、掲示板に匿名で他人の悪口を書き込んでても、自分は正しいことをしてるって信じ続けてるんだと思う。
正しいことをしてるって信じ込んでるから、汚い言葉で他人を罵っても脅迫しても、書き込んだあとには気分がスカッとする。これは、あたしが、不愉快な思いをした商品やお店のことを日記にボロクソに書いてスカッとすることとおんなじだ。あたしの場合は、「あたしは被害者だ」っていう立場からの発想だから、出発点は違うけど、結局は「あたしが善で、相手が悪」っていう幼稚な二元論から、自分の醜い行動を「善悪」で正当化しようとしてるワケだ。だから、あたしも、他人のブログや掲示板に嫌がらせの書き込みをしてる人たちと五十歩百歩なんだと思う。
ただ、あたしの場合は、俳句をやってるオカゲで、自分のことを客観的に見ることができる。そして、客観的に自己分析した結果が、最初に書いた通りだ。初めは、「お客をお客と思わないような酷い会社やお店から被害を受けて、それを日記に書くあたしは正しい」って思ってた。だけど、それが、自分の怒りを発散させるために書く「悪口」に、「正義」っていう大義名分を付加させて、それを「悪口じゃないもの」にしようする醜い行為だって気づいた。これは単に「自分がムカついた対象を公開の場でボロクソに言うことでスカッとしたい」っていう醜い心なんだってことに気づいた。だから、やらないことにした。
スマイリーキクチさんのことをホントに犯人だと思って、ホントに「正義感」からの行動をしようと思ったのなら、警察に連絡して、ちゃんと捜査してもらうように伝えるべきだっただろう。そして、本人に対して言うにしても、ブログのコメント欄に「死ね!」なんて書き込みをするんじゃなくて、メールでキチンと伝えるべきだっただろう。だけど、こうした行動を取らずに、「公開されてるブログのコメント欄に書き込む」って行為だけを続けてたんだから、これは、あたしの「自分がムカついた対象を公開の場でボロクソに言うことでスカッとしたい」っていう醜い心とおんなじだってことだ。
あたしに対しての嫌がらせも、掲示板だとかアマゾンのレビュー欄だとかの「不特定多数の人が閲覧できる公開の場」には書き込まれるけど、あたしのとこにメールして来る人はほとんどいない。そして、タマに、メールフォームから嫌がらせのメールを送って来る人がいるみたいだけど、そういう人は正しいメールアドレスを記入してないから、自動的にゴミ箱に行くようになってて、あたしの目に触れることはない。ホントにあたしに対して言いたいことがあるのなら、キチンと自分のアドレスを記入した上で、あたしに直接メールしてくればいいのに、そうしたことはいっさいせずに、掲示板だとかアマゾンのレビュー欄だとかの「不特定多数の人が閲覧できる公開の場」にだけ一生懸命に悪口を書き込み続けてる。
これは、あたしに文句を言いたいんじゃなくて、相手なんて誰でもいいから、「自分の顔を隠して誰かに嫌がらせをしてスカッとしたい」っていうことなんだと思う。でも、あたしは、フクダちゃんみたいな恥知らずじゃないから、他人のブログや掲示板に嫌がらせの書き込みを繰り返してるこうした人たちに対して、「あなたとは違うんです!」なんて言わない。さっきも書いたように、あたしも五十歩百歩だと思う。だけど、実際にやるかやらないかは、ものすごく大きな違いだとも思ってる。
‥‥そんなワケで、あたしは、今回のスマイリーキクチさんの件をニュースで知って、17才の女子高生はともかくとして、45才の国立大職員までもがこんな幼稚なことをしてたってことに悲しくなった。国立大の職員てことは、あたしたちの税金で暮らしてる公務員なんだよね? ま、職業はともかくとして、45才なら、奥さんや子供がいる可能性も高いよね? あたしは、こうしたネット上の嫌がらせをしてる人たちって、中学生や高校生、せめて大学生くらいまでで、マサカ、いい年した大人が混じってるとは思わなかった。だから、それだけでも悲しくなったけど、さらに、いい年した大人がこんなことをホントに「正義」だと思ってたんだとしたら、情けなくて言葉も出て来ない。タダでさえ、学校の先生や警察官の不祥事が繰り返されてるのに、これじゃあ、大人が子供に向かって「ネットでのイジメは許しません!」なんて言えないじゃん。相手の顔が見えないネット社会だからこそ、相手の顔が見える現実の社会以上に「思いやりの心」が大切だってことをあたしたち大人が見本になって示さなきゃならないのに‥‥なんて思って、あたし自身も気をつけて行こうと思った今日この頃なのだ。
★今日も最後まで読んでくれてありがとう♪
★よかったら応援のクリックをお願いします!
↓
| 固定リンク