「愛し合う」ということ
昨日、忌野清志郎さんが亡くなった。亡くなったのは、時計の針が2日になったばかりの0時51分で、その時間、あたしは、お酒を飲みながら、GyaOで「本気!20」を観てた。19話までは、ガマンにガマンを重ねて来たマジの堪忍袋の緒が、残り5分のとこでブチッと切れて、例の悲しげにして勇ましいBGMが流れて、子組のロッカーから長ドスを取り出して、ぶち殺す外道のもとへと歩いてく。そして、子分たちが着いて来て、橋を渡るとこで、紺色のSクラスのベンツが現われて、赤目の代貸が降りて来て、マジに向かって「思うぞんぶんやって来い!」って、平河内の親分からの言葉を伝える‥‥ってパターンだった。だけど、シリーズ最後の20話は、伊豆で療養中の平河内の親分が、可愛がってたアユミちゃん(松田純)をヒットマンの伊達兄弟のカタワレに目の前で殺されて、完全にブチ切れちゃって、駆けつけたマジに向かって、直接、「織田の外道を生かしておくんじゃねえ!」って指示を出す。腐れ外道の織田も、最後の20話だけのことはあって、今までの腰抜け親分どもとは違って、最後の最後にマジの前で命乞いなんかしないで、男らしく?殺された。ま、そんなことはどうでもいいんだけど、あたしが言いたかったことは、清志郎さんが天国へ旅立った時間に、あたしはと言えば、ヤクザもんがヤクザもんを殺すVシネマを観てたってことだ。知らなかったこととは言え、今、とっても後悔してる。
あたしが清志郎さんの訃報を聞いたのは、昨日の夕方だったけど、「マスコミにリリースを出すまでは口外しないで」って言われたから、そのままにしてた。そして、ゆうべの10時からのTBSの「情報7days」の最後に、安住紳一郎が清志郎さんの訃報を伝えたから、あたしは「あ、マスコミにリリースを出したんだな」って思って、「世田谷通信」の記事をアップした。でも、その作業をしながら「情報7days」を観てたら、安住紳一郎は、何度も何度も「忌野セイシロウさんがお亡くなりになりました」って伝えてて、最後の最後に誰かから小声で「キヨシロウさんです」って注意されて、慌てて訂正したとこで番組が終わった。あたしは、安住紳一郎って、無知揃いの局アナの中じゃ少しはマトモなほうだと思ってたから、あまりにもガッカリした。何でもないようなニュースの時ならいいけど、よりによって訃報を伝えるニュースで名前を読み間違えるなんて、天皇陛下に対する祝辞でも懲りずに漢字を読み間違えたニポンの恥、フロッピー麻生と五十歩百歩じゃん‥‥なんて思った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、清志郎さんとは何度かお会いしたことがあるから、会ったこともなくて、こっちが一方的に知ってるだけのミュージシャンやタレントの訃報とは違って、ものすごくショックを受けた。そして、悲しみよりもショックのほうが大きかったあたしは、ちょっとした脳内プチパニックみたいな状態になっちゃったんだけど、訃報を伝えてくれた関係者の「マスコミにリリースを出すまでは口外しないで」って言う指示を守ることが、あたしにできる唯一のことだって思って、ワリと平静を装っていられた。
だけど、情報が解禁になって、「情報7days」で訃報が流れて、「世田谷通信」の記事をアップしたら、それまで、あたしの揺れ動く心を「凪」の状態にしてくれてたブレーキが解除されちゃったみたいで、あたしの精神状態は、トタンにオロオロとし始めちゃった。うまく説明できないんだけど、「何かしなくちゃいけない」っていう義務感や責任感が強迫観念みたいに押し迫って来てるのに、カンジンの「何をすればいいのか」ってことが分からなくて、焦燥感に駆られてる‥‥って状態に陥っちゃったのだ。
それで、あたしは、「世田谷通信」の記事をアップした時に、清志郎さんの本名の「栗原清志」って名前を見て、ふと、大好きな映画、「男はつらいよ」の11作目、「寅次郎忘れな草」のことを思い出した。この映画の中で、寅さんがバイトに行く北海道の牧場の人が「栗原さん」て名前だからだ。「佐藤さん」や「渡辺さん」みたいに多い名字なら、あたしの周りにも何人もいるから、おんなじ名字の著名人が亡くなっても、その名字に関しては気にならない。だけど、今回は、あたしの知り合いには1人もいない「栗原さん」だったから、あたしは、ふと、「寅次郎忘れな草」のことを思い出しちゃったのだ。
それで、よく分からない焦燥感に駆られてたあたしは、この「寅次郎忘れな草」を観てみることにした。今、考えると、おかしな行動だったと思うんだけど、ゆうべは、これが、清志郎さんを送るための「あたしにできること」だと思ったみたいなのだ。そして、あたしは、「寅次郎忘れな草」を観て、わんわんと大泣きして、その次に「寅次郎相合い傘」を観て、また、わんわんと大泣きして、その次に「寅次郎ハイビスカスの花」を観ながら、知らないうちに眠りについていた。ようするに、「リリー三部作」を観ようとして、観られなかったってワケだ。それで、今日は、「寅次郎ハイビスカスの花」を観直して、続いて「寅次郎紅の花」と「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」を観た。
‥‥そんなワケで、あたしは、まだ自分の頭の中を整理できないままに書いてるんだけど、久しぶりに、2日かけて寅さんの「リリー三部作+2」を観た。いつものように、自分をリリーに置き換えて、寅さんに惚れて惚れて惚れまくって、究極のプラトニックラブをタップリと味わった。そしたら、もう一生ぶんの恋愛をしたくらいの気分になって、今は、何とも言えない余韻に浸ってる。そして、清志郎さんがいつも叫んでた「愛し合ってるか~い!」っていうメッセージを改めて実感してる。この感覚なんだよね。「愛し合う」ってのは。
十人十色の人間をたった2つに分けることなんてできないけど、すごくムリして分けるとしたら、「リコウとバカ」とか、「美人とブス」とか、「左翼と右翼」とか、「野党支持者と与党支持者」とか、「貯金のある人と借金のある人」とか、「ジャイアンツファンとアンチジャイアンツ」とか、「騙す人と騙される人」とか、「ベジタリアンと肉食人種」とか、「猫型人間と犬型人間」とか、他にもいろんな分け方がある。そんな中の1つの分け方として、「愛することが好きな人と愛されることが好きな人」ってのがある。ようするに、恋愛をする時の自分の方向性の嗜好だ。
片思いをしてる時なら、誰でもが自分のほうから相手のことを一方的に思ってるたけだけど、相手と相思相愛になり、恋人同士として付き合い始めてからは、お互いに相手のことを思うようになる。だけど、そんな中でも、「愛することが好きな人」と「愛されることが好きな人」とで、少しずつ変化が現われて来る。もちろん、おんなじ「愛することが好きな人」の中でも、軽度のものから重度のものまで様々なレベルがあるから、一概に言うことはできない。だけど、ザクッと言っちゃえば、片方が「愛することが好きな人」で、もう片方が「愛されることが好きな人」ってパターンのカップルなら、双方の需要と供給が満たされるワケだから、他の組み合わせよりはうまく行くってワケだ。
‥‥そんなワケで、「寅次郎忘れな草」の中で、リリーが2度目に「とらや」を訪ねた時、みんなと一緒に、寅さんが今までに好きになってフラれた女性の名前を言ってくシーンがある。最初は嫌がってた寅さんも、そのうちノリ出しちゃって、あの女はああだった、この女はこうだったって、照れながらも懐かしそうに話し出す。だけど、寅さんも、さくらも、おいちゃんも、みんながゲラゲラと大笑いしてるのに、リリーだけは笑ってない。それに気づいたみんなが、リリーのほうを見る。みんなの視線を感じたリリーは、こう話し出す。
リリー 「いいなあ‥‥寅さんて、いいねえ~」
寅さん 「どうしてよ?別にいいことなんてねえよ。ぶっちゃけた話、いっつもフラれっぱなしなんだから」
リリー 「いいじゃない!何百万べんも惚れて、何百万べんもフラれてみたいわ!」
おいちゃん 「またまた‥‥貴女みたいにキレイな人だったら、惚れた人の1人や2人はいたでしょう、なあ?」
リリー 「そうじゃないの‥‥惚れられたいんじゃないのよ、惚れたいの。そりゃあ、いろんな男と付き合って来たわよ。でもね、心から惚れたことなんか一度もないのよ。一生に一度でいい、1人の男に、死ぬほど惚れて惚れて惚れ抜いてみたいわ。フラれたっていいの。フラれて首吊って死んだって、あたし、それでも満足よ‥‥‥‥ごめんね、変なこと言っちゃって‥‥」
‥‥そんなワケで、この「寅次郎忘れな草」を始めとした「リリー三部作」については、1月10日の日記、「リリーになれない女」にもタップリと書いてるけど、寅さんとリリーが初めて出会った「寅次郎忘れな草」は、1973年の夏に公開された作品だ。つまり、1972年の冬に生まれたあたしとしては、あたしが生まれてすぐに公開された作品てことになる。細かいことを言っちゃうと、1972年の11月にあたしが生まれて、すぐあとの12月末から「1973年のお正月映画」として八千草薫さんがマドンナ役の「寅次郎夢枕」が公開されてる。だから、正確に言えば、あたしが生まれてから2作目の寅さんてことになる。
だけど、あたしが生まれて半年後に公開されてるってことから、あたしは、「寅次郎忘れな草」に対して‥‥って言うか、リリーに対して、ものすごい思い入れがある。リリーって、ドサ回りの歌手としての芸名は「松岡リリー」だったり「リリー松岡」だったりするんだけど、柴又の「寅さん記念館」に展示してあるリリーのレコードには、「リリィ松岡」って書いてある。だから、「リリー」が正しいのか「リリィ」が正しいのか分かんないけど、どっちにしても、本名は「松岡清子」だ。つまり、ニックネームをつけるとしたら、「きっこ」ってことになる。そう、「松岡きっこ」だ。
あたしは、ちっちゃな時から、「きっこ」って呼ばれるたびに、いつも松岡きっこさんのことを引き合いに出されて来た。「きっこ」と言えば、ニポンイチ有名なのが、松岡きっこさんだからだ。だから、あたしは、「寅次郎忘れな草」の中で、実家に帰ったリリーのことをお母さんが「キヨコ!」って呼ぶのを聞いて、リリーの本名が「松岡清子」だって知って、ある意味、運命的なものを感じたのだ。そして、この「寅次郎忘れな草」では、最後にリリーが結婚しちゃって、寅さんの恋はまたまた不発に終わったと思わせたのもトコノマ、2年後の「寅次郎相合い傘」で、ヒョンなことから船越英二と旅をすることになった寅さんが、函館の港の屋台でラーメンを食べてると、そこにバツイチになったリリーが飛び込んで来て寅さんと再会する‥‥っていう、もう、言葉にできないほど嬉しい展開から物語がスタートする。リリーに成りきって観てるあたしとしては、胸がオッパイ‥‥じゃなくて、胸がイッパイになる感無量のシーンだ。
‥‥そんなワケで、再会したと思ったら何年も会えなくなったりと、それぞれの漂泊を続けてく寅さんとリリーだけど、お互いの心の中には、いつでも相手への思いがある。だから、「寅次郎ハイビスカスの花」から15年を経て再会した「寅次郎紅の花」でも、まったく15年間の空白を感じさせない「色褪せてない愛」がある。寅さんやリリーにとっての恋愛ってのは、四六時中一緒にいたり、毎日のようにメールのヤリトリをしてないと不安に駆られるようなチャチな物欲なんかじゃなくて、もっともっと深くて暖かくて崇高な信頼関係なのだ。
リリーに成りきって、「一生に一度でいい、1人の男に、死ぬほど惚れて惚れて惚れ抜いてみたいわ」って言うシーンを観てると、ホントに、この言葉が、あたしの深層心理を代弁してるような気がして来る。そして、そう思えるってことは、実際のあたしも、映画の中のリリーとおんなじに、愛されることよりも愛することが好きなタイプの人間なんだってことが分かる。
愛されることが好きな人は、常に恋人から世話を焼いてもらってないと満足できないし、常に恋人がソバにいないと不安になる。1日でもメールが来なかったら、居ても立ってもいられなくなる。だけど、リリーやあたしのように、愛することが好きな人は、相手のことを思ってるだけで幸せだし、相手に対して何の見返りも求めてないから、離れてたって不安にはならない。もちろん、会いたいとは思うけど、その前に、自分自身が精神的に自立してるから、愛する人に会えないことがマイナスには働かない。会えない状態が「±0」で、会えればプラスになるってワケだ。
‥‥そんなワケで、あたしは、リリーに成りきって「リリー三部作+2」を観て、言葉にできないほど幸せな気分になれた。大好きな寅さんとは腕を組んで歩いただけで、それ以上のことは何もないのに、これほど幸せな気持ちになれる恋愛は他にない。つまり、「愛し合う」ってことは、付き合うことでもなければ、結婚することでもないし、キスすることでもなければ、セックスすることでもなかったってワケだ。「愛し合う」ってことは、お互いに「思い合う」ってことだったのだ。付き合うことも、結婚することも、キスすることも、セックスすることも、すべては、この「思い合う」ってことの延長線上にあるだけで、「愛」の目的でも結果でもなかったのだ。だから、あたしは、これからも、リリーみたいなサイコーにステキな女性を目指して、寅さんみたいなサイコーにやさしい人を探して、「思い」のエナジーを貯金してこうと思う今日この頃なのだ。
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